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036 白いワンピースの女
しおりを挟む泣こうがわめこうが、何も変わらない。
ここはそういう場所。
それでも内にたまったもろもろを吐き出すのは、わりと精神状態を保つのに効果があるようだ。
ひとしきり絶叫し、嗚咽をこぼし、涙を流したところで、自分でも驚くほどにケロリと精神が正常に戻った。
いや、ちがうか……。
自分の腹の中から出てきた不気味な舌を、足蹴にしつつ冷めた目で観察している時点で、たぶん正常には程遠い状態。
長らく闇に身を置き、狂った環境で過ごすうちに、ボクの心身もまたおかしくなりつつあるのかもしれない。
あらためてしげしげと眺めると、舌は大きかった。とても自分のノドを通って出てこれたとは思えぬほどに。
あきらかに人間のモノではない。動物?
「……牛タン」
眺めているうちに、ぽつりと勝手にそんな単語が自分の口から零れた。
焼肉屋では薄くスライスしている品が定番だが、足元に転がっている物体は、加工前の肉塊にとてもよく似ている。
つま先で小突いているうちに、ぱっと記憶がよみがえったのは高校生の頃のこと。
学校の社会見学にて地元の食肉加工工場へと行ったことがある。
工場内には巨大な肉の塊がたくさん吊るしてあって、細かい部位はコンテナごとにまとめられてあった。その中のひとつには牛タンもあって、係の人が手にとって見せてくれた際には、女子たちから悲鳴があがったっけか。
ふだんスーパーの精肉売り場で見かける姿とはまるでちがう肉。
ボクたちは生きるために、じつに多くの命を犠牲にしている。
でも時代の推移とともに、その辺の意識は希薄になりつつある。
原因はこの工場のような存在だ。
加工という産業を社会構造に組み込んだことによって生じた、死との乖離。
自分では手を汚すことなく、苦労することもなく、金さえ出せばどんな希少な肉だって食べられる時代。
快適な日常を得るも、極端に死が遠ざかる。それこそ影さえも見えないほどにまで。
死は不浄とされる風潮ばかりが強まり、忌避感が増大していく。
生を尊ぶくせに、その延長線上に必ずある死は認めず、これを厭う。
そのくせ動物の死体は嬉々として喰らう。
キレイな部分だけを見て、汚い部分からは目をそらす。
そんなことがまかり通る世界と社会。
それがボクの生きていた場所。
記憶の中のボクは、そんな世界と、そこに生きる人々を心底バカにして、見下していた。
でも本当に愚かなのは、「自分だけはちがう」と思いあがっていたボク自身。
ふいに頭の奥に鈍痛が生じる。
ふたたび胸のむかつきに襲われたボクは、ゲーゲーと胃液を吐き出す。
でも今度は何も出てこない。
ただ酸っぱい臭気を放つ黄色い液体を垂れ流すばかりであった。
◇
四つん這いになって吐いている間、ずっと背中をさすってくれていたのは相棒の白い腕。たどたどしい動きにて触れてくる小さな手が、いまのボクには唯一の救い。
じきに何も出なくなり、嘔吐がおさまる。
彼女に「ごめん、心配をかけた。もう平気だから」と声をかけてからボクは立ち上がる。いつまでもこんなところには居られない。ややふらつく足どりにて歩き出す。
第五の廊下の突き当りにも、これまで同様に扉が一枚あるばかり。
けれども扉の向こうに待っていたのは、第六の廊下ではなくて上へと続く階段であった。どうやらようやく二階へと行けるらしい。
階段には特に怪異の気配はなく、すっかり見慣れた薄闇があるばかり。肌がひりつくような感覚もないことからして、たぶんここはだいじょうぶ。
段差が浅い階段は傾斜がなだらか。
しばらく進むと階段の踊り場が見えてきた。廊下の天井がかなり高かったことからして、おそらく二階に到達するまでには何度か折り返すことになるのだろう。
そんなことを考えながら進んでいたボクの視界の片隅を、揺れる白い何かがかすめる。
「ふふふ」
女性の含み笑い。
第一の廊下から第二の廊下へと移動する際に聞こえた、あの声。
揺れていたのは女性が着ている白いワンピース。裾がひらり、優雅にひるがえる。タッタッタッと軽快な足音が遠ざかっていく。
ワンピースの女性が駆け足にて階段をのぼっているのだ。
おそらく建物の入り口にて、すりガラス越しにボクが目撃したのは、この女の人。
「ちょっ、ちょっと待って」
いつしか釣られてボクも階段を駆け足で進んでいた。
危険だと本能が告げている。理解もしている。けれども心や体とはちがう部分がボクを突き動かす。それが長らく続いていた孤独ゆえの飢えがもたらす衝動だということをボクが知ったのは、ずっとあとになってから。
たとえノドの渇きや空腹はおぼえずとも、ボクは飢えていたんだ。
なんでもいい。誰でもいい。貶されてもいい。それこそいきなり殴られようともかまわない。会話がしたい。ただ他者の声が聞きたい。
孤独が心を蝕むのなんて世迷言。弱い奴の言い訳。ずっとそう思っていたけれども、そうじゃなかった。
いつでも当人さえその気になれば、手が届くところに繋がりがある。誰かがいる。そのような状況を孤独とは言わない。それはほんの入り口にすぎないんだ。
真の孤独とは、何もない。
あるのはどこまでも続く無限の闇と無だけ。
そんな場所で生き続けられるほど人間は強い生き物ではない。
◇
階段をのぼり切った突き当り。
白いワンピースの女の姿が扉の奥へと消えてゆくのを目撃し、これに遅れることほんのわずか。
ボクも勢いよく飛び込んだものの、すぐにハタと立ち止まる。
室内には無数の世界がどこまでも続いていた。
第一の廊下のように常夜灯の橙色に染まっている。
壁も天井も床も、すべてが鏡で構成された空間。
合わせ鏡の向こうに幾重にも世界が連なっている。
遊園地にあるミラーラビリンス。
困惑するボクの耳に、あの女の笑い声が聞こえたような気がした。
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