狐侍こんこんちき

月芝

文字の大きさ
上 下
294 / 483

其の二百九十四 五の炎 二恨坊の火 後編

しおりを挟む
 
 鼻先をかすめたのは濃厚な血の香りと――これは油っ!

 はっと目を醒ました二崑坊、慌てて起きようとするも手足が縛られておりままならない。
 見覚えのある室内は、かつてお久の息災祈願の時に篭った庄屋の家の離れだ。
 昨夜、手厚い歓待を受けたまでは覚えているが、そのあとの記憶があやふやである。仏門ゆえに酒は嗜まないから酔いつぶれたわけではない。
 とすれば一服盛られたのか。
 二崑坊は寝転んだままで身をよじり、自分が置かれた状況を確認しようとしたところで大きく目を見開き、ひゅうと息を吐く。

 一面が血の海となっており、その中心で鬼がけらけら笑っていた。

 すでに息絶え動かなくなっている女にまたがり、手にした小刀を振り上げては、これを何度も何度も振り下ろし突き刺す。
 鬼は源兵衛、犠牲となっていた女はお久であった。

「源兵衛殿、なにゆえこのような惨いことを? あれほど仲睦まじかったお二人が、どうして……」

 声を震わせ二崑坊が問えば、鬼が首だけひねってこっちを向いた。

「なぜ? そんなもの決まっている。お久が変わってしまったからだ」

 本復したお久は嘘のように活発になった。
 それにともなって美しさがいっそう花開く。だが、そのせいでいらぬ羽虫が周囲をちらつくようになり、源兵衛はたいそう気を揉んだものである。
 しかしお久が源兵衛を裏切ることはなく、これまでの恩を返すかのようして夫に尽くした。
 だがしかし、源兵衛は気づいてしまった。
 そんなお久の胸の内を、妻の中につねに居座り続ける大きな存在を。
 自分を救ってくれた二崑坊に対して抱く尊敬と憧憬……それは純真なる想いにて、色恋や欲情などは微塵もない。
 けれども、だからこそ妬ましい。
 打算のない無垢なる心の繋がりに、源兵衛は嫉妬した。
 夫婦で向き合ってにこやかに話している間も、閨(ねや)で睦言を交わす時にも、妻の中には二崑坊がいる。
 つねに妻越しに二崑坊の姿を視るようになった源兵衛は、嫉妬に身を焦がすようになっていく。それでも表向きはよき夫、よき庄屋の仮面をかぶり続けていた。
 ぶすりぶすりと燻り続ける嫉妬の炎は、歳月が流れるほどに鎮まるどころか、ますます強くなっていく。
 そんなおりのことだ。
 源兵衛は二崑坊がふたたびこの地にやってくることを耳にする。
 だから家に招待してみれば、案の定であった。
 二崑坊を前にしてはしゃぐお久の姿を見た瞬間、源兵衛は心を決めた。

「お久はもういらん。恩義を忘れとち狂った挙句に、おまえと無理心中をはかって、離れに火を放ち、ともに燃え尽きたことにする。さすればみなは儂にさぞや同情することであろうよ。そして貴様の名声は地に堕ちる。ははは、いい気味だ」

 愛執と妄執と狂気の果て。
 源兵衛は跨っていた女の骸から離れると、燭台へと近づいていった。

 夜更けのことである。
 庄屋の屋敷の離れにて火の手があがった。
 轟々と燃え盛る焔を前にして……。

「お久! お久!」

 妻の名を叫びながら、火の中に飛び込もうする主人を、懸命に家人らが羽交い絞めにて制止する。

「いけません、旦那さま。もう手遅れです」
「しかし、お久がまだあの中に!」

 そうやって押し問答をしているうちに、ついに離れは倒壊し、完全に炎に埋没してしまった。
 うずくまっては慟哭する主人に、集まった村人や家人らは「なんとお気の毒な」「あの恥知らずめ」とおおいに同情と義憤を寄せていた。源兵衛が涙ながらに訴えるでたらめをすっかり信じ込んでいる。
 これも日頃に積み重ねた信頼の賜物、裏で源兵衛が「しめしめ」とほくそ笑む。
 かくして邪悪な企み事は成就されたかとおもわれた矢先のことであった。

 夜の闇の中、突如として立ち昇る焔の中に浮かび上がったのは「恨」という文字。
 畳ほどもある大きな「恨」の文字、それを囲むようにして中小無数の「恨」の文字がぽつぽつとあらわれた。
 それらが一斉に飛び出しては、母家へととりつき、たちまち延焼を起こした。
 かとおもえば、今度は一転して向かったのは源兵衛のところである。

「ぎゃっ!」

 源兵衛が悲鳴をあげた。
 じゅっと押しつけられた焔文字、たちまち肌を焼き焦がし、表面に刻まれたのは「恨」の文字である。まるで焼きごてを当てられたかのような跡であった。
 源兵衛は全身にびっちりと焔文字を受けて、ついに絶命する。
 その凄まじい光景に村人や家人らは、ただ眺めていることしか出来なかった。

  ◇

「これはなんともはや……」

 人の心の闇に踏み込んだ物語を読み終えて、藤士郎は心底ぞっとする。
 だというのに、その直後のこと。
 背後で急にこそりと音がしたもので、藤士郎は飛び跳ねんばかりに驚いた。
 ふり返れば、そこにいたのは黒銀毛のでっぷり猫である。

「おや、銅鑼じゃないか。どうして……」
「どうしてって……、志乃殿から様子を見てきて欲しいと頼まれてな。それに何やらいやな予感もしたからな。しかし藤士郎、なんて面をしていやがる。ちゃんと寝ているのか?」

 銅鑼に言われて藤士郎はきょとんとする。
 食事も睡眠もしっかり摂っている。長丁場の仕事ゆえに疲れは多少あるものの、当人はまだまだ元気だからだ。
 藤士郎がそう答えると、銅鑼は「やれやれ」と首を振り嘆息する。そして不意に近づいてきたかとおもったら、ぴょんと跳ねて、ぱしん!
 前足の肉球にて藤士郎の頬を一発張った。

「ちょっと、いきなりなにをするんだい」

 藤士郎は抗議するも、銅鑼は「ふん」と鼻を鳴らす。

「鏡でも盥(たらい)の水でもいいから、ちょいと自分の面を拝んできやがれ。ったく、またぞろ厄介事に首を突っ込みやがって」

 ますますわけがわからない。
 それでもしぶしぶ従って自分の顔を確認した藤士郎は「なんじゃこらーっ!」と素っ頓狂な声をあげた。
 盥に張った水、その水面に映った藤士郎の顔は、まるで長患いをしている病人のようであった。


しおりを挟む
感想 138

あなたにおすすめの小説

柳鼓の塩小町 江戸深川のしょうけら退治

月芝
歴史・時代
花のお江戸は本所深川、その隅っこにある柳鼓長屋。 なんでも奥にある柳を蹴飛ばせばポンっと鳴くらしい。 そんな長屋の差配の孫娘お七。 なんの因果か、お七は産まれながらに怪異の類にめっぽう強かった。 徳を積んだお坊さまや、修験者らが加持祈祷をして追い払うようなモノどもを相手にし、 「えいや」と塩を投げるだけで悪霊退散。 ゆえについたあだ名が柳鼓の塩小町。 ひと癖もふた癖もある長屋の住人たちと塩小町が織りなす、ちょっと不思議で愉快なお江戸奇譚。

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

ふたりの旅路

三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。 志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。 無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。

野槌は村を包囲する

川獺右端
歴史・時代
朱矢の村外れ、地蔵堂の向こうの野原に、妖怪野槌が大量発生した。 村人が何人も食われ、庄屋は村一番の怠け者の吉四六を城下へ送り、妖怪退治のお侍様方に退治に来て貰うように要請するのだが。

御様御用、白雪

月芝
歴史・時代
江戸は天保の末、武士の世が黄昏へとさしかかる頃。 首切り役人の家に生まれた女がたどる数奇な運命。 人の首を刎ねることにとり憑かれた山部一族。 それは剣の道にあらず。 剣術にあらず。 しいていえば、料理人が魚の頭を落とすのと同じ。 まな板の鯉が、刑場の罪人にかわっただけのこと。 脈々と受け継がれた狂気の血と技。 その結実として生を受けた女は、人として生きることを知らずに、 ただひと振りの刃となり、斬ることだけを強いられる。 斬って、斬って、斬って。 ただ斬り続けたその先に、女はいったい何を見るのか。 幕末の動乱の時代を生きた女の一代記。 そこに綺羅星のごとく散っていった維新の英雄英傑たちはいない。 あったのは斬る者と斬られる者。 ただそれだけ。

剣客居酒屋 草間の陰

松 勇
歴史・時代
酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

高槻鈍牛

月芝
歴史・時代
群雄割拠がひしめき合う戦国乱世の時代。 表舞台の主役が武士ならば、裏舞台の主役は忍びたち。 数多の戦いの果てに、多くの命が露と消えていく。 そんな世にあって、いちおうは忍びということになっているけれども、実力はまるでない集団がいた。 あまりのへっぽこぶりにて、誰にも相手にされなかったがゆえに、 荒海のごとく乱れる世にあって、わりとのんびりと過ごしてこれたのは運ゆえか、それとも……。 京から西国へと通じる玄関口。 高槻という地の片隅にて、こっそり住んでいた芝生一族。 あるとき、酒に酔った頭領が部下に命じたのは、とんでもないこと! 「信長の首をとってこい」 酒の上での戯言。 なのにこれを真に受けた青年。 とりあえず天下人のお膝元である安土へと旅立つ。 ざんばら髪にて六尺を超える若者の名は芝生仁胡。 何をするにも他の人より一拍ほど間があくもので、ついたあだ名が鈍牛。 気はやさしくて力持ち。 真面目な性格にて、頭領の面目を考えての行動。 いちおう行くだけ行ったけれども駄目だったという体を装う予定。 しかしそうは問屋が卸さなかった。 各地の忍び集団から選りすぐりの化け物らが送り込まれ、魔都と化しつつある安土の地。 そんな場所にのこのこと乗り込んでしまった鈍牛。 なんの因果か星の巡りか、次々と難事に巻き込まれるはめに!

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

処理中です...