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第一部・眠れる夏のスノーフレーク

重み

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 黄色の大型スクーターが夕暮れを待たず岬へ到着した。

「じゃあ今日はありがとね。明日は部活?」

「たぶん……。六時くらいだったらホテルに行けますけど」

「ううん。無理しなくていいの。明日はいろいろ心の準備がね。だから次は入眠の時かも知れないわね」

「そうですか……。次、絶対に見てくださいよ。完成してますから」

 彼女はヘルメットのシールドを閉め、右手を上げると小さく手を振って岬を離れて行った。光晴の中にまた一つ、彼女との思い出が残る。

 廊下を先へ進み診察室を叩くと、声が返った。

「入ります――」

 相楽は眼鏡をかけてA4用紙を机に重ねている。丸椅子を指差し、

「そこへ。最近は目が近くなってかなわない」

 そして事務作業へ没頭する自分の姿を見せながら、

「君は本気でこの研究を手伝うつもりなのかい」

 急だった。

「出来ればとは思ってますけど」

「今までのような補助じゃない。大学受験どころじゃない膨大な学習量が必要だよ。命を丸ごと預かるんだ。その覚悟があるかい」

 彼女のためなら、と答えようとして喉もとで止めた。そういう不純な動機は彼に通用しないと。

「やります。やらせてください」

 相楽は書類を机へ投げ、椅子ごと体の向きを変えた。

「それでもまずは大学を出るんだ。でなければ正式な研究助手として紹介するのに、本国の人間が納得しない。個人的には人文学か外国語をお勧めするね」

「はあ……」

「心配はいらない。彼女の覚醒には毎回立ち会える。彼女も自分の命をかけて参加している実験だ。それに見合うよう、君はこの五年――大学卒業までの期間で使い物になるように成長しろ。大学が休みの時はいくらでもつき合ってやるさ。どうだい、やる気はあるかい」

 人生最大の決断というのは突然やって来る。光晴は覚悟を決める。

「分かりました……。言う通りにします」

「よし、彼女の入眠は三日後の午後二時だ」

「二時ですか――僕は立ち会えないんですか」

「早退でもすればいいさ。そこは校医から上手く伝えておく。それから当日は本国の視察も入る。君はこの研究の次世代を担う優秀な人材だということで紹介しておくよ」
 難問を抱え、それでも光晴は三日後を思い自転車をこいだ。少なくとも希望の名の下に。



 おあつらえ向きのシチュエーションでいちばん大事なことを告げられなかったと、彼女は狭いバスタブで温かな水面を揺らした。

(これは残酷なことだろうか――)

 彼の心を彼女は知っている。その心はとても柔らかでいて確かなもの。受け取る側としては喜びに変わり得るもの。ただし重みに変わらなければ。

 重みならば――標高四千メートルの雪と氷の世界で、彼は今も待っていてくれる。私はその重みだけを感じていればいい。そう言い聞かせて彼女は立ち上がり、バスタブの栓を抜いてシャワーをひねった。

 バスタオルを頭に巻き、ローブを羽織っていると電話が鳴った。

「はい、私ですが」

『すみません、遅くに』

「いえ。お風呂へ入っていただけです。お話は?」

『それが、予定が早まりました』

 不穏なものが夏雪の胸を過る。

「それはクーリングの予定ということですか」

『米国の視察団の都合がありまして。あなたの入眠後、三十六時間の経過観察があります。それを入れると明後日がリミットになってしまうんです』

「それは……。ミツハ君も知ってるんでしょうか」

『はい。彼にも伝えてあります』

 それは最後の救いだと、彼女は一日早まったという予定を了承した。

(そこで彼に伝えよう。次は五年後に会いましょうと)
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