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「回帰って知ってる? 死の戻り? ほら、死んだとかで、やり直したい過去に戻るってやつ。今ドラマでやっててさ」
「知ってる。あれ面白いよね」
目の前でメニューを見ながら、全然違う話を始めてしまった女子高生達を見ながら、渉は無言で立っていた。
彼女達の話は渉も知っている。
五年前に流行ったドラマの話だ。
その事実を突きつけられて、ため息すら出る元気がなかった。
「もし、過去に戻ったらどうする?」
「もちろん、好き勝手、色々変えちゃう! だって未来を知っているし、なんだって出来るじゃん」
だよねー、と言い合って笑う女の子達の話が胸に刺さって、渉は目を閉じた。
彼女達と自分は正反対の位置にいる。
渉はとにかく、五年後まで、何一つ変えることなくやっていかなければいけない。
なんだってできないのだ。
そうでなければ、何がキッカケで世の中がおかしくなって、佑月と再会できなくなる、なんてことになったら最悪だ。
例えば株で一儲けしてやるかなんて考えても、そのせいで巡り巡って、なんてことになったら後悔しかない。
「ねーねー、お兄さん、聞いてます? 私アイスモカ」
「私、アイスカフェオレ、クリーム増量で」
お喋りに夢中になっていたのに、急に注文が始まったので、渉は慌てて目を開けた。
「六百円と、七百五十円です」
金額を言ってレジを叩いたら、女の子達はまた楽しそうに話しながら歩いて行ってしまった。
彼女達の後ろ姿を見ながら、まるでドラマの登場人物みたいな自分の状況に、渉はやっとため息をついた。
やはり夢ではなかった。
普通に大学も存在して、あの頃の友人達も変わらない姿で授業を受けていた。
実家にはまだ自分の部屋があって、母と父が当たり前のように生活していた。
そして自分もまた、過去と同じように動き出せば、ぴったりとピースがハマるように、当たり前の風景に馴染んだ。
そして今日もまた、カフェのバイトに来ている。
シフトは平日と土日のどちらかで入っていた。
佑月がカフェに来るのは、行き帰りの時間と、水曜と金曜は婚約者である凛奈とここで待ち合わせをしている。
お昼時の休憩を利用して会っているのか、しばらくここで話してから、二人で席を立って店を出て行く。
それを見せられる渉としては、一刻も早く時間が経ってくれないかと震える思いだった。
「注文、いいですか?」
「は、はい!」
佑月のことを考えていたら、目の前に本人が現れたので、心臓がドキッと揺れてしまった。
「この期間限定のアイスレモネードに、レモンクリームを増量してピールと……」
耳に優しく触れるような声は、間違いなく佑月のものだ。俯いたまま、メニューを覗く佑月の目には、長いまつ毛が揺れていて、それに触れるのが大好きだったことを思い出した。
思わず手を伸ばしそうになるのを、必死で堪えた。
「ええと、後は……」
「蜂蜜ソース追加ですね」
「えっ……」
佑月の好みを把握していた渉は、迷っている顔の佑月を見て、つい口を出してしまった。
今までメニューに向けていた佑月の目が、ゆっくりと上がってきて、渉を映したのが分かった。
「よく、分かりましたね。びっくりです」
「え……あ……これはその……」
自分が言おうとしていたことを言い当てられたからか、佑月は驚いた顔をして渉を見てきた。
これは何と言って切り抜けたらいいのか、思いつかなくて渉は慌ててしまった。
「ええと、顔に……」
「えっ、顔に? もしかして書いてあった?」
そう言って自分の顔を指差した佑月は、ぷっと噴き出して笑い始めた。
「はははっ、蜂蜜好きだってバレちゃいました? お兄さんすごいですね。初めて見るけど、ここの新人さん?」
「あ……そ、そうです。先週から、お世話に……、都筑渉です……」
「よろしく、都筑くん。俺は雨樋佑月といいます。すぐ裏のビルで働いていて、ここには何年も通っていて、店員さんと仲良くなると、色々教えてもらえるから助かってます。都筑くんもよかったら、オススメのカスタマイズとか教えてね」
そう言ってにこやかに笑顔を見せてくれた佑月を見て、心臓が飛び出しそうなくらいドキドキしてしまった。
渉が知っている佑月は、どちらかと言うと物静かで、こんな風に笑顔を見せて、人懐っこくペラペラ喋ったりしない。
昔はそうだったのか、それともよそゆきの顔なのか、戸惑いながら、差し出された手を自然と握って握手をしてしまった。
ドリンクを受け取って、それじゃあと言って背を向けて歩き出した佑月を見て、渉は夢のような心地よい気持ちになってぼんやりその背中を眺めていた。
しかし、次の瞬間、ハッと気がついて、ヤバいと声を上げそうになった。
過去のバイト中、普通に接客はしたが、あんな風に名前を伝えて話すような機会はなかった。
他のスタッフと佑月は気軽に話していたが、渉は好みのタイプの佑月を遠巻きに見るだけで、緊張して近づくこともできなかった。
だから、日常会話はおろか、挨拶すらまともに交わした記憶はない。
いきなり過去を変えてしまった。
これはマズいことになってしまったのではと、汗がどっと噴き出して、顔の横をダラダラと流れていった。
店員と軽く会話をしただけで、何が変わるとは思えないのだが、なるべく過去と違う行動はしない方がいい。
とにかく、自分にとっての今に戻るために、それだけを考えて……
そう思っていたのに…………
「聞いてよ、渉ちゃん。今日も残業、これで今週全部残業。最悪だよね」
「……お疲れ様です」
「大学生だと、社会人ってキラキラして見えるかもしれないけど、実際は泥まみれになりながら、必死に這いつくばっているようなものだからね」
「朝から学生の夢を壊していただき、ありがとうございます」
「ははっ、冷たいなぁ。でもその冷たい感じが、いいよね。頭がシャキッとするというか」
そういえばと、渉はしみじみ思い出していた。
佑月は人たらしで、誰からも好かれるところがあった。
相手の懐に入り込むのが上手くて、どんなに警戒していても、いつのまにか名前で呼ばれるような間柄になってしまう。
今それを肌で実感していて、どうしたものかと、心の中で頭を抱えていた。
あんなに避けようと思っていたのに、佑月は一度会話をしたらもう友達なのか、次にお店に来た時には、笑顔で話しかけてきた。
相手はお客さんなので、無視するわけにもいかず、返事をしていたら、次の日には名字から名前呼びに変わっていた。
渉自身も、過去を変えないようにしようと思っているのに、好きな人が笑顔で話しかけてきたら、条件反射で尻尾を振ってしまう。
無視するなんて俺には無理だと、心の中で泣いていた。
「お疲れの雨樋さんに、クリーム増量しておきました」
前職が激務だったというのは本当だったらしい。
寝ないで仕事に向かうという佑月の目元には、大きなクマがあって、顔色も悪く見えた。
過去の佑月だというに、辛そうな顔を見たら心配になってしまった。
「えー、嘘、渉ちゃん、天使だわ。優しさが目に沁みるー。いい店員さんと仲良くなれてよかった。ありがとう」
佑月の笑顔を見たら、全身が熱くなって心臓が騒ぎ出した。
もう今日は何だってできそうな気がして、空に飛んでいける気持ちになった。
しかし今日は水曜日だ。
目の前で佑月と彼女のラブラブデートを見せられる日なのだ。
心の蓋を閉じる準備をしておかねばと、渉は鼻から息を吐いた。
「あれ、そう言えば、今日はお連れ様遅いですね。いつもは先に来て待っているのに」
ドリンクを待っている間、佑月と目が合ったので、何か話さないと、と思った渉だったが、口にしてからまた余計なことを言ってしまったと気がついた。
「ああ、ちょっと喧嘩しちゃって。いや、俺がさ、悪いんだけどさ」
プライベートに踏み込んでしまったが、佑月は嫌な顔をすることなく答えてくれた。
元気のない佑月を見たら、つい慰めたくなって、渉は口を開いた。
「そういう時は、早めに謝った方がいいですよ。きっと、相手の方も、仲直りしたいって思っていますよ」
渉の言葉に、佑月は驚いたように目を開いて、次の瞬間、ふわりと笑った。
「ありがとう」
ドリンクを受け取るのと同時に、お礼を言った佑月は、目に少し輝きが戻ったように見えた。
そのまま席に向かって行く背中を、惚けた顔で見つめていた渉だったが、佑月の姿が小さくなってから、足に力が入らなくなって床に座ってしまった。
何をバカなことをしているんだと、自分の頬を叩いた。
関わらないようにするつもりだったのに、自分から話しかけて、しかも偉そうに恋愛のアドバイスまでしてしまった。
やけに辛そうに見えた佑月の横顔を見たら、放っておけなくなってしまった。
次こそ、次こそはと心に決めていたが、翌日、店の前を掃除していたら、歩いてきた佑月とバッタリ会ってしまった。
「おはよう、渉くん」
「お……おはようございます」
「今日は朝番? これから大学?」
「え、ええ。授業は午後からなので……」
通勤途中の佑月は、ロングコートをカッコよく着こなして、手には真っ黒なグローブを着けていた。
頭からつま先まで少しも乱れがない。
カッコいいなと、またうっとりと眺めてしまった。
「昨日の、ありがとう」
「えっ?」
「ほら、早く連絡した方がいいって教えてくれただろう。おかげで仲直りできたよ」
「そ、そうだったんですね。それは……よかった」
「まさか、年下の子にアドバイスをもらうとは……。君は本当にいい子だ」
ポンポンと頭を撫でられて、それじゃと言って、佑月はピカピカに磨かれた靴をコツコツと鳴らしながら、通りを走って行ってしまった。
胸が弾けてしまいそうなくらい揺れていた。
こんな関係耐えられない。
今すぐ駆け出して、佑月に抱きつきたい。
どうして店員と、お客さんの頃に戻ってしまっただろうかと、悲しみが込み上げてきた。
遅く起きた朝、二人で遅刻するなんて言いながら、肩を並べて歩いた日を思い出した。
今追いかけても、一緒に歩いていけないことに、愕然とした渉は、足が震えてしまった。
でも大丈夫。
未来で二人は恋人同士になるのだから。
大丈夫、その頃側にいるのは自分だ。
婚約までした彼女、凛奈さんではない。
そこまで考えた渉だったが、ハッと気がついて、持っていた箒を地面に落としてしまった。
集めたはずの落ち葉が、風に飛ばされて、またぱらぱらと散らばっていく……
「そうだ、凛奈さんは……」
なんて大事なことを忘れていたんだろうと口に手を当てた。
佑月と結ばれる未来のことしか頭になかったが、階段から落ちる前、渉は大事な話を聞いていた。
佑月の今の恋人、凛奈は、交通事故に遭って亡くなってしまうのだ。
凛奈と死に別れた佑月は、その後仕事に没頭して、誰とも付き合うことなく生きていた。
そんな時、寝起きするのに便利だと、会社近くのワンルームを借りて、引っ越してきた。
そう、それで、渉と再会することになる……
今、この時点では、凛奈は生きている。
過去を変えないようにすること。
それはつまり、凛奈が事故に遭うことを知っていながら、知らないふりをして、彼女の死を待つ、ということだ。
「だって……だって仕方ないだろう。俺が悪いわけじゃない……俺のせいじゃない……。佑月は俺の恋人なんだ。絶対、俺の恋人になるんだから……」
渉は一人で呟きながら、モヤモヤとする胸を掻きむしった。
道行く人に、大丈夫かという目で見られたが、どうでもよかった。
自分が見ているのは、佑月との未来だけ。
それ以外、何も見ないし、何も考えない。
そう繰り返しながら、手を震わせて、箒を拾いながら地面を強く掴んだ。
会いたくない人に会うというのは、渉の運命なのかもしれない。
大学の帰りにバイトに入ったら、そのタイミングで店に入ってきたのが、凛奈だった。
ウェーブがかかった茶色のロングヘアをしていたが、ストレートパーマをかけたのか、真っ直ぐな黒髪に変えていた。
髪型が変わっても、その目鼻立ちのハッキリとした美人顔は変わらない。
入ってきた時にすぐに分かって、あっと声を上げてしまった。
いつも凛奈はイヤフォンで音楽を聴いていて、こちらを見ることはあまりなかったが、今日は驚いた顔で渉を見てきた。
「え?」
「す、すみませんっ、いつもと雰囲気が変わっていたので、つい声が……」
「ああ、イメチェンしたんです。好きな人が、こういうのが好きみたいだから」
人から見られることに慣れているのだろう。
突然店員が変なことを言っても、全く動じる様子はなく、凛奈は口の端を上げて可愛らしく微笑んだ、
「い……いいですね。そういうの、俺もしてみたいです」
そう言いながら、佑月は黒髪のロングヘアが好きだったのかと衝撃を受けた。
渉は出会った頃から変わらず、薄茶色の髪に天然パーマがかかっているので、毛先はくるくると回って遊んでいる。
好みとは真逆と言っていい状態に、嘘だろうとショックを受けた。
「えー店員さん、彼女いたことないの?」
「ええ……、どうも片想いばかりで……」
「爽やかイケメンってやつ? 可愛い顔しているのにもったいないー。もしかして、シャイだったりする? 積極的に話しかけて見たら? 絶対上手くいくって」
どうやら熱い人のようで、手を握られて、真剣な目で励まされてしまった。
凛奈はいつもスマホを触っていることが多いので、こんな風に会話をしたことがなかった。
「店員さんの片想いが実りますように。頑張ってね」
凛奈はそう言って、とびきりの笑顔を見せてくれた。
いい人だ。
ただの店員に話しかけられて、ここまでしてくれる人はなかなかいない。
そう思っていると、凛奈の視線が入り口の方に移って、次の瞬間、佑月と声を上げた。
自動ドアが開いて、入ってきたのは佑月だった。
「悪い、遅くなった」
「いいよ、全然。コーヒー二つ頼んでおいたから。それより早く、招待状のチェックしちゃおう」
「ああ、それは俺が持って行く」
忙しそうに店に入ってきた佑月は、二つのコーヒーが載ったトレイをカウンターの上から取って、先に歩き出した。
その後ろを凛奈が何か話しかけながら追いかけて行く。
まるで映画のワンシーンのような光景を目の前で見せられて、渉は固まったようになって動けなくなった。
佑月は凛奈のことを婚約者だったと話してくれた。
婚約関係で招待状と言ったら、それは結婚式の招待状ということだろう。
二人は結婚を決めて、式の用意までしていた。
その事実が、渉の両肩に重くのしかかり、視界が真っ黒な色に染まっていく。
いつも渉くんと話しかけてくる佑月だが、今日は一度も渉の方を見てくれなかった。
過去を変えてしまうなどと、心配する必要などなかった。
日常会話を交わしただけ、佑月にとって自分は、ただの店員で、それ以上の存在として、見られていることなどなかったと気がついた。
「バカだな……何を期待しているんだよ」
胸の中に真っ黒なものが溜まっていく。
返して
佑月は俺の
早く返して
俺の佑月を……
「返してよ……」
渉が小さく呟いた言葉は、賑やかな店内の喧騒に吸い込まれて消えていった。
それから大学はテスト期間に入り、渉はしばらくバイトを休むことになった。
大学の帰りに、足が向いてしまい、ふらっとカフェの前に行ってしまったこともあった。
テラス席に、佑月と凛奈が座っているところが見えた。
美男美女、ぱっと目を引く二人の姿に、道行く人がチラチラと視線を送っていた。
注目されていることなど気にせずに、二人は楽しそうに笑っていた。
佑月が目を細めて、嬉しそう笑う顔。
それを一番近くで見ていたのは自分だった。
それなのに、自分は近づくことも許されない距離にいる。
これは過去だ。
過去だからそれでいいんだと何度も思うけれど、それでも胸が痛くて張り裂けそうな思いになった。
「佑月……俺はここにいるよ」
ひとりでそうやって呟いて、項垂れたまま背を向けるしかなかった。
一月経って渉がバイトに復帰すると、ふらりと顔を出した佑月は、久しぶりと声をかけてきた。
変な態度をとったらどうしようかと考えていたが、渉は店員として、お久しぶりですと言って自然に対応した。
過度な馴れ合いはしない。
あくまで、立ち寄るお店で見かけるだけの相手として……
あまり話さなくなった渉のことを、佑月は不思議そうな顔で見ていた。
これでいい、これでいいんだと心の中で何度も繰り返して、渉は黙々と仕事をした。
季節は流れて、外の木々は葉が落ちて、枝だけに変わっていた。
お客さんが入ってくるたびに、吹き込んでくる風の冷たさに、本格的な冬の到来の予感がした。
仕事が終わり、ゴミ出しのために、外の倉庫に向かっていた渉が空を見上げると、空はどんよりと曇っていて、雪が降りそうなほどの冷気に包まれていた。
雪
それを考えた時、佑月の言葉が浮かんできた。
凛奈は雪の降る日に交通事故に遭った。
何かに背中を押されたように、スマホを取り出した渉は、急いでカレンダーを確認した。
佑月から聞いていた命日の日、それは、明日だった。
「う……嘘、ああ……明日……!?」
関係ない。
自分には関係ないんだと思いながら、渉は首を振ってゴミを片付けた。
明日だ。
明日を乗り切れば、佑月は自分のところへ来てくれる。
そう、明日、一人の女性の死を待つだけで……
倉庫のドアを閉めて顔を上げると、空には大きな月があった。
少しだけ欠けた月、なんとも悲しく見えてしまった。
その時、渉の脳裏に、佑月が悲しそうな目で夜空を見上げている横顔が浮かんできた。
「ずっと欠けたまま……」
渉が佑月に告白をした時、佑月は、俺みたいなつまらない男でいいの? と返してきた。
佑月のことが全部好きだからと渉は答えたが、佑月は、俺は色々と欠けた男だからと言っていた。
結婚寸前までいった、愛していた女性を失って、自分の中の何かが欠けてしまった、佑月はそう言いたかったのではないかと思った。
佑月にとっての幸せとはなんだろう。
過去に戻る前から、渉はずっとそう考えていた。
無理やり、頼み込んで押し切って、付き合うことになったから、佑月はどこか無理をして合わせてくれているんじゃないかと思っていた。
自分と一緒にいることが、本当に佑月の幸せなのか。
そう思ったら、辺りは静まり返って全ての音が止んでしまった。
「絶対幸せにする……」
渉はそう言って佑月を抱きしめた。
その時、佑月はどんな顔をしていたのだろう。
渉は告白して、好きな人を抱きしめることに必死で、何も覚えていなかった。
次の日、一睡もできなかったが、渉はカフェのバイトに来ていた。
カフェエプロンを着けて、接客していたが、心ここに在らずで、時計ばかり見ていた。
朝からどんよりしていたが、外を見ると、傘をさすほどではないが、小さな雪が降り出したのが見えた。
佑月から聞いていた時間は、ちょうどお昼を過ぎた頃だった。
朝から時計ばかり見て、刻々と時間が過ぎていく中、渉は吐きそうになるくらいの緊張感で過ごしていた。
「ちょっ、渉くん、顔色悪くない? 大丈夫?」
フラフラになりながらレジに立っていたら、心配したモモちゃん先輩が話しかけてきた。
「もうすぐお昼だし、休憩入る? ちょっと休んだ方がいいって……」
「お昼……」
そう言われて、時計を見た渉は、着けていたエプロンを外して、ちょっと出てきますと言って店を飛び出した。
時計の針は間もなく、正午をさそうとしていた。
場所は駅前の大きな交差点、先に車同士がぶつかって、反動で飛んできた車に撥ねられてしまったと聞いた。
渉が走って交差点に着くと、そこにはたくさんの人がいた。
クリスマスが近い週末、カップルや家族連れ、友人同士で楽しく集まっている姿が見えた。
まだ、大きな事故が起こったような様子はない。
渉は辺りを見渡した。
凛奈は原色の明るい色を好んで着ていた。
それに、あのスタイルの良さと、ハッキリした顔立ちは、遠くから見ても分かるはずだ。
「……いた」
見覚えのあるコートと長い黒髪が見えて、すぐにそれが凛奈だと分かった。
信号は赤、凛奈は横断歩道の先頭に立っていた。
メッセージでも送っているのか、じっとスマホを見ていて、周りの人より少し前に出ているように見えた。
全ての時間が止まったように思えた。
なぜここに来てしまったのか。
今日がその日だと思ったら、足が止まらなくなった。
何度も考えた
自分はなぜ五年前に戻ったのか。
それはこの日のためではないかと考えた。
この日、佑月は凛奈と会う約束をしていた。
しかし、佑月は急な仕事で遅れることになってしまい、凛奈は待ち合わせ場所を変えるために、駅に向かっていたらしい。
俺のせいで凛奈は、と佑月は語っていた。
事故は佑月のせいではない。
けれど自分が遅れなければと、佑月は後悔することになる。
自分は欠けた人間だ。
この先の人生で、欠けた月を見ながら、佑月は何度も何度も、数え切れないくらい後悔して生きることになる。
佑月を悲しみから救ってみせる。
そう思っていたが、佑月の幸せを考えた時、本当にそれが正解なのか分からなくなってしまった。
だって今、渉がいるのは、五年前だ。
佑月が一生後悔する出来事がこれから目の前で起こる。
そこに立っているとして、自分のできることは何なのか。
坂道を下ってくる車が、明らかにおかしい蛇行運転をしていた。
クラクションの音が鳴り響き、みんなその方向に目をやった。
凛奈の耳には、イヤフォン。
スマホを弄っていて一人だけ、その方向を見ていない。
ガシャンと音がして、車同士がぶつかり合った。
周囲の人は危険を感じて逃げていき、そこでやっと凛奈は顔を上げた。
ぶつかったが車の勢いは止まらない。
反動で、信号待ちをしている人の方向に勢いが変わった。
渉は走った。
周囲の悲鳴よりも、はぁはぁと自分の吐く息の音だけが頭に響いていた。
※※※
「知ってる。あれ面白いよね」
目の前でメニューを見ながら、全然違う話を始めてしまった女子高生達を見ながら、渉は無言で立っていた。
彼女達の話は渉も知っている。
五年前に流行ったドラマの話だ。
その事実を突きつけられて、ため息すら出る元気がなかった。
「もし、過去に戻ったらどうする?」
「もちろん、好き勝手、色々変えちゃう! だって未来を知っているし、なんだって出来るじゃん」
だよねー、と言い合って笑う女の子達の話が胸に刺さって、渉は目を閉じた。
彼女達と自分は正反対の位置にいる。
渉はとにかく、五年後まで、何一つ変えることなくやっていかなければいけない。
なんだってできないのだ。
そうでなければ、何がキッカケで世の中がおかしくなって、佑月と再会できなくなる、なんてことになったら最悪だ。
例えば株で一儲けしてやるかなんて考えても、そのせいで巡り巡って、なんてことになったら後悔しかない。
「ねーねー、お兄さん、聞いてます? 私アイスモカ」
「私、アイスカフェオレ、クリーム増量で」
お喋りに夢中になっていたのに、急に注文が始まったので、渉は慌てて目を開けた。
「六百円と、七百五十円です」
金額を言ってレジを叩いたら、女の子達はまた楽しそうに話しながら歩いて行ってしまった。
彼女達の後ろ姿を見ながら、まるでドラマの登場人物みたいな自分の状況に、渉はやっとため息をついた。
やはり夢ではなかった。
普通に大学も存在して、あの頃の友人達も変わらない姿で授業を受けていた。
実家にはまだ自分の部屋があって、母と父が当たり前のように生活していた。
そして自分もまた、過去と同じように動き出せば、ぴったりとピースがハマるように、当たり前の風景に馴染んだ。
そして今日もまた、カフェのバイトに来ている。
シフトは平日と土日のどちらかで入っていた。
佑月がカフェに来るのは、行き帰りの時間と、水曜と金曜は婚約者である凛奈とここで待ち合わせをしている。
お昼時の休憩を利用して会っているのか、しばらくここで話してから、二人で席を立って店を出て行く。
それを見せられる渉としては、一刻も早く時間が経ってくれないかと震える思いだった。
「注文、いいですか?」
「は、はい!」
佑月のことを考えていたら、目の前に本人が現れたので、心臓がドキッと揺れてしまった。
「この期間限定のアイスレモネードに、レモンクリームを増量してピールと……」
耳に優しく触れるような声は、間違いなく佑月のものだ。俯いたまま、メニューを覗く佑月の目には、長いまつ毛が揺れていて、それに触れるのが大好きだったことを思い出した。
思わず手を伸ばしそうになるのを、必死で堪えた。
「ええと、後は……」
「蜂蜜ソース追加ですね」
「えっ……」
佑月の好みを把握していた渉は、迷っている顔の佑月を見て、つい口を出してしまった。
今までメニューに向けていた佑月の目が、ゆっくりと上がってきて、渉を映したのが分かった。
「よく、分かりましたね。びっくりです」
「え……あ……これはその……」
自分が言おうとしていたことを言い当てられたからか、佑月は驚いた顔をして渉を見てきた。
これは何と言って切り抜けたらいいのか、思いつかなくて渉は慌ててしまった。
「ええと、顔に……」
「えっ、顔に? もしかして書いてあった?」
そう言って自分の顔を指差した佑月は、ぷっと噴き出して笑い始めた。
「はははっ、蜂蜜好きだってバレちゃいました? お兄さんすごいですね。初めて見るけど、ここの新人さん?」
「あ……そ、そうです。先週から、お世話に……、都筑渉です……」
「よろしく、都筑くん。俺は雨樋佑月といいます。すぐ裏のビルで働いていて、ここには何年も通っていて、店員さんと仲良くなると、色々教えてもらえるから助かってます。都筑くんもよかったら、オススメのカスタマイズとか教えてね」
そう言ってにこやかに笑顔を見せてくれた佑月を見て、心臓が飛び出しそうなくらいドキドキしてしまった。
渉が知っている佑月は、どちらかと言うと物静かで、こんな風に笑顔を見せて、人懐っこくペラペラ喋ったりしない。
昔はそうだったのか、それともよそゆきの顔なのか、戸惑いながら、差し出された手を自然と握って握手をしてしまった。
ドリンクを受け取って、それじゃあと言って背を向けて歩き出した佑月を見て、渉は夢のような心地よい気持ちになってぼんやりその背中を眺めていた。
しかし、次の瞬間、ハッと気がついて、ヤバいと声を上げそうになった。
過去のバイト中、普通に接客はしたが、あんな風に名前を伝えて話すような機会はなかった。
他のスタッフと佑月は気軽に話していたが、渉は好みのタイプの佑月を遠巻きに見るだけで、緊張して近づくこともできなかった。
だから、日常会話はおろか、挨拶すらまともに交わした記憶はない。
いきなり過去を変えてしまった。
これはマズいことになってしまったのではと、汗がどっと噴き出して、顔の横をダラダラと流れていった。
店員と軽く会話をしただけで、何が変わるとは思えないのだが、なるべく過去と違う行動はしない方がいい。
とにかく、自分にとっての今に戻るために、それだけを考えて……
そう思っていたのに…………
「聞いてよ、渉ちゃん。今日も残業、これで今週全部残業。最悪だよね」
「……お疲れ様です」
「大学生だと、社会人ってキラキラして見えるかもしれないけど、実際は泥まみれになりながら、必死に這いつくばっているようなものだからね」
「朝から学生の夢を壊していただき、ありがとうございます」
「ははっ、冷たいなぁ。でもその冷たい感じが、いいよね。頭がシャキッとするというか」
そういえばと、渉はしみじみ思い出していた。
佑月は人たらしで、誰からも好かれるところがあった。
相手の懐に入り込むのが上手くて、どんなに警戒していても、いつのまにか名前で呼ばれるような間柄になってしまう。
今それを肌で実感していて、どうしたものかと、心の中で頭を抱えていた。
あんなに避けようと思っていたのに、佑月は一度会話をしたらもう友達なのか、次にお店に来た時には、笑顔で話しかけてきた。
相手はお客さんなので、無視するわけにもいかず、返事をしていたら、次の日には名字から名前呼びに変わっていた。
渉自身も、過去を変えないようにしようと思っているのに、好きな人が笑顔で話しかけてきたら、条件反射で尻尾を振ってしまう。
無視するなんて俺には無理だと、心の中で泣いていた。
「お疲れの雨樋さんに、クリーム増量しておきました」
前職が激務だったというのは本当だったらしい。
寝ないで仕事に向かうという佑月の目元には、大きなクマがあって、顔色も悪く見えた。
過去の佑月だというに、辛そうな顔を見たら心配になってしまった。
「えー、嘘、渉ちゃん、天使だわ。優しさが目に沁みるー。いい店員さんと仲良くなれてよかった。ありがとう」
佑月の笑顔を見たら、全身が熱くなって心臓が騒ぎ出した。
もう今日は何だってできそうな気がして、空に飛んでいける気持ちになった。
しかし今日は水曜日だ。
目の前で佑月と彼女のラブラブデートを見せられる日なのだ。
心の蓋を閉じる準備をしておかねばと、渉は鼻から息を吐いた。
「あれ、そう言えば、今日はお連れ様遅いですね。いつもは先に来て待っているのに」
ドリンクを待っている間、佑月と目が合ったので、何か話さないと、と思った渉だったが、口にしてからまた余計なことを言ってしまったと気がついた。
「ああ、ちょっと喧嘩しちゃって。いや、俺がさ、悪いんだけどさ」
プライベートに踏み込んでしまったが、佑月は嫌な顔をすることなく答えてくれた。
元気のない佑月を見たら、つい慰めたくなって、渉は口を開いた。
「そういう時は、早めに謝った方がいいですよ。きっと、相手の方も、仲直りしたいって思っていますよ」
渉の言葉に、佑月は驚いたように目を開いて、次の瞬間、ふわりと笑った。
「ありがとう」
ドリンクを受け取るのと同時に、お礼を言った佑月は、目に少し輝きが戻ったように見えた。
そのまま席に向かって行く背中を、惚けた顔で見つめていた渉だったが、佑月の姿が小さくなってから、足に力が入らなくなって床に座ってしまった。
何をバカなことをしているんだと、自分の頬を叩いた。
関わらないようにするつもりだったのに、自分から話しかけて、しかも偉そうに恋愛のアドバイスまでしてしまった。
やけに辛そうに見えた佑月の横顔を見たら、放っておけなくなってしまった。
次こそ、次こそはと心に決めていたが、翌日、店の前を掃除していたら、歩いてきた佑月とバッタリ会ってしまった。
「おはよう、渉くん」
「お……おはようございます」
「今日は朝番? これから大学?」
「え、ええ。授業は午後からなので……」
通勤途中の佑月は、ロングコートをカッコよく着こなして、手には真っ黒なグローブを着けていた。
頭からつま先まで少しも乱れがない。
カッコいいなと、またうっとりと眺めてしまった。
「昨日の、ありがとう」
「えっ?」
「ほら、早く連絡した方がいいって教えてくれただろう。おかげで仲直りできたよ」
「そ、そうだったんですね。それは……よかった」
「まさか、年下の子にアドバイスをもらうとは……。君は本当にいい子だ」
ポンポンと頭を撫でられて、それじゃと言って、佑月はピカピカに磨かれた靴をコツコツと鳴らしながら、通りを走って行ってしまった。
胸が弾けてしまいそうなくらい揺れていた。
こんな関係耐えられない。
今すぐ駆け出して、佑月に抱きつきたい。
どうして店員と、お客さんの頃に戻ってしまっただろうかと、悲しみが込み上げてきた。
遅く起きた朝、二人で遅刻するなんて言いながら、肩を並べて歩いた日を思い出した。
今追いかけても、一緒に歩いていけないことに、愕然とした渉は、足が震えてしまった。
でも大丈夫。
未来で二人は恋人同士になるのだから。
大丈夫、その頃側にいるのは自分だ。
婚約までした彼女、凛奈さんではない。
そこまで考えた渉だったが、ハッと気がついて、持っていた箒を地面に落としてしまった。
集めたはずの落ち葉が、風に飛ばされて、またぱらぱらと散らばっていく……
「そうだ、凛奈さんは……」
なんて大事なことを忘れていたんだろうと口に手を当てた。
佑月と結ばれる未来のことしか頭になかったが、階段から落ちる前、渉は大事な話を聞いていた。
佑月の今の恋人、凛奈は、交通事故に遭って亡くなってしまうのだ。
凛奈と死に別れた佑月は、その後仕事に没頭して、誰とも付き合うことなく生きていた。
そんな時、寝起きするのに便利だと、会社近くのワンルームを借りて、引っ越してきた。
そう、それで、渉と再会することになる……
今、この時点では、凛奈は生きている。
過去を変えないようにすること。
それはつまり、凛奈が事故に遭うことを知っていながら、知らないふりをして、彼女の死を待つ、ということだ。
「だって……だって仕方ないだろう。俺が悪いわけじゃない……俺のせいじゃない……。佑月は俺の恋人なんだ。絶対、俺の恋人になるんだから……」
渉は一人で呟きながら、モヤモヤとする胸を掻きむしった。
道行く人に、大丈夫かという目で見られたが、どうでもよかった。
自分が見ているのは、佑月との未来だけ。
それ以外、何も見ないし、何も考えない。
そう繰り返しながら、手を震わせて、箒を拾いながら地面を強く掴んだ。
会いたくない人に会うというのは、渉の運命なのかもしれない。
大学の帰りにバイトに入ったら、そのタイミングで店に入ってきたのが、凛奈だった。
ウェーブがかかった茶色のロングヘアをしていたが、ストレートパーマをかけたのか、真っ直ぐな黒髪に変えていた。
髪型が変わっても、その目鼻立ちのハッキリとした美人顔は変わらない。
入ってきた時にすぐに分かって、あっと声を上げてしまった。
いつも凛奈はイヤフォンで音楽を聴いていて、こちらを見ることはあまりなかったが、今日は驚いた顔で渉を見てきた。
「え?」
「す、すみませんっ、いつもと雰囲気が変わっていたので、つい声が……」
「ああ、イメチェンしたんです。好きな人が、こういうのが好きみたいだから」
人から見られることに慣れているのだろう。
突然店員が変なことを言っても、全く動じる様子はなく、凛奈は口の端を上げて可愛らしく微笑んだ、
「い……いいですね。そういうの、俺もしてみたいです」
そう言いながら、佑月は黒髪のロングヘアが好きだったのかと衝撃を受けた。
渉は出会った頃から変わらず、薄茶色の髪に天然パーマがかかっているので、毛先はくるくると回って遊んでいる。
好みとは真逆と言っていい状態に、嘘だろうとショックを受けた。
「えー店員さん、彼女いたことないの?」
「ええ……、どうも片想いばかりで……」
「爽やかイケメンってやつ? 可愛い顔しているのにもったいないー。もしかして、シャイだったりする? 積極的に話しかけて見たら? 絶対上手くいくって」
どうやら熱い人のようで、手を握られて、真剣な目で励まされてしまった。
凛奈はいつもスマホを触っていることが多いので、こんな風に会話をしたことがなかった。
「店員さんの片想いが実りますように。頑張ってね」
凛奈はそう言って、とびきりの笑顔を見せてくれた。
いい人だ。
ただの店員に話しかけられて、ここまでしてくれる人はなかなかいない。
そう思っていると、凛奈の視線が入り口の方に移って、次の瞬間、佑月と声を上げた。
自動ドアが開いて、入ってきたのは佑月だった。
「悪い、遅くなった」
「いいよ、全然。コーヒー二つ頼んでおいたから。それより早く、招待状のチェックしちゃおう」
「ああ、それは俺が持って行く」
忙しそうに店に入ってきた佑月は、二つのコーヒーが載ったトレイをカウンターの上から取って、先に歩き出した。
その後ろを凛奈が何か話しかけながら追いかけて行く。
まるで映画のワンシーンのような光景を目の前で見せられて、渉は固まったようになって動けなくなった。
佑月は凛奈のことを婚約者だったと話してくれた。
婚約関係で招待状と言ったら、それは結婚式の招待状ということだろう。
二人は結婚を決めて、式の用意までしていた。
その事実が、渉の両肩に重くのしかかり、視界が真っ黒な色に染まっていく。
いつも渉くんと話しかけてくる佑月だが、今日は一度も渉の方を見てくれなかった。
過去を変えてしまうなどと、心配する必要などなかった。
日常会話を交わしただけ、佑月にとって自分は、ただの店員で、それ以上の存在として、見られていることなどなかったと気がついた。
「バカだな……何を期待しているんだよ」
胸の中に真っ黒なものが溜まっていく。
返して
佑月は俺の
早く返して
俺の佑月を……
「返してよ……」
渉が小さく呟いた言葉は、賑やかな店内の喧騒に吸い込まれて消えていった。
それから大学はテスト期間に入り、渉はしばらくバイトを休むことになった。
大学の帰りに、足が向いてしまい、ふらっとカフェの前に行ってしまったこともあった。
テラス席に、佑月と凛奈が座っているところが見えた。
美男美女、ぱっと目を引く二人の姿に、道行く人がチラチラと視線を送っていた。
注目されていることなど気にせずに、二人は楽しそうに笑っていた。
佑月が目を細めて、嬉しそう笑う顔。
それを一番近くで見ていたのは自分だった。
それなのに、自分は近づくことも許されない距離にいる。
これは過去だ。
過去だからそれでいいんだと何度も思うけれど、それでも胸が痛くて張り裂けそうな思いになった。
「佑月……俺はここにいるよ」
ひとりでそうやって呟いて、項垂れたまま背を向けるしかなかった。
一月経って渉がバイトに復帰すると、ふらりと顔を出した佑月は、久しぶりと声をかけてきた。
変な態度をとったらどうしようかと考えていたが、渉は店員として、お久しぶりですと言って自然に対応した。
過度な馴れ合いはしない。
あくまで、立ち寄るお店で見かけるだけの相手として……
あまり話さなくなった渉のことを、佑月は不思議そうな顔で見ていた。
これでいい、これでいいんだと心の中で何度も繰り返して、渉は黙々と仕事をした。
季節は流れて、外の木々は葉が落ちて、枝だけに変わっていた。
お客さんが入ってくるたびに、吹き込んでくる風の冷たさに、本格的な冬の到来の予感がした。
仕事が終わり、ゴミ出しのために、外の倉庫に向かっていた渉が空を見上げると、空はどんよりと曇っていて、雪が降りそうなほどの冷気に包まれていた。
雪
それを考えた時、佑月の言葉が浮かんできた。
凛奈は雪の降る日に交通事故に遭った。
何かに背中を押されたように、スマホを取り出した渉は、急いでカレンダーを確認した。
佑月から聞いていた命日の日、それは、明日だった。
「う……嘘、ああ……明日……!?」
関係ない。
自分には関係ないんだと思いながら、渉は首を振ってゴミを片付けた。
明日だ。
明日を乗り切れば、佑月は自分のところへ来てくれる。
そう、明日、一人の女性の死を待つだけで……
倉庫のドアを閉めて顔を上げると、空には大きな月があった。
少しだけ欠けた月、なんとも悲しく見えてしまった。
その時、渉の脳裏に、佑月が悲しそうな目で夜空を見上げている横顔が浮かんできた。
「ずっと欠けたまま……」
渉が佑月に告白をした時、佑月は、俺みたいなつまらない男でいいの? と返してきた。
佑月のことが全部好きだからと渉は答えたが、佑月は、俺は色々と欠けた男だからと言っていた。
結婚寸前までいった、愛していた女性を失って、自分の中の何かが欠けてしまった、佑月はそう言いたかったのではないかと思った。
佑月にとっての幸せとはなんだろう。
過去に戻る前から、渉はずっとそう考えていた。
無理やり、頼み込んで押し切って、付き合うことになったから、佑月はどこか無理をして合わせてくれているんじゃないかと思っていた。
自分と一緒にいることが、本当に佑月の幸せなのか。
そう思ったら、辺りは静まり返って全ての音が止んでしまった。
「絶対幸せにする……」
渉はそう言って佑月を抱きしめた。
その時、佑月はどんな顔をしていたのだろう。
渉は告白して、好きな人を抱きしめることに必死で、何も覚えていなかった。
次の日、一睡もできなかったが、渉はカフェのバイトに来ていた。
カフェエプロンを着けて、接客していたが、心ここに在らずで、時計ばかり見ていた。
朝からどんよりしていたが、外を見ると、傘をさすほどではないが、小さな雪が降り出したのが見えた。
佑月から聞いていた時間は、ちょうどお昼を過ぎた頃だった。
朝から時計ばかり見て、刻々と時間が過ぎていく中、渉は吐きそうになるくらいの緊張感で過ごしていた。
「ちょっ、渉くん、顔色悪くない? 大丈夫?」
フラフラになりながらレジに立っていたら、心配したモモちゃん先輩が話しかけてきた。
「もうすぐお昼だし、休憩入る? ちょっと休んだ方がいいって……」
「お昼……」
そう言われて、時計を見た渉は、着けていたエプロンを外して、ちょっと出てきますと言って店を飛び出した。
時計の針は間もなく、正午をさそうとしていた。
場所は駅前の大きな交差点、先に車同士がぶつかって、反動で飛んできた車に撥ねられてしまったと聞いた。
渉が走って交差点に着くと、そこにはたくさんの人がいた。
クリスマスが近い週末、カップルや家族連れ、友人同士で楽しく集まっている姿が見えた。
まだ、大きな事故が起こったような様子はない。
渉は辺りを見渡した。
凛奈は原色の明るい色を好んで着ていた。
それに、あのスタイルの良さと、ハッキリした顔立ちは、遠くから見ても分かるはずだ。
「……いた」
見覚えのあるコートと長い黒髪が見えて、すぐにそれが凛奈だと分かった。
信号は赤、凛奈は横断歩道の先頭に立っていた。
メッセージでも送っているのか、じっとスマホを見ていて、周りの人より少し前に出ているように見えた。
全ての時間が止まったように思えた。
なぜここに来てしまったのか。
今日がその日だと思ったら、足が止まらなくなった。
何度も考えた
自分はなぜ五年前に戻ったのか。
それはこの日のためではないかと考えた。
この日、佑月は凛奈と会う約束をしていた。
しかし、佑月は急な仕事で遅れることになってしまい、凛奈は待ち合わせ場所を変えるために、駅に向かっていたらしい。
俺のせいで凛奈は、と佑月は語っていた。
事故は佑月のせいではない。
けれど自分が遅れなければと、佑月は後悔することになる。
自分は欠けた人間だ。
この先の人生で、欠けた月を見ながら、佑月は何度も何度も、数え切れないくらい後悔して生きることになる。
佑月を悲しみから救ってみせる。
そう思っていたが、佑月の幸せを考えた時、本当にそれが正解なのか分からなくなってしまった。
だって今、渉がいるのは、五年前だ。
佑月が一生後悔する出来事がこれから目の前で起こる。
そこに立っているとして、自分のできることは何なのか。
坂道を下ってくる車が、明らかにおかしい蛇行運転をしていた。
クラクションの音が鳴り響き、みんなその方向に目をやった。
凛奈の耳には、イヤフォン。
スマホを弄っていて一人だけ、その方向を見ていない。
ガシャンと音がして、車同士がぶつかり合った。
周囲の人は危険を感じて逃げていき、そこでやっと凛奈は顔を上げた。
ぶつかったが車の勢いは止まらない。
反動で、信号待ちをしている人の方向に勢いが変わった。
渉は走った。
周囲の悲鳴よりも、はぁはぁと自分の吐く息の音だけが頭に響いていた。
※※※
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