28 / 28
第三陣
最終話 愛の奇跡
しおりを挟む
□R
「楠木さんって、おいくつなんですか? あっ、すみません。お若く見えるから……」
お酒を注がれながら、十も下の子に若いなんて言われてしまった。
俺はどう反応していいか分からなくて曖昧に笑った。
「……まいったな。今年、三十五? いや、六だったかな。自分の歳はすぐ忘れてしまうから」
「はっ、嘘!?」
新人の女の子が眉間に皺を寄せて驚いた顔になったので、ますます苦笑してしまった。
「えっ、楠木さん、冗談じゃなく、本当に私と同世代に見えますよ」
「こいつが、老けないのは有名なんだよ。大して仕事しないし、頭使わないから、なっ楠木!」
「そうですね、長さんの言う通りです」
飲み会での先輩の手厳しい冗談にも笑って返せるようになった。昔はこの程度のことでも、いちいち傷ついていて、使いづらいやつだったに違いない。
今だって署内の飲み会は苦手だが、さすがに毎回不参加というのもマズいので、少しは顔を出すようにしていた。
「それにしても不思議ですね。童顔ってワケじゃなさそうなのに、シミやシワもないし、肌にも張りがあって……」
「いや、森さん。本当にやめてよ。あんまり凝視しないで」
さすが女性だけあって美容に興味があるのか、顔の分析を始められてしまった。本当に何もしていないのでとてもその話題には付いていけない。
真っ赤になりながら、ビールをあおってごまかした。
「ご結婚はされてないんですよね? 付き合ってる人はいないんですか?」
「……いないよ。まだ結婚するつもりはなくて」
「お前、十年以上それを言い続けてるぞ。さっさと身を固めろ」
はい分かりましたと言って頭をかいた。
この手の話題は本当に勘弁してほしい。
「そうだ、あれ、聞かせてくださいよ。確か、新人の頃、警視総監に大抜擢されたって伝説本当ですか?」
いまだにその話をされるので、毎回頭を悩まされる。うんざりする気持ちを何とか顔に出さずにどうするかと考えてきたら、酔った先輩が俺が話してやると前に出てきた。
「いいか、あれは警視庁始まって以来の愚策と呼ばれた、新人交代というマスコミ向けのイベントで、こいつが一日警視総監に選ばれたんだ。物を壊すはすっ転んだところをニュースに流されるわで大変だったんだからな……」
話を聞きつけた他の後輩達がわらわらとやってきてしまい、恥の上塗り大会になってしまった。
仕方なく、ビールを飲みまくって全て忘れることにした。
「楠木さーん、一人で大丈夫ですか? タクシーは?」
「平気です。おつかれさまでした」
酒には弱いが顔に出ないタイプだ。
手を振って頭を下げると、二次会に行くメンバーはもう俺のことなんてすっかり忘れて盛り上がっていた。
あんな話も出たし、急に飲みたくなって杯を重ねてしまった。
一人になって公園のベンチに座りながら、夜空を見上げてため息をついた。
「恋人かぁ……」
こうやって人の集まりに出ると、結婚していない俺はだいたいその話をされる。
親戚の集まりなんて特にそうだ。
さっさと結婚して孫の顔を見せろとうるさく言われてうんざりしてしまう。
もともと女性とは恋愛ができない。
思春期から対象は男で、男としか付き合ったことがない。
しかもその男とも恋愛をしなくなってしまった。
最後に付き合ったのは十五年くらい前、あの一日警視総監イベントでひどいめにあったそれよりも前だ。
その時の別れが手痛いものだったのか、それ以来誰とも付き合ってはいないし、体の関係すらない。
若い若いと言われてイジられるが、見た目は若くても心はすっかり干からびてしまっている。
正直元彼の顔なんて思い出せないし、なぜ好きだったのか分からないほど、どうでもいい思い出だ。
それなのに、心にぽっかり穴が空いてしまったように、誰を見てもいっさい気持ちが動かない。
どうかしてしまったのかと、夜の街に繰り出したり、出会い系で相手を求めてみたりもした。
でも全部だめなのだ。
少し触れられただけで嫌悪感が走り、嫌で嫌でたまらなくなる。
体中が違う違うこれじゃないと叫んでいるみたいになって、動機と息切れが止まらなくなる。
そんな状態でまともに会話できるわけもなく、結局相手を探しに行くこともやめてしまった。
休日は一人、図書館に出かけたり、静かに家で過ごしたりという、隠居老人のような生活をこの十数年ずっと続けてきた。
しかし、寂しくないわけじゃない。
一人でいると、無性に恋しくなるのだ。
狂おしいくらい寂しくて、今すぐ会いに行きたいのに、そんな相手はいないはずで、ただ混乱して虚しく膝を抱えてきた。
この説明のできない孤独を何と呼べばいいのだろう。
まるでこの世にいない相手。
死人でも好きになってしまったみたいだ。
「くそっ……もういやだ。何で俺……どうしてこうなんだ」
こんな話、相談されてもみんな顔を顰めて病院へ行けと言われるだけだ。
いつどこへ行っても、何をしていても、心に引っかかるものが確かにあるのだ。
その説明のできない何かが、俺を焦らせてくる。
早くしろ、早く思い出せと背中を押されているみたいだ。
夜空を見上げると無数の星が無言で俺を見下ろしていた。
もしかしたら、あの星のどれかに俺が求めるものがあるのかもしれない。
そんな、ファンタジーバカみたいなことを、いい歳して考えてしまうのだから、もう終わっている。
「はぁぁーー、酔いも冷めたし、帰るかな」
重たい体を持ち上げて、俺はフラフラと家路についた。
嫌な酔いだけがいつまでも体に残って離れてくれなかった。
■R
「レインズ様、どうしましたか?」
書類を手に持ったまま、心ここに在らずでいたので、心配したアダムが話しかけてきた。
「ああ、悪いな。何だ?」
「王城から使いが……、残貴族派と革命派でまた一悶着あったようで」
「またか……、まったく、これでは北部にいつ帰れるか分からないな」
国王が革命軍により倒されたことで、何もかもが変わった。
クライスラー家は公国だが、王国の支配下にあるため、新たに王となったガルデオンのために動かなくてはいけない。
それでなくともガルデオンとは、クライスラー家の力を分け合った仲なので、今後も深い繋がりができてしまった。
正直なところ、自分と同じ見える眼を持ったガルデオンのことは苦手に思っていて、向こうも姿を見せなかったのでほとんど交流がなかった。
どういう人物たるかは探らせてはいたが、なかなか固い守りがあって情報が入って来なかった。
それがどうしてか、今回の反乱によって、ガルデオンの呪いについて知ることとなり、同じく魔力の移動先に悩んでいた俺は、ガルデオンに魔力を移すことになった。
思い返せば、そんなことだったと記憶しているが、どうもその辺りがぼんやりとしていて思い出せない。
ここ数日、特にそんな状態で、起きているのに寝ているようなひどい倦怠感に襲われていた。
「お疲れなのですよ、使いは報告だけだと言っていましたので、今日は休んだ方がよろしいかと……」
「ああ、そうする。湯浴みをするから、あれに……」
「……はい? あれとは?」
気がつくと書棚の端に立って、誰もいない空間に手を伸ばしていた。
「……何をされているのですか?」
それはそう思うだろう。
主人が一人で操り人形のように手伸ばして、空気を掴むような仕草をしているのだから。
「いや……、ここは……こんなに広かったか?」
「はい? ……え? いつもと同じに見えますが……」
アダムはまた例の顔をしていた。
大丈夫かという心配そうな顔だ。
もう、見飽きてしまった。
「……湯浴みは一人でする」
そう言って部屋を出た。
長い間、暗闇の中を歩いて生きてきた。
黒い色を着ていると、暗闇の一部になったような気持ちで安心できた。
明るい日差しの中は苦手だ。
自分の罪を思い出して、両手が真っ赤な血で染まったように見えるから。
両親と兄弟を殺した。
ずっと最近までその事実を心の中に隠して生きていた。
ガルデオンに魔力を分けた時にそのことを思い出したのだ。
若くしてクライスラー家を継ぎ、ここまで来るのに綺麗な道ばかり歩いてきたわけではない。
時には歯向かうものは容赦なく消し去って、徹底的に恐怖を植え付けるようにしてきた。
とにかく忙しさに身を置いて、余計なことは考えないようにして、今までずっと走り続けてきた。
それが最近、何もかも虚しくなったみたいに、どうでもよくなってしまった。
必死に自分を傷つけるように生きてきたのに、そうすることに何の意味も見出せなくなった。
いや、もっと大切なものを見つけて、そのためにだけ生きていきたい……そんな風に思っていたような気がする。
気がする、というのは、どうも記憶が曖昧でハッキリしないのだ。
何かとても大切なことを忘れているような気がして、時々胸が締め付けられるように痛くなる。
朝起きて空っぽの隣を見ると無性に寂しくなって、シーツをかきむしってしまう。
何か、何かが足りなくて苦しくてたまらない。
魔力を移したことで、自分はおかしくなってしまったのだろうかと何度も考えた。
そうすると、なぜ魔力をガルデオンに移したのかというところまで話は戻って、そこからまた霧がかかったみたいに何も見えなくなってしまう。
「……まるで魔法にでもかけられたみたいだな」
バスタブに沈んで顔だけ湯から出して天井を眺めていたら、溢れたお湯にあたったのか、カツンと何かが転がる音がした。
見ると小瓶が床に落ちていた。
ここにあるのだから、髪に塗る香油の類だろうと思いながら、それを手に取って持ち上げた。
蓋を開けて指に垂らしてみると、トロっとした指触りで伸ばすとベタベタとした。
もしやと思って舐めて見ると、なんであるかはすぐに分かった。
「これは……ハチミツか」
なんでこんなところにあるのか。
使用人が忘れていったのか。
小瓶をくるくる回しながら中のハチミツが動く様子をしばらく眺めてしまった。
すると瓶に付いていたハチミツがトロリと溢れて、俺の顔に載ってきた。
それも、目の下にある傷痕の上に落ちた。
もう痛くはないが、こんなところにと思いながら拭おうと指でそこに触れた。
痛そうだから……
指で触れた瞬間、言葉が頭の中に響いてきた。
誰かにいつか言われた言葉。
そんな記憶はない、それなのに……
少しでも、良くなって欲しいから
そう言って俺の傷痕に触れたのは、誰だ?
口の中に甘い味が広がった。
レインズ様……レインズ……
頭の中に声が響いてくる。
こんな声は知らない……、それなのに、どうしてこんなに胸が締め付けられて苦しくてたまらないのか……。
好きだよ
「……なんだ、これ……は……」
ぽたぽたと何かが落ちてきた。
汗をかいたのかと思ったが、それは自分の目から流れ出ていた。
「どうして……こんなに……苦しいんだ、何が……俺は何を求めて……」
レインズ、ここだよ
俺の名前を……呼んで
「………………ト」
風になびく黒い髪が見えた。
陽の光を浴びて、輝いている……
もう少し
もう少しでこちらに振り向いて……
バシャーンと湯を盛大にこぼしながら立ち上がった。
今目の前にあった幻に向かって手を伸ばした。
そこにいたのだ。
生まれたてのような淡くて優しい魔力の色で、朝露のように光り輝く人。
いつまでも、一緒にいようと二人で約束して……
消えた幻を追うように伸ばした手は空を切って、虚しく浴槽の床に転がった。
あと少し
あと少しで手が届きそうだったのに、また霧に包まれたように何も見えなくなってしまった。
力をなくしてガクンと床に手をついた。
瓶が床に転がったのか、カランという音が胸に大きく響いてきた。
□R
「はぁ……悪酔いしたかな。気持ち悪くなってきた」
自宅近くまで歩いて帰ってきたところで、胸がムカムカとして吐き気がしてきた。
さすがに路上で吐くわけにいかず、もう少しで家だと思い体を引きずるように歩いていたら、何やら賑やかな声が聞こえてきた。
「ああ、喧嘩か……」
賑やかだと思っていた声は怒鳴り合う声で、前方にある歩道橋の上に殴り合う男達の姿が見えた。
周りには囃し立てるように声を上げているヤツらもいて、どうやら酔っ払い同士の喧嘩のようだった。
俺も酔っ払いなんだから勘弁してくれと思いながら、職務上の使命感から仕方なく階段を上った。
「おい、お前達。俺は警官だ、近所迷惑だから、いい加減にしろ」
声をかけると、やばいと言って周りを囲んでいたヤツらは逃げ出した。
しかし、胸ぐらを掴み合ってヒートアップしている二人の男はまったく話を聞いていなかった。
「落ち着けって、いったん離れるんだ」
間に入って鎮めようとしたが、二人の男はゴリラ並みにデカくて、片方が邪魔をするなと振り払った腕が俺の顔面に入って後ろに飛ばされた。
もともと体術の類は苦手で、こういう荒っぽいのは他の同僚に任せてきたのだ。
そのツケがまわってきた、というやつかもしれない。
俺が飛ばされたのは運悪く階段の上で、周りに何も掴むものがなく、俺はそのまま足場をなくして階下に向けて落下した。
ああ、終わった
視界いっぱいに広がる夜空を見ながら、なんて人生だったのだろうと思った。
悪いやつを倒してヒーローになりたかった子供時代。
高校を出て警察官になり、思い描いた夢と現実のギャップに打ちのめされる日々。
何とか這いつくばるようにここまで生きていた。
仕事ではそれなりに評価されてきたと思う。
でも、本当はこんな日々の何もかもが虚しかった。
自分の居場所はここではなくて、もっと別のどこかで、心から愛して愛される相手がいて……。
ふとした時にいつもそんな妄想ばかりしてしまう。
そして、虚しい思いを胸に抱えたまま、終わってしまう。
『これでいいのか? 本当に?』
だって仕方ない。
虚しさを抱えて生きていくくらいなら……
『奇跡を、起こしてみせると誓ったのに』
奇跡?
『そうだ、奇跡だ。見せてくれるんだろう? 愛の奇跡を……。目を開けろ、理仁』
頭の中に響いてきた声に導かれるように、俺はゆっくりと目を開いた。
「え…………こ、ここは…………?」
目の前に広がるのは一面の麦畑だった。
真っ青な雲ひとつない空の下。
風にサラサラと揺れる麦はまるで大きな海のようだった。黄金色に輝く地平線は、キラキラと輝いて見えて思わず息を呑んだ。
「ここは天国? 俺やっぱり死んだのか」
『理仁、久しぶり、と言うべきかな』
頭に響く声を聞いて、俺は呆然として立ち尽くした。
『元の世界では、それなりにマズい状態だが、おかげで狭間に来ることができたようだ。お前にはまた会えるような気がしていたよ』
「これは……いったい……まさか俺……ずっと……」
波が押し寄せるように、失ったこれまでの記憶が頭に流れ込んできた。
それと同時に、奪われた記憶が二度と消えないように、自分の胸を強く抱いた。
『ここに来て記憶は戻ったようだな。さて、私の仕事は、迷いし者にチャンスを与えることだ』
「えっ…………」
『お前は何になりたい?』
流れ込んできた記憶の海からやっと浮上して顔を出した。
久しぶりに聞いた神の声。
問いに答えるより先に懐かしくなった。
やっと、やっと自分に戻れた。
今まで、生きているのに死んでいるみたいだった。
その意味がようやく分かった。
□R
(ああ……俺、本当にこのままだったらどうしよう)
神からもらったラストチャンス。
俺はレインズのいる異世界に再び連れてきてもらうことができた。
しかし、色々と制約があるらしく、この世界の人間と認められるためには、乗り越えないといけない壁があるらしい。
それはこの世界の人に、自分の名前を思い出してもらうこと。
てっきりレインズに会いに行って、なんとか説明して思い出してもらうのだと思っていたが、一筋縄ではいかなかった。
(それにしても……、なんでこれを選んでしまったのか……)
俺は木にとまって、懐かしいレインズの邸を見下ろした。
説明しようにも、ピーと鳴くことしかできない。
神が出した条件、それは別の生き物の姿になること。
それでも名前を呼んでもらえたら、元の姿に戻れる。
ぴったりの奇跡だろうと言われたが、どう考えても無理だとしか思えない。
俺が選択したのは、鳥だった。
いつだったか、レインズが飼っていた鳥が帰ってこなかったという話をしていたのを思い出したのだ。
俺にとってはずいぶん前の出来事だが、昨日のことのように覚えていた。
そう思って鳥になったのだが、もう少し大きくていかにも奇抜な色で目に留まりそうな鳥になるかと思ったのに、俺が変身しているのはスズメだ。
悲しいことに、周りにも数羽止まっていて、みんなで日向ぼっこしている絵面になっている。
(どうしてーー、どうしてスズメ! これじゃ景色の一部じゃないか! 鳥って言ったけどさ!)
またもや神のやることは一本ネジが抜けているとしか思えない。
これだったら、ペガサスとでも言って、神獣として登場した方が、分かってもらえなくても崇められて生きていけそうだ。
そうなのだ、このチャンスとやらは、一度きり。
それも元の姿に戻れなければ一生そのままという制約つきなのだ。
(レインズーーー! というかそれ以前に誰かーーー! 誰も通らないじゃないか!)
俺が必死にピーピーとうるさく鳴いても、邸はとても静かで平和な様子だ。
このまま焼き鳥になる想像をしていたら気が遠くなって、枝から落ちてしまった。
痛いっ、と思ったのに実際には痛くなくて、なんともふわふわのクッションみたいなものの上に落ちた。
ぼんやりしていたら、ワン!! と腹に響く鳴き声がして我に返った。
見上げると大きな舌が出てきて、ベロリンと俺のことを舐めた。
(冷たっ、うわっ、なにこれベチョベチョ……、え……今の鳴き声って……)
はーはーと息のかかるのを感じてよく見たら、目の前には大きな犬の顔があった。
(え……エリザベスーーー!! 嘘だろ! エリザベス! また会えるなんて……もう老犬だと思っていたのに、嬉しい! 元気そうだ……え、でも待てよ……)
よく考えたら、俺は鳥。
エリザベスの大きな口の中に、ギザギザとした歯が見えてしまい、俺は震え上がった。
まさか……、ここまできて、エリザベスに食べられるエンドなんて……悲劇すぎる!
いったん落ち着いて枝の上に戻ろうとしたが、ベチョベチョの羽が動かなくて、ヨタヨタと横に転がるしかできなかった。
そんな俺に近づいてきたエリザベスは、また舌を出してベロリンと舐めてきた。
そして呆然とする俺を置いてどこかへ行った後、何かを咥えて戻ってきた。
ポロンと俺の前に落とされたのは、俺がいつか作ったボールだった。
(え…嘘……エリザベス、俺のことが分かるのか!? なんて……なんていい子なんだ!)
思わず涙が出ないけど、出てる感じでエリザベスの顔に抱きついた。
(エリザベスーー、嬉しいけど、やっぱり人じゃないとダメなのか……。とりあえず、レインズのところに連れて行ってもらえないかな……)
エリザベスに分かってもらえても、元に戻してはもらえないらしい。
羽をばたつかせ、レインズがいそうな邸の方向に向かってピーピーと鳴いてみた。
首を傾げていたエリザベスだったが、俺のことをパクッと咥えて邸の中に向かって歩き出した。
「あら、エリザベス。お散歩?」
「お、エリザベスー、なんだそれは、今日の昼飯か?」
邸の中に入ると見知った使用人達が、今も変わらず元気に働いていた。
エリザベスが歩いていると、みんな声をかけてくるが、俺のことを見ると、昼飯とか獲物とか物騒なことを言ってくるのでやめてくれとピーと鳴いた。
しばらく廊下を進んでいると、背の高い男の背中があった。
「おおっ、エリザベスか。こんなところまで入ってきて……ダメだろう! ほら、中庭に戻ろう。うわっ、鳥なんて咥えて……こら、エリザベス!」
懐かしい声に心はうるっとしてしまった。
あれは、アダムだ。
エリザベスを捕まえようとしてくるので、ちょっとあっちに行って欲しいが、以前と変わらない様子に嬉しくなった。
アダムの手からするりと抜け出したエリザベスは、勢いよく走り出した。
そうだ、そのまま、あの奥の部屋へ……
そこにはきっといるはず……
部屋の前に来ると、重厚な木のドアがガチャリと開いた。
中から出てきたのは、やはりレインズだった。
レインズもまた、記憶のままで変わらず美しくてカッコいい。これまた記憶の通り、黒衣の姿で立っていた。
「騒がしいな、エリザベスか……。なんだそれは?」
エリザベスの位置に合わせてレインズが腰を下ろした。
エリザベスは口に咥えていた俺を、レインズの手の上にべちゃっと落とした。
「ひーー、そんな汚いものを……レインズ様に……。レインズ様、それをこちらへ、処理しますので」
エリザベスを追いかけてきたアダムが、ハンカチを取り出して俺を回収しようとしてきた。
「これはエリザベスが捕らえた獲物だろう。取り上げたら可哀想だ。……しかし、これをなんで俺のところに……」
レインズが顔の前に俺を摘んで持ち上げた。
こんなに目の前にレインズの顔があるのに、どうしていいか分からない。
だって俺は鳥だ。
そう思って気持ちが萎みかけたが、それじゃダメだと顔を上げた。
何とか、何とかレインズに……どうか届いてくれ……
「ピー」
俺はレインズの金色の瞳に向かって鳴いた。
不思議そうに俺を見ていたレインズだが、俺がまたピーと鳴いたら、今度は大きく目を見開いた。
「この鳥……どこかで……」
「ピーピピピーー! ピピピ」
なんとなく引っかかっていそうな今しかない。
俺は羽を伸ばして、目の前にあるレインズの傷痕に触れた。
キスをする時、俺はいつも親指でこの傷痕に触れるのが好きだった。
思い出してくれ。
そう願いながら、優しく傷を撫でるように羽を動かした。
「…………ト」
神は記憶というものは、消したとしても痕跡が残ってしまうと言っていた。
求めれば求めるほど、痕跡に苦しめられるのだが、思い出す時はその痕跡がピースのように集まって繋がるのだと。
「リ……ヒ…………ト」
ああ、やっぱり。
俺を……覚えていてくれた。
体から光が飛び出してきて、辺りはまばゆい光に包まれた。
さっきまでと体の感覚が違う。
風がスースーと肌にあたって心地よかった。
「遅くなってごめん、帰ってきたよ。ただいま、レインズ」
大きく見開いたレインズの瞳から、ポロリと大きな涙の粒がこぼれ落ちた。
会った時は、人の心を持たないような人形のような人だと思っていたが、今は違う。
こんなにも表情が豊かで、泣きながら綺麗に笑う人を他に知らない。
「リヒト……、お…れの、リヒト」
「うん、レインズ。ごめんね、ごめん。一人にしちゃって……ごめん。会いたかった……会いたかったよ」
「俺も……探していた、お前のことをずっと……ずっと……。会いたかった」
どうやら無事人の姿に戻ったらしい。レインズにぎゅっと抱きしめられてやっと実感した。
強い力でもう離さないというくらい抱きしめられた。
それでいい、もう、絶対に離れないから……
「これで、帰ってきた、ということか? もう、こちらの世界にずっといてくれるのだな」
「うん、レインズに会いたくて、こっちに戻してもらったんだ。もう帰らない、ずっとそばにいるよ」
「リヒト……よかった、本当に……」
今度は頭からぎゅっと、存在を確かめるように抱かれた。
この温かさが懐かしくて嬉しくて、俺もポロリと涙をこぼした。
「レレレレ、レインズ様!? 鳥が……!? 誰ですか!? この……裸の男は!? なっ魔力溜まり?」
ぎゅっと抱きしめ合う俺達の横で、空気の読めない裏返った声を上げたのはアダムだった。
そういえばすぐ近くにいたなと思いながら、その発言から俺が素っ裸だというのとに気がついた。
そりゃ鳥だったから裸だったけど、人間に戻ったら話は別だ。
さっと自分の上着を脱いだレインズは俺にかけてくれた。その優しさに久々に胸がキュンとして熱くなった。
「なるほど、俺が思い出しても、他の者は影響されないのか……」
「元気そうだね、アダム……。老化の遅いレインズは分かるけど、アダムも十五年経っても全然変わらないね。記憶のままだから、嬉しいな」
そう言うとレインズは首を傾げて何のことだという顔をした。
「リヒトが消えた日から数えて、今日で十五日だが……」
「…………でた、異世界マジック、時間の流れの違い。なっ…なんだよ、俺だけ十五年!? ひどい! 俺だけ……十五年も寂しい思いを……」
「そちらの世界は、流れがそんなに早いのか……。リヒトは十五年も……」
「そうだよー。浦島太郎よりはマシだけど、ああ、俺だけ、十五歳も老けてしまった……」
つまり人生でレインズと過ごせる時間が短くなってしまった。頭を抱えて悲しむ俺の背中を慰めるようにレインズはぽんぽんと撫でてきた。
「大丈夫だ。リヒトは全然変わらない」
「いやー、それ。前の世界でもよく言われたけど、歳はとってるわけだから……」
「俺の精を受けただろう、寿命は伸びて、老化のスピードは遅くなっているはずだ。魔力が半減しても、それくらいの効果は残っている」
「はい? なにそれ、聞いてない」
「あまり公にはしていないが、魔力の強い者は、パートナーにも影響を及ぼすから、精を受ける度に効果は強まる。ただし、俺が死んだらリヒトもその影響を受けることになるが」
「……それ、最高。ずっと一緒ってこと?」
「まあ、そうなるな」
寿命の長いレインズとは、どこかで俺が追いついて追い越して先にいくものだと思っていた。
それがそんな奇跡みたいに、繋がっていられるなんて思わなかった。
にこっとレインズが嬉しそうに微笑んだので、俺もつられて笑った。
ここからまた始めようという思いで、手を繋いで二人で笑い合った。
「ところでさっきの姿はなんだ? あんな可愛い鳥になるなんて」
「ああ、あれは神が、俺と分からない姿じゃないとこの世界に戻れないって言うからさ。よかったよ、すぐに分かってもらえて……。でも、当分、鶏肉料理は食べれない。なんか切なくなっちゃうから」
「変身魔法にも似たようなのがあったな。あれだと会議にも連れて行きやすいな……リヒトと離れたくないし、よし、そういう時は鳥になってもらおう」
「いっっ、もう鳥でエリザベスに舐められるのは勘弁だよ。本当、食べられるかと思ったんだから」
半泣きで震えている俺を見てレインズは大きな口を開けてケラケラと笑った。
そんな主人の姿を初めて見るのか、アダムがポカンとした顔になって固まっていた。
俺を抱き上げたレインズはそのまま廊下を歩き出した。この力強い腕に支えられるのも久しぶりすぎて胸が高鳴ってしまう。
「ところで、記憶がなしに十五年だからな……。何か悪いことはしなかったか?」
「え…………」
「俺以外の者とまさか……」
「ええと…………、してはない。うん」
「なんだその曖昧な言い方は!?」
「いや、でも、覚えていなくて、十五年だよ。自分がおかしいのかと思って、ほら、ちょっと試してみたりはさ……、でも、ないから! すっごい嫌悪感で、やっぱりできませんごめんなさいで逃げたし、それ以来、そういうのはサッパリ……」
レインズだって事情は分かってくれていると思うが、ムッとした顔をしていた。
「……ごめん」
「いや、十五年も。寂しかっただろう。よく耐えたな……、もう寂しい思いはさせないから」
「……うん」
よく一人で公園のベンチに座って夜空を眺めた。
きっとどこかに、自分が求める人はいるのだと思いながら、願いが叶うようにと星を見つめていた。
信じ続けて良かった。
こんな風にまた会うことができたのだから。
「あの日最後にレインズと一緒に寝た時、目が覚めたら、どこにおはようのキスをするのか決めてたんだ」
「ほう、どこに決めたんだ?」
「それはねぇ……」
抱き上げられている状態で、俺はレインズの唇にキスをした。
「やっぱりここでしょ。ここが一番好き」
バーンっと足で寝室のドアを開けたレインズは、俺をベッドの上にゆっくりと下ろした。
俺だけ裸の状態だが、レインズもシャツをバサッと脱いで俺の上に乗ってきた。
この見下ろされる感じも久々すぎて、ドキドキを通り越して感動してしまう。
「次は俺だ。俺が一番好きな場所を当ててみろ」
「なかなか難しいこと……」
「リヒトが当てられるまで、キスをやめないから」
「ええっ!」
「俺が好きなところは柔らかくて……」
その先を言わずにレインズは指先からキスを始めてしまった。
一つ一つ丁寧に愛しながら、痕を残していく。
会えなかった時間を埋めるように、ここにいるのだと確かめるように、優しい唇に導かれながら俺はレインズの元に帰ってきたのだとようやく心から安心することができた。
もう虚しさを抱えることはない。
不安な気持ちが生まれても、一緒に悩んでくれる人がいるのだから。
「え……えと、おしり」
「違うな。じゃあ、最初から」
「ええーーー!」
このままだといつまでも続いて身体中真っ赤になりそうな気配に、ポカポカとレインズの肩を叩くと、レインズは分かった分かったと言って笑った。
そっちは十五日でも、こちとら十五年ぶりなのだから、体が疼いて爆発しそうだ。
ムクれて口を尖らせた俺の唇に、レインズがチュッと口付けをしてきた。
「俺も、ここが一番好きだ」
そう言っていたずらっ子みたいに笑ったレインズを見て、これはもう敵わないなと思って俺も笑った。
「ああ、本当に……好きだよ、レインズ」
「俺もだ。リヒト。愛している、ずっと」
悪人だらけの世界にやっと訪れた平和。
この世界がこれからどう変わっていくのかは分からないけれど、世界を越えて結ばれた愛は永遠だ。
ちゃんと、自分で大切な人の元に歩いて行けたよ。
優しい温もりに包まれながら、遠くから俺を見守ってくれている人に幸せになったよと伝えた。
□END□
「楠木さんって、おいくつなんですか? あっ、すみません。お若く見えるから……」
お酒を注がれながら、十も下の子に若いなんて言われてしまった。
俺はどう反応していいか分からなくて曖昧に笑った。
「……まいったな。今年、三十五? いや、六だったかな。自分の歳はすぐ忘れてしまうから」
「はっ、嘘!?」
新人の女の子が眉間に皺を寄せて驚いた顔になったので、ますます苦笑してしまった。
「えっ、楠木さん、冗談じゃなく、本当に私と同世代に見えますよ」
「こいつが、老けないのは有名なんだよ。大して仕事しないし、頭使わないから、なっ楠木!」
「そうですね、長さんの言う通りです」
飲み会での先輩の手厳しい冗談にも笑って返せるようになった。昔はこの程度のことでも、いちいち傷ついていて、使いづらいやつだったに違いない。
今だって署内の飲み会は苦手だが、さすがに毎回不参加というのもマズいので、少しは顔を出すようにしていた。
「それにしても不思議ですね。童顔ってワケじゃなさそうなのに、シミやシワもないし、肌にも張りがあって……」
「いや、森さん。本当にやめてよ。あんまり凝視しないで」
さすが女性だけあって美容に興味があるのか、顔の分析を始められてしまった。本当に何もしていないのでとてもその話題には付いていけない。
真っ赤になりながら、ビールをあおってごまかした。
「ご結婚はされてないんですよね? 付き合ってる人はいないんですか?」
「……いないよ。まだ結婚するつもりはなくて」
「お前、十年以上それを言い続けてるぞ。さっさと身を固めろ」
はい分かりましたと言って頭をかいた。
この手の話題は本当に勘弁してほしい。
「そうだ、あれ、聞かせてくださいよ。確か、新人の頃、警視総監に大抜擢されたって伝説本当ですか?」
いまだにその話をされるので、毎回頭を悩まされる。うんざりする気持ちを何とか顔に出さずにどうするかと考えてきたら、酔った先輩が俺が話してやると前に出てきた。
「いいか、あれは警視庁始まって以来の愚策と呼ばれた、新人交代というマスコミ向けのイベントで、こいつが一日警視総監に選ばれたんだ。物を壊すはすっ転んだところをニュースに流されるわで大変だったんだからな……」
話を聞きつけた他の後輩達がわらわらとやってきてしまい、恥の上塗り大会になってしまった。
仕方なく、ビールを飲みまくって全て忘れることにした。
「楠木さーん、一人で大丈夫ですか? タクシーは?」
「平気です。おつかれさまでした」
酒には弱いが顔に出ないタイプだ。
手を振って頭を下げると、二次会に行くメンバーはもう俺のことなんてすっかり忘れて盛り上がっていた。
あんな話も出たし、急に飲みたくなって杯を重ねてしまった。
一人になって公園のベンチに座りながら、夜空を見上げてため息をついた。
「恋人かぁ……」
こうやって人の集まりに出ると、結婚していない俺はだいたいその話をされる。
親戚の集まりなんて特にそうだ。
さっさと結婚して孫の顔を見せろとうるさく言われてうんざりしてしまう。
もともと女性とは恋愛ができない。
思春期から対象は男で、男としか付き合ったことがない。
しかもその男とも恋愛をしなくなってしまった。
最後に付き合ったのは十五年くらい前、あの一日警視総監イベントでひどいめにあったそれよりも前だ。
その時の別れが手痛いものだったのか、それ以来誰とも付き合ってはいないし、体の関係すらない。
若い若いと言われてイジられるが、見た目は若くても心はすっかり干からびてしまっている。
正直元彼の顔なんて思い出せないし、なぜ好きだったのか分からないほど、どうでもいい思い出だ。
それなのに、心にぽっかり穴が空いてしまったように、誰を見てもいっさい気持ちが動かない。
どうかしてしまったのかと、夜の街に繰り出したり、出会い系で相手を求めてみたりもした。
でも全部だめなのだ。
少し触れられただけで嫌悪感が走り、嫌で嫌でたまらなくなる。
体中が違う違うこれじゃないと叫んでいるみたいになって、動機と息切れが止まらなくなる。
そんな状態でまともに会話できるわけもなく、結局相手を探しに行くこともやめてしまった。
休日は一人、図書館に出かけたり、静かに家で過ごしたりという、隠居老人のような生活をこの十数年ずっと続けてきた。
しかし、寂しくないわけじゃない。
一人でいると、無性に恋しくなるのだ。
狂おしいくらい寂しくて、今すぐ会いに行きたいのに、そんな相手はいないはずで、ただ混乱して虚しく膝を抱えてきた。
この説明のできない孤独を何と呼べばいいのだろう。
まるでこの世にいない相手。
死人でも好きになってしまったみたいだ。
「くそっ……もういやだ。何で俺……どうしてこうなんだ」
こんな話、相談されてもみんな顔を顰めて病院へ行けと言われるだけだ。
いつどこへ行っても、何をしていても、心に引っかかるものが確かにあるのだ。
その説明のできない何かが、俺を焦らせてくる。
早くしろ、早く思い出せと背中を押されているみたいだ。
夜空を見上げると無数の星が無言で俺を見下ろしていた。
もしかしたら、あの星のどれかに俺が求めるものがあるのかもしれない。
そんな、ファンタジーバカみたいなことを、いい歳して考えてしまうのだから、もう終わっている。
「はぁぁーー、酔いも冷めたし、帰るかな」
重たい体を持ち上げて、俺はフラフラと家路についた。
嫌な酔いだけがいつまでも体に残って離れてくれなかった。
■R
「レインズ様、どうしましたか?」
書類を手に持ったまま、心ここに在らずでいたので、心配したアダムが話しかけてきた。
「ああ、悪いな。何だ?」
「王城から使いが……、残貴族派と革命派でまた一悶着あったようで」
「またか……、まったく、これでは北部にいつ帰れるか分からないな」
国王が革命軍により倒されたことで、何もかもが変わった。
クライスラー家は公国だが、王国の支配下にあるため、新たに王となったガルデオンのために動かなくてはいけない。
それでなくともガルデオンとは、クライスラー家の力を分け合った仲なので、今後も深い繋がりができてしまった。
正直なところ、自分と同じ見える眼を持ったガルデオンのことは苦手に思っていて、向こうも姿を見せなかったのでほとんど交流がなかった。
どういう人物たるかは探らせてはいたが、なかなか固い守りがあって情報が入って来なかった。
それがどうしてか、今回の反乱によって、ガルデオンの呪いについて知ることとなり、同じく魔力の移動先に悩んでいた俺は、ガルデオンに魔力を移すことになった。
思い返せば、そんなことだったと記憶しているが、どうもその辺りがぼんやりとしていて思い出せない。
ここ数日、特にそんな状態で、起きているのに寝ているようなひどい倦怠感に襲われていた。
「お疲れなのですよ、使いは報告だけだと言っていましたので、今日は休んだ方がよろしいかと……」
「ああ、そうする。湯浴みをするから、あれに……」
「……はい? あれとは?」
気がつくと書棚の端に立って、誰もいない空間に手を伸ばしていた。
「……何をされているのですか?」
それはそう思うだろう。
主人が一人で操り人形のように手伸ばして、空気を掴むような仕草をしているのだから。
「いや……、ここは……こんなに広かったか?」
「はい? ……え? いつもと同じに見えますが……」
アダムはまた例の顔をしていた。
大丈夫かという心配そうな顔だ。
もう、見飽きてしまった。
「……湯浴みは一人でする」
そう言って部屋を出た。
長い間、暗闇の中を歩いて生きてきた。
黒い色を着ていると、暗闇の一部になったような気持ちで安心できた。
明るい日差しの中は苦手だ。
自分の罪を思い出して、両手が真っ赤な血で染まったように見えるから。
両親と兄弟を殺した。
ずっと最近までその事実を心の中に隠して生きていた。
ガルデオンに魔力を分けた時にそのことを思い出したのだ。
若くしてクライスラー家を継ぎ、ここまで来るのに綺麗な道ばかり歩いてきたわけではない。
時には歯向かうものは容赦なく消し去って、徹底的に恐怖を植え付けるようにしてきた。
とにかく忙しさに身を置いて、余計なことは考えないようにして、今までずっと走り続けてきた。
それが最近、何もかも虚しくなったみたいに、どうでもよくなってしまった。
必死に自分を傷つけるように生きてきたのに、そうすることに何の意味も見出せなくなった。
いや、もっと大切なものを見つけて、そのためにだけ生きていきたい……そんな風に思っていたような気がする。
気がする、というのは、どうも記憶が曖昧でハッキリしないのだ。
何かとても大切なことを忘れているような気がして、時々胸が締め付けられるように痛くなる。
朝起きて空っぽの隣を見ると無性に寂しくなって、シーツをかきむしってしまう。
何か、何かが足りなくて苦しくてたまらない。
魔力を移したことで、自分はおかしくなってしまったのだろうかと何度も考えた。
そうすると、なぜ魔力をガルデオンに移したのかというところまで話は戻って、そこからまた霧がかかったみたいに何も見えなくなってしまう。
「……まるで魔法にでもかけられたみたいだな」
バスタブに沈んで顔だけ湯から出して天井を眺めていたら、溢れたお湯にあたったのか、カツンと何かが転がる音がした。
見ると小瓶が床に落ちていた。
ここにあるのだから、髪に塗る香油の類だろうと思いながら、それを手に取って持ち上げた。
蓋を開けて指に垂らしてみると、トロっとした指触りで伸ばすとベタベタとした。
もしやと思って舐めて見ると、なんであるかはすぐに分かった。
「これは……ハチミツか」
なんでこんなところにあるのか。
使用人が忘れていったのか。
小瓶をくるくる回しながら中のハチミツが動く様子をしばらく眺めてしまった。
すると瓶に付いていたハチミツがトロリと溢れて、俺の顔に載ってきた。
それも、目の下にある傷痕の上に落ちた。
もう痛くはないが、こんなところにと思いながら拭おうと指でそこに触れた。
痛そうだから……
指で触れた瞬間、言葉が頭の中に響いてきた。
誰かにいつか言われた言葉。
そんな記憶はない、それなのに……
少しでも、良くなって欲しいから
そう言って俺の傷痕に触れたのは、誰だ?
口の中に甘い味が広がった。
レインズ様……レインズ……
頭の中に声が響いてくる。
こんな声は知らない……、それなのに、どうしてこんなに胸が締め付けられて苦しくてたまらないのか……。
好きだよ
「……なんだ、これ……は……」
ぽたぽたと何かが落ちてきた。
汗をかいたのかと思ったが、それは自分の目から流れ出ていた。
「どうして……こんなに……苦しいんだ、何が……俺は何を求めて……」
レインズ、ここだよ
俺の名前を……呼んで
「………………ト」
風になびく黒い髪が見えた。
陽の光を浴びて、輝いている……
もう少し
もう少しでこちらに振り向いて……
バシャーンと湯を盛大にこぼしながら立ち上がった。
今目の前にあった幻に向かって手を伸ばした。
そこにいたのだ。
生まれたてのような淡くて優しい魔力の色で、朝露のように光り輝く人。
いつまでも、一緒にいようと二人で約束して……
消えた幻を追うように伸ばした手は空を切って、虚しく浴槽の床に転がった。
あと少し
あと少しで手が届きそうだったのに、また霧に包まれたように何も見えなくなってしまった。
力をなくしてガクンと床に手をついた。
瓶が床に転がったのか、カランという音が胸に大きく響いてきた。
□R
「はぁ……悪酔いしたかな。気持ち悪くなってきた」
自宅近くまで歩いて帰ってきたところで、胸がムカムカとして吐き気がしてきた。
さすがに路上で吐くわけにいかず、もう少しで家だと思い体を引きずるように歩いていたら、何やら賑やかな声が聞こえてきた。
「ああ、喧嘩か……」
賑やかだと思っていた声は怒鳴り合う声で、前方にある歩道橋の上に殴り合う男達の姿が見えた。
周りには囃し立てるように声を上げているヤツらもいて、どうやら酔っ払い同士の喧嘩のようだった。
俺も酔っ払いなんだから勘弁してくれと思いながら、職務上の使命感から仕方なく階段を上った。
「おい、お前達。俺は警官だ、近所迷惑だから、いい加減にしろ」
声をかけると、やばいと言って周りを囲んでいたヤツらは逃げ出した。
しかし、胸ぐらを掴み合ってヒートアップしている二人の男はまったく話を聞いていなかった。
「落ち着けって、いったん離れるんだ」
間に入って鎮めようとしたが、二人の男はゴリラ並みにデカくて、片方が邪魔をするなと振り払った腕が俺の顔面に入って後ろに飛ばされた。
もともと体術の類は苦手で、こういう荒っぽいのは他の同僚に任せてきたのだ。
そのツケがまわってきた、というやつかもしれない。
俺が飛ばされたのは運悪く階段の上で、周りに何も掴むものがなく、俺はそのまま足場をなくして階下に向けて落下した。
ああ、終わった
視界いっぱいに広がる夜空を見ながら、なんて人生だったのだろうと思った。
悪いやつを倒してヒーローになりたかった子供時代。
高校を出て警察官になり、思い描いた夢と現実のギャップに打ちのめされる日々。
何とか這いつくばるようにここまで生きていた。
仕事ではそれなりに評価されてきたと思う。
でも、本当はこんな日々の何もかもが虚しかった。
自分の居場所はここではなくて、もっと別のどこかで、心から愛して愛される相手がいて……。
ふとした時にいつもそんな妄想ばかりしてしまう。
そして、虚しい思いを胸に抱えたまま、終わってしまう。
『これでいいのか? 本当に?』
だって仕方ない。
虚しさを抱えて生きていくくらいなら……
『奇跡を、起こしてみせると誓ったのに』
奇跡?
『そうだ、奇跡だ。見せてくれるんだろう? 愛の奇跡を……。目を開けろ、理仁』
頭の中に響いてきた声に導かれるように、俺はゆっくりと目を開いた。
「え…………こ、ここは…………?」
目の前に広がるのは一面の麦畑だった。
真っ青な雲ひとつない空の下。
風にサラサラと揺れる麦はまるで大きな海のようだった。黄金色に輝く地平線は、キラキラと輝いて見えて思わず息を呑んだ。
「ここは天国? 俺やっぱり死んだのか」
『理仁、久しぶり、と言うべきかな』
頭に響く声を聞いて、俺は呆然として立ち尽くした。
『元の世界では、それなりにマズい状態だが、おかげで狭間に来ることができたようだ。お前にはまた会えるような気がしていたよ』
「これは……いったい……まさか俺……ずっと……」
波が押し寄せるように、失ったこれまでの記憶が頭に流れ込んできた。
それと同時に、奪われた記憶が二度と消えないように、自分の胸を強く抱いた。
『ここに来て記憶は戻ったようだな。さて、私の仕事は、迷いし者にチャンスを与えることだ』
「えっ…………」
『お前は何になりたい?』
流れ込んできた記憶の海からやっと浮上して顔を出した。
久しぶりに聞いた神の声。
問いに答えるより先に懐かしくなった。
やっと、やっと自分に戻れた。
今まで、生きているのに死んでいるみたいだった。
その意味がようやく分かった。
□R
(ああ……俺、本当にこのままだったらどうしよう)
神からもらったラストチャンス。
俺はレインズのいる異世界に再び連れてきてもらうことができた。
しかし、色々と制約があるらしく、この世界の人間と認められるためには、乗り越えないといけない壁があるらしい。
それはこの世界の人に、自分の名前を思い出してもらうこと。
てっきりレインズに会いに行って、なんとか説明して思い出してもらうのだと思っていたが、一筋縄ではいかなかった。
(それにしても……、なんでこれを選んでしまったのか……)
俺は木にとまって、懐かしいレインズの邸を見下ろした。
説明しようにも、ピーと鳴くことしかできない。
神が出した条件、それは別の生き物の姿になること。
それでも名前を呼んでもらえたら、元の姿に戻れる。
ぴったりの奇跡だろうと言われたが、どう考えても無理だとしか思えない。
俺が選択したのは、鳥だった。
いつだったか、レインズが飼っていた鳥が帰ってこなかったという話をしていたのを思い出したのだ。
俺にとってはずいぶん前の出来事だが、昨日のことのように覚えていた。
そう思って鳥になったのだが、もう少し大きくていかにも奇抜な色で目に留まりそうな鳥になるかと思ったのに、俺が変身しているのはスズメだ。
悲しいことに、周りにも数羽止まっていて、みんなで日向ぼっこしている絵面になっている。
(どうしてーー、どうしてスズメ! これじゃ景色の一部じゃないか! 鳥って言ったけどさ!)
またもや神のやることは一本ネジが抜けているとしか思えない。
これだったら、ペガサスとでも言って、神獣として登場した方が、分かってもらえなくても崇められて生きていけそうだ。
そうなのだ、このチャンスとやらは、一度きり。
それも元の姿に戻れなければ一生そのままという制約つきなのだ。
(レインズーーー! というかそれ以前に誰かーーー! 誰も通らないじゃないか!)
俺が必死にピーピーとうるさく鳴いても、邸はとても静かで平和な様子だ。
このまま焼き鳥になる想像をしていたら気が遠くなって、枝から落ちてしまった。
痛いっ、と思ったのに実際には痛くなくて、なんともふわふわのクッションみたいなものの上に落ちた。
ぼんやりしていたら、ワン!! と腹に響く鳴き声がして我に返った。
見上げると大きな舌が出てきて、ベロリンと俺のことを舐めた。
(冷たっ、うわっ、なにこれベチョベチョ……、え……今の鳴き声って……)
はーはーと息のかかるのを感じてよく見たら、目の前には大きな犬の顔があった。
(え……エリザベスーーー!! 嘘だろ! エリザベス! また会えるなんて……もう老犬だと思っていたのに、嬉しい! 元気そうだ……え、でも待てよ……)
よく考えたら、俺は鳥。
エリザベスの大きな口の中に、ギザギザとした歯が見えてしまい、俺は震え上がった。
まさか……、ここまできて、エリザベスに食べられるエンドなんて……悲劇すぎる!
いったん落ち着いて枝の上に戻ろうとしたが、ベチョベチョの羽が動かなくて、ヨタヨタと横に転がるしかできなかった。
そんな俺に近づいてきたエリザベスは、また舌を出してベロリンと舐めてきた。
そして呆然とする俺を置いてどこかへ行った後、何かを咥えて戻ってきた。
ポロンと俺の前に落とされたのは、俺がいつか作ったボールだった。
(え…嘘……エリザベス、俺のことが分かるのか!? なんて……なんていい子なんだ!)
思わず涙が出ないけど、出てる感じでエリザベスの顔に抱きついた。
(エリザベスーー、嬉しいけど、やっぱり人じゃないとダメなのか……。とりあえず、レインズのところに連れて行ってもらえないかな……)
エリザベスに分かってもらえても、元に戻してはもらえないらしい。
羽をばたつかせ、レインズがいそうな邸の方向に向かってピーピーと鳴いてみた。
首を傾げていたエリザベスだったが、俺のことをパクッと咥えて邸の中に向かって歩き出した。
「あら、エリザベス。お散歩?」
「お、エリザベスー、なんだそれは、今日の昼飯か?」
邸の中に入ると見知った使用人達が、今も変わらず元気に働いていた。
エリザベスが歩いていると、みんな声をかけてくるが、俺のことを見ると、昼飯とか獲物とか物騒なことを言ってくるのでやめてくれとピーと鳴いた。
しばらく廊下を進んでいると、背の高い男の背中があった。
「おおっ、エリザベスか。こんなところまで入ってきて……ダメだろう! ほら、中庭に戻ろう。うわっ、鳥なんて咥えて……こら、エリザベス!」
懐かしい声に心はうるっとしてしまった。
あれは、アダムだ。
エリザベスを捕まえようとしてくるので、ちょっとあっちに行って欲しいが、以前と変わらない様子に嬉しくなった。
アダムの手からするりと抜け出したエリザベスは、勢いよく走り出した。
そうだ、そのまま、あの奥の部屋へ……
そこにはきっといるはず……
部屋の前に来ると、重厚な木のドアがガチャリと開いた。
中から出てきたのは、やはりレインズだった。
レインズもまた、記憶のままで変わらず美しくてカッコいい。これまた記憶の通り、黒衣の姿で立っていた。
「騒がしいな、エリザベスか……。なんだそれは?」
エリザベスの位置に合わせてレインズが腰を下ろした。
エリザベスは口に咥えていた俺を、レインズの手の上にべちゃっと落とした。
「ひーー、そんな汚いものを……レインズ様に……。レインズ様、それをこちらへ、処理しますので」
エリザベスを追いかけてきたアダムが、ハンカチを取り出して俺を回収しようとしてきた。
「これはエリザベスが捕らえた獲物だろう。取り上げたら可哀想だ。……しかし、これをなんで俺のところに……」
レインズが顔の前に俺を摘んで持ち上げた。
こんなに目の前にレインズの顔があるのに、どうしていいか分からない。
だって俺は鳥だ。
そう思って気持ちが萎みかけたが、それじゃダメだと顔を上げた。
何とか、何とかレインズに……どうか届いてくれ……
「ピー」
俺はレインズの金色の瞳に向かって鳴いた。
不思議そうに俺を見ていたレインズだが、俺がまたピーと鳴いたら、今度は大きく目を見開いた。
「この鳥……どこかで……」
「ピーピピピーー! ピピピ」
なんとなく引っかかっていそうな今しかない。
俺は羽を伸ばして、目の前にあるレインズの傷痕に触れた。
キスをする時、俺はいつも親指でこの傷痕に触れるのが好きだった。
思い出してくれ。
そう願いながら、優しく傷を撫でるように羽を動かした。
「…………ト」
神は記憶というものは、消したとしても痕跡が残ってしまうと言っていた。
求めれば求めるほど、痕跡に苦しめられるのだが、思い出す時はその痕跡がピースのように集まって繋がるのだと。
「リ……ヒ…………ト」
ああ、やっぱり。
俺を……覚えていてくれた。
体から光が飛び出してきて、辺りはまばゆい光に包まれた。
さっきまでと体の感覚が違う。
風がスースーと肌にあたって心地よかった。
「遅くなってごめん、帰ってきたよ。ただいま、レインズ」
大きく見開いたレインズの瞳から、ポロリと大きな涙の粒がこぼれ落ちた。
会った時は、人の心を持たないような人形のような人だと思っていたが、今は違う。
こんなにも表情が豊かで、泣きながら綺麗に笑う人を他に知らない。
「リヒト……、お…れの、リヒト」
「うん、レインズ。ごめんね、ごめん。一人にしちゃって……ごめん。会いたかった……会いたかったよ」
「俺も……探していた、お前のことをずっと……ずっと……。会いたかった」
どうやら無事人の姿に戻ったらしい。レインズにぎゅっと抱きしめられてやっと実感した。
強い力でもう離さないというくらい抱きしめられた。
それでいい、もう、絶対に離れないから……
「これで、帰ってきた、ということか? もう、こちらの世界にずっといてくれるのだな」
「うん、レインズに会いたくて、こっちに戻してもらったんだ。もう帰らない、ずっとそばにいるよ」
「リヒト……よかった、本当に……」
今度は頭からぎゅっと、存在を確かめるように抱かれた。
この温かさが懐かしくて嬉しくて、俺もポロリと涙をこぼした。
「レレレレ、レインズ様!? 鳥が……!? 誰ですか!? この……裸の男は!? なっ魔力溜まり?」
ぎゅっと抱きしめ合う俺達の横で、空気の読めない裏返った声を上げたのはアダムだった。
そういえばすぐ近くにいたなと思いながら、その発言から俺が素っ裸だというのとに気がついた。
そりゃ鳥だったから裸だったけど、人間に戻ったら話は別だ。
さっと自分の上着を脱いだレインズは俺にかけてくれた。その優しさに久々に胸がキュンとして熱くなった。
「なるほど、俺が思い出しても、他の者は影響されないのか……」
「元気そうだね、アダム……。老化の遅いレインズは分かるけど、アダムも十五年経っても全然変わらないね。記憶のままだから、嬉しいな」
そう言うとレインズは首を傾げて何のことだという顔をした。
「リヒトが消えた日から数えて、今日で十五日だが……」
「…………でた、異世界マジック、時間の流れの違い。なっ…なんだよ、俺だけ十五年!? ひどい! 俺だけ……十五年も寂しい思いを……」
「そちらの世界は、流れがそんなに早いのか……。リヒトは十五年も……」
「そうだよー。浦島太郎よりはマシだけど、ああ、俺だけ、十五歳も老けてしまった……」
つまり人生でレインズと過ごせる時間が短くなってしまった。頭を抱えて悲しむ俺の背中を慰めるようにレインズはぽんぽんと撫でてきた。
「大丈夫だ。リヒトは全然変わらない」
「いやー、それ。前の世界でもよく言われたけど、歳はとってるわけだから……」
「俺の精を受けただろう、寿命は伸びて、老化のスピードは遅くなっているはずだ。魔力が半減しても、それくらいの効果は残っている」
「はい? なにそれ、聞いてない」
「あまり公にはしていないが、魔力の強い者は、パートナーにも影響を及ぼすから、精を受ける度に効果は強まる。ただし、俺が死んだらリヒトもその影響を受けることになるが」
「……それ、最高。ずっと一緒ってこと?」
「まあ、そうなるな」
寿命の長いレインズとは、どこかで俺が追いついて追い越して先にいくものだと思っていた。
それがそんな奇跡みたいに、繋がっていられるなんて思わなかった。
にこっとレインズが嬉しそうに微笑んだので、俺もつられて笑った。
ここからまた始めようという思いで、手を繋いで二人で笑い合った。
「ところでさっきの姿はなんだ? あんな可愛い鳥になるなんて」
「ああ、あれは神が、俺と分からない姿じゃないとこの世界に戻れないって言うからさ。よかったよ、すぐに分かってもらえて……。でも、当分、鶏肉料理は食べれない。なんか切なくなっちゃうから」
「変身魔法にも似たようなのがあったな。あれだと会議にも連れて行きやすいな……リヒトと離れたくないし、よし、そういう時は鳥になってもらおう」
「いっっ、もう鳥でエリザベスに舐められるのは勘弁だよ。本当、食べられるかと思ったんだから」
半泣きで震えている俺を見てレインズは大きな口を開けてケラケラと笑った。
そんな主人の姿を初めて見るのか、アダムがポカンとした顔になって固まっていた。
俺を抱き上げたレインズはそのまま廊下を歩き出した。この力強い腕に支えられるのも久しぶりすぎて胸が高鳴ってしまう。
「ところで、記憶がなしに十五年だからな……。何か悪いことはしなかったか?」
「え…………」
「俺以外の者とまさか……」
「ええと…………、してはない。うん」
「なんだその曖昧な言い方は!?」
「いや、でも、覚えていなくて、十五年だよ。自分がおかしいのかと思って、ほら、ちょっと試してみたりはさ……、でも、ないから! すっごい嫌悪感で、やっぱりできませんごめんなさいで逃げたし、それ以来、そういうのはサッパリ……」
レインズだって事情は分かってくれていると思うが、ムッとした顔をしていた。
「……ごめん」
「いや、十五年も。寂しかっただろう。よく耐えたな……、もう寂しい思いはさせないから」
「……うん」
よく一人で公園のベンチに座って夜空を眺めた。
きっとどこかに、自分が求める人はいるのだと思いながら、願いが叶うようにと星を見つめていた。
信じ続けて良かった。
こんな風にまた会うことができたのだから。
「あの日最後にレインズと一緒に寝た時、目が覚めたら、どこにおはようのキスをするのか決めてたんだ」
「ほう、どこに決めたんだ?」
「それはねぇ……」
抱き上げられている状態で、俺はレインズの唇にキスをした。
「やっぱりここでしょ。ここが一番好き」
バーンっと足で寝室のドアを開けたレインズは、俺をベッドの上にゆっくりと下ろした。
俺だけ裸の状態だが、レインズもシャツをバサッと脱いで俺の上に乗ってきた。
この見下ろされる感じも久々すぎて、ドキドキを通り越して感動してしまう。
「次は俺だ。俺が一番好きな場所を当ててみろ」
「なかなか難しいこと……」
「リヒトが当てられるまで、キスをやめないから」
「ええっ!」
「俺が好きなところは柔らかくて……」
その先を言わずにレインズは指先からキスを始めてしまった。
一つ一つ丁寧に愛しながら、痕を残していく。
会えなかった時間を埋めるように、ここにいるのだと確かめるように、優しい唇に導かれながら俺はレインズの元に帰ってきたのだとようやく心から安心することができた。
もう虚しさを抱えることはない。
不安な気持ちが生まれても、一緒に悩んでくれる人がいるのだから。
「え……えと、おしり」
「違うな。じゃあ、最初から」
「ええーーー!」
このままだといつまでも続いて身体中真っ赤になりそうな気配に、ポカポカとレインズの肩を叩くと、レインズは分かった分かったと言って笑った。
そっちは十五日でも、こちとら十五年ぶりなのだから、体が疼いて爆発しそうだ。
ムクれて口を尖らせた俺の唇に、レインズがチュッと口付けをしてきた。
「俺も、ここが一番好きだ」
そう言っていたずらっ子みたいに笑ったレインズを見て、これはもう敵わないなと思って俺も笑った。
「ああ、本当に……好きだよ、レインズ」
「俺もだ。リヒト。愛している、ずっと」
悪人だらけの世界にやっと訪れた平和。
この世界がこれからどう変わっていくのかは分からないけれど、世界を越えて結ばれた愛は永遠だ。
ちゃんと、自分で大切な人の元に歩いて行けたよ。
優しい温もりに包まれながら、遠くから俺を見守ってくれている人に幸せになったよと伝えた。
□END□
応援ありがとうございます!
31
お気に入りに追加
328
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(7件)
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
完結ありがとうございました!!
ハッピーエンドで私も幸せになりました♪
最終回にも引き締め役(?)アダムさん登場してそれもちょっと嬉しかったです。真面目な感じで、なんか好きな人でした。
リヒトは、ペガサスっていうより…やっぱり雀ちゃんぽいですね(笑)
「涙出てないけど出てる感じ」でエリザベスに抱きつくの、可愛くて笑っちゃいました。
レインズもリヒトに(本人が意図しなくても)笑わせてもらって楽しい人生送れそう、お幸せに…☆おばあちゃんも安心するはず!
連載お疲れさまでした!
次回作も、もちろん楽しみにしておりますが!別カテゴリーの転生バカップルの更新もお待ちしております~(*´▽`*)
てんてんこ様
最後までお読みいただきありがとうございました(^^)⭐︎⭐︎
最終話はわちゃわちゃしながら、雀ちゃん書けたし、ちょっと駆け足でしたが盛り込んで楽しく書かせていただきました。
連載中から温かいお言葉をいただき、本当にありがとうございました。
四月頭にどどんと短編を予定してます。
転生バカップルも見ていただいて嬉しいです。そちらも頑張ります。
完結おめでとうございます😆
そしてお疲れ様でした😌
リヒトが現在に戻った時はどうなるのかと思いましたが、幸せになってよかったです🤗
次回作または番外編などありましたらお待ちしております😄
あと、リヒトの雀の姿なのですが、以前見たコロッコロでまんまるの雀を想像してしまい笑っちゃいました。😂
harumi19661121様
ありがとうございますー!
最後までお読みいただき嬉しいです。
リヒトもレインズも記憶を奪われましたが、悶えながら相手を想う日々、そしてリヒトの雀ちゃんバージョン(^^)
最終話は書きたかったことを盛り盛りしてみました。
コロコロまんまる(//∇//)まさに、そんな感じをイメージしていました。
エリザベスに舐められて転がっているところはお気に入りシーンです(笑)
次回作は四月になりそうですが、またぜひ見ていただけたら嬉しいです。
感想も残していただきありがとうございました⭐︎⭐︎
わ~!ついに最終回!?
レインズもガル様もやむを得ない過去からの悪人だった事がわかって、スキルの発動も無くリヒトも愛を手に入れてハッピーエンドか…って思ったところに神様!
うぅ…ラストどうなるのか(>_<)
あと名器は名器のままだったのか…もちょっと気になってました笑
てんてんこ様
お読みいただきありがとうございます。
ついに最終話まできましたー(^^)
ここまでお読みいただき本当にありがとうございます⭐︎⭐︎
神様ー、かたいこと言わずにー。
ということで、帰されちゃうリヒトですが、はたして愛の奇跡は起こせるのか。
パタパタしながら頑張ります(≧∇≦)
名器ですが、成功報酬で機能はずっと継続なのですが、成敗機能とセットになっているので、レインズ相手では作動しません(笑)ただ、そこが秀でてると言われるだけに、良い方ではあるのかな(笑)
大砲抱えているけど使えずという、残念スキルに。ラブは自然体で(〃ω〃)ということで。
最終話も楽しんで見ていただけたら嬉しいです。