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第三章
19、甘い夢
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雲の隙間に大きな月が空に浮かんでいるのを、リカルドはぼんやりと眺めた。
まるで焼きたてのパンみたいだなと思いながら手を伸ばしてみると、膝の上にぴょんと乗ってきたシマに指先を舐められた。
「ふふっ、くすぐったいよ」
小一時間椅子に座っているが、いつもと違う様子を心配してくれたのか、ぴょんっと横にウメも座ってきた。
ゴロンと転がってお腹を見せてくるので、リカルドはクスリと笑った。
「なんでもないんだ。ちょっと寝つけないだけ……」
そう言ってお腹を撫でてあげると、ウメはコロコロと嬉しそうに喉を鳴らした。
夜深い時間に、動物達の区域に来るのは初めてだった。
皇都への出発を明日に控えて、早めに布団に入ったのだが、興奮から少しも眠れなくてついに起き上がって部屋を出た。
動物達にしばらく会えなくなるので、朝一番に来ようと思っていたが、今の時間に顔を見にいくことにした。
夜に動きが活発になる猫達は、珍しい時間に現れたリカルドに興味津々で近寄ってきた。
お手製のベンチに腰掛けて、猫達と一緒に遊びながら月を眺めていたら、やっと心が落ち着いてきたような気がした。
尊敬や憧れだけで語れないことは分かっている。
最初はそうだった。
再び剣に触れさせてくれた、圧倒的な存在に、懐の広さ、優しく包み込んでくれる眼差し、いつも気にかけてくれて、頭を撫でてくれた。
少しずつ、少しずつ、セイブリアンがくれる温かさが染み込んで、胸に溜まっていった。
厳しい顔をしている時が多いが、話しかけると、どうしたと言って笑ってくれた。
その笑顔に触れる度に、もっともっと、もっと、近くで見たい、側で一緒に笑いたいと思うようになった。
誰かを好きになったことがないから、今まで分からなかったけど、この気持ちが恋だと気がついた。
セイブリアンを好きになってしまった。
だからと言って、告白することなどできない。
平民で、しかも敵国の捕虜であった自分と、国の皇子様で、ベイリーの領主であるセイブリアンでは、身分が天と地の差ほどある。
従者として生きて、セイブリアンが幸せになる様子を間近で見守っていこう、そう思ったはずなのに……
「……やっぱり、初恋の人……とかかな」
浮いた話がないセイブリアンが、唯一心を開いている女性がいる、前にアルジェンからそんな話を聞いたことがあった。
セイブリアンの立場なら、いくらでも女性を選ぶことができるし、婚約を持ち掛ければ喜んで返事が来そうだ。
そうならないということは、つまり、叶わなかった恋の相手、初恋の人か、元交際相手ではないかと考えた。
セイブリアンの幸せを願うと思いながら、頭を占めるのはセイブリアンの想い相手のことばかりで、リカルドは何を考えているんだと頭を抱えた。
夢にまで見るということは未練がある、つまりまだその人を想い続けている。考えれば考えるほど、恋愛ごとには純粋で、誠実そうなセイブリアンには、ピッタリ当てはまった。
ベイリーでそんな話は聞かない、つまりこれから向かう皇都で、その相手が待っていたら……
「あーーもーーなんでずっと考えちゃうんだぁぁぁ」
夜風に触れて落ち着いた気がしたが、やはり思考がどんどんそちらに流れていってしまう。
混乱して頭をかいていると、猫達がピンっと耳を立ててニャァと鳴いた。
「なんだ、ここにいたのか」
「いっ、え!? セイブリアン様!!」
頭を占めていた相手が突然現れたので、リカルドは叫んでしまいそうになって、慌てて声を抑えた。
幻かと目を擦ったが消えない。
寝巻きにガウンを羽織ったセイブリアンが、平然と飼育区域に入ってきた。
「お前も眠れないのか? 俺は眠れない時は、よくここに来るんだ」
そういえば、忙しいセイブリアンが動物達のところに訪れるのは、夜が多いと聞いていた。
セイブリアンの癒しの時間を邪魔してしまったようで、リカルドは申し訳なくなった。
「すみません……こんな時間に勝手に……」
「いや、いいんだ。話し相手がいて助かる。隣に座っていいか?」
「どうぞ、もちろんです!」
急いで場所をつめると、セイブリアンはリカルドの横に座ってきた。
セイブリアンから爽やかな香りが漂ってきて、胸がトクンと鳴った。
大木に包まれるような匂いに癒されていると、横に座っているセイブリアンは、先ほどのリカルドと同じように月を見上げていた。
シマとウメは何かを察したのか、二人から離れて近くの木にぴょんっと飛び乗った。
「……疲れすぎると、眠れなくなる時はありますよね。お体は大丈夫ですか?」
「ああ、疲れというより、気が重くてな。皇都にはいい思い出がない」
ルーファスからセイブリアンの子供時代の話を聞いていたので、悲しそうなセイブリアンの横顔を見て、リカルドの胸も痛んだ。
「リカルドの父は、騎士だったな?」
「はい、足を怪我して引退しました。務めたのはわずがな間だったので、悔しかったとよく……。その分、俺に剣を教えてくれて、夢を託してくれました」
「他になりたい道はなかったのか? 押し付けられたとは思わなかったのか?」
「父は……すごくカッコよかったので、父のようになりたいと思って育ちました。立派な騎士になって、父や母を喜ばせてあげたかったんです」
そう言ってリカルドも月を見上げると、セイブリアンの手が伸びてきて、背中を優しく撫でてくれた。
「リカルドは強いな」
「そんな……」
「俺の父も足が悪くてな。若い頃、信頼していた部下に殺されかけて足を負傷した。それ以来、人が変わったようになってしまったと聞いた」
「そうだったのですね」
「俺には普通の親子関係、というのが分からなかった。ある時、道で転んで泣いた子を、父親らしき男が抱き上げてあやす姿を見て驚いた。兄弟の誰もがそうだったが、うちは普通の環境ではないと気づいた。立場を考えたら、それも仕方がないと思って生きてきた。心を許せば、誰が刃を向けてくるか分からない。それを知った時、父の気持ちが少しは分かったが……それでも……許せなかった」
父と子の決定的な亀裂、それが何だったのか、それを聞いていいのか考えていると、一呼吸してからセイブリアンが口を開いた。
「父は……俺の大切な………引き離して……」
当時を思い出したのか、歯を食いしばり、辛そうな顔をするセイブリアンの背中を、今度はリカルドが撫でる番だった。
セイブリアンの気持ちが痛いほど伝わってくる。
皇帝はセイブリアンの気持ちを踏み躙った。
父亡き後も、セイブリアンはずっと傷ついていて、今もその痛みに震えている。
今ここに皇帝がいたなら、なんてことをしたんだと肩を揺さぶって謝らせる、それができないことが悔しかった。
「理解……しようとされたんですよね、お父様のこと。ひどいことをされても、許せなくても、気持ちを知ろうとされた。辛い思いをしても、セイブリアン様は立ち上がって、今、ここにいる」
「リカルド……」
「みんながセイブリアン様のことを何と言っているか知っていますか? 強くて逞しくて、人を思いやれる素晴らしい方、です。そんな風に人から思われるなんて、誰もができることじゃありません。一国の王だって、傲慢とか冷酷とか陰で言う人がいるのに、セイブリアン様はみんなに慕われている、こんなすごいことがありますか?」
「あ……ああ」
「俺だってもちろん、すごく頼りにしていて、いつも助けに来てくれて、本当に感謝しています……。それにそれに……」
話しながら、どうにかセイブリアンを慰めたくて、リカルドはぐいぐいと前に出た。
セイブリアンはリカルドのあまりの熱さに戸惑ってるように見えたが、話し始めたら止まらなくなった。
「俺だって、みんなと同じようにお慕いしています! 好きです! 大好きです!! …………あっ」
半分セイブリアンに乗っかって、熱弁してしまったが、勢い余って思わず告白してしまったことに気づいて、リカルドの頭は真っ白になった。
月明かりでよく見えないが、セイブリアンの顔がどんどん赤くなっていくように見えて、リカルドはマズいと慌て出した。
「あ……ああの、これは……部下としてです! 尊敬しているという意味で、変な意味はありません!」
「そ、そうだな。……そう思ってくれて嬉しいよ」
リカルドが必死に否定すると、セイブリアンは少し残念そうな目をしてから、クスッと笑った。
本当の気持ちを知られたら大変なことになる。
ごまかせてよかったと思ったリカルドだが、セイブリアンに乗り掛かっている状態なので、不自然にならないように離れようとした。
その時、木の上に乗っていた猫が、ニャアと鳴いてリカルドの頭の後ろに飛び乗ってきた。
「あっ……わっ!! うぅ………………」
シマかウメか分からないが、急に押されたので、リカルドは前に倒れて、思わず目をつぶってしまった。
セイブリアンに寄りかかっていると思われるが、唇に柔らかい感触を感じて、薄目を開けると、目の前にセイブリアンの顔があった。
何が起きているのか、混乱で固まってしまったリカルドだったが、唇に触れている柔らかいものが、ムニッと動いたので、ハッと気がついた。
まさかこれは……
どう考えても……
「すすすすっ、すみません!! 俺、何てことを!!」
我に返って真っ赤になったリカルドは、慌てて体勢を元に戻したが、自分と同じように顔を赤くしているセイブリアンを見て、やってしまったと息が止まりそうになった。
猫キックに押されたリカルドは、セイブリアンの方に倒れたが、勢いそのまま、セイブリアンと唇を合わせてしまった。
リカルドが手をバタバタして騒ぎ出したので、猫達はうるさいなという顔で、小屋の方に戻って行ってしまった。
「なんというご無礼を……、申し訳ございません!」
土下座をして謝ろうとしたリカルドだったが、セイブリアンに腕を掴まれて、膝の上に乗せられてしまった。
さすがの力強さで、離れようとしても、ガッシリと掴まれて、身動きが取れない。
「謝らなくていい。押されたからだろう。それより……」
さっさと離れてくれと言われると思ったのに、逆に膝の上に乗せて離してくれないなんて、どうしたのだろうと思ってしまった。
近くで見ると、セイブリアンの目は月のように光って見えた。
「もう少しだけ、こうしていいだろうか?」
「え…………」
「リカルドの顔を見ると落ち着く、心が丸く柔らかくなるみたいだ」
ドキドキしているのは自分だけかと思ったが、セイブリアンの言葉があまりに可愛くて、リカルドはクスッと笑ってしまった。
「丸く柔らかくって……なんだか、美味しそうですね」
まだ笑っていると、セイブリアンの手が伸びてきて、リカルドの頬に触れた。
セイブリアンの熱い視線に、リカルドの笑みは止まって、また見つめ合う状態になった。
「さっきのを……もう一度……」
「え? さっきのって……」
何を言っているのか、一瞬考えてしまったが、セイブリアンの赤くなった目元を見て、その意味が分かった。
幻みたいな口付け。
本当に起きたことなのか、現実感がなかった。
セイブリアンも同じ気持ちだろうかと目の奥を覗いた。
曖昧な言葉では伝わらないと思ったのか、頬にあったセイブリアンの指がスッと下におりて、リカルドの唇に触れた。
「ここにもう一度……口で触れてもいいか?」
まさかセイブリアンの方から、そんなことを言われると思わなくて、リカルドはごくりと息を呑んだ。
なぜそんなことをと考えを巡らせたら、思いついたのは、セイブリアンは剣一筋で生きてきたと聞いたので、そういった経験に乏しそう、という推察だった。
こんなことを考えるだけで失礼極まりないが、興味のある年頃なのかもしれないということだった。
リカルドと違って、初めてというわけではないと思うが、政治的な意味で女性を避けてきたから、手近なところで興味を持った。
そんな人ではないと思うが、自分がそんなことを言われるなんて信じられなくて、そうとしか考えられない。
リカルドがあまりに長く考えすぎたからか、セイブリアンの眉が残念そうに下がってしまった。
「……すまない、嫌だったか? 嫌なら……」
「いっ、いいです! 俺なんかでよければ!」
「なんか、じゃない。リカルドがいい」
セイブリアンの手が背中に回ってぎゅっと抱きしめられた。
そのまま顔が近づいてきて、先ほどと同じように、二人の唇が重なった。
「…………んっ……」
リカルドにとって初めてのキスは、突然で何だかよく分からないうちに、終わってしまったが、今度は違う。
セイブリアンの唇の柔らかさ、形や厚みまで、触れた箇所を通してしっかり伝わってきた。
一度軽く離れたら、角度を変えて、また重なってきた。
いつ目を閉じていいのか分からない。
重ねることしか知らない。
それでも、だんだん深くなっていくと、頭の中は興奮で染まって何も考えられなくなった。
リカルドは空中で浮いていた腕を、セイブリアンの後ろに回して、ぎゅっとシャツの端を握った。
ハァハァとどちらとも分からない呼吸の音が夜空に向かって響いた。
日の出とともに始まる、出発前の喧騒まで後もう少し。
それまでの静けさは、まるで二人だけのためにある特別な時間に思えた。
これは猫達が見せてくれた甘い夢で、気がついたら一人で部屋のベッドに転がっているかもしれない。
それでもいい。
それでもいいから、もう少しだけ。
甘い夢の中に堕ちていきたい。
特別な時間を、どうかもう少しだけ……
そう願いながら、リカルドはやっと目を閉じた。
まるで焼きたてのパンみたいだなと思いながら手を伸ばしてみると、膝の上にぴょんと乗ってきたシマに指先を舐められた。
「ふふっ、くすぐったいよ」
小一時間椅子に座っているが、いつもと違う様子を心配してくれたのか、ぴょんっと横にウメも座ってきた。
ゴロンと転がってお腹を見せてくるので、リカルドはクスリと笑った。
「なんでもないんだ。ちょっと寝つけないだけ……」
そう言ってお腹を撫でてあげると、ウメはコロコロと嬉しそうに喉を鳴らした。
夜深い時間に、動物達の区域に来るのは初めてだった。
皇都への出発を明日に控えて、早めに布団に入ったのだが、興奮から少しも眠れなくてついに起き上がって部屋を出た。
動物達にしばらく会えなくなるので、朝一番に来ようと思っていたが、今の時間に顔を見にいくことにした。
夜に動きが活発になる猫達は、珍しい時間に現れたリカルドに興味津々で近寄ってきた。
お手製のベンチに腰掛けて、猫達と一緒に遊びながら月を眺めていたら、やっと心が落ち着いてきたような気がした。
尊敬や憧れだけで語れないことは分かっている。
最初はそうだった。
再び剣に触れさせてくれた、圧倒的な存在に、懐の広さ、優しく包み込んでくれる眼差し、いつも気にかけてくれて、頭を撫でてくれた。
少しずつ、少しずつ、セイブリアンがくれる温かさが染み込んで、胸に溜まっていった。
厳しい顔をしている時が多いが、話しかけると、どうしたと言って笑ってくれた。
その笑顔に触れる度に、もっともっと、もっと、近くで見たい、側で一緒に笑いたいと思うようになった。
誰かを好きになったことがないから、今まで分からなかったけど、この気持ちが恋だと気がついた。
セイブリアンを好きになってしまった。
だからと言って、告白することなどできない。
平民で、しかも敵国の捕虜であった自分と、国の皇子様で、ベイリーの領主であるセイブリアンでは、身分が天と地の差ほどある。
従者として生きて、セイブリアンが幸せになる様子を間近で見守っていこう、そう思ったはずなのに……
「……やっぱり、初恋の人……とかかな」
浮いた話がないセイブリアンが、唯一心を開いている女性がいる、前にアルジェンからそんな話を聞いたことがあった。
セイブリアンの立場なら、いくらでも女性を選ぶことができるし、婚約を持ち掛ければ喜んで返事が来そうだ。
そうならないということは、つまり、叶わなかった恋の相手、初恋の人か、元交際相手ではないかと考えた。
セイブリアンの幸せを願うと思いながら、頭を占めるのはセイブリアンの想い相手のことばかりで、リカルドは何を考えているんだと頭を抱えた。
夢にまで見るということは未練がある、つまりまだその人を想い続けている。考えれば考えるほど、恋愛ごとには純粋で、誠実そうなセイブリアンには、ピッタリ当てはまった。
ベイリーでそんな話は聞かない、つまりこれから向かう皇都で、その相手が待っていたら……
「あーーもーーなんでずっと考えちゃうんだぁぁぁ」
夜風に触れて落ち着いた気がしたが、やはり思考がどんどんそちらに流れていってしまう。
混乱して頭をかいていると、猫達がピンっと耳を立ててニャァと鳴いた。
「なんだ、ここにいたのか」
「いっ、え!? セイブリアン様!!」
頭を占めていた相手が突然現れたので、リカルドは叫んでしまいそうになって、慌てて声を抑えた。
幻かと目を擦ったが消えない。
寝巻きにガウンを羽織ったセイブリアンが、平然と飼育区域に入ってきた。
「お前も眠れないのか? 俺は眠れない時は、よくここに来るんだ」
そういえば、忙しいセイブリアンが動物達のところに訪れるのは、夜が多いと聞いていた。
セイブリアンの癒しの時間を邪魔してしまったようで、リカルドは申し訳なくなった。
「すみません……こんな時間に勝手に……」
「いや、いいんだ。話し相手がいて助かる。隣に座っていいか?」
「どうぞ、もちろんです!」
急いで場所をつめると、セイブリアンはリカルドの横に座ってきた。
セイブリアンから爽やかな香りが漂ってきて、胸がトクンと鳴った。
大木に包まれるような匂いに癒されていると、横に座っているセイブリアンは、先ほどのリカルドと同じように月を見上げていた。
シマとウメは何かを察したのか、二人から離れて近くの木にぴょんっと飛び乗った。
「……疲れすぎると、眠れなくなる時はありますよね。お体は大丈夫ですか?」
「ああ、疲れというより、気が重くてな。皇都にはいい思い出がない」
ルーファスからセイブリアンの子供時代の話を聞いていたので、悲しそうなセイブリアンの横顔を見て、リカルドの胸も痛んだ。
「リカルドの父は、騎士だったな?」
「はい、足を怪我して引退しました。務めたのはわずがな間だったので、悔しかったとよく……。その分、俺に剣を教えてくれて、夢を託してくれました」
「他になりたい道はなかったのか? 押し付けられたとは思わなかったのか?」
「父は……すごくカッコよかったので、父のようになりたいと思って育ちました。立派な騎士になって、父や母を喜ばせてあげたかったんです」
そう言ってリカルドも月を見上げると、セイブリアンの手が伸びてきて、背中を優しく撫でてくれた。
「リカルドは強いな」
「そんな……」
「俺の父も足が悪くてな。若い頃、信頼していた部下に殺されかけて足を負傷した。それ以来、人が変わったようになってしまったと聞いた」
「そうだったのですね」
「俺には普通の親子関係、というのが分からなかった。ある時、道で転んで泣いた子を、父親らしき男が抱き上げてあやす姿を見て驚いた。兄弟の誰もがそうだったが、うちは普通の環境ではないと気づいた。立場を考えたら、それも仕方がないと思って生きてきた。心を許せば、誰が刃を向けてくるか分からない。それを知った時、父の気持ちが少しは分かったが……それでも……許せなかった」
父と子の決定的な亀裂、それが何だったのか、それを聞いていいのか考えていると、一呼吸してからセイブリアンが口を開いた。
「父は……俺の大切な………引き離して……」
当時を思い出したのか、歯を食いしばり、辛そうな顔をするセイブリアンの背中を、今度はリカルドが撫でる番だった。
セイブリアンの気持ちが痛いほど伝わってくる。
皇帝はセイブリアンの気持ちを踏み躙った。
父亡き後も、セイブリアンはずっと傷ついていて、今もその痛みに震えている。
今ここに皇帝がいたなら、なんてことをしたんだと肩を揺さぶって謝らせる、それができないことが悔しかった。
「理解……しようとされたんですよね、お父様のこと。ひどいことをされても、許せなくても、気持ちを知ろうとされた。辛い思いをしても、セイブリアン様は立ち上がって、今、ここにいる」
「リカルド……」
「みんながセイブリアン様のことを何と言っているか知っていますか? 強くて逞しくて、人を思いやれる素晴らしい方、です。そんな風に人から思われるなんて、誰もができることじゃありません。一国の王だって、傲慢とか冷酷とか陰で言う人がいるのに、セイブリアン様はみんなに慕われている、こんなすごいことがありますか?」
「あ……ああ」
「俺だってもちろん、すごく頼りにしていて、いつも助けに来てくれて、本当に感謝しています……。それにそれに……」
話しながら、どうにかセイブリアンを慰めたくて、リカルドはぐいぐいと前に出た。
セイブリアンはリカルドのあまりの熱さに戸惑ってるように見えたが、話し始めたら止まらなくなった。
「俺だって、みんなと同じようにお慕いしています! 好きです! 大好きです!! …………あっ」
半分セイブリアンに乗っかって、熱弁してしまったが、勢い余って思わず告白してしまったことに気づいて、リカルドの頭は真っ白になった。
月明かりでよく見えないが、セイブリアンの顔がどんどん赤くなっていくように見えて、リカルドはマズいと慌て出した。
「あ……ああの、これは……部下としてです! 尊敬しているという意味で、変な意味はありません!」
「そ、そうだな。……そう思ってくれて嬉しいよ」
リカルドが必死に否定すると、セイブリアンは少し残念そうな目をしてから、クスッと笑った。
本当の気持ちを知られたら大変なことになる。
ごまかせてよかったと思ったリカルドだが、セイブリアンに乗り掛かっている状態なので、不自然にならないように離れようとした。
その時、木の上に乗っていた猫が、ニャアと鳴いてリカルドの頭の後ろに飛び乗ってきた。
「あっ……わっ!! うぅ………………」
シマかウメか分からないが、急に押されたので、リカルドは前に倒れて、思わず目をつぶってしまった。
セイブリアンに寄りかかっていると思われるが、唇に柔らかい感触を感じて、薄目を開けると、目の前にセイブリアンの顔があった。
何が起きているのか、混乱で固まってしまったリカルドだったが、唇に触れている柔らかいものが、ムニッと動いたので、ハッと気がついた。
まさかこれは……
どう考えても……
「すすすすっ、すみません!! 俺、何てことを!!」
我に返って真っ赤になったリカルドは、慌てて体勢を元に戻したが、自分と同じように顔を赤くしているセイブリアンを見て、やってしまったと息が止まりそうになった。
猫キックに押されたリカルドは、セイブリアンの方に倒れたが、勢いそのまま、セイブリアンと唇を合わせてしまった。
リカルドが手をバタバタして騒ぎ出したので、猫達はうるさいなという顔で、小屋の方に戻って行ってしまった。
「なんというご無礼を……、申し訳ございません!」
土下座をして謝ろうとしたリカルドだったが、セイブリアンに腕を掴まれて、膝の上に乗せられてしまった。
さすがの力強さで、離れようとしても、ガッシリと掴まれて、身動きが取れない。
「謝らなくていい。押されたからだろう。それより……」
さっさと離れてくれと言われると思ったのに、逆に膝の上に乗せて離してくれないなんて、どうしたのだろうと思ってしまった。
近くで見ると、セイブリアンの目は月のように光って見えた。
「もう少しだけ、こうしていいだろうか?」
「え…………」
「リカルドの顔を見ると落ち着く、心が丸く柔らかくなるみたいだ」
ドキドキしているのは自分だけかと思ったが、セイブリアンの言葉があまりに可愛くて、リカルドはクスッと笑ってしまった。
「丸く柔らかくって……なんだか、美味しそうですね」
まだ笑っていると、セイブリアンの手が伸びてきて、リカルドの頬に触れた。
セイブリアンの熱い視線に、リカルドの笑みは止まって、また見つめ合う状態になった。
「さっきのを……もう一度……」
「え? さっきのって……」
何を言っているのか、一瞬考えてしまったが、セイブリアンの赤くなった目元を見て、その意味が分かった。
幻みたいな口付け。
本当に起きたことなのか、現実感がなかった。
セイブリアンも同じ気持ちだろうかと目の奥を覗いた。
曖昧な言葉では伝わらないと思ったのか、頬にあったセイブリアンの指がスッと下におりて、リカルドの唇に触れた。
「ここにもう一度……口で触れてもいいか?」
まさかセイブリアンの方から、そんなことを言われると思わなくて、リカルドはごくりと息を呑んだ。
なぜそんなことをと考えを巡らせたら、思いついたのは、セイブリアンは剣一筋で生きてきたと聞いたので、そういった経験に乏しそう、という推察だった。
こんなことを考えるだけで失礼極まりないが、興味のある年頃なのかもしれないということだった。
リカルドと違って、初めてというわけではないと思うが、政治的な意味で女性を避けてきたから、手近なところで興味を持った。
そんな人ではないと思うが、自分がそんなことを言われるなんて信じられなくて、そうとしか考えられない。
リカルドがあまりに長く考えすぎたからか、セイブリアンの眉が残念そうに下がってしまった。
「……すまない、嫌だったか? 嫌なら……」
「いっ、いいです! 俺なんかでよければ!」
「なんか、じゃない。リカルドがいい」
セイブリアンの手が背中に回ってぎゅっと抱きしめられた。
そのまま顔が近づいてきて、先ほどと同じように、二人の唇が重なった。
「…………んっ……」
リカルドにとって初めてのキスは、突然で何だかよく分からないうちに、終わってしまったが、今度は違う。
セイブリアンの唇の柔らかさ、形や厚みまで、触れた箇所を通してしっかり伝わってきた。
一度軽く離れたら、角度を変えて、また重なってきた。
いつ目を閉じていいのか分からない。
重ねることしか知らない。
それでも、だんだん深くなっていくと、頭の中は興奮で染まって何も考えられなくなった。
リカルドは空中で浮いていた腕を、セイブリアンの後ろに回して、ぎゅっとシャツの端を握った。
ハァハァとどちらとも分からない呼吸の音が夜空に向かって響いた。
日の出とともに始まる、出発前の喧騒まで後もう少し。
それまでの静けさは、まるで二人だけのためにある特別な時間に思えた。
これは猫達が見せてくれた甘い夢で、気がついたら一人で部屋のベッドに転がっているかもしれない。
それでもいい。
それでもいいから、もう少しだけ。
甘い夢の中に堕ちていきたい。
特別な時間を、どうかもう少しだけ……
そう願いながら、リカルドはやっと目を閉じた。
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