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其の二百九十四 五の炎 二恨坊の火 後編
しおりを挟む鼻先をかすめたのは濃厚な血の香りと――これは油っ!
はっと目を醒ました二崑坊、慌てて起きようとするも手足が縛られておりままならない。
見覚えのある室内は、かつてお久の息災祈願の時に篭った庄屋の家の離れだ。
昨夜、手厚い歓待を受けたまでは覚えているが、そのあとの記憶があやふやである。仏門ゆえに酒は嗜まないから酔いつぶれたわけではない。
とすれば一服盛られたのか。
二崑坊は寝転んだままで身をよじり、自分が置かれた状況を確認しようとしたところで大きく目を見開き、ひゅうと息を吐く。
一面が血の海となっており、その中心で鬼がけらけら笑っていた。
すでに息絶え動かなくなっている女にまたがり、手にした小刀を振り上げては、これを何度も何度も振り下ろし突き刺す。
鬼は源兵衛、犠牲となっていた女はお久であった。
「源兵衛殿、なにゆえこのような惨いことを? あれほど仲睦まじかったお二人が、どうして……」
声を震わせ二崑坊が問えば、鬼が首だけひねってこっちを向いた。
「なぜ? そんなもの決まっている。お久が変わってしまったからだ」
本復したお久は嘘のように活発になった。
それにともなって美しさがいっそう花開く。だが、そのせいでいらぬ羽虫が周囲をちらつくようになり、源兵衛はたいそう気を揉んだものである。
しかしお久が源兵衛を裏切ることはなく、これまでの恩を返すかのようして夫に尽くした。
だがしかし、源兵衛は気づいてしまった。
そんなお久の胸の内を、妻の中につねに居座り続ける大きな存在を。
自分を救ってくれた二崑坊に対して抱く尊敬と憧憬……それは純真なる想いにて、色恋や欲情などは微塵もない。
けれども、だからこそ妬ましい。
打算のない無垢なる心の繋がりに、源兵衛は嫉妬した。
夫婦で向き合ってにこやかに話している間も、閨(ねや)で睦言を交わす時にも、妻の中には二崑坊がいる。
つねに妻越しに二崑坊の姿を視るようになった源兵衛は、嫉妬に身を焦がすようになっていく。それでも表向きはよき夫、よき庄屋の仮面をかぶり続けていた。
ぶすりぶすりと燻り続ける嫉妬の炎は、歳月が流れるほどに鎮まるどころか、ますます強くなっていく。
そんなおりのことだ。
源兵衛は二崑坊がふたたびこの地にやってくることを耳にする。
だから家に招待してみれば、案の定であった。
二崑坊を前にしてはしゃぐお久の姿を見た瞬間、源兵衛は心を決めた。
「お久はもういらん。恩義を忘れとち狂った挙句に、おまえと無理心中をはかって、離れに火を放ち、ともに燃え尽きたことにする。さすればみなは儂にさぞや同情することであろうよ。そして貴様の名声は地に堕ちる。ははは、いい気味だ」
愛執と妄執と狂気の果て。
源兵衛は跨っていた女の骸から離れると、燭台へと近づいていった。
夜更けのことである。
庄屋の屋敷の離れにて火の手があがった。
轟々と燃え盛る焔を前にして……。
「お久! お久!」
妻の名を叫びながら、火の中に飛び込もうする主人を、懸命に家人らが羽交い絞めにて制止する。
「いけません、旦那さま。もう手遅れです」
「しかし、お久がまだあの中に!」
そうやって押し問答をしているうちに、ついに離れは倒壊し、完全に炎に埋没してしまった。
うずくまっては慟哭する主人に、集まった村人や家人らは「なんとお気の毒な」「あの恥知らずめ」とおおいに同情と義憤を寄せていた。源兵衛が涙ながらに訴えるでたらめをすっかり信じ込んでいる。
これも日頃に積み重ねた信頼の賜物、裏で源兵衛が「しめしめ」とほくそ笑む。
かくして邪悪な企み事は成就されたかとおもわれた矢先のことであった。
夜の闇の中、突如として立ち昇る焔の中に浮かび上がったのは「恨」という文字。
畳ほどもある大きな「恨」の文字、それを囲むようにして中小無数の「恨」の文字がぽつぽつとあらわれた。
それらが一斉に飛び出しては、母家へととりつき、たちまち延焼を起こした。
かとおもえば、今度は一転して向かったのは源兵衛のところである。
「ぎゃっ!」
源兵衛が悲鳴をあげた。
じゅっと押しつけられた焔文字、たちまち肌を焼き焦がし、表面に刻まれたのは「恨」の文字である。まるで焼きごてを当てられたかのような跡であった。
源兵衛は全身にびっちりと焔文字を受けて、ついに絶命する。
その凄まじい光景に村人や家人らは、ただ眺めていることしか出来なかった。
◇
「これはなんともはや……」
人の心の闇に踏み込んだ物語を読み終えて、藤士郎は心底ぞっとする。
だというのに、その直後のこと。
背後で急にこそりと音がしたもので、藤士郎は飛び跳ねんばかりに驚いた。
ふり返れば、そこにいたのは黒銀毛のでっぷり猫である。
「おや、銅鑼じゃないか。どうして……」
「どうしてって……、志乃殿から様子を見てきて欲しいと頼まれてな。それに何やらいやな予感もしたからな。しかし藤士郎、なんて面をしていやがる。ちゃんと寝ているのか?」
銅鑼に言われて藤士郎はきょとんとする。
食事も睡眠もしっかり摂っている。長丁場の仕事ゆえに疲れは多少あるものの、当人はまだまだ元気だからだ。
藤士郎がそう答えると、銅鑼は「やれやれ」と首を振り嘆息する。そして不意に近づいてきたかとおもったら、ぴょんと跳ねて、ぱしん!
前足の肉球にて藤士郎の頬を一発張った。
「ちょっと、いきなりなにをするんだい」
藤士郎は抗議するも、銅鑼は「ふん」と鼻を鳴らす。
「鏡でも盥(たらい)の水でもいいから、ちょいと自分の面を拝んできやがれ。ったく、またぞろ厄介事に首を突っ込みやがって」
ますますわけがわからない。
それでもしぶしぶ従って自分の顔を確認した藤士郎は「なんじゃこらーっ!」と素っ頓狂な声をあげた。
盥に張った水、その水面に映った藤士郎の顔は、まるで長患いをしている病人のようであった。
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