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その十
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その前後のことは、千津子は記憶が曖昧である。果たして、自分は本当に幽霊を見たのか、それとも異常なまでに神経を集中させてしまったために異状をきたしたのか。
米さんとは誰なのか、永井や梅に聞きたかったが聞けなかった。
帰り道、気落ちしている千津子は、何度もすれ違う人にぶつかってしまい、「すみません」「ごめんなさい」と、身を縮こませるようにして謝りながら歩く。
「元気をお出し。今日は千津子ちゃんのためにご馳走を作るよ。松子と捨吉さんも来るから、お祝いだ」
梅がそう言ってくれた通り、その夜は梅がご馳走の用意をしてくれた。
「あたしは大阪の出だからね、こんなものしか作れないんだよ」
そう言いつつ、梅は狭い台所で手際良く作っていく。
甘辛く煮た里芋や牛こま肉が入った混ぜご飯や、白い粕汁は、千津子は初めて見るものであった。
夜遅くなって、バンバンと玄関の引き戸を叩く音がして、松子がやって来た。
「こんばんは、今日もご馳走になります」
「お帰り、お疲れさんだね」
梅はそう声をかけると、台所に行って熱燗の準備を始めた。
松子と一緒にやって来た子供の顔を見た千津子は、ギョッとした。
浅黒い顔はしわくちゃで、見ようによってはお爺さんと言えなくもない。
「おいらを見てびっくりしたのかい? ハハハ」
明るく笑う声は甲高く、一体この人は大人なのか、それとも子供なのかと千津子が困惑していると、松子が助け舟を出して来た。
「千津ちゃん、びっくりしてんの? そっかあ。この人は見せ物小屋で一番人気の捨吉さんだよ」
「おいおい、捨吉はねえだろう? 『 お拾様』と呼んどくれ。その昔、上方で天下人だった豊臣秀吉公の一粒種秀頼公は、赤子の頃はお拾様と呼ばれていた。それは、高貴なお方によくある、無事成長することを祈って一度捨てられてから拾ってきたからだ。実は高貴な生まれのおいらも」
「あー! もういい、もういいから。そこまでにしとくれ、聞き飽きたよ。それよりせっかくおねえさんがご馳走作ってくれてんだから、早く頂こう」
松子がうんざりしたように言った。
丸いちゃぶ台に、所狭しと並べられたご馳走を眺め回し、千津子はしみじみとした幸福を感じた。
「いただきます!」
松子が号令をかけるように言って、汁物に手を伸ばす。
家のぬくもりが、この決してきれいとは言えない長屋にはあった。
昨日来たばかり、それも自分は使用人だというのに。
雇い主側である梅の優しさに、千津子の胸はじいん、となる。
「ああ、おいしい。おねえさんのご飯はほんとにおいしいねえ」
「梅さんの料理は天下一品だね。……おや、千津子ちゃんとやら。お前さんは食べないのかい?」
捨吉に言われて、千津子はようやく箸をつける気になった。
梅はいきいきと、隣の台所と居間を行き来して、茶を入れたり、お代わりを注いでやったり、まるで母親のようである。
「すみません、私が皆さんのお給仕しなきゃいけないのに。おねえさん、先に食べてください」
千津子は、梅が立つ前に自分がやろうと思うが、梅のほうが素早く、こまごまと皆の世話をしてくれるのだ。
「気を遣わなくていいんだよ。温かいうちに早くおあがり。あたしは後でゆっくり、米ちゃんと食べるから」
千津子は、梅がごく自然に「米ちゃん」と言ったのに驚いたが、松子と捨吉は気にも留めない様子で食事を続けている。
その夜は、 “一寸法師” である捨吉の講談を聞かせてもらい、千津子は捨吉が人気の芸人というのも当然だと感心した。
見せ物小屋では踊り、歌い、寄席では講談を語るという捨吉は、見た目と違って一座の父親代わりのような存在かもしれない、と思う千津子だった。
松子と捨吉が帰ったあと、梅が窓際の小机に、粕汁と混ぜご飯の小皿を二つずつ置いて、一人で晩酌し始めた。
千津子は床をのべて、寝巻きに着替えていると、「後片付けはいいから、先にお休み」と梅に言われる。
「はい」
と返事した千津子が、見るともなく窓の方を見ると、梅はまだ手をつけていないのに、小皿の混ぜご飯が少し減っているように見えた。
(気のせいだ、勘違いだ)
「おいしいねえ、梅ちゃんのご飯は」
松子の口真似をする女の声が聞こえて、千津子の背中をゾッと悪寒が走った。
しかし顔に出してはならない、と千津子は思い、布団に潜り込んだ。
米さんとは誰なのか、永井や梅に聞きたかったが聞けなかった。
帰り道、気落ちしている千津子は、何度もすれ違う人にぶつかってしまい、「すみません」「ごめんなさい」と、身を縮こませるようにして謝りながら歩く。
「元気をお出し。今日は千津子ちゃんのためにご馳走を作るよ。松子と捨吉さんも来るから、お祝いだ」
梅がそう言ってくれた通り、その夜は梅がご馳走の用意をしてくれた。
「あたしは大阪の出だからね、こんなものしか作れないんだよ」
そう言いつつ、梅は狭い台所で手際良く作っていく。
甘辛く煮た里芋や牛こま肉が入った混ぜご飯や、白い粕汁は、千津子は初めて見るものであった。
夜遅くなって、バンバンと玄関の引き戸を叩く音がして、松子がやって来た。
「こんばんは、今日もご馳走になります」
「お帰り、お疲れさんだね」
梅はそう声をかけると、台所に行って熱燗の準備を始めた。
松子と一緒にやって来た子供の顔を見た千津子は、ギョッとした。
浅黒い顔はしわくちゃで、見ようによってはお爺さんと言えなくもない。
「おいらを見てびっくりしたのかい? ハハハ」
明るく笑う声は甲高く、一体この人は大人なのか、それとも子供なのかと千津子が困惑していると、松子が助け舟を出して来た。
「千津ちゃん、びっくりしてんの? そっかあ。この人は見せ物小屋で一番人気の捨吉さんだよ」
「おいおい、捨吉はねえだろう? 『 お拾様』と呼んどくれ。その昔、上方で天下人だった豊臣秀吉公の一粒種秀頼公は、赤子の頃はお拾様と呼ばれていた。それは、高貴なお方によくある、無事成長することを祈って一度捨てられてから拾ってきたからだ。実は高貴な生まれのおいらも」
「あー! もういい、もういいから。そこまでにしとくれ、聞き飽きたよ。それよりせっかくおねえさんがご馳走作ってくれてんだから、早く頂こう」
松子がうんざりしたように言った。
丸いちゃぶ台に、所狭しと並べられたご馳走を眺め回し、千津子はしみじみとした幸福を感じた。
「いただきます!」
松子が号令をかけるように言って、汁物に手を伸ばす。
家のぬくもりが、この決してきれいとは言えない長屋にはあった。
昨日来たばかり、それも自分は使用人だというのに。
雇い主側である梅の優しさに、千津子の胸はじいん、となる。
「ああ、おいしい。おねえさんのご飯はほんとにおいしいねえ」
「梅さんの料理は天下一品だね。……おや、千津子ちゃんとやら。お前さんは食べないのかい?」
捨吉に言われて、千津子はようやく箸をつける気になった。
梅はいきいきと、隣の台所と居間を行き来して、茶を入れたり、お代わりを注いでやったり、まるで母親のようである。
「すみません、私が皆さんのお給仕しなきゃいけないのに。おねえさん、先に食べてください」
千津子は、梅が立つ前に自分がやろうと思うが、梅のほうが素早く、こまごまと皆の世話をしてくれるのだ。
「気を遣わなくていいんだよ。温かいうちに早くおあがり。あたしは後でゆっくり、米ちゃんと食べるから」
千津子は、梅がごく自然に「米ちゃん」と言ったのに驚いたが、松子と捨吉は気にも留めない様子で食事を続けている。
その夜は、 “一寸法師” である捨吉の講談を聞かせてもらい、千津子は捨吉が人気の芸人というのも当然だと感心した。
見せ物小屋では踊り、歌い、寄席では講談を語るという捨吉は、見た目と違って一座の父親代わりのような存在かもしれない、と思う千津子だった。
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「はい」
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(気のせいだ、勘違いだ)
「おいしいねえ、梅ちゃんのご飯は」
松子の口真似をする女の声が聞こえて、千津子の背中をゾッと悪寒が走った。
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