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其の二百九十五 焚書
しおりを挟む盥の水に映った自分の顔を見て藤士郎は愕然とする。
ここのところ少し疲れてはいたけれども、たいしたことのない程度だったはず。
なのにこのやつれ具合は、どうしたことだ……。
そこで藤士郎は「あっ」
通いの老婆がやたらとよそよそしい態度だったのは、ひょっとしてこのせいであったのか。老婆はいつも顔を伏せ、自分とろくに言葉を交わさず、目を合わそうともしなかった。でもそれは愛想うんぬんではなくて、日に日にやつれていく藤士郎を恐れてのことだとしたら得心がいく。
銅鑼に面と向かって指摘されて自覚したとたんに、藤士郎は強い倦怠感に襲われた。
どうやら知らないうちに何者かの術中にはまって誑かされていたらしい。
やや頼りない足取りで座敷に戻ってきた藤士郎を銅鑼は嘆息で迎える。
「やれやれ、妙なのに巻き込まれたな。原因はこいつだろう」
銅鑼が文机の上にある「二恨坊の火」の書をじろりとひとにらみ。
「ずっと昔に、大陸で見たことがある。こいつは焚書の封印術が施された代物だ」
禁書とは、書物を燃やすことである。
ご政道を批判したり、幕府や武士を小馬鹿にするような内容の黄表紙などが、たまに槍玉にあげられては燃やされたり、発禁処分を喰らうことは江戸でもままあること。
もっとも版元は表向きは従うふりをして、裏でこっそり流しているけれども。
駄目と言われれば、余計に気になるのが人の性(さが)である。
御上が禁じれば禁じるほどに、かえって書に箔がついて、裏での価値が上がるのだから、皮肉な話である。
だがこれはあくまで江戸の世の話。
ずっと時代を遡った昔となると、まるで様子が違ってくる。
特にいにしえの大陸の覇者などは苛烈極まりなく容赦ない。取り締まりは徹底的しており、一冊残らず探し出して焼く。それも書物のみならず、著者や版元どころか関係した者どもの一族郎党をも焼き尽くす。
焚書の封印術はその名の通り、物語に魔を封じ、焚き上げることで封印すること。
「だがしかし……」
銅鑼はへちゃむくれの顔を渋らせて唸る。
「七冊組みの封印なんぞ、ついぞ耳にしたことがない。たいていは一冊だ。多くともせいぜい上下の二巻だぞ。ところで藤士郎、いま何冊目まで写本は済んでいるんだ?」
「えーと、五冊目までだけど」
「そうか。だったらその五冊の中に、何かやばそうな話はあったか?」
「やばそうな話……っていうか、全部、けっこうろくでもない話ばかりだったけど」
問われて、うーんと藤士郎は腕組み。
一冊目の「遺念火」では、若い男女が邪な主人夫婦の犠牲になった。
二冊目の「金の神の火」では、欲に目が眩んで大勢の者が殺し合った。
三冊目の「不知火」では、海から来た禍々しき者により漁村が滅びた。
四冊目の「たくろう火」では、捨てられた女の怨念が男をとり殺した。
五冊目の「二恨坊の火」では、善人の裏に潜む心の闇が炙りだされた。
一、四、五はあくまで人を中心にした物語である。
二、三の中心にあるのは、得体の知れない何かである。
このふたつのうち、もっとも可能性が高そうなのは……。
「私としては『不知火』の海から来る者が怖かったんだけどねえ」
と藤士郎。
だがひとしきり五つの物語の説明を聞いた銅鑼は「ちょいと役不足だな」と言った。
たしかに「金の神の火」と「不知火」に登場する異形は手強そうではあるが、さりとて七冊もの禁書の封印術を施すほど手強い相手とはおもえない。
銅鑼の正体はかつて大陸で悪名を轟かせた四凶が一角に数えられる大妖の窮奇(きゅうき)である。
それが首を傾げているもので、どうやら違うらしい。
「だとすれば……。おい、藤士郎、六冊目はなんてお題がついている?」
「えっと、ちょっと待って」
書箱の中をがさごそ、取り出して確かめてみる。
六冊目の表紙にはこう書かれてあった。
火残魔(ひざま)と――。
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