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③
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走って走って、渉は地面を蹴って飛び上がった。
ガシャンとまた轟音が鳴り響いた。
コンクリートの硬い地面に転がった渉の目に、車が電信柱に衝突したのが見えた。
「ん……うぅ……う……」
勢いよく押し倒したので、凛奈は頭を打ったのか、目をつぶって痛そうな声を上げていた。
「大丈夫か!? 君、怪我はないか!?」
渉は車が突っ込んでくる直前に凛奈を押し倒した。
間一髪、跳ね飛ばされることなく、二人で地面の上を転がって、命は助かった。
周囲の人が集まってきて、二人の無事を確認した。
凛奈の方を見ると、横断歩道の向かい側から走ってきた男性に抱き起こされていた。
頭に怪我をしていたが、意識はあるようで、怯えながらも、受け答えをしているように見えた。
「今、救急車が来るから」
「大丈夫です。怪我は……」
「血が出てるぞ、どこかぶつけたかもしれない。ちゃんと行った方がいい」
怪我と言っても擦りむいたくらいなので、渉は遠慮したが助けに来てくれた人達に諭されて、病院に向かうことになった。
大勢の前で起きた事故なので、警察が走り回り、野次馬が大勢来て、たくさんの人が道路に溢れかえり、凛奈の姿は見えなくなるほどだった。
通行人の人に、女の子の方も大丈夫そうだと教えてもらい、渉はホッとして息を吐いた。
「……よかった。これで……よかった」
傷ついた腕を抱えながら、喧騒の中、渉は目を閉じた。
お大事に、と言われて渉は診察室を出た。
看護師さんから、女の子が助けてくれた人にお礼を言いたいと言っているから、会いに行ってあげてと言われたが、渉は首を振って、お大事にと伝えてくださいと言って頭を下げた。
凛奈と同じ病院に運ばれたが、渉は軽傷だったので、腕に軽く包帯を巻かれただけで処置が終わった。
凛奈は転んだ時に頭を打ったので、念のため入院するらしい。
凛奈が処置を受けている部屋の前を通った渉は、少し足を止めてから、また歩き出した。
厚手のパーカーを頭からかぶって下を向いて歩いていると、病院の入口の自動ドアが開いて、佑月が飛び込んでくるところが見えた。
受付の人に声をかけて、あちらですと案内された佑月は、汗を拭いながら走ってきた。
佑月が走ってくる姿が、スローモーションのように見えた。
流れ落ちる汗のつぶ、息遣いまでゆっくりと渉の頭に響いてきた。
触れそうな距離まで近づいてきた佑月は、渉とすれ違ったが、前だけを見ていて、渉には気づかずに走って行った。
「これで、後悔しないよね」
渉は佑月の背中に向かってそっと声をかけた。
病院の外に出ると、空から小さな雪が舞い落ちてきた。
夜空を見上げた渉の目に月が映った。
大きな月が浮かんでいたが、その月は欠けたところのない、立派な満月だった。
「あぁ、やっぱり、これでよかったんだ……」
目を閉じた渉の頭には、佑月との思い出が浮かんできた。
一緒に朝食を食べた朝、仕事帰りに待ち合わせをして、手を繋いで帰った日。
三ヶ月の短い間では、お互いの誕生日を祝うこともできなかったけれど、付き合った記念日だと言って、佑月が買ってきてくれたケーキを覚えている。
蜂蜜が好きな佑月のために、ちょっといいやつを奮発して買ってきて、それを指に乗せたら美味そうだと言って渉が舐めてきた。
嬉しかった。
佑月と過ごした時間で、一秒だって嬉しくない時間はなかった。
今日も明日も、この幸せがずっと続いていくんだと思っていた。
いつかお互いが白髪になって、あんなことがあったねと笑い合うところまで想像していた。
だけど、佑月が苦しんでいる姿より、幸せそうに笑う姿を見ていたかった。
何より、好きだ好きだと言って、押し切って頷かせてしまったのは自分だ。
佑月も好きだと言ってくれたけれど、佑月の本当の幸せを考えた時、隣にいるのは自分ではないと気がついた。
もう夜空を見上げて、悲しく目を伏せるようなことはない。
何一つ、欠けることなく、明るい佑月のまま、愛する人と幸せになってほしい。
「……幸せにするって……約束したから」
その時、雪だよ、寒いねと言って歩いて行く男女の姿が見えた。
寒いからと言って、一つのポケットに繋いだ手を入れていた。
それを見た渉は、涙が止まらなくなってその場に崩れ落ちた。
佑月とも、ああやって一緒にポケットに手を入れて歩いた。
自分達の姿と重なってしまい、それが雪の中に消えて行くのが耐えられなくて手を伸ばした。
「一緒に……幸せになりたかったよ、佑月……佑月……好きだよ……ずっと」
俺も好きだよと言って、抱きしめてくれる人はいない。
寂しさと悲しさと苦しさ
壊れそうな感情に染まった渉の体に、真っ白な雪が降り積もっていく……
降り止むことのない雪が、渉の全身を白く染めていった。
※※※
「渉! 渉!」
ぼんやりした視界に、会いたかった人の顔が浮かんだ。
手を伸ばした渉が、その輪郭に触れると、懐かしい肌の感触がして口元が綻んだ。
「よかった。気がついた……先生、もう大丈夫ですよね?」
「雨樋さん、少し落ち着いてください。都筑さん、痛みはありますか? ここがどこだか分かりますか? 倒れた時の状況は?」
ペンライトを持った白衣の男が近づいてきて、渉の目にライトを当ててきた。
眩しさに目を細めながら、渉は病院ですかと聞いた。
「あの……俺……、雪が降っている中、路上で倒れて……」
「少し、記憶が混乱していそうですね。都筑さん、貴方はご自宅のマンションの階段から落ちて、意識を失って病院に運ばれたんですよ。彼のことは分かりますか?」
眼鏡をかけた白衣の男にそう言われて、後ろから心配そうな顔で覗き込んでいる佑月の顔を見つけた。
「佑月……俺の、恋人です」
「渉……渉!!」
飛びついて来ようとする佑月を、医師が落ち着いてと言って止めた。
「検査の方は問題ないです。意識も戻ったので、あと少し様子を見て、大丈夫そうなら退院でいいと思います。あ、腕が折れているのでくれぐれも安静に」
「は……はい」
眼鏡をキラリと光らせた白衣の男は、おそらく医師だろうとやっと気がついた。
そして自分は病院のベッドで寝ていて、腕はガッチリと固定されていた。
薬のせいか、痛みはあまり感じないが、頭が混乱してよく考えられなかった。
「佑月……? 雨樋さん? 凛奈さんは?」
「なんで名字で呼ぶんだ? それに、なんで凛奈が出てくるんだ? 記憶が混乱しているのか?」
「ええ、しばらくは、そういった状態になると思いますが、無理に直そうとせずに、様子を見てください」
そう言って医師が病室から出て行ったら、すぐに近づいてきた佑月が、ガシッと渉の手を掴んできた。
「渉、すまない。俺がスマホ忘れたせいで、渉は追いかけて外に出て階段から落ちたんだ。ちょうどタクシーで戻ったところで、階段から落ちた渉を見て……俺は……俺は……、渉は死んでしまったみたいに冷たくなって……」
「ちょっ、ちょっと佑月……」
ボロボロと泣き出した佑月を見て、渉はやっと状況を整理することができた。
今の時間に戻ったんだ。
階段から落ちたのは、五年前ではなく、今の渉だ。
つまり、やはり長い夢を見ていたんだと気がついて、渉の目からもどっと涙が溢れ出した。
「渉? どうした? 痛いのか!? せ、先生を……!!」
ベッドの上にあった呼出用のボタンに触れた佑月の手を、渉はそっと止めた。
「だ……大丈夫、嬉しくて……戻れて、よかったって……」
「渉……」
本当に長い長い夢だった。
あんな思い、二度としたくないと思うけど、もし本当に五年前に戻ったとしても、渉は同じ行動を取るだろう。
泣き出した渉のことを、ベッドに腰を下ろした佑月が抱きしめてきた。
佑月の匂いが体中に広がって、嬉しくていっぱい息を吸い込んだ。
何よりも、佑月に一番幸せでいてほしい。
それが、渉の幸せ。
一緒に生きていくことが許されるのなら、佑月の後悔も苦しみも全部包み込んで、愛し抜いていく。
一生……ずっとずっと……
抱きしめられた腕の中で、渉はそっと目を閉じた。
「そうだ、冷蔵庫の食べ物、あれどうした?」
「一人で食べたよ。さすがに残しておけないからさ」
「よかった気になっていたんだよね。洗濯物は溜まっている? ちゃんと掃除は……」
玄関のドアを開けて、久々に佑月の家の匂いを嗅いだら、やっと帰ってきたという気持ちになった。
「退院できたからって無理するなって。片手はしばらく使えないんだし、家事は全部俺がやるから、渉は動かないこと、いいな」
「そんなー、仕事も休みなのに……。聞き手じゃないから少しくらいは大丈夫だよ」
「いや、だめだ。お風呂から何もかも……、ここの世話も俺がやるからな」
そう言って佑月は渉のお尻に触れてきたので、渉はもうと言って佑月の手から逃れた。
「へんたーい、えっち」
「何とでも言え。恋人の特権だ」
そう言ってヘラヘラ笑う佑月を見て、こんないたずらをする人だったかなと渉は首を傾げた。
その時、溜まっていた郵便物の束に、綺麗な花柄の封筒を見つけて、渉はそれを片手で掴んだ。
「あれ、これ招待状……? えっ……これって!?」
差出人を見て、驚きの声を上げた渉の後ろから、佑月が封筒を覗き込んできた。
「ああ、凛奈か。話には聞いていたが、ついに結婚するんだな」
「え? え? なに? どういうこと?」
佑月の口から出てきた言葉が衝撃的で、渉は目を白黒させてしまった。
過去に戻った話は夢だったはずだ。
今の時間軸では、凛奈は…………
「記憶が混乱しているんだな。凛奈が昔、俺の婚約者だったことは覚えているか? 渉と出会った頃には別れ話が出ていて、向こうも好きなやつができたって言うから、俺もそれで気持ちを切り替えて、いい友人関係に戻ったし、もう未練なんてないって話したはずだ」
何を話しているのか、これはまた夢なのか、渉は口をパクパクさせて混乱してしまった。
そんな渉の様子を見て、佑月は順を追ってちゃんと話してくれた。
佑月の話によると、同じ高校で友人だった二人は、気が合ったので付き合うことになったそうだ。
お互いの両親の仲が良く、将来結婚しなよと言われて、婚約という話になった。
しかし五年前、佑月の仕事の忙しさが原因で、二人は喧嘩ばかりで、ついに別れようという話になった。
凛奈が他に好きな人ができたというのが決め手になって、二人は何度も話し合い、友人関係に戻ったそうだ。
別れてからも度々カフェで会っていたのは、佑月が会社の独立を検討していて、凛奈はその広報として手伝いをしていたからだそうだ。
事故の時の話も教えてくれた。
その日は、凛奈が新しい彼氏を紹介するというので、三人で食事をする予定だった。
佑月が仕事に遅れることを連絡したら、凛奈は彼氏と駅前で待ち合わせて、佑月の職場近くの居酒屋に、待ち合わせ場所を変えることにしたらしい。
仕事を終えた佑月に、凛奈が車の衝突事故に巻き込まれて、怪我を負ったと連絡が入った。
急いで病院に駆けつけると、凛奈は近くにいた若い男性に助けられて、幸い頭に少し怪我を負っただけだけで命に別状はなかった。
その時に新しい彼氏を紹介されて、彼氏が海外勤務になったので、凛奈も付いていくという報告をされたと教えてくれた。
「しょ……招待状は? カフェでそんな話を……てっきり結婚式を予定していたのかと……」
「なんだ、そんな話を覚えていたのか。設立記念のパーティーを企画していて、その時の招待状を凛奈に作ってもらっていたんだ」
頭がますます混乱してしまった。
凛奈が若者に助けられた、それは過去に戻った渉の行動だ。
つまりこれは、ただ長い夢が覚めただけではなく、過去を変えて戻ってきた、ということだろうか……。
「本当言うと……、凛奈と別れ話で揉めている時、好きな人ができたって言われてホッとしたんだ。あの時、渉に会う度に心が浮かれて……、顔が見たくて店に行くといつも探してしまって……正直言うと惹かれていた」
「えっ……」
「いや、この話はしたか……。ほら、ここに越してきて、渉とベランダで会った時、大声上げて驚かせただろう。あの時、運命だって思ったんだよ。それで……押して押して……困っている渉に何度も告白して……」
「ええ!?」
「ちょっ……、おい、それも忘れたのか!?」
話がおかしいことになっている。
再会して浮かれて、猛アタックで泣き落としたのは、渉のはずだった。
それが、佑月の方からということになっていて、理解が追いついていかなかった。
「なんだよー、もう何度だって言ってやる! 好きだ、好きだ、好きだ! 渉、俺と付き合ってくれ!」
「は……はい…………って、もう、付き合ってるじゃん」
「だってさ……渉が全然覚えてないみたいな顔をするから……」
口を尖らせて、甘えるように渉の髪に頬を擦ってきた佑月を見て、渉の心臓はドキッとしてしまった。
こんなに直接的に熱い表現をする人ではなかった。
これが、佑月の本来の姿なんだと思うと、ふつふつと喜びが湧き出してきた。
「絶対幸せにするって言っただろう」
「え、それ俺の台詞」
それまで取られてしまったのかと、渉は慌てたが、嬉しそうに笑った佑月が優しく抱きしめてきた。
「なんか、渉がすごい俺を好きみたいで嬉しい」
「なっ……そんなの当たり前だよ」
「それそれー、いつもあんまり好きだって言ってくれなくて、無理やり付き合ったのかなって、ずっと心配で……」
それは渉がしていた心配だった。
それも取られてしまったのかと驚いたが、よく考えれば、安心させる方法は、心配していた自分だからこそ知り尽くしていた。
「ちゃんと好きだから……、大丈夫。佑月、大好きだよ、俺達、一緒に幸せになろうね」
「渉……」
安心させるように片手で渉の背中を撫でてあげた。
片手が使えないから、ぎゅっと抱きしめることができなくて、それが悔しい。
もう片時も、離れていたくなかった。
「あ、そうだ! 渡したいものがあるって言っていたよね、あれって……」
「ああ……それね。いつ出そうかと思っていたけど」
ゴソゴソとコートのポケットに手を入れた佑月は、中から何かを取り出して、渉の前で手を開いて見せてくれた。
「え……鍵?」
「そう、このマンション、狭いだろう。二部屋借りている状態だし、近くのマンションだけど、もっと広くていい部屋があったから買ったんだ。……一緒に暮らそうって言って、あの日はそのお祝いも兼ねてディナーに……」
「嘘……本当に?」
「今は法的に結婚できるわけじゃないけど、鍵を渡して伝えたかったんだ。俺とこれから一生、ずっと一緒に生きてほしい」
「……うん、ずっと一緒にいよう」
まだ明るかったが、空には月が見えた。
落ちてきそうなほど大きな満月だった。
過去に戻って佑月の後悔を救い、また今に戻ってきた。
説明なんてできるものではないが、そう考えるのが一番しっくりくるような気がした。
そのためか分からないが、所々違う箇所はあるが、お互いが愛し合って一緒に生きて行く未来を考えていた、それは変わらなかった。
抱き合った二人は自然と唇を重ねた。
何度も角度を変えて、お互いの熱を混ぜ合わせて喉を鳴らした。
「しばらく無理はダメだと言われたが……俺は限界に近い。でも、我慢する……」
キスをしていたら、昂ってしまい、佑月は熱い息を吐いていた。
少しくらいはいいんじゃないかと思うのだが、佑月はかなり心配性なので徹底している。
泣きそうな顔で唇を噛んで禁欲するという佑月を見て、可愛くてクスッと笑ってしまった。
口寂しそうな佑月のために、渉はテーブルに載っていた蜂蜜の瓶を手に取った。
佑月の幸せのためなら、過去でも未来でも飛んでいって、渉は何でもやるつもりだ。
しかし実際のところ、過去に戻るのは、心が揺れるようなことばかりだった。
ちょっと愚痴を言いたくもなる。
「……大変だったんだからね」
そう言って口を尖らせていると、佑月が呑気な顔で何が? と聞いてきた。
「ひみつ」
そう言って、佑月の口の中に、蜂蜜を塗った指を入れると、ペロリと舐めた佑月は、甘いと言って笑った。
(終)
ガシャンとまた轟音が鳴り響いた。
コンクリートの硬い地面に転がった渉の目に、車が電信柱に衝突したのが見えた。
「ん……うぅ……う……」
勢いよく押し倒したので、凛奈は頭を打ったのか、目をつぶって痛そうな声を上げていた。
「大丈夫か!? 君、怪我はないか!?」
渉は車が突っ込んでくる直前に凛奈を押し倒した。
間一髪、跳ね飛ばされることなく、二人で地面の上を転がって、命は助かった。
周囲の人が集まってきて、二人の無事を確認した。
凛奈の方を見ると、横断歩道の向かい側から走ってきた男性に抱き起こされていた。
頭に怪我をしていたが、意識はあるようで、怯えながらも、受け答えをしているように見えた。
「今、救急車が来るから」
「大丈夫です。怪我は……」
「血が出てるぞ、どこかぶつけたかもしれない。ちゃんと行った方がいい」
怪我と言っても擦りむいたくらいなので、渉は遠慮したが助けに来てくれた人達に諭されて、病院に向かうことになった。
大勢の前で起きた事故なので、警察が走り回り、野次馬が大勢来て、たくさんの人が道路に溢れかえり、凛奈の姿は見えなくなるほどだった。
通行人の人に、女の子の方も大丈夫そうだと教えてもらい、渉はホッとして息を吐いた。
「……よかった。これで……よかった」
傷ついた腕を抱えながら、喧騒の中、渉は目を閉じた。
お大事に、と言われて渉は診察室を出た。
看護師さんから、女の子が助けてくれた人にお礼を言いたいと言っているから、会いに行ってあげてと言われたが、渉は首を振って、お大事にと伝えてくださいと言って頭を下げた。
凛奈と同じ病院に運ばれたが、渉は軽傷だったので、腕に軽く包帯を巻かれただけで処置が終わった。
凛奈は転んだ時に頭を打ったので、念のため入院するらしい。
凛奈が処置を受けている部屋の前を通った渉は、少し足を止めてから、また歩き出した。
厚手のパーカーを頭からかぶって下を向いて歩いていると、病院の入口の自動ドアが開いて、佑月が飛び込んでくるところが見えた。
受付の人に声をかけて、あちらですと案内された佑月は、汗を拭いながら走ってきた。
佑月が走ってくる姿が、スローモーションのように見えた。
流れ落ちる汗のつぶ、息遣いまでゆっくりと渉の頭に響いてきた。
触れそうな距離まで近づいてきた佑月は、渉とすれ違ったが、前だけを見ていて、渉には気づかずに走って行った。
「これで、後悔しないよね」
渉は佑月の背中に向かってそっと声をかけた。
病院の外に出ると、空から小さな雪が舞い落ちてきた。
夜空を見上げた渉の目に月が映った。
大きな月が浮かんでいたが、その月は欠けたところのない、立派な満月だった。
「あぁ、やっぱり、これでよかったんだ……」
目を閉じた渉の頭には、佑月との思い出が浮かんできた。
一緒に朝食を食べた朝、仕事帰りに待ち合わせをして、手を繋いで帰った日。
三ヶ月の短い間では、お互いの誕生日を祝うこともできなかったけれど、付き合った記念日だと言って、佑月が買ってきてくれたケーキを覚えている。
蜂蜜が好きな佑月のために、ちょっといいやつを奮発して買ってきて、それを指に乗せたら美味そうだと言って渉が舐めてきた。
嬉しかった。
佑月と過ごした時間で、一秒だって嬉しくない時間はなかった。
今日も明日も、この幸せがずっと続いていくんだと思っていた。
いつかお互いが白髪になって、あんなことがあったねと笑い合うところまで想像していた。
だけど、佑月が苦しんでいる姿より、幸せそうに笑う姿を見ていたかった。
何より、好きだ好きだと言って、押し切って頷かせてしまったのは自分だ。
佑月も好きだと言ってくれたけれど、佑月の本当の幸せを考えた時、隣にいるのは自分ではないと気がついた。
もう夜空を見上げて、悲しく目を伏せるようなことはない。
何一つ、欠けることなく、明るい佑月のまま、愛する人と幸せになってほしい。
「……幸せにするって……約束したから」
その時、雪だよ、寒いねと言って歩いて行く男女の姿が見えた。
寒いからと言って、一つのポケットに繋いだ手を入れていた。
それを見た渉は、涙が止まらなくなってその場に崩れ落ちた。
佑月とも、ああやって一緒にポケットに手を入れて歩いた。
自分達の姿と重なってしまい、それが雪の中に消えて行くのが耐えられなくて手を伸ばした。
「一緒に……幸せになりたかったよ、佑月……佑月……好きだよ……ずっと」
俺も好きだよと言って、抱きしめてくれる人はいない。
寂しさと悲しさと苦しさ
壊れそうな感情に染まった渉の体に、真っ白な雪が降り積もっていく……
降り止むことのない雪が、渉の全身を白く染めていった。
※※※
「渉! 渉!」
ぼんやりした視界に、会いたかった人の顔が浮かんだ。
手を伸ばした渉が、その輪郭に触れると、懐かしい肌の感触がして口元が綻んだ。
「よかった。気がついた……先生、もう大丈夫ですよね?」
「雨樋さん、少し落ち着いてください。都筑さん、痛みはありますか? ここがどこだか分かりますか? 倒れた時の状況は?」
ペンライトを持った白衣の男が近づいてきて、渉の目にライトを当ててきた。
眩しさに目を細めながら、渉は病院ですかと聞いた。
「あの……俺……、雪が降っている中、路上で倒れて……」
「少し、記憶が混乱していそうですね。都筑さん、貴方はご自宅のマンションの階段から落ちて、意識を失って病院に運ばれたんですよ。彼のことは分かりますか?」
眼鏡をかけた白衣の男にそう言われて、後ろから心配そうな顔で覗き込んでいる佑月の顔を見つけた。
「佑月……俺の、恋人です」
「渉……渉!!」
飛びついて来ようとする佑月を、医師が落ち着いてと言って止めた。
「検査の方は問題ないです。意識も戻ったので、あと少し様子を見て、大丈夫そうなら退院でいいと思います。あ、腕が折れているのでくれぐれも安静に」
「は……はい」
眼鏡をキラリと光らせた白衣の男は、おそらく医師だろうとやっと気がついた。
そして自分は病院のベッドで寝ていて、腕はガッチリと固定されていた。
薬のせいか、痛みはあまり感じないが、頭が混乱してよく考えられなかった。
「佑月……? 雨樋さん? 凛奈さんは?」
「なんで名字で呼ぶんだ? それに、なんで凛奈が出てくるんだ? 記憶が混乱しているのか?」
「ええ、しばらくは、そういった状態になると思いますが、無理に直そうとせずに、様子を見てください」
そう言って医師が病室から出て行ったら、すぐに近づいてきた佑月が、ガシッと渉の手を掴んできた。
「渉、すまない。俺がスマホ忘れたせいで、渉は追いかけて外に出て階段から落ちたんだ。ちょうどタクシーで戻ったところで、階段から落ちた渉を見て……俺は……俺は……、渉は死んでしまったみたいに冷たくなって……」
「ちょっ、ちょっと佑月……」
ボロボロと泣き出した佑月を見て、渉はやっと状況を整理することができた。
今の時間に戻ったんだ。
階段から落ちたのは、五年前ではなく、今の渉だ。
つまり、やはり長い夢を見ていたんだと気がついて、渉の目からもどっと涙が溢れ出した。
「渉? どうした? 痛いのか!? せ、先生を……!!」
ベッドの上にあった呼出用のボタンに触れた佑月の手を、渉はそっと止めた。
「だ……大丈夫、嬉しくて……戻れて、よかったって……」
「渉……」
本当に長い長い夢だった。
あんな思い、二度としたくないと思うけど、もし本当に五年前に戻ったとしても、渉は同じ行動を取るだろう。
泣き出した渉のことを、ベッドに腰を下ろした佑月が抱きしめてきた。
佑月の匂いが体中に広がって、嬉しくていっぱい息を吸い込んだ。
何よりも、佑月に一番幸せでいてほしい。
それが、渉の幸せ。
一緒に生きていくことが許されるのなら、佑月の後悔も苦しみも全部包み込んで、愛し抜いていく。
一生……ずっとずっと……
抱きしめられた腕の中で、渉はそっと目を閉じた。
「そうだ、冷蔵庫の食べ物、あれどうした?」
「一人で食べたよ。さすがに残しておけないからさ」
「よかった気になっていたんだよね。洗濯物は溜まっている? ちゃんと掃除は……」
玄関のドアを開けて、久々に佑月の家の匂いを嗅いだら、やっと帰ってきたという気持ちになった。
「退院できたからって無理するなって。片手はしばらく使えないんだし、家事は全部俺がやるから、渉は動かないこと、いいな」
「そんなー、仕事も休みなのに……。聞き手じゃないから少しくらいは大丈夫だよ」
「いや、だめだ。お風呂から何もかも……、ここの世話も俺がやるからな」
そう言って佑月は渉のお尻に触れてきたので、渉はもうと言って佑月の手から逃れた。
「へんたーい、えっち」
「何とでも言え。恋人の特権だ」
そう言ってヘラヘラ笑う佑月を見て、こんないたずらをする人だったかなと渉は首を傾げた。
その時、溜まっていた郵便物の束に、綺麗な花柄の封筒を見つけて、渉はそれを片手で掴んだ。
「あれ、これ招待状……? えっ……これって!?」
差出人を見て、驚きの声を上げた渉の後ろから、佑月が封筒を覗き込んできた。
「ああ、凛奈か。話には聞いていたが、ついに結婚するんだな」
「え? え? なに? どういうこと?」
佑月の口から出てきた言葉が衝撃的で、渉は目を白黒させてしまった。
過去に戻った話は夢だったはずだ。
今の時間軸では、凛奈は…………
「記憶が混乱しているんだな。凛奈が昔、俺の婚約者だったことは覚えているか? 渉と出会った頃には別れ話が出ていて、向こうも好きなやつができたって言うから、俺もそれで気持ちを切り替えて、いい友人関係に戻ったし、もう未練なんてないって話したはずだ」
何を話しているのか、これはまた夢なのか、渉は口をパクパクさせて混乱してしまった。
そんな渉の様子を見て、佑月は順を追ってちゃんと話してくれた。
佑月の話によると、同じ高校で友人だった二人は、気が合ったので付き合うことになったそうだ。
お互いの両親の仲が良く、将来結婚しなよと言われて、婚約という話になった。
しかし五年前、佑月の仕事の忙しさが原因で、二人は喧嘩ばかりで、ついに別れようという話になった。
凛奈が他に好きな人ができたというのが決め手になって、二人は何度も話し合い、友人関係に戻ったそうだ。
別れてからも度々カフェで会っていたのは、佑月が会社の独立を検討していて、凛奈はその広報として手伝いをしていたからだそうだ。
事故の時の話も教えてくれた。
その日は、凛奈が新しい彼氏を紹介するというので、三人で食事をする予定だった。
佑月が仕事に遅れることを連絡したら、凛奈は彼氏と駅前で待ち合わせて、佑月の職場近くの居酒屋に、待ち合わせ場所を変えることにしたらしい。
仕事を終えた佑月に、凛奈が車の衝突事故に巻き込まれて、怪我を負ったと連絡が入った。
急いで病院に駆けつけると、凛奈は近くにいた若い男性に助けられて、幸い頭に少し怪我を負っただけだけで命に別状はなかった。
その時に新しい彼氏を紹介されて、彼氏が海外勤務になったので、凛奈も付いていくという報告をされたと教えてくれた。
「しょ……招待状は? カフェでそんな話を……てっきり結婚式を予定していたのかと……」
「なんだ、そんな話を覚えていたのか。設立記念のパーティーを企画していて、その時の招待状を凛奈に作ってもらっていたんだ」
頭がますます混乱してしまった。
凛奈が若者に助けられた、それは過去に戻った渉の行動だ。
つまりこれは、ただ長い夢が覚めただけではなく、過去を変えて戻ってきた、ということだろうか……。
「本当言うと……、凛奈と別れ話で揉めている時、好きな人ができたって言われてホッとしたんだ。あの時、渉に会う度に心が浮かれて……、顔が見たくて店に行くといつも探してしまって……正直言うと惹かれていた」
「えっ……」
「いや、この話はしたか……。ほら、ここに越してきて、渉とベランダで会った時、大声上げて驚かせただろう。あの時、運命だって思ったんだよ。それで……押して押して……困っている渉に何度も告白して……」
「ええ!?」
「ちょっ……、おい、それも忘れたのか!?」
話がおかしいことになっている。
再会して浮かれて、猛アタックで泣き落としたのは、渉のはずだった。
それが、佑月の方からということになっていて、理解が追いついていかなかった。
「なんだよー、もう何度だって言ってやる! 好きだ、好きだ、好きだ! 渉、俺と付き合ってくれ!」
「は……はい…………って、もう、付き合ってるじゃん」
「だってさ……渉が全然覚えてないみたいな顔をするから……」
口を尖らせて、甘えるように渉の髪に頬を擦ってきた佑月を見て、渉の心臓はドキッとしてしまった。
こんなに直接的に熱い表現をする人ではなかった。
これが、佑月の本来の姿なんだと思うと、ふつふつと喜びが湧き出してきた。
「絶対幸せにするって言っただろう」
「え、それ俺の台詞」
それまで取られてしまったのかと、渉は慌てたが、嬉しそうに笑った佑月が優しく抱きしめてきた。
「なんか、渉がすごい俺を好きみたいで嬉しい」
「なっ……そんなの当たり前だよ」
「それそれー、いつもあんまり好きだって言ってくれなくて、無理やり付き合ったのかなって、ずっと心配で……」
それは渉がしていた心配だった。
それも取られてしまったのかと驚いたが、よく考えれば、安心させる方法は、心配していた自分だからこそ知り尽くしていた。
「ちゃんと好きだから……、大丈夫。佑月、大好きだよ、俺達、一緒に幸せになろうね」
「渉……」
安心させるように片手で渉の背中を撫でてあげた。
片手が使えないから、ぎゅっと抱きしめることができなくて、それが悔しい。
もう片時も、離れていたくなかった。
「あ、そうだ! 渡したいものがあるって言っていたよね、あれって……」
「ああ……それね。いつ出そうかと思っていたけど」
ゴソゴソとコートのポケットに手を入れた佑月は、中から何かを取り出して、渉の前で手を開いて見せてくれた。
「え……鍵?」
「そう、このマンション、狭いだろう。二部屋借りている状態だし、近くのマンションだけど、もっと広くていい部屋があったから買ったんだ。……一緒に暮らそうって言って、あの日はそのお祝いも兼ねてディナーに……」
「嘘……本当に?」
「今は法的に結婚できるわけじゃないけど、鍵を渡して伝えたかったんだ。俺とこれから一生、ずっと一緒に生きてほしい」
「……うん、ずっと一緒にいよう」
まだ明るかったが、空には月が見えた。
落ちてきそうなほど大きな満月だった。
過去に戻って佑月の後悔を救い、また今に戻ってきた。
説明なんてできるものではないが、そう考えるのが一番しっくりくるような気がした。
そのためか分からないが、所々違う箇所はあるが、お互いが愛し合って一緒に生きて行く未来を考えていた、それは変わらなかった。
抱き合った二人は自然と唇を重ねた。
何度も角度を変えて、お互いの熱を混ぜ合わせて喉を鳴らした。
「しばらく無理はダメだと言われたが……俺は限界に近い。でも、我慢する……」
キスをしていたら、昂ってしまい、佑月は熱い息を吐いていた。
少しくらいはいいんじゃないかと思うのだが、佑月はかなり心配性なので徹底している。
泣きそうな顔で唇を噛んで禁欲するという佑月を見て、可愛くてクスッと笑ってしまった。
口寂しそうな佑月のために、渉はテーブルに載っていた蜂蜜の瓶を手に取った。
佑月の幸せのためなら、過去でも未来でも飛んでいって、渉は何でもやるつもりだ。
しかし実際のところ、過去に戻るのは、心が揺れるようなことばかりだった。
ちょっと愚痴を言いたくもなる。
「……大変だったんだからね」
そう言って口を尖らせていると、佑月が呑気な顔で何が? と聞いてきた。
「ひみつ」
そう言って、佑月の口の中に、蜂蜜を塗った指を入れると、ペロリと舐めた佑月は、甘いと言って笑った。
(終)
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とても感情移入してしまって途中すごく切なくなり胸が痛くなってしまいました。ハピエンがわかっていましたが、どう着地するのかなと思いましたが、相手の幸せを願う想いがトゥルーエンドに導いたように思いました。過去に戻ることによって知らなかった真実も知ることができたのかな、と。とても続きが気になるお話でした!ありがとうございました!
えみ様
いつもお読みいただきありがとうございます。
こちらの作品も読んでいただけて嬉しいです。
主人公の選択によって、未来にかかる影を晴らすことができた。
という流れになっているのですが、知らなかった真実、言葉足らずでお互いすれ違っていた部分など、クリアになって愛が深まったんじゃないかなと思っています。
回帰モノを現代に持ち込んで、カップルからの試練という、初めて書いたパターンだったのですが、うるうると切なくなりながら書いておりました。
記憶喪失モノといい、ラブラブからの試練は胸が痛くなりますね^^;
続きが気になると言っていただけて嬉しいです。
温かい感想もいただけて嬉しいです。ありがとうございました☆☆
とてもハラハラして読んでいました。でもハッピーエンドで本当に良かった!ホットしました。渉さんの優しさが過去を変えたのかなと思います。できたら、その後の2人がどうなったのかも書いていただけたら幸いです。素敵なお話をありがとうございました(=^・^=)
星合 昴様
お読みいただきありがとうございます。
ハッピーエンドでよかったと言いっていただけて、嬉しいです☆☆
思いついて書き始めた作品ですが、渉の気持ちに入りつつ作者もハラハラ、ウルウルしながら書いておりました。
過去が変わっても変わらなくても、二人の絆は強かったのですが、より深く結ばれたという気持ちを込めました。
二人のラブラブな様子もいつかお届けできたらいいなと思っております。
感想ありがとうございました(^^)☆彡
ハッピーエンドでよかったです!
幸せになれて良かった。
素敵なお話をありがとうございます
ミルフィーユ様
お読みいただきありがとうございました⭐︎⭐︎
異世界系のお話が続いていたので、久々に現代のお話にチャレンジしました。
ラブラブスタートから波乱ありの展開は初めてだったので、ドキドキしながら書いておりました。
ハラハラしつつ、最後は深い絆で結ばれたかなと思っております。
感想ありがとうございました(^^)