琴姫の奏では紫雲を呼ぶ

山下真響

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90どうか、私の元へ

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 カケルが鳴紡殿に入っていくと、既に楽師達は大広間に集めれていた。一段高くなっている部分、上座には帝国由来かと思われる高級感のある敷物があり、その横に据えられ卓にはうず高く積み上げられた果物と水差しがある。カケルは、被り布越しに全体を見渡すと、静かに着座した。

 すぐに、楽師達は歓迎の奏でを披露する。緊張感を孕んだ一糸乱れぬ音の重なりが、鳴紡殿中に広がっていった。先だってソラで聞いたものと違わぬ、巧みに神気を操る演奏だ。

 それが終わるとワタリがカケルを紹介した。楽師達は色めき立って、蒸しかえるような女達の香りが室内を少し淀ませる。カケルはそれに眉をひそめつつ、ようやく声を発した。

「クレナ王の意向により、この中から一人、ソラへ呼び寄せることになった。まずは、一人ひとりの音が聞きたい」

 すると、ソラでも声を交わした首席の女が辺りを見渡して、目配せをする。楽師達は、端から順に短い旋律を代わる代わる奏でていった。

 情感豊かなもの、技術を駆使した早い拍子のもの、おっとりとした間合いのものまで、個性豊かな演奏が続く。

 そして、コトリの番がやって来た。最後列の端に座っていた彼女は、最後にあたる。

 コトリは、カケルの方をまっすぐに見つめていた。他の女達がするような、羨望や恥じらい、露骨な媚へつらいは、全くない。ただただ祈るようにひたむきな視線が、彼を射抜いている。それでいて、王子と対等に渡り合うような、堂々とした佇まい。

 カケルもそれに応える。挑まれている、と感じていた。コトリがカケルに対してどんな想いを抱いているのかは分からない。それだけに、コトリの奏でを受けるに相応しい男でありたいと思いつつ、彼女の音を全身に浴びる覚悟を決める。

 コトリの弾片が踊り始めた。

 カケルは、はっとした。それは、王家だけが知る王家の女だけの曲「紫玉弥栄節」。王家と社総本山が、二国に分かれるよりも古くから、口承だけでずっと受け継いできた特別の中の特別の奏でである。国の繁栄を願う豪華で厳かな旋律ではあるが、恋唄のような、どこか哀愁が漂う一面もある。正月、ソラとクレナの王家が一堂に会する際に披露されるものでもあった。

 現在、これを弾くことができる年頃の娘は、コトリしかありえない。つまりは、被り布越しにしか相対したことのなかったカケルに、コトリは自分の正体を知らせようとしているとしか思えないのだ。

 芯のある、しなやかな強さと、溢れる温かさや優しさ、幸せに満ちた音。

 そして、奏でるその姿は例えようのない美しさで、そのまま屏風の絵画にしてしまいたい神々しさがある。


 そう、これは琴姫だ。


 鼓動が早くなる。
 気持ちがはやる。
 もう、止まらない。

 文句なしに、誰よりも、どんな奏でよりも、カケルの心を掴んで離さなかった。国の明るい未来を祈って寿ぐその音は、まるで二人の行く末を照らし出すための光のように煌めいている。

 最後の音の余韻が、消えた。

 途端に空気が震え、強い風が起こった。辺りを清らかな何かが一気に駆け抜けて、空気が澄み渡り、神聖なものになる。

 楽師達は、互いに顔を見合わせていた。この感覚に覚えがあるのだろう。そう、これは毎年正月に訪れる、あのまっさらで真っ白な始まりの趣きだ。
 実は、ここ十年程、毎年コトリがシェンシャンの奏でによって、ソラとクレナに新年の風情を呼び込んでいたのだった。

 いつもならば、年に一度しか体感できないものに出会えた嬉しさ。驚きと、喜び。

 カケルが満面の笑みを浮かべると、コトリはシェンシャンを置いて一度頭を下げた。そして再び上げたその顔は――――。

 恋い焦がれるような、潤った瞳。上気して赤らんだ頬。さらには、その口元が音を発さず、「かけるさま」と動いた。

 カケルは息を呑む。

 期待してしまう。
 もしかして、好意を持ってくれているのではないかと、勘違いしてしまいそうになる。

 わざわざ、こんな目立つことをする理由は、他に考えられないのだ。当初は、コトリの想いを無視してソラへ連れ帰り、後々愛することの許しを得ようと思っていたのに、今すぐにでも思いの丈をぶつけたくなってしまう。

 気づくと、カケルは立ち上がっていた。
 吸い込まれるようにして、コトリの元へ近づいていく。ワタリが何か喚いていたが、目もくれない。

「コトリ」

 彼女だけに聞こえるよう、呟く。コトリは一瞬目を丸くしたが、すぐに蕩けるような笑みを見せた。

「やっと、お会いできました。カケル様」

 万感の思いが、二人の間を駆け巡る。カケルは、そっとコトリの手をとった。壊れ物を扱うかのように、優しくそれを自らの手で包み込み、請い願う。

「どうか、私の元へ来てください」

 ソラという国でもなく、王子の妻たる王妃の座でもなく、ただカケルの元へ来てほしい。

 その時だ。

「うちの楽師に何をしている?!」

 ワタリが二人の間に立ちふさがった。挙げ句の果てに、カケルを蹴り上げる。と思ったのも束の間。ワタリは急に苦悶の声を上げて転がり始め、そのまま広間の端から廊下を抜け、庭先に落ちてしまった。

 慌てて駆けつけた女官は、その姿に驚いて一瞬声も失ったが、すぐに他の女官を呼び寄せる。

「水を! 早く!」

 ワタリは、湯気が立ち上る黒い紐で縛りあげられていた。芋虫のように身体をひねりながら暴れている。

 そこへカケルもやってきた。

「大事ございませんか? 他国での単独行動故、護身の神具を身に着けていたのですが、作動してしまったようです」

 ワタリは、女官から水をぶっかけられながら喚いている。紐を外そうと躍起になっていた。

「暗器を持ち込むとは何事だ! しかも王族を狙うとは許さん!」

 カケルは冷ややかな目で、足元のワタリを見下ろす。

「おかしいですね。これは、私に対して強い悪意を持ち、かつ攻撃をしかけてきた相手にしか働かないはずなのですが。まさか、王子こそ私の命を狙っていたのでは?」

 ワタリは舌打ちしながら、衣の裾をたくしあげた。その白い細腕には赤い帯状の火傷が蛇のように絡みついている。その惨状を見ると、さらに痛みと恨みが募るらしい。

「ともかくだ! その楽師はソラへやらん。絶対だ! 他の女達ならば、どれでもいいぞ。早く選んで連れて帰れ!」

 カケルは、すっと目を細めた。ワタリが、初めからそのつもりであったことを悟ったのだ。さらに、コトリがまだまだクレナ王家に縛られて身動きできないでいることを知るのである。

 早く、自由にしてやりたい。

 けれど、ここで無理やりコトリを手に入れても、きっとクレナからの反発は激しいものになるだろう。追手がつくのも厄介だ。現在、クレナ王が、帝国とどの程度懇意にしているのかも未知数な中、どんな邪魔建てがなされるか分からないのだ。危険な橋は渡れない。

「……分かりました。では、今回は見送ります。他の方ならば、要りません」

 苦渋の決断だった。今日こそ、長年思い続けてきた最愛の人が手に入るはずだったのに。しかし、コトリの安全とは代えられない。

 カケルが踵を返すと、ワタリがまだ吠えていた。

「いいのか? 来年から派遣が無くなるんだぞ?!」
「先に御身を心配なされた方がよろしいかと」

 カケルはそう言い残して、その場を後にした。

 これは、虚勢でもなんでもない。きっと来年の今頃には、紫から腕の良いシェンシャン奏者が数多く誕生し、各地で奉奏が行えるようになる。
 クレナ王家の特権の価値が無くなるのも、もう時間の問題だ。

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