狐侍こんこんちき

月芝

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其の四百二十五 狐侍、ただいま逃亡中。十四日目 表

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 藤士郎の投擲を受けて、小箱は月遙の手から離れて大川へと落ちた。
 それを追って藤士郎もすぐさま千住大橋の上から飛び込んだものの、おもいのほかに流れがきつい。ぱっと見にはわからなかったが、どうやら数日前に上流の方で大雨があったらしく、その影響で増水していたようだ。穏やかな水面とは裏腹に、水の中ではべつの濁流が生じており渦を巻いていた。たちまち翻弄されて、うまく進めない。みるみる体を持っていかれてしまう。
 水が無数の見えない手となり全身に絡みついてくる。おもうように動けない。
 そんな状況から、川に落ちた小さな箱ひとつを見つけ出すなんぞは容易なことではない。
 なのに気づいたときには、藤士郎は水の中へと飛び込んでいた。
 理屈よりも先に体が勝手に動いていた。

 必死に手足を動かし泳ぎ続けていると、彼方にて小さな光がみえた。
 神仏の加護か、はたまた中に封じられている銅鑼が何かをしたのか。
 どうして箱が光ってみえたのかはわからない。
 でも藤士郎は迷うことなく、その光を目指す。

(あと少し……ほんの、ちょっと)

 懸命にのばした指先が、ついに箱へと届こうかというところで、ごぼり。
 口から泡が零れてしまう。腕をのばしたひょうしに左脇腹の鉄砲傷が痛んだせいだ。
 とたんに息苦しさを覚えて、視界がみるみる暗くなっていく。
 それでもどうにか小箱を掴んだところで、ついに藤士郎は意識を失った。

  ◇

 千住大橋で騒動があった翌日のこと。
 上野の寛永寺より少し北上した場所にある根岸の里、千曲屋の所有する寮にて――

 奥の一室から、ばりっ、ぼりっ、ばりっ。

 何かを豪快に噛み砕く音がする。
 大人でも抱えきれないほどの大皿に、山と積まれていたのは鶏の丸焼きである。
 そのうちのひとつを無造作に掴んでは、頭から骨ごと貪り喰らっていたのは、耳の端まで口がさけている小姓であった。
 口を閉じれば誰もがふり返らずにはいられないほどの美貌にて、女たちはもとより男色の気がない者ですらもが、劣情を刺激されておもわず頬を染めずにはいられない。
 だが、いまの大口を開けては肉を喰らうさまは、さながら悪鬼のごとしであった。

 そもそも日ノ本の民は鶏を食べることを好まない。
 なぜなら鶏は時告げ鳥だからだ。
 天武天皇の御世に出された肉食禁止令の影響も大きい。殺生禁断の詔は聖武天皇の際にも出された。なかでも鶏は朝を告げることから、神聖視されたがゆえに、時代によっては卵すらも食べるのを忌避していたことがあるほど。
 もっともそれ以外の鴨や雉といった鳥の肉はふつうに喰らっていたが……

 上座にて美小姓が肉を喰らっている。
 その下座にて平伏していたのは義手の女・月遙であった。

「で、月遙、箱と小僧は見つかったのか?」
「すみません、橈骨さま。念のために下流の吾妻橋の方まで探させましたが……」
「ふ~ん、溺れて川底にでも沈んだか、あるいは……。にしても小僧に逃げられたのはともかく、箱を奪われたのはとんだ失態であったな」
「………………」
「もっともあれは爆発寸前の焙烙玉みたいなものだからなぁ。そろそろ中の窮奇の奴がぶち切れて、いつ飛び出してきてもおかしくなかった。あんな箱を懐に入れて持ち歩いていたら、巻き込まれておまえの体も木っ端みじんになっていただろうよ。そうなると、またぞろ一からおまえの体を造り直さなにゃあならん。そいつはさすがに面倒だからなぁ。
 まぁ、いいさ。あちこちに撒いた争乱の種もそろそろいい感じに芽吹きそうだし。この調子ならば遠からず、江戸でひと悶着もふた悶着も起きるだろうよ。これで退屈な太平の世が終わり、ふたたび戦乱の世へと戻れば愉快なのだが」

 平和や安穏、天下泰平を何より嫌い、人々の嘆きにうっとり陶酔し、血と死臭に溢れた戦乱の中に吹く殺伐とした風を好物とする、荒ぶる怪獣「橈骨」
 かつては窮奇ともども、四凶として古代の大陸は中原にて悪名を轟かせたものが、来たるべき未来を夢想しては恍惚となる。
 平伏したままの月遙はそれをちらりと盗み見るも、その翠瞳にはいかなる感情も浮かんではいなかった。


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