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その十六
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千津子は梅の顔がいつになく恐いので、何も聞かず、隣の松子を呼びに行った。松子は「朝っぱらから何?」と不機嫌そうであったが、梅の顔を見た途端、何事かが起きている、と察知したようである。
「松子、千津子ちゃん、聞いておくれ。もしかしたら、今日地震が来るかもしれない。もちろん、来ないかもしれない。ただ、地震が来たら、この辺りはとんでもないことになりそうなんだよ。だから今からここを出て、しばらく千津子ちゃんの実家にお世話になろう」
「おねえさん、何言ってるの?」
戸惑いつつ尋ねた松子だが、横で千津子が小刻みに震えているのを見て、キュッと口を閉じた。
「今から逃げる用意をするよ。さ、急ごう」
千津子は、壁にかけている振り子のついた時計を見上げる。今が十一時。自分が見た幻では、十二時ちょうどで時計が止まっていた。
千津子は、梅と松子にそれを伝える。梅はうなずき、顔つきはいっそう険しくなった。
「そうだったね、急ごう。十二時までに浅草を離れないと。こんな所はすぐ燃えちまうし、瓦礫の山だよ。逃げられやしない」
(大丈夫だ、既にあの幻で見たのとは違う行動を取っている。今、あたしは運命を少し変えることができた)
梅はそう思って、自分自身を鼓舞する。
着替えとおむすびを持って、まだぐずぐずしていた捨吉を叩き起こし、四人は長屋を出た。
芸人長屋の路地のあちこちで、「おや、どうしたんだい? 夜逃げかい」と声をかけられる。
暑いからと、家の前に七輪を持ち出して、干物を焼いている連中もいた。
それを見た梅は目眩がしそうであった。これでは火事があちこちで起こるのも無理はない。昼どき、食事の支度をする時間帯なのだ。
この人たちを見捨てることになってしまうが、詳しく説明する暇はない。
それとも、千里眼少女のお告げだと言えば信じてくれるだろうか? 梅は逡巡する。
「おねえさん、どうする?」
松子が困ったように言う。
梅は、先に三人を行かせることにした。
「やめてください、おねえさん! 早く逃げないと」
千津子は泣いている。
「安心おし。そのあたりの人に教えて、相手にされなかったら、すぐ逃げるから。それに、旦那さんが両国まで野暮用で出かけてんだ。あたしはそっちに行かないと」
三人を先に行かせると、七輪で魚を焼いている芸人たちに地震のことを告げ、火を消すように頼む。たたみいわしの角が焦げて、いい匂いがしてきた。こんな長閑な状況では、当然のことだが、誰も信じてくれない。
「千里眼少女が言ってるんだ。頼むからあたしの言うことを信じて、早くここから逃げてください!」
最後は悲鳴に近い声になる。
それ以上は諦めた梅は、早足で両国方面を目ざした。
(市電に乗りゃよかった)
逆に危険かもしれないので、乗り物を利用するのはやめにしたが、強風で着物の裾が乱れ、目にゴミが入り、さっさと歩けない。
今、何時だろう? 梅がそう思った瞬間、ゴオーという音がして、ものすごい揺れを感じた。
「ああっ、なんだよこれ!」
思わず叫び、その場にしゃがみ込む。
ドーン、ガラガラ、と耳をつんざく大きな音がして、梅は両耳を塞ぎ、揺れが収まるまでじっとしていた。
かなり長い時間、揺れている。
前方の市電は止まり、通行人はみんな、地べたに座り込んでいる。
ようやく立ち上がった梅の耳に、「火事だ!」と喚く声が、あちこちから響いてきた。
あたりを見回した梅は、思いの外、酷い状況に立ち尽くしてしまった。道路の両脇の家々は全て、一瞬にして崩れ落ちている。
「まずいよ、これは!」
梅は、着物の裾をからげて帯に挟み込むと、走り出した。
周辺の人も皆、血相を変えて走っている。広い道路は次第に、脇道から逃げて来た人や荷車でいっぱいになった。
両国に行って、永井と一緒に逃げるつもりだったのに、少し遅かったか。家具や子どもを荷台に乗せた大八車で道路は塞がれ、完全に動けなくなってしまった。
「ああ! 畜生! どうすりゃいいんだい!」
その時になって梅は、あることに気づいた。
両国に行っても、あの人と一緒に逃げちゃ駄目だ。一緒に逃げると、二人とも死んじまう。
運命を変えなくてはいけないのだから、ここはいっそ一人で逃げよう。
あたしはなんで、さっきそれに気づかなかったんだ。
唇を噛む梅のすぐそばで、
「梅!」と彼女の名を呼ぶ声がした。
「松子、千津子ちゃん、聞いておくれ。もしかしたら、今日地震が来るかもしれない。もちろん、来ないかもしれない。ただ、地震が来たら、この辺りはとんでもないことになりそうなんだよ。だから今からここを出て、しばらく千津子ちゃんの実家にお世話になろう」
「おねえさん、何言ってるの?」
戸惑いつつ尋ねた松子だが、横で千津子が小刻みに震えているのを見て、キュッと口を閉じた。
「今から逃げる用意をするよ。さ、急ごう」
千津子は、壁にかけている振り子のついた時計を見上げる。今が十一時。自分が見た幻では、十二時ちょうどで時計が止まっていた。
千津子は、梅と松子にそれを伝える。梅はうなずき、顔つきはいっそう険しくなった。
「そうだったね、急ごう。十二時までに浅草を離れないと。こんな所はすぐ燃えちまうし、瓦礫の山だよ。逃げられやしない」
(大丈夫だ、既にあの幻で見たのとは違う行動を取っている。今、あたしは運命を少し変えることができた)
梅はそう思って、自分自身を鼓舞する。
着替えとおむすびを持って、まだぐずぐずしていた捨吉を叩き起こし、四人は長屋を出た。
芸人長屋の路地のあちこちで、「おや、どうしたんだい? 夜逃げかい」と声をかけられる。
暑いからと、家の前に七輪を持ち出して、干物を焼いている連中もいた。
それを見た梅は目眩がしそうであった。これでは火事があちこちで起こるのも無理はない。昼どき、食事の支度をする時間帯なのだ。
この人たちを見捨てることになってしまうが、詳しく説明する暇はない。
それとも、千里眼少女のお告げだと言えば信じてくれるだろうか? 梅は逡巡する。
「おねえさん、どうする?」
松子が困ったように言う。
梅は、先に三人を行かせることにした。
「やめてください、おねえさん! 早く逃げないと」
千津子は泣いている。
「安心おし。そのあたりの人に教えて、相手にされなかったら、すぐ逃げるから。それに、旦那さんが両国まで野暮用で出かけてんだ。あたしはそっちに行かないと」
三人を先に行かせると、七輪で魚を焼いている芸人たちに地震のことを告げ、火を消すように頼む。たたみいわしの角が焦げて、いい匂いがしてきた。こんな長閑な状況では、当然のことだが、誰も信じてくれない。
「千里眼少女が言ってるんだ。頼むからあたしの言うことを信じて、早くここから逃げてください!」
最後は悲鳴に近い声になる。
それ以上は諦めた梅は、早足で両国方面を目ざした。
(市電に乗りゃよかった)
逆に危険かもしれないので、乗り物を利用するのはやめにしたが、強風で着物の裾が乱れ、目にゴミが入り、さっさと歩けない。
今、何時だろう? 梅がそう思った瞬間、ゴオーという音がして、ものすごい揺れを感じた。
「ああっ、なんだよこれ!」
思わず叫び、その場にしゃがみ込む。
ドーン、ガラガラ、と耳をつんざく大きな音がして、梅は両耳を塞ぎ、揺れが収まるまでじっとしていた。
かなり長い時間、揺れている。
前方の市電は止まり、通行人はみんな、地べたに座り込んでいる。
ようやく立ち上がった梅の耳に、「火事だ!」と喚く声が、あちこちから響いてきた。
あたりを見回した梅は、思いの外、酷い状況に立ち尽くしてしまった。道路の両脇の家々は全て、一瞬にして崩れ落ちている。
「まずいよ、これは!」
梅は、着物の裾をからげて帯に挟み込むと、走り出した。
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両国に行っても、あの人と一緒に逃げちゃ駄目だ。一緒に逃げると、二人とも死んじまう。
運命を変えなくてはいけないのだから、ここはいっそ一人で逃げよう。
あたしはなんで、さっきそれに気づかなかったんだ。
唇を噛む梅のすぐそばで、
「梅!」と彼女の名を呼ぶ声がした。
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