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其の三百十六 おくまんだしの水
しおりを挟む二柱目の「お犬さま」を回収する手順は、基本的には一柱目と同じ。
相手の習性と好物を利用して、おびき寄せ、接触して札にお戻りいただく。
だが、これが大変だった。
何が大変なのかというと、水の用意である。
長屋中の水瓶を空にしたというので、便宜上、白の「お犬さま」と呼ぶことにする。
「六兵衛長屋の井戸の水じゃ駄目なのかい?」
藤士郎が訊ねると堂傑は「それだとちょっと引きが弱いかも」と難色を示した。
なにせそこいらの井戸から汲んだ水は、白の「お犬さま」にとっては呑み慣れたものである。
気に入ってはいるのだろう。
だが、ありきたりにて、わざわざ仕掛けたところのものを呑まずとも、そこいらの家の水瓶を漁ればいいだけのこと。
町内のみんなに手伝ってもらって、罠を張るときには、すべての家の水瓶を空にしてしまえれば、おびき寄せることは出来るであろうが、そうなると大事(おおごと)だ。
今回の一件、大家と差配の意向により、長屋のみんなには内緒で進めている。
ただでさえ長屋について妙な評判が流れ始めているというのに、これ以上悪目立ちして騒ぎを大きくしたくはないのだ。
そんな仕事の性質上、この手段はとれそうにない。
さて、ではどうするべきか?
堂傑と藤士郎はあれこれ相談し、「だったら餌に凝るしかあるまい」との結論を下す。
ようは魚釣りと同じだ。
相手が好む餌をぶら下げてやったほうが、食いつきがよかろうということ。
というわけで……。
ふたりが大八車に空の大桶を積んだのを引きながら向かったのは、江戸の東の方角である。
神田を飛び出し、御徒町を抜け、下谷からは奥州・日光道中をずんずん突き進み、ついには千住まできたけれども、まだまだ止まらない。
さらに進んで荒川をも越えて、はるばる足を運んだのは下今井村の鎮守である熊野神社である。
では、どうしてふたりがわざわざこんな遠方までやってきたのかというと、ここには「おくまんだしの水」があるからだ。
熊野神社のある一帯は良水の湧く処として広く知られており、その中でも特に有名だったのが「おくまんだしの水」である。
なにせこの水は将軍様御用達にて、わざわざ江戸城まで取り寄せては、茶の湯を点(た)てるのに使うほど。
だというのに将軍様は水を独り占めすることなく、庶民にも自由に使えるようにしているのだからありがたい。なお、この水を使って作られる熊田醤油もとみに有名である。
と、それはさておき。
人の姿が失せる夕暮れ刻を見計らって、せっせと「おくまんだしの水」を大桶いっぱいに汲んだ堂傑と藤士郎。
これで二柱目の「お犬さま」をおびき寄せる極上の餌は手に入った。
だがしかし……。
「ぐぎぎぎぎぎ、お、重い」
「ふんぬぅ、なんのこれしき」
汗だくとなり顔を真っ赤にして大八車をひく藤士郎と、うしろからこれまた顔を真っ赤にして押している堂傑。
水がたっぷり入った大桶をとても重く、大八車は遅々として進まず。
行きは桶の中が空だったもので楽々であったのだが、帰りはそうはいかない。
こんなことならば知念寺の者らに声をかけて、いっしょに来てもらうんだったと後悔する藤士郎たち。なにせあの寺の男たちはみな屈強にて、力仕事を厭わず、むしろご褒美ぐらいに考えているもので。きっと頼めば嬉々として同行してくれたことであろう。
「はぁ、はぁ、はぁ……駄目だ。ちっとも進まないよ。参ったね。ぐずぐずしていたら、せっかくの水が傷んでしまう」
「くっ、こうなったらしょうがありません。九坂さま、人足を雇いましょう」
「……雇うのはいいんだけど、あとでその分の代金をちゃんと払ってもらえるのかしらん。先の炭代といい、今回の桶やら荷車やらを借り受けるのにも、けっこうかかっているよ」
「うっ、それは……たぶん」
六兵衛長屋は、なかなかの大所帯にて、実入りはそれなりにある。
知念寺の巌然和尚に相談した時点で、対価としてそれなりに寄進を求められることは承知しているはずだが、その辺の細かな取り決めについて、藤士郎は巌然から何も聞かされていない。堂傑も「わしの名代をしてこい」と言われて送り出されただけ。
これで持ち出しとかになったら、苦労ばかりでとんだ大損である。
とはいえ「お犬さま」を放置すれば江戸がえらいことになるわけで……。
「いまさらだけど、巌然さまに面倒ごとを押しつけられたような気がする」
「……」
ずんと気落ちするふたり。だが、いくらしょぼくれていたところで、事態が好転するでなし。
堂傑はいったん離れてこの先の集落で人足を集めることになり、準備が整うまで藤士郎は休憩がてら大八車を見張ることになった。
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