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其の四百二十四 狐侍、ただいま逃亡中。十三日目 後編
しおりを挟む奇妙な光景であった。
橋の上には藤士郎と義手の女だけでなく、他にも大勢が行き来している。
だというのに、だれも立ち止まらないし、振り返ることもない。
無関心……というよりかは、まるで騒ぎが聞こえないし、視界にも入っていないかのよう。
では味方はどうかとえば、そちらは固まって呆然と立ち尽くしているばかりで、いくら呼びかけても反応がなかった。
明らかに不自然な状況――そんな中で、女が名乗る。
「やぁ、いつぞやはどうも。あらためましてだが、私は月遙という。これでもいっぱしの道士でね。あぁ、これかい? 悪いがこの橋一帯に術をかけさせてもらったんだよ。周囲の連中にとって私たちはいないものなんだ」
忍びや隠密が使う隠形の術は、息づかいや足運びなどにより気配を消す体術の延長だ。
しかし月遙のこれはまるで別物。一定の空間内の全員の認識を阻害するだなんて、尋常なことではない。術の効力や範囲の詳細はわからないけれども、その気になれば江戸城にいる将軍の寝首すらもかけるのではなかろうか?
そんな術をこともなげに使う。
いっぱしどころの話じゃない。とんでもない道士だ。もしかしたら巌然和尚すらをも凌ぐかもしれない。
いまさらながらに藤士郎は己の迂闊さに臍(ほぞ)を噛む。
大妖である銅鑼を封じ込めたという小箱。てっきりどこぞより入手したのかとばかり思い込んでいたのだが、もしも女がみずからの手で造ったとすれば、意味合いがまるで違ってくる。
だというのに、女ひとり、どうとでもなると油断した。
藤士郎らしからぬことだ。やはりこの不条理な状況下での逃亡生活を続けるうちに、自分でも気づかぬうちに、心が荒み倦み、視野が狭まり、思考も柔軟さを失い、冷静さを欠いていたようだ。
ずきん。
銃弾がかすめた脇腹が傷み、藤士郎の思考は現実へと引きずり戻される。
いつの間にか、月遙は懐から取り出した小箱を手にしていた。
まるで藤士郎に見せつけるかのようにして、あるいは箱の中に閉じ込められている銅鑼にこの光景を見せつけているのか。
「さてと、このまま私が止めを刺してもいいんだけど、それじゃあ賭けが盛り上がらないから。せっかくなんだし、ど派手にいきましょうか」
言うなり、月遙が小箱を真上へと放り投げた。そして箱が落ちてくる間に指をぱちんと鳴らす。
とたんに自分たちの周囲の空気が変わったのを藤士郎は確かに感じた。
薄い幕が取り払われて、まるで淡い夢から醒めたかのよう。
落ちてきた箱を受け止めた月遙が悠然ときびすを返し、「生きていたらまた逢いましょう」と言い残し去っていく。
「ま、待てっ!」
立ち上がり追いすがろうとする藤士郎であったが、その行く手を遮ったのは牢人や破落戸たち。鼻息荒く血走った目を見れば、相手が千両首目当てに集まった連中であることはすぐに察せられた。
やられた……、月遙の道術だ。
お互いのことがわからないように化かされたか。
にしてもたまさか居合わせたにしては数が多すぎる。どうやら、これまた月遙にしてやられたらしい。事前に「この近辺で狐侍を見かけた」とかいう情報を流して連中を集めていたのであろう。
すべてが向こうの手の平の上にて、後手後手に回っている。
だが、のんびり悔やんでいる暇はない。
白昼の往来であるのにもかかわらず、刃をひけらかし狼藉を働く者たちのせいで、千住大橋の上はたちまち大混乱となった。
そこかしこで乱闘騒ぎが起き怒号が飛び交う。獲物を巡る争いや、藤士郎側の手勢との小競り合いが勃発したせいだ。
痛む脇腹を庇いながら、藤士郎は襲いかかってくる者らを蹴散らしつつ、悠然と遠ざかっていく月遙の背を追う。
しかし距離は縮まるどころか、ますます開く一方。
このままでは追いつけない。だから藤士郎は懐から取り出した小石を手にするなり、これを次々と放った。
一投目は狙いをはずれた。藤士郎と月遙との間に立ち塞がった男の額に当たった。でも、おかげでさえぎるものがなくなった。
二投目は命中するも、当たったのは月遙ではなくて、彼女が遊んでいた箱である。鼻歌まじりに歩きながら、宙にぽーんと投げては落ちてくるのを受け止め、投げては受け止めしていたところを、小石がこつんとかすめる。
これにより小箱が宙を舞う。
月遙は「おっと」と手をのばして、すぐに小箱を掴もうとするも、そこに三投目が迫る。
今度はしっかり当たった。小箱は大きく弧を描いて橋の外へと踊り出る。
これには月遙も慌てた。だが時すでに遅し。
小箱はぽちゃんと大川の流れに落ちてしまった。
それに続いて、どぼんと大きな水音がして月遙がふり返ったときには、すでに橋の上から藤士郎の姿は消えていた。
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