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第二陣
②胸の痛みにつける薬は
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植込みの間から顔を出して、目当てのものを探しているとガラガラと荷馬車の音が聞こえてきた。
荷馬車は所定の位置で止まり、配達人の男が台から降りてきた。
俺はぴょんっと背筋を伸ばし顔を作り直して、トコトコと今来ましたという風を装いながら荷馬車に近づいていった。
「ご苦労さまです。今日は何が届いていますか?」
「あれ? いつもの…ポールさんは…?」
「体調が悪くて、今日は俺が代わりに」
そうですかと言って配達人は俺に手紙の束を渡してきた。
「あの、荷物は……届いていないですか?」
「今日は手紙だけです。ではこれで」
口元は笑ってどうもと言ったが、頭の中では今日は来なかったかとガクンと項垂れた。
隠れて手紙を出して、ネズミにある物を注文した。
邸の人間の手に渡る前に抜いておこうと思ったのだが、どうやらすぐには送ってくれなそうだ。
手に入れるのが難しいのかもしれない。
手紙や荷物の配達は週に二回。
次もまた担当のポールを出し抜いて俺が取りに行くしかない。
周りには仕事熱心と見られているから、何か言われたら暇だったから取りに行ったと言ってごまかせる。
どうでもいい手紙の束をくるくると回しながら歩いていたら、背中がゾワっと寒くなり嫌な気配がした。
「リヒト、お前何をしている?」
「あー、アダム様でしたか。今日は気持ちのいい朝ですね」
厩舎の方から厄介な男が歩いて来てしまった。
忙しいだろうに、なぜかよく顔を合わせて、その度にチクチクと嫌味を言ってくる。
「手に持っているのは手紙か? お前、担当じゃないだろう」
そして、ただの筋肉バカではなく、意外と鋭いので注意が必要だ。
「手が空いていたので、今日は俺が。どうも体を動かしていないといられない性分でして。仕事熱心だと褒めていただいて大丈夫ですよ。ほらほら」
無害な人間ですという顔をしながらアダムに近づいて、わざとらしく頭を近づけたらポカンと殴られた。
「ふざけるなっ、まったく。配置換えになってから調子に乗っているな。そんなに暇なら団の基礎訓練に参加するか?」
「いやぁ、それはご勘弁を。アダム様のような逞しい体なら考えますが、魔力も少ないし、この通り腕はもやしのように細くて使いものになりませんから」
俺はレインズと会えた時にチャンスだと近くで働けるように頼んだ。
基本的には邸の中での雑用をやりつつ、時々厨房の手伝いをするのだが、なんとレインズの部屋に出入りできるようになった。
これは大きな一歩だ。
食事の配膳担当にもなったので、色々と次の手にも移れる。
レインズは邸にいないことが多いので、今までよりずっと時間ができてしまった。
だが、ここの騎士団の連中と体力訓練なんかしていたら、倒れて動けなくなることは目に見えている。
「もやし、ではないだろう。見た感じ、それなりに筋肉がついているじゃないか。肉体労働でもしていたのか?」
「まー、そうですね。重い物運んだりとかは」
アダムは俺の二の腕を掴んで遠慮なく揉んできた。男同士、筋肉のつき方を確認するのなんて、前の世界でも普通にあったので、何も考えずそのまま動かなかった。
「確かにここは細いには細いな、ちゃんと食べて……」
「アダム」
空気を切り裂くような、尖った声が響き渡った。
アダムはハッとして息を呑み、慌てて俺から離れて姿勢を正した。
「レインズ様、申し訳ございません。ここにいらっしゃるとは……」
朝の爽やかな空気は完全に吹き飛ばされて消えてしまった。その男の存在感が強すぎて、早朝にもかかわらず、匂い立つ色気にむせてしまいそうになった。
感情の読めない人だが、それでも今朝はやけに苛立っていそうな気配がした。
忙しそうだから、寝不足なのだろうか。
「今日はウィンストン家に行かれる予定でしたよね」
「ああ、すぐに出る。リヒトも来い」
「へっ……は、はい」
まさか自分が呼ばれるとは思わなかったので驚いて変な声が出てしまった。
今までレインズが何をしているのかまったく情報がなかった。
とりあえず大悪人、という段階しか知らなかったが、ついにレインズの悪行を知ることになるのかと緊張してきてしまった。
「リヒト。準備があるから先に馬車に乗っていてくれ」
レインズとアダムは何か話があるのか二人で行ってしまったので、俺は言われた通りに先に玄関に止まっていた馬車に乗り込んだ。
怪しげな薬の取引きか、悪人同士の会合か、もしかしたらリストの悪人達に次々と出会うことになるかもしれない。
俺は緊張で高鳴る胸を押さえながら、レインズが来るのを待った。
カチャカチャと陶器が重なる音はとてもお上品で、クスクスと可愛らしく笑う声が聞こえきたら、ここはやっぱり異世界であったと目の前の光景に小さくため息をついた。
テーブルに並んだ色とりどりの豪華な食べ物と、同じくカラフルなドレスに身を包んだ花のような女性達。
楽団が優雅な音楽を演奏していて、それを聞きながら、そこかしこから楽しげな笑い声が聞こえてきた。
こここそまさに、俺が思い描いていた異世界の光景だった。
「それで……、大混乱になって怪我人が続出で……」
「まさかあんな獲物が出るなんて……その後は話を聞きませんね。そろそろ披露してもよさそうなのに……」
コソコソと交わされる会話が気になって、俺は男性達の輪にこっそり近づいて行った。
俺が今いるのは、リドリー・ウィンストンという、社交会の花と呼ばれる侯爵夫人が自宅で開かれているパーティーだ。
てっきり悪人勢揃いで、ドンパチでも始まるのかと思っていたのに、着飾った男女がオホホホ言いながら、楽しげに食事やダンスに興じる空間に拍子抜けしてしまった。
外に出るにあたって、レインズは届いたばかりだという特注のカツラを用意してくれた。
俺が前に付けていたのと同じ薄茶色の髪で、やはり厚い前髪が目の下までくるものだ。
ただ金がかかっているからか、作りはしっかりしているし手触りも全然違う。
そのまま帽子をかぶっているわけにもいかないと思っていたから助かった。
今は使用人の一人として、壁に立って待機している。地味な使用人服とこのカツラのおかげですっかり周りに馴染んでいた。
それにしても、この空間は今までと違いすぎて、目がチカチカしてしまう。
毎日争いばかり、道に死体が転がっているような環境で過ごしてきたので、この平和すぎる光景はひどく滑稽に見える。
彼らが笑いながら、ワインを口に入れている間に、貧民街の人間達はまともな水すら口にできずに死んでいく。
こんなもの、前の世界でだって変わらない。
誰かの犠牲で成り立つ平和。
しかしこの貴族達だって、この混乱の世では、ことが起きれば簡単に地に落ちる危うい存在だ。
幸せそうに微笑んでいるが、本当に幸せかどうかは分からない。
色々考えていたら頭が痛くなってしまった。
それもこれも、レインズのせいだ。
会場に着いたら、俺に待っているように告げて、さっさと奥の部屋に消えてしまった。
ここに来る途中、先ほどの馬車の中でのことを思い出して、俺は顔が熱くなるのを感じた。
遅れて馬車に乗ってきたレインズは、走り出したらすぐに俺に向かって話しかけてきた。
「先ほど、アダムと何をしていたんだ?」
一瞬何を言われたのか分からなくて、大きく目を開いた。
レインズの表情は変わらない。
今日も人形みたいに馬車の椅子に収まっていた。
そんな些細なことを気になるのかと驚いたが、きっと自分の部下のことは把握しておきたいのだろうと考えた。
「ええと、暇なら騎士団の訓練に参加しないかって、声をかけてもらっていたんです」
「訓練……? 腕を掴まれていたみたいだが……」
「あ、もしかして、暴力とかだと思いました? あれは違いますよ。筋肉がないって話になって、腕の付き具合を確かめてもらっていたんです」
気にするようなことではないと笑って明るく答えたが、レインズは真顔でしかも無言になってしまった。目だけはしっかり俺を見てくるので、どうも、というかかなり気まずい。
「こっちに……、隣に座るんだ、リヒト」
「は、はい」
急にどうしたというのだろう。
何か癪に触ることでも言ってしまったのだろうか。
俺は恐る恐るレインズの横に並んで座った。
「アダムはどこに触れたんだ?」
「え? あの、こ…ここですけど」
何を確認したいのか、ますます謎なのだが、聞かれた通り、俺は肘を上げて二の腕を見せた。
「あの、そんな……人に披露するほどのものじゃ……あっ…っっ」
そんなに気になるのかと、全然理解できないのだが、アダムが掴んだのと同じ場所をレインズはぎゅっと掴んできた。
「レインズさ…、ちょっ…いたい」
「すまない加減が……、これで痛くないか?」
「は…はい、大丈夫……です」
遠慮なしに強く握ってきたので、痛がったからレインズはすぐに力を緩めてくれた。
がしかし、離してはくれない。
何をしているのか、したいのか、さっぱり分からない。
そのうちにレインズに掴まれているところが、血が集まってきたようにドクドクと熱くなってきた。
ただ、腕を掴まれているだけなのに、まるで俺の体ごとレインズの手の中にあるような感覚で、全身の体温が上がっていくのが分かる。
スッとレインズの親指が動いて、布越しだが俺の肌の上を滑った。
「んっ………」
わずかな動作で変な声が漏れそうになって、俺は慌てて口を強く結んだ。
レインズはまだ離してくれない。
それどころか、二の腕の感触を確かめるようにゆっくりと揉んできた。
「っっ……」
「……リヒト」
腕だ。
掴まれているのは腕。
それなのに、まるでアソコを掴まれているようなバカな妄想が浮かんでしまった。
レインズの声が甘く耳に響いて、ぐんぐんと熱が高まってしまう。
まるで腕から溶けてしまいそうな感覚に陥っていたら、レインズはそこで手を離してしまった。
「……思っていた通り、少し細いな。食事を増やすように伝えておく。戻っていいぞ」
「うっ…は…はい」
俺はレインズに気づかれないように、体を丸めて前の席に戻った。
脱いでいた上着をサッと膝の上に乗せて下を向いた。
……なんということだ。
レインズに……、レインズに腕を掴まれて、俺は……。
半勃ちになってしまった。
ありえない。
さっきアダムに掴まれた時は、なんとも思わなかったのに、同じようにレインズが触れてきたら、体が熱くなって……。
今すぐ逃げ出したくてたまらない。
レインズはもう興味がなくなったのか、座席にもたれて目を閉じてしまった。
その後はひたすら別のことを考えて、熱を散らすことに専念した。
なんともひどい時間だった。
「では、あの組織が全滅という噂は本当だったのですか?」
「ああ、影の支配者に逆らったら命はない……、今までもそうだっただろう」
その言葉に俺の体は反応してビクンっと揺れた。壁を背中にして噂話に興じるグループの近くまでなんとかやってきた。
さりげなく下を向きながら、グループの会話に耳を傾けた。
「兄弟に、自分の父親まで殺して……、なんともない顔をして生きている。やはり死神……」
ゾクっと背中に嫌なものが走って、全身が冷たくなった。
家族を殺した?
いったいどういうことなのだろうか……。
「今の話題は死神の婚約者が誰になるか、だ。何しろ、恐ろしい男だが、家柄は抜群だからな。妻の座に収まりたい女は腐るほどいる。男もイケるらしいから、そっちの可能性もある」
「俺は、リンダ嬢が有力だと聞いた。よく家に招待されていると……女性の輪の中では相当自慢しているらしい」
「バカな女どもだ。死神は家族がお嫌いのようだから、すぐに墓に入ることになるぞ。何人死体が積み重なるか、賭けないか?」
男達は品のない笑い声を上げて、噂話を肴にワインのグラスをぐいぐい空けていた。
影の支配者。
あの悪人リストに書かれていた一文だ。
どうせ悪人。
ヤツらが何をしてきたかなんてどうでもいいし、人を殺そうが犯そうが、それが犯罪者だろうと一括りに考えていた。
リヒト。
俺の名を呼ぶ声。
感情がなく、冷たい口調。
それでもあの時、陽の光を浴びながら、レインズはたしかに微笑んでいた。
黒が似合う人なのだろうと思っていたが、明るい日差しの中でおそらく微笑んでいる姿は、眩しいくらいよく似合っていた。
家族を殺した。
その、噂話が俺の心臓をチクチクと突き刺してきた。
どうでもいい……はずだ。
それなのに、悲しくてたまらなかった。
□□□
荷馬車は所定の位置で止まり、配達人の男が台から降りてきた。
俺はぴょんっと背筋を伸ばし顔を作り直して、トコトコと今来ましたという風を装いながら荷馬車に近づいていった。
「ご苦労さまです。今日は何が届いていますか?」
「あれ? いつもの…ポールさんは…?」
「体調が悪くて、今日は俺が代わりに」
そうですかと言って配達人は俺に手紙の束を渡してきた。
「あの、荷物は……届いていないですか?」
「今日は手紙だけです。ではこれで」
口元は笑ってどうもと言ったが、頭の中では今日は来なかったかとガクンと項垂れた。
隠れて手紙を出して、ネズミにある物を注文した。
邸の人間の手に渡る前に抜いておこうと思ったのだが、どうやらすぐには送ってくれなそうだ。
手に入れるのが難しいのかもしれない。
手紙や荷物の配達は週に二回。
次もまた担当のポールを出し抜いて俺が取りに行くしかない。
周りには仕事熱心と見られているから、何か言われたら暇だったから取りに行ったと言ってごまかせる。
どうでもいい手紙の束をくるくると回しながら歩いていたら、背中がゾワっと寒くなり嫌な気配がした。
「リヒト、お前何をしている?」
「あー、アダム様でしたか。今日は気持ちのいい朝ですね」
厩舎の方から厄介な男が歩いて来てしまった。
忙しいだろうに、なぜかよく顔を合わせて、その度にチクチクと嫌味を言ってくる。
「手に持っているのは手紙か? お前、担当じゃないだろう」
そして、ただの筋肉バカではなく、意外と鋭いので注意が必要だ。
「手が空いていたので、今日は俺が。どうも体を動かしていないといられない性分でして。仕事熱心だと褒めていただいて大丈夫ですよ。ほらほら」
無害な人間ですという顔をしながらアダムに近づいて、わざとらしく頭を近づけたらポカンと殴られた。
「ふざけるなっ、まったく。配置換えになってから調子に乗っているな。そんなに暇なら団の基礎訓練に参加するか?」
「いやぁ、それはご勘弁を。アダム様のような逞しい体なら考えますが、魔力も少ないし、この通り腕はもやしのように細くて使いものになりませんから」
俺はレインズと会えた時にチャンスだと近くで働けるように頼んだ。
基本的には邸の中での雑用をやりつつ、時々厨房の手伝いをするのだが、なんとレインズの部屋に出入りできるようになった。
これは大きな一歩だ。
食事の配膳担当にもなったので、色々と次の手にも移れる。
レインズは邸にいないことが多いので、今までよりずっと時間ができてしまった。
だが、ここの騎士団の連中と体力訓練なんかしていたら、倒れて動けなくなることは目に見えている。
「もやし、ではないだろう。見た感じ、それなりに筋肉がついているじゃないか。肉体労働でもしていたのか?」
「まー、そうですね。重い物運んだりとかは」
アダムは俺の二の腕を掴んで遠慮なく揉んできた。男同士、筋肉のつき方を確認するのなんて、前の世界でも普通にあったので、何も考えずそのまま動かなかった。
「確かにここは細いには細いな、ちゃんと食べて……」
「アダム」
空気を切り裂くような、尖った声が響き渡った。
アダムはハッとして息を呑み、慌てて俺から離れて姿勢を正した。
「レインズ様、申し訳ございません。ここにいらっしゃるとは……」
朝の爽やかな空気は完全に吹き飛ばされて消えてしまった。その男の存在感が強すぎて、早朝にもかかわらず、匂い立つ色気にむせてしまいそうになった。
感情の読めない人だが、それでも今朝はやけに苛立っていそうな気配がした。
忙しそうだから、寝不足なのだろうか。
「今日はウィンストン家に行かれる予定でしたよね」
「ああ、すぐに出る。リヒトも来い」
「へっ……は、はい」
まさか自分が呼ばれるとは思わなかったので驚いて変な声が出てしまった。
今までレインズが何をしているのかまったく情報がなかった。
とりあえず大悪人、という段階しか知らなかったが、ついにレインズの悪行を知ることになるのかと緊張してきてしまった。
「リヒト。準備があるから先に馬車に乗っていてくれ」
レインズとアダムは何か話があるのか二人で行ってしまったので、俺は言われた通りに先に玄関に止まっていた馬車に乗り込んだ。
怪しげな薬の取引きか、悪人同士の会合か、もしかしたらリストの悪人達に次々と出会うことになるかもしれない。
俺は緊張で高鳴る胸を押さえながら、レインズが来るのを待った。
カチャカチャと陶器が重なる音はとてもお上品で、クスクスと可愛らしく笑う声が聞こえきたら、ここはやっぱり異世界であったと目の前の光景に小さくため息をついた。
テーブルに並んだ色とりどりの豪華な食べ物と、同じくカラフルなドレスに身を包んだ花のような女性達。
楽団が優雅な音楽を演奏していて、それを聞きながら、そこかしこから楽しげな笑い声が聞こえてきた。
こここそまさに、俺が思い描いていた異世界の光景だった。
「それで……、大混乱になって怪我人が続出で……」
「まさかあんな獲物が出るなんて……その後は話を聞きませんね。そろそろ披露してもよさそうなのに……」
コソコソと交わされる会話が気になって、俺は男性達の輪にこっそり近づいて行った。
俺が今いるのは、リドリー・ウィンストンという、社交会の花と呼ばれる侯爵夫人が自宅で開かれているパーティーだ。
てっきり悪人勢揃いで、ドンパチでも始まるのかと思っていたのに、着飾った男女がオホホホ言いながら、楽しげに食事やダンスに興じる空間に拍子抜けしてしまった。
外に出るにあたって、レインズは届いたばかりだという特注のカツラを用意してくれた。
俺が前に付けていたのと同じ薄茶色の髪で、やはり厚い前髪が目の下までくるものだ。
ただ金がかかっているからか、作りはしっかりしているし手触りも全然違う。
そのまま帽子をかぶっているわけにもいかないと思っていたから助かった。
今は使用人の一人として、壁に立って待機している。地味な使用人服とこのカツラのおかげですっかり周りに馴染んでいた。
それにしても、この空間は今までと違いすぎて、目がチカチカしてしまう。
毎日争いばかり、道に死体が転がっているような環境で過ごしてきたので、この平和すぎる光景はひどく滑稽に見える。
彼らが笑いながら、ワインを口に入れている間に、貧民街の人間達はまともな水すら口にできずに死んでいく。
こんなもの、前の世界でだって変わらない。
誰かの犠牲で成り立つ平和。
しかしこの貴族達だって、この混乱の世では、ことが起きれば簡単に地に落ちる危うい存在だ。
幸せそうに微笑んでいるが、本当に幸せかどうかは分からない。
色々考えていたら頭が痛くなってしまった。
それもこれも、レインズのせいだ。
会場に着いたら、俺に待っているように告げて、さっさと奥の部屋に消えてしまった。
ここに来る途中、先ほどの馬車の中でのことを思い出して、俺は顔が熱くなるのを感じた。
遅れて馬車に乗ってきたレインズは、走り出したらすぐに俺に向かって話しかけてきた。
「先ほど、アダムと何をしていたんだ?」
一瞬何を言われたのか分からなくて、大きく目を開いた。
レインズの表情は変わらない。
今日も人形みたいに馬車の椅子に収まっていた。
そんな些細なことを気になるのかと驚いたが、きっと自分の部下のことは把握しておきたいのだろうと考えた。
「ええと、暇なら騎士団の訓練に参加しないかって、声をかけてもらっていたんです」
「訓練……? 腕を掴まれていたみたいだが……」
「あ、もしかして、暴力とかだと思いました? あれは違いますよ。筋肉がないって話になって、腕の付き具合を確かめてもらっていたんです」
気にするようなことではないと笑って明るく答えたが、レインズは真顔でしかも無言になってしまった。目だけはしっかり俺を見てくるので、どうも、というかかなり気まずい。
「こっちに……、隣に座るんだ、リヒト」
「は、はい」
急にどうしたというのだろう。
何か癪に触ることでも言ってしまったのだろうか。
俺は恐る恐るレインズの横に並んで座った。
「アダムはどこに触れたんだ?」
「え? あの、こ…ここですけど」
何を確認したいのか、ますます謎なのだが、聞かれた通り、俺は肘を上げて二の腕を見せた。
「あの、そんな……人に披露するほどのものじゃ……あっ…っっ」
そんなに気になるのかと、全然理解できないのだが、アダムが掴んだのと同じ場所をレインズはぎゅっと掴んできた。
「レインズさ…、ちょっ…いたい」
「すまない加減が……、これで痛くないか?」
「は…はい、大丈夫……です」
遠慮なしに強く握ってきたので、痛がったからレインズはすぐに力を緩めてくれた。
がしかし、離してはくれない。
何をしているのか、したいのか、さっぱり分からない。
そのうちにレインズに掴まれているところが、血が集まってきたようにドクドクと熱くなってきた。
ただ、腕を掴まれているだけなのに、まるで俺の体ごとレインズの手の中にあるような感覚で、全身の体温が上がっていくのが分かる。
スッとレインズの親指が動いて、布越しだが俺の肌の上を滑った。
「んっ………」
わずかな動作で変な声が漏れそうになって、俺は慌てて口を強く結んだ。
レインズはまだ離してくれない。
それどころか、二の腕の感触を確かめるようにゆっくりと揉んできた。
「っっ……」
「……リヒト」
腕だ。
掴まれているのは腕。
それなのに、まるでアソコを掴まれているようなバカな妄想が浮かんでしまった。
レインズの声が甘く耳に響いて、ぐんぐんと熱が高まってしまう。
まるで腕から溶けてしまいそうな感覚に陥っていたら、レインズはそこで手を離してしまった。
「……思っていた通り、少し細いな。食事を増やすように伝えておく。戻っていいぞ」
「うっ…は…はい」
俺はレインズに気づかれないように、体を丸めて前の席に戻った。
脱いでいた上着をサッと膝の上に乗せて下を向いた。
……なんということだ。
レインズに……、レインズに腕を掴まれて、俺は……。
半勃ちになってしまった。
ありえない。
さっきアダムに掴まれた時は、なんとも思わなかったのに、同じようにレインズが触れてきたら、体が熱くなって……。
今すぐ逃げ出したくてたまらない。
レインズはもう興味がなくなったのか、座席にもたれて目を閉じてしまった。
その後はひたすら別のことを考えて、熱を散らすことに専念した。
なんともひどい時間だった。
「では、あの組織が全滅という噂は本当だったのですか?」
「ああ、影の支配者に逆らったら命はない……、今までもそうだっただろう」
その言葉に俺の体は反応してビクンっと揺れた。壁を背中にして噂話に興じるグループの近くまでなんとかやってきた。
さりげなく下を向きながら、グループの会話に耳を傾けた。
「兄弟に、自分の父親まで殺して……、なんともない顔をして生きている。やはり死神……」
ゾクっと背中に嫌なものが走って、全身が冷たくなった。
家族を殺した?
いったいどういうことなのだろうか……。
「今の話題は死神の婚約者が誰になるか、だ。何しろ、恐ろしい男だが、家柄は抜群だからな。妻の座に収まりたい女は腐るほどいる。男もイケるらしいから、そっちの可能性もある」
「俺は、リンダ嬢が有力だと聞いた。よく家に招待されていると……女性の輪の中では相当自慢しているらしい」
「バカな女どもだ。死神は家族がお嫌いのようだから、すぐに墓に入ることになるぞ。何人死体が積み重なるか、賭けないか?」
男達は品のない笑い声を上げて、噂話を肴にワインのグラスをぐいぐい空けていた。
影の支配者。
あの悪人リストに書かれていた一文だ。
どうせ悪人。
ヤツらが何をしてきたかなんてどうでもいいし、人を殺そうが犯そうが、それが犯罪者だろうと一括りに考えていた。
リヒト。
俺の名を呼ぶ声。
感情がなく、冷たい口調。
それでもあの時、陽の光を浴びながら、レインズはたしかに微笑んでいた。
黒が似合う人なのだろうと思っていたが、明るい日差しの中でおそらく微笑んでいる姿は、眩しいくらいよく似合っていた。
家族を殺した。
その、噂話が俺の心臓をチクチクと突き刺してきた。
どうでもいい……はずだ。
それなのに、悲しくてたまらなかった。
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