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第一部・眠れる夏のスノーフレーク
入眠
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日曜の夕方にホテルを訪れると彼女は引き払っていた。急いで研究室へ向かうと、相楽がガラス戸に立っていた。光晴は自転車を止めて走る。
「彼女はもうクーリングカプセルだ」
「前より早くないですか」
「前回より細かい導入データがいるんだ。今はあちらの研究者たちが彼女を見ている。心配はいらない。ただ明日いっぱいは導入プログラムで手一杯でね、当日まで君は立ち入り禁止だ。分かるね? 以前も言ったがこれは国家級の機密実験なんだ。本来なら一介の高校生が関われることじゃない」
こういう時に越えられない壁を感じる。ただの高校生である自分を。
「明後日、夏雪さんと話せますよね。話せるんですよね」
「ああ。何より君にはハンドル回しの重要な仕事がある。明後日、ここへ来なさい」
彼は素直に頷くだけだ。不安もなく。
月曜日はうっかり顧問の巡廻を忘れていて彼女の絵を出したままパレットで色を作っていると、背中で大声が上がった。
「秋庭! こがあなもん、高校生が描いちゃいけん!」
真っ黒に墨を入れられるのを阻止するため、キャンバスをつかんで部室を飛び出した。
「無茶し過ぎですよ」
開けっ放しの屋上へ上がってきたのは大迫だ。
「大迫さんさ。人生って無茶しなきゃなんにも変わらないんだよ」
キャンバスを緑のネットに立てかけて、光晴は遠い本土を見つめる。来年の春、そこを目指して発ってゆく自分の姿を思い。
「ところでそれ、もう出来てるんじゃないですか。こういうのも悔しいですけどキレイですし」
キレイ――。そう言われるほどの出来ではない。
よく描けた、という意味での及第点。けれど、彼にとっては何もかも足りなかった。彼女の持つ内も外も、あらゆる魅力に欠けていた。彼はつい先日を思う。腕を回した彼女の脆さと柔らかさ。そんな、「女性というのはこんなにもか細いのか」という触れて初めて分かった驚きに届いていないのだ。当然だ。いつも手にして匂いを嗅ぎ、光に透かして眺めていたモチーフに、触れもせず描き始めたのだから。
(もっと触れたい。触れていたかった――)
梅干しのおにぎりをほおばる彼女の口。神社へ小銭を放り投げた子供のような仕草。ペットボトルを逆さに閉じる瞼。生き生きと動き回る彼女。カプセルを眺めつづけた半年間のもどかしさと息苦しさがすべて報われた瞬間。そしてまた別れの時は来る。もうすぐそこに。
彼女が半年に一度里帰りする親戚のお姉さんだったらどれだけ救われたろうと光晴はキャンバスを見下ろす。しかし彼女はいる。眠り続ける限りこの島にいる。会おうと思えばいつでも――。
パルサーの画像を出すと、黄色いスクーターをバックにピースサインを見せる笑顔の彼女。それが今回の宝物だと彼は目を伏せる。ヌードなど、到底まだ早過ぎたのだと。
「秋庭先輩。天気崩れますよ。もう前島先生帰ってるんで下りましょう」
「大迫さん――」
「何ですか、ホントに天気よくないですって」
光晴はキャンバスを持ち上げ、大迫へ向き直る。
「僕、好きな人がいるんだ。ゴメンね」
彼女は最近見慣れてしまった顔を光晴へ向ける。
「知ってました。っていうか、今言うかな……リミット前なのに」
大迫は背中を向けると校舎へ戻って行った。小さな雨粒が落ちてきた。
火曜日。相楽の言葉通り保健室へ向かい、代理の校医に印鑑をもらうと午前の授業で早退した。雨の中で傘を差して自転車を操り、肩を濡らしながら岬まで走った。午後一時五十分。言われた通りの時間だ。診察室から内線を入れるとすぐに通じた。
「先生。着きました」
『ああ。ちょうどいい時間だ。下りて来なさい』
濡れた肩を払い、地下への階段を下りた。すぐにドアが開いた。
「入りなさい」
薄い青に照らされた研究室では白衣の男女が機器を観測している。カプセルのカバーは閉じていた。赤く光っているのはLOCKの文字。
「先生、あれって――」
「ちょっと待ってくれ。ヒックス教授、脳波の安定は」
「頭頂部・後頭部にて徐波を確認。デルタ波とシータ波へ穏やかに移行中。問題はなさそうだ」
奥でキーボードを叩いていたアメリアも、
「心肺機能。二十四時間経過後、レベル5で安定。血液中保潤循環システム、濃度0.08でコードC09へ固定します」
カプセルをちらりと眺めた相楽が進み出る。
「ありがとうございました。あとは明日の早朝に」
「やけにすんなりと進んで肩透かしだ。瞬英は実験の神様に愛されているようだな」
「そうね。まだ予後が残ってるけど。あら? 彼は?」
アメリアに見つめられ、光晴は頭を小さく下げる。
「秋庭君、緊張しなくていい。本国の研究員、アメリア・オルコットとデニー・ヒックスだ。二人にも紹介します、お話していたアシスタントの秋庭光晴君です」
「そう、坊やがミツハね。素敵なプロフェッサーの卵だわ」
アメリアが言うと、
「この研究は口の堅さが大切だぞ。じゃなきゃ夜道で後ろからバン! だ。さあ、あとはまた五年間だな。成功すれば現代の英雄だ」
デニーが農園の主人のように豪快に笑った。
「そうね坊や。五年後を楽しみにしてるわ。しっかり勉強するのよ」
「では二人ともありがとうございます。残りは引き続き私が。秋庭君、彼らをホテルまで送って来る。三十分ほどモニターを頼むよ」
「え……はい」
ドアが閉まると計器の無機質な音とカプセルの細かい振動音だけになる。まずはカプセルに駆けよる。覗いた彼女の顔色には赤みがない。カプセルも完全にロックされている。
(これってもう……冬眠状態じゃないか……)
彼は壁際のモニターを一つ一つ見て回る。どれもこれも一年間見慣れた数値が並んでいた。絶望感が襲う。
(どうして。まだお別れも言ってなかったのに――)
「彼女はもうクーリングカプセルだ」
「前より早くないですか」
「前回より細かい導入データがいるんだ。今はあちらの研究者たちが彼女を見ている。心配はいらない。ただ明日いっぱいは導入プログラムで手一杯でね、当日まで君は立ち入り禁止だ。分かるね? 以前も言ったがこれは国家級の機密実験なんだ。本来なら一介の高校生が関われることじゃない」
こういう時に越えられない壁を感じる。ただの高校生である自分を。
「明後日、夏雪さんと話せますよね。話せるんですよね」
「ああ。何より君にはハンドル回しの重要な仕事がある。明後日、ここへ来なさい」
彼は素直に頷くだけだ。不安もなく。
月曜日はうっかり顧問の巡廻を忘れていて彼女の絵を出したままパレットで色を作っていると、背中で大声が上がった。
「秋庭! こがあなもん、高校生が描いちゃいけん!」
真っ黒に墨を入れられるのを阻止するため、キャンバスをつかんで部室を飛び出した。
「無茶し過ぎですよ」
開けっ放しの屋上へ上がってきたのは大迫だ。
「大迫さんさ。人生って無茶しなきゃなんにも変わらないんだよ」
キャンバスを緑のネットに立てかけて、光晴は遠い本土を見つめる。来年の春、そこを目指して発ってゆく自分の姿を思い。
「ところでそれ、もう出来てるんじゃないですか。こういうのも悔しいですけどキレイですし」
キレイ――。そう言われるほどの出来ではない。
よく描けた、という意味での及第点。けれど、彼にとっては何もかも足りなかった。彼女の持つ内も外も、あらゆる魅力に欠けていた。彼はつい先日を思う。腕を回した彼女の脆さと柔らかさ。そんな、「女性というのはこんなにもか細いのか」という触れて初めて分かった驚きに届いていないのだ。当然だ。いつも手にして匂いを嗅ぎ、光に透かして眺めていたモチーフに、触れもせず描き始めたのだから。
(もっと触れたい。触れていたかった――)
梅干しのおにぎりをほおばる彼女の口。神社へ小銭を放り投げた子供のような仕草。ペットボトルを逆さに閉じる瞼。生き生きと動き回る彼女。カプセルを眺めつづけた半年間のもどかしさと息苦しさがすべて報われた瞬間。そしてまた別れの時は来る。もうすぐそこに。
彼女が半年に一度里帰りする親戚のお姉さんだったらどれだけ救われたろうと光晴はキャンバスを見下ろす。しかし彼女はいる。眠り続ける限りこの島にいる。会おうと思えばいつでも――。
パルサーの画像を出すと、黄色いスクーターをバックにピースサインを見せる笑顔の彼女。それが今回の宝物だと彼は目を伏せる。ヌードなど、到底まだ早過ぎたのだと。
「秋庭先輩。天気崩れますよ。もう前島先生帰ってるんで下りましょう」
「大迫さん――」
「何ですか、ホントに天気よくないですって」
光晴はキャンバスを持ち上げ、大迫へ向き直る。
「僕、好きな人がいるんだ。ゴメンね」
彼女は最近見慣れてしまった顔を光晴へ向ける。
「知ってました。っていうか、今言うかな……リミット前なのに」
大迫は背中を向けると校舎へ戻って行った。小さな雨粒が落ちてきた。
火曜日。相楽の言葉通り保健室へ向かい、代理の校医に印鑑をもらうと午前の授業で早退した。雨の中で傘を差して自転車を操り、肩を濡らしながら岬まで走った。午後一時五十分。言われた通りの時間だ。診察室から内線を入れるとすぐに通じた。
「先生。着きました」
『ああ。ちょうどいい時間だ。下りて来なさい』
濡れた肩を払い、地下への階段を下りた。すぐにドアが開いた。
「入りなさい」
薄い青に照らされた研究室では白衣の男女が機器を観測している。カプセルのカバーは閉じていた。赤く光っているのはLOCKの文字。
「先生、あれって――」
「ちょっと待ってくれ。ヒックス教授、脳波の安定は」
「頭頂部・後頭部にて徐波を確認。デルタ波とシータ波へ穏やかに移行中。問題はなさそうだ」
奥でキーボードを叩いていたアメリアも、
「心肺機能。二十四時間経過後、レベル5で安定。血液中保潤循環システム、濃度0.08でコードC09へ固定します」
カプセルをちらりと眺めた相楽が進み出る。
「ありがとうございました。あとは明日の早朝に」
「やけにすんなりと進んで肩透かしだ。瞬英は実験の神様に愛されているようだな」
「そうね。まだ予後が残ってるけど。あら? 彼は?」
アメリアに見つめられ、光晴は頭を小さく下げる。
「秋庭君、緊張しなくていい。本国の研究員、アメリア・オルコットとデニー・ヒックスだ。二人にも紹介します、お話していたアシスタントの秋庭光晴君です」
「そう、坊やがミツハね。素敵なプロフェッサーの卵だわ」
アメリアが言うと、
「この研究は口の堅さが大切だぞ。じゃなきゃ夜道で後ろからバン! だ。さあ、あとはまた五年間だな。成功すれば現代の英雄だ」
デニーが農園の主人のように豪快に笑った。
「そうね坊や。五年後を楽しみにしてるわ。しっかり勉強するのよ」
「では二人ともありがとうございます。残りは引き続き私が。秋庭君、彼らをホテルまで送って来る。三十分ほどモニターを頼むよ」
「え……はい」
ドアが閉まると計器の無機質な音とカプセルの細かい振動音だけになる。まずはカプセルに駆けよる。覗いた彼女の顔色には赤みがない。カプセルも完全にロックされている。
(これってもう……冬眠状態じゃないか……)
彼は壁際のモニターを一つ一つ見て回る。どれもこれも一年間見慣れた数値が並んでいた。絶望感が襲う。
(どうして。まだお別れも言ってなかったのに――)
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