パンドラの予知

花野未季

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その十七

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「お前さん……!」
 すぐ近くに永井が立っている。
 彼の背広は、血のようなものと泥とで薄汚れて黄ばんで見えた。
「お前さん、聞いて。あたしたちはここで別々に」

 梅が必死で言う言葉を、永井がさえぎる。
「梅、俺は。俺はよぉ」
 彼は泣いている。
「どうしたの?」

 立ち尽くす二人に構わず、人波は押し合いへし合いし、大きな集団となって移動していく。前方に見える広大な空き地被服廠跡地(ひふくしょうあとち)を目指しているのだ。大勢の警官もいて、佩剣サーベルをかざして避難民をそちらに誘導している。

「俺、人を殺しちまった」
「なんですって?」
「金貸しの後藤に、さんざっぱら馬鹿にされてよ。そのご面相に似合わねえ背広着られるんなら、借りた金をとっとと返せって。挙句、お前を売り飛ばして金を作れって言われて、ついカッとなって……。その場にあった手提金庫で殴っちまったら、地震が来て、あれよあれよという間に柱が倒れてきて」

 鼻をすすり、泣いている永井は惨めったらしく見えた。いつも余裕たっぷりで色男ぶってる人なのに。
 警官の姿をみとめた永井は、譫言うわごとのようにつぶやく。
「自首しねえと」

「待って」
 梅は永井を引き留め、宥めるように言った。
「気の毒だけど、多分後藤さんは家の下敷になって、もう死んでるよ。お前さんがやったことは誰にもわからない。今はそれどころじゃないんだもの」

(それに、あたしたちはもうじき……)
 不吉な言葉を飲み込み、梅はきっぱりと言った。
「とにかく、今はここから逃げよう」

 さっきから全身が熱くてたまらない。見栄張って、椿油なんて使うんじゃなかった。髪の毛全部燃えちまうよ。
 心の中で自嘲する。

 永井と梅は手を繋いで歩き始めたが、逃げる人の渦に巻き込まれて、繋いだ手は解けほどけ、二人は離れ離れになった。

 これでいいんだ。
 運命を変えられたかもしれない。
 背中が熱い。息も出来ない。あたり一面、煙で何も見えない。

 俄然、梅の背中が冷たくなった。
 気づくと、米が梅を背後から抱きかかえてくれている。
「米ちゃん」

 米は悲しそうだった。
「米ちゃん、怖い。最後までずっと一緒に居っておってな」
 梅は甘えるように米に頼んだ。
 米はうなずいて目を伏せる。

 パチパチと焚き火のような、木が爆ぜるはぜる音がして、梅の目の前は真っ暗になった。



(この章終わり)
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