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其の三百二十三 犬神憑き
しおりを挟むそろばんを投げつけられて目くじらを立てる桑名以蔵に「こいつはどういった了見だ。ことと次第によっては」と詰め寄られて、藤士郎はたじたじ。
黄の「お犬さま」との追いかけっこ。
転倒した堂傑に続いて藤士郎もここで脱落となり、残るは銅鑼のみとなった。
廊下を抜け、いくつも部屋をまたぎ、ときには障子を派手にぶち抜き襖を押し倒す、飾ってあった花差しやら壺なんぞをひっくり返しては、たまさか行き合った女中の股の下を潜り抜けて「きゃあ!」と驚かせつつ、屋内を行ったり来たり。
黄の「お犬さま」はとても元気だ。ちっとも捕まらない。
「ええい! ちょこまかと。いっそのこと虎の姿で踏みつけてやろうか」
いい加減に焦れてきた銅鑼が、いよいよ正体をさらしての強行策へと打って出ようかとした時のことであった。
廊下の先にて、すーっと障子が音もなく開く。
ひょっこり顔を見せたのは美耶お嬢さまである。
追いかけっこに夢中になっているうちに、いつのまにやら店の主人たちが寝起きしているところにまで立ち入っていたらしい。
何やら表が騒がしいので桑名以蔵に様子を見に行かせたものの、それっきり。ちっとも帰ってこない。かと思えば急に廊下が賑やかになったもので、こうして顔を出したところを、たまさか黄の「お犬さま」の進路を塞ぐ形になった。
そんな美耶お嬢さまめがけて黄の「お犬さま」が勢いのままにぴょんと跳びかかったもので、これには銅鑼も慌てた。このままではぶつかる!
が、それは杞憂であった。
さすがは美耶お嬢さまである。伊達に若い身空にて上方油に喧嘩を売っているわけじゃない。肝の座り方が尋常ではなかった。
美耶お嬢さまは向かって来る白い靄の塊をひらりとかわしたばかりか、すれ違いざまにひょいと手をのばし相手の襟首を掴んで、あっさり捕まえてしまったではないか。
まるで母猫にくわえられた子猫みたいに、ぷらんぷらんしている黄の「お犬さま」の姿に銅鑼も「おいおい、嘘だろう……」と開いた口が塞がらない。
とにもかくにも、これで三柱目の「お犬さま」の捕獲は成功?
◇
白い靄の塊――
見る者によっては子犬の姿に映る黄の「お犬さま」は、ただいま美耶お嬢さまの膝の上にてちょこなんと乗っている。美耶お嬢さまに撫でられるままに、大人しくしている。まるで借りてきた猫のよう。
その姿を前にして、さっきまでの苦労はいったい何だったのかと、堂傑と藤士郎と銅鑼たちはがっくしうな垂れる。
どうやら藤士郎たちはあれこれ難しく考えすぎていたらしい。
御眷属だ荒神だと、慎重になるあまり疑心暗鬼に陥り、一人角力をとっていたのだから、なんとも情けない話である。
堂傑から改めて詳しい説明を受けた美耶お嬢さまは、「へぇ、この子が江戸を揺るがすほどの荒神になるだなんてねえ。にしても、あなた、なかなか見所があるじゃない。江戸に数多ある油問屋からうちに狙いを定めるだなんて、たいした目利きだわ」と愛おしそうに背を撫でれば、黄の「お犬さま」の尾っぽが揺れる。
えらい懐きようである。
だが相手は御眷属様だ。ふつうの子犬とは違う。
だからこそ藤士郎が「いくらなんでも、ちょっと懐き過ぎじゃないのかしらん?」と訝しめば、「たしかに」と堂傑も腕組にて眉間にしわを寄せる。
すると銅鑼が「おそらくだが――」との前置きにて言った。
「美耶の先祖に犬神憑きの者がいたのかもしれん。もしくは美耶自身に犬遣いの天稟(てんりん)があるのかも」
人、獣、妖、神……、その結びつきはとても古い。
長い歴史を歩むうちに、集合離散を幾度も繰り返してきた。
縁の糸は入り乱れ、複雑に絡み合い、ずんずん遡ってみると意外なところで、誰と何がじつは繋がっていた! なんてこともある。
いまでこそ憑き物筋は忌避されがちだが、その昔は、逆に好んでその血を迎え入れようとする時代もあった。権力者や富める者ほど、その地位をより盤石にしようと加護を欲したものである。
天稟に関しては、ようは美耶お嬢さまが三柱もの「お犬さま」を従えていた六兵衛長屋の三葉の婆さんと同等か、それ以上の犬遣いになれる素質を秘めているかもしれないということ。
そんな美耶お嬢さまは、膝の上にいる黄の「お犬さま」の頭を撫でながら気安く「いい子ね。そうだわ! あなた、山での禊がすんだらうちにきなさいな。そうすれば美味しい油をいくらでも呑ませてあげるわよ」なんぞと言う。
どこまで本気なのかはわからないものの、彼女は大いなる野望を持ち、行動力も胆力もあり、富も若さもある。
これに犬神が憑けば鬼に金棒であろう。
堂傑から渡された裏札を手にした美耶お嬢さまが「さぁ、いい子だから入って」と微笑めば、黄の「お犬さま」は素直に言うことをきいて、御札の中へと吸い込まれていった。
これにて三柱すべての回収が済んだ。
あとは三体の裏札を三峯神社に返納するばかり。
その手配は知念寺が責任を持って請け負ってくれるそう。
かくしてちょいと尻すぼみながらも「お犬さま」騒動も幕となった。
なお、黄の「お犬さま」なのだがいったん山に戻ってから、ふたたび松坂屋へと舞い戻ることになり、それを機に上方と江戸の油戦争がいっそうの激化を辿ることになるのだが、その話はいずれまた……。
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