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其の三百二十二 駆け回る
しおりを挟む黄昏刻、油問屋松坂屋の蔵の中で、ちゅうちゅうと油を吸う音がする。
三柱目の「お犬さま」を発見できたのは上々であった。だが、相手が子どもだったのは完全に想定外である。
これまでみたいに堂傑が説得を試みても、きょとんとされて首を傾げられる。
話が通じていない。よくわかっていないのは明白であろう。
かといって力づくでどうにかなる相手ではない。
幼かろうとも神獣である。それも俗世に長いこと身を置いた状態の……。
下手に刺激をしたら反動が怖い。
だというのに、さらにおっかないことを銅鑼が言った。
「おまえたちは幼い幼いと言っているが、あれは神の遣いで、つねの獣とはちがうからな。いきなり覚醒することもあるぞ」
じょじょに段階を経て育つのではなくて、子どもだったものが、ちょいと目を離しているうちにあっという間に大人になる。
いきなり荒神になることも十分にありうると教えられて、藤士郎たちは言葉もでない。
なお銅鑼はいましがた合流したところである。いっしょに松坂屋まで来ていたのだが、はや見張りに飽きて、台所に摘まみ食いに行っていたのであった。
◇
ちゅう、ちゅう、ちゅ――
油を吸う音が止んだ。
どうやら黄の「お犬さま」は腹がくちて満足したらしい。
桶の呑み口の栓をきちんと戻すのはえらいのだけれども、直のみはさすがにちょっと……ではなくって!
「いけない。このままだと『お犬さま』が逃げちゃうよ」
「こうなったらせめて寝床だけでも突き止めておきましょう」
「ちっ、しゃーねえなぁ」
まんまと逃がすわけにはいかない。
さりとて回収するいい案も思いつかない。
藤士郎たちは、とりあえず黄の「お犬さま」を追いかけることにする。
だが、これがとんだ悪手であった。
追いかけられた黄の「お犬さま」は、きゃっきゃと喜び庭を駆け回る。遊びとの勘違いしたのだ。
逃げる黄の「お犬さま」、見失うまいと追いかける堂傑と藤士郎、それに続くうちに次第に銅鑼もむきになる。
かくしてはしゃいで転げまわる白い靄の塊と、僧侶に狐侍とでっぷり猫という珍妙な集団が、松坂屋の敷地内をどたどた走り回ることになった。
騒ぎを聞きつけた女中やら店の者が「なんだ?」「どうした?」と覗きにくれば、たたたと蠢く白い靄を目にして「きゃーっ」「うわっ!」と悲鳴や驚きの声をあげる。それが呼び水となって、さらに人を集めて騒ぎをいっそう大きくする。
人が集まるほどに、ざわめきが強まり場は異様な熱を帯びる。
その雰囲気に当てられてか、黄の「お犬さま」も興奮し、さらに勢いよく走り回るもので、追いかける藤士郎たちも汗だくで必死だ。
かとおもえば、黄の「お犬さま」が急に進路をかくんと折れたもので、藤士郎たちは「あっ!」「うぉ!」「なっ!」
藤士郎と銅鑼は持ち前の機敏さにて、どうにかその動きについていけたものの、堂傑は足をもつれさせたひょうしに、ずるりと滑ってしまった。
転んだひょうしに、こつんと頭を打ってうっかり人化けの術が解けてしまい、鼬頭があわらとなる。
間の悪いことに、その姿を店の者に見られたもので、さらなる阿鼻叫喚を招くことになってしまった。
するとこれに吃驚したのか、よりにもよって黄の「お犬さま」は庭先から渡り廊下を伝って、店の方へと行ってしまったもので、藤士郎たちは「まずい!」とおおいに慌てる。
急ぎ履物を脱いで追いかけようとした矢先のことであった。
店表の方から悲鳴に怒号やらが湧き起こって、騒動ここに極まれり。
藤士郎は「あちゃあ」と天を仰ぐ。
唯一の救いは、時刻が時刻であったので、すでに暖簾を下ろして店仕舞いを始めていたこと。客が居合わせなかったおかげで、店の看板に傷をつけずに済んだ。
とはいえ店表はしっちゃかめっちゃか。
そうしたら「さっきからぎゃんぎゃんとやかましいな。いったい何事か?」と奥からのそりと顔を見せたのは、仕込み杖にて体を支えている桑名以蔵であった。美耶お嬢さまから様子を見てこいと命じられてのことらしい。
そんな以蔵の方へと白い靄の塊が向かって行く。
隻足の用心棒は手にした杖にてこれを打ち据えようとしたもので、銅鑼はぎょっとし、藤士郎は「それは駄目っ!」と手近にあったそろばんを掴んで投げた。
顔めがけて飛んできたそろばんを以蔵が杖で叩き避ける。はずみでそろばんが壊れて珠がばらけ、周囲に飛び散った。
ぱらぱらと珠の雨が降る中を、黄の「お犬さま」は以蔵の足下を通り抜けていく。
とりあえず「お犬さま」は無事だ。大事には至らずほっと胸を撫で下ろすも、以蔵からぎろりとねめつけられて、藤士郎は「ひえっ」と首をすぼめた。
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