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Ⅳ 華月蝶
三章
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「本気か」
白の長の館に着いたファーダは、直ぐに部屋に通された。それは、事前に知らせてあったと言うこともある。
「俺一人ではどうすることも出来ないから」
ファーダは俯き、苦笑いを浮かべた。
「両親は納得したのか」
「していなかったとしても、反対はしない」
月華は結局、時間と共に、魔力に侵食される。最終的には、太陽に匹敵する光を放ち、周りを巻き込んで消滅するのだ。判っているから、納得していなくても、ファーダが下した決断を否定したりしないのだ。
誰にも迷惑をかけたくないというのが、ファーダの正直な気持ちだ。だが、結果的に、ファーダは生まれた時から存在そのものが迷惑になっていた。
「罪人でないお前が《太陽の審判》を受けるなら、立会人が必要だ。判るか」
ファーダは頷いた。緊急なら、そんな時間はないだろうが、直ぐに最終段階に入るわけではない。
「知っています。聞いていますから」
《太陽の審判》については、シオンに聞いていた。必要ではないかもしれないが、もしものためだと言っていた。まさか、必要になる知識だとは、思っていなかっただろう。本当に、沢山のことを教えてもらったのだ。
そこへ、遠慮無く扉が開かれた。ファーダは驚き、振り返る。白の長はといえば、予想していたのか微動だにしていなかった。
飛び込んできたのは、ファーダにとってあり得ない者だった。
「貴方の命は私がもらうわっ」
アーダは白の長を睨み付けるとファーダの腕を取り、強引に攫って行った。ファーダはといえば、いきなりの展開に頭が着いて行ってなかった。白の長はやれやれと、肩を竦める。アーダとファーダの気配が館から離れたのを確認したかのように、一人、白の長の前に姿を現した。
「アレン殿」
アレンは目を細めて、白の長を見据えた。
「これから、治療を始める」
白の長はその言葉に目を細めた。つまり、アレンはただ、娘の後を追って来ただけではなかったのだ。
「血液か」
「許可をもらう。二人を俺達のような罪人にするつもりはない」
アレンはきっぱりと言い切った。ファーダを救うための処置に必要なら、反対する理由はない。白の長は小さく息を吐き出した。
「成功するのか」
「過去、失敗した例は存在しない。元は銀狼が勤めていた役目だ」
白の長は目を見開いた。
銀狼が吸血族の突然変異であることは、レイからの情報で知っている。確かに、銀狼の持つ力は、吸血族さえも凌いでいる。そう考えれば、当たり前の事実だろう。
「銀狼が吸血族を去った後、密かにその役目を俺達の祖先が引き継いだんだ」
吸血族の中で第三位の力を持っていた侯爵家で、レイとも親交のあった黒薔薇の主治医が引き継ぐ形になったのだ。もちろん、誰かに言われたわけではないだろう。
「だから、対処法を知っていたんだ」
月華は銀狼と同じ突然変異だが、吸血族の特性が色濃く残り、血液に依存する部分は、残されたのだ。逆に銀狼は血液だけではなく、太陽に対する耐性も獲得した。強い魔力も、それによる恩恵だったのだろう。
「それ以上は」
「申し訳ないが、いくら部族長でも、教える訳にはいかない」
白の長は肺に溜まった息を吐き出した。月華の秘密は当事者以外は教えてもらえない。知りたければ、一族の誰かが月華でなくては駄目だろう。しかし、それは多大なリスクを伴い、月華は銀狼同様、突然変異で思い通りにならないのだ。
「許可しよう」
「近いうちに《婚約の儀》をするとは思うが、その時に、改めて会いに来る」
アレンは許可を取り付け、必要なことを言い終わると、さっさと部屋を出て行った。アレンが去った後、白の長は肩から力を抜いた。何故なのかは判らないが、アレンの前では異常に緊張する。
理由など判らない。強いて言うなら本能が何かに敏感に反応し、恐怖を感じているのだ。
「長様」
白の長の様子に、執事が怪訝な表情で首を傾げた。
「何でもない。黒の長に連絡を入れてくれ。近いうちにそちらにお邪魔するとな」
白の長の様子に訝しみながらも、執事は詮索をしなかった。そんな権利はないからだ。無言で理由を知りたそうにしていた執事を無視し、さっさと部屋を追い出すと、白の長は窓の外に視線を向けた。
アレンが何者なのか、それを知る者はアリス以外いないのではないかと、小さく息を吐き出した。
†††
アーダに強引とも言える行動で、再び黒薔薇の主治医の館に帰ってきたファーダは混乱していた。アーダは命を貰うと言ってはいなかっただろうか。
一言も発することなく仕事部屋に連れて来られ、全く意味が理解出来なかった。
「祖父ちゃまは」
「黒の長に会いに行ったよ」
アーダの言葉に答えたのはベンジャミンだった。
「お父さんは」
「白の長に会いに行ったけど」
この問いにも、響くように返してきた。
アレンはおそらく、アーダの後を追ってきたのだろう。そして、白の長に何かの確認に行ったのだ。ファジールもおそらく、同じ用件で向かったに違いない。
「決心はついたの」
「私はいつでも覚悟を決めているわ」
ベンジャミンはファーダに視線を向けた。アーダはそれを見咎めると、鋭い視線をベンジャミンに向ける。
「ファーの意見は必要ないわっ」
きっぱりと言い切ったアーダに、ファーダは目を見開いた。
「ファーの命は私が貰うのっ。だから、訊く必要なんてないわっ」
ベンジャミンは苦笑いを浮かべた。どうやら、アーダは切れてしまったようだ。
何となくだが、想像は出来る。ファーダは結局、アーダに必要なことを言わなかったのだろう。そして、勝手に散る決断をしたのだ。
アーダに幸せになってもらいたいと、それを臭わせる言葉を告げたに違いない。当然、アーダは納得出来なかったのではないだろうか。だからこそ、後を追ったのだから。
「用意は出来てる」
ベンジャミンは当然のように言った。アーダは目を見開く。
「母さんも用意してるから、二人が帰ってきたら、直ぐに始められるよ」
ベンジャミンはそう言うと、二人をある部屋へ導いた。そこは、過去に使われた謂れのある部屋だ。
フィネイを拘束し、ティファレトを一時的に閉じ込めた部屋だ。
「叔父さん……」
アーダは不安気にベンジャミンを見上げた。部屋の謂れを知っていたからだ。元は黒薔薇の主治医の仮眠室だった。
どうしてこの部屋を使うのか。不思議と圧迫感を受けるこの狭い部屋を、アーダは好きではなかった。
「気持ちは判るけど、この部屋を使うことは随分前から決まっていたんだ。この館の中で、自由になる狭い部屋は、此処しかないから」
そんなことは判っていたが、生理的に受け付けないのは、仕方ないではないか。
ベンジャミンは視線をファーダへ向けた。ファーダは今だに混乱しているようだった。
「この部屋を最初に使ったのは、ファーの父さんだよ」
ファーダは驚いたように目を見開いた。両親のことは、最近詳しく聞いたばかりだ。だから、事実のみ聞いただけで、何処でその出来事が起こったのかまでは知らない。
「危険を回避するためにね」
ベンジャミンは幼かったが、あの時のことは鮮明に覚えている。そう、薔薇達が辿ったあの苦痛を、ベンジャミンは間近で見ていたのだ。だから、トゥーイとフィネイのことも、知っていた。双子であると偽り育てられたことで、別の苦痛を味わったことも、その後、他人であったと知った時の苦悩を。
ベンジャミンに着替えるように言われ、二人は着替えた。ファーダは今だにアーダの言動に混乱している部分が大きい。だが、気持ちとは裏腹に、話は進んでいく。静かに開かれた扉に視線を向ければ、其処にはある者の姿。
「おばあちゃま」
アーダは小さく呟くように言った。
「ファジールとアレンは帰ってきたのかしら」
「まだだよ」
ジゼルの言葉に、ベンジャミンは響くように答えた。ファジールは近いうちに帰って来るだろうが、アレンはファーダの両親の所に寄ってから来るだろう。確かに時間はないが、必要なことは済ませなくてはならない。
「部屋を出ていてもらえるかしら」
ジゼルの言葉に、ベンジャミンは素直に頷いた。確かに知識として、月華のことは知っている。それは、黒薔薇の主治医の一族に生まれた後継者が、必ず習得するよう求められる知識だからだ。だが、本当の意味で知ることが出来るのは、当事者だけであることも理解していた。
静かに扉を開き、ベンジャミンが出て行ったことを確認してから、ジゼルは二人に向き直った。少し表情を強張らせたアーダと、困惑顔のファーダに苦笑いが漏れる。
「もしかして、有無を言わせずに連れて来たわね」
アーダを見据え、ジゼルは呆れたように呟いた。
アーダはキュッと眉を寄せた。手放すなど、出来なかったのだ。
「ファーはどうして、この子に本心を告げなかったの。判っていたでしょうに」
「俺は……っ」
ジゼルは呆れたように息を吐き出した。
「そうね。貴方は良くも悪くもフィネイの息子ですものね」
父親の名にファーダは口を噤んだ。ジゼルは何もかも知っているような表情を見せた。
「独りよがりは不幸しか呼び寄せないわよ。私がそうだったから、よく判るわ」
細められた目が、慈愛に満ちていた。
そして、近付いてくる気配に表情を和らげた。ゆっくりと扉が開かれる。
「随分、時間が掛かったのね」
そう、声を掛けた。
「全くだ。さっさと許可を出せばいいものを」
吐き捨てるように言ったのはファジールだった。
「無理難題でも吹っかけられたの」
黒の長は何かある度、黒薔薇の主治医の一族に難題を吹っかける。それは、時と場所を選らばないのだ。
「今必要なことじゃない。後にしてもらいたかった」
溜息混じりにファジールは力無く言葉を吐き出した。
「アレンは」
「まだ、戻って来てないわ」
ファジールはジゼルからそれだけ聞くと、二人へと視線を向けた。二人は夜着に着替えていて、ベンジャミンがある程度、準備をしていたことに直ぐ気が付いた。
「来たな」
ファジールはよく知った気配が館の中に入ったことが判った。しばらくすると、アレンが姿を現した。すっと、細められた目に、ファジールは全てを悟る。
「いいんだな」
「ああ、許可は得て来た。後、フィネイにも言ってきた」
ファジールは頷く。
そして、アレンはあることを口にする。
「シンシアか」
「今の状態じゃ、彼奴にはあまり良くないからな。ジュディに預けてくる」
アレンは腕を組み言い切った。ジゼルが自由なら預ける必要はないが、今回はそうも言っていられない。館内の使用人達も何かと忙しなくなるだろう。そうなれば、シンシアは放置される結果になる。
セイラとルーチェンは居るが、セイラも何かゴタゴタしている状況で、ルーチェンは此方で不測の事態があった場合、手を貸してもらわなくてはならなくなる。
「それがいいだろうな」
ファジールは諦めたように息を吐き出した。
「シオンがいるじゃないの」
ジゼルは最もなことを言った。その言葉に、アレンはジゼルに顔を向ける。
「アンのところに行ってもらうんだ。何かあった時に、迅速に対応出来るように」
シンシアをジュディに預け、その足でシオンと共にエンヴィの館に向かうつもりだと言った。変化が終わっていれば、今の状況を考えると有難い。
もし、患者から連絡が入った場合、ベンジャミンが対応すればいい。できること、不測の事態になった時の対応は、出来る限りしておいた方が無難だ。
「こっちはこっちで始めているからな」
ファジールの言葉に、アレンは頷き部屋から出て行った。
アレンを見送って、二人は直ぐに説明を受けた。その説明は既に何回となく教えられたことだが、今から実行するのだと思うと、変な汗が手の平を濡らした。アーダはちらりと隣にいるファーダを盗み見る。覚悟は決めている筈なのに、いざその段になると恐怖が芽生える。
「怖いか」
アーダははっとファジールを仰ぎ見る。そして、思うこと。ファジールはアレンと似ている。否、アレンがファジールと似ているのだろう。独特の雰囲気も、眼差しも、呆れたように見返す視線や、本当に不安な時に向けられる眼差しが優しさを湛えている。
だが、アーダにも意地がある。確かに怖いが、ファーダのためなら耐えられる。しっかりとファジールを見据え、強く首を横へ振った。失うという、絶望を抱えて生きるなら、一瞬の恐怖なんて、大したことではない。
今だに困惑顔のファーダを見据え、アーダは祖父母が部屋を出たのを確認してから、首筋に顔を埋めた。
「……覚悟を決めて」
言うなり、首筋に噛み付いた。ファーダは一瞬、表情が歪み、肩を揺らした。アーダの喉を通って行く血は、甘みや温かさはなかった。凍え舌を強い刺激が通り抜けた。喉を通る時、鋭いナイフを思わせる痛みを伴って流れて行った。
ファジールから聞いていたし、判っていたつもりだった。痛みや強い刺激は拒絶の証だ。魔力の扉が抵抗している。
「飲んで……」
アーダが見せた顔が蒼白になっていて、ファーダは慌てた。
アーダはファーダを睨み付けた。こうなることなど判っていた筈だ。それよりも、アーダの血液を摂取するファーダの方がきついのだ。ジゼルは言っていた。血が喉を通っていくときの苦痛は、感じたことがないほどだったと。
「早くしてっ」
ファーダは眉間に皺を寄せた。早くしろと言われても、覚悟を決めるのは難しい。だが、アーダはファーダの血液を摂取してしまった。もう、後には引けないのだ。ファーダは一度目を閉じ、意を決したようにアーダの首筋に顔を埋めた。これから襲い来るのは痛みを伴った苦痛だ。自分だけではなく、それはアーダをも巻き込む。
小さく謝りの言葉を発し、ファーダはアーダの肌に牙を突き立てた。
小さな傷口からあふれ出た液体は、有り得ないほどの刺激と、口内が切れてしまうのではないかという痛みを伴った。本来なら、傷口を塞ぐのだが、そんなことなど出来る状態ではなかった。本心に従うなら、今すぐ吐き出してしまいたい。
両手で口を押さえ、吐き気と戦う。どんなに努力をしようとしても、喉を通っていかない。それを無理矢理押さえ込み、根性で嚥下した。直ぐに襲ってきたのは、焼けるような痛み。喉と胸を掻き毟りたい衝動を必死で抑える。
いきなり掴まれた両手に、慌てて顔を上げた。そこにはいつの間にかファジールとジゼルが居り、ファーダが自身を傷つけないように、両手首を押さえていたのだ。アーダに視線を向ければ、泣きそうなほど、表情を歪めていた。
「耐えられるか」
ファジールは両の手を拘束したまま、ファーダに問い掛けた。血液を摂取しただけでは意味がない。今頃、アーダの血はファーダの魔力の扉の周りに術を刻み込んでいるだろう。だが、それは扉が完全に閉じなければ発動出来ない。両開きの扉は、二人でなければ閉じることが叶わないのだ。
本当なら逃げたしたい。聞いてはいても、実際に体を襲った痛みと熱は半端なものではない。脈打ち、抵抗しているのはファーダ自身ではない。おそらく、魔力の扉が激しく抵抗を始めたのだ。それは、扉が開く速度が上がったように感じるので、嫌でも実感出来た。
ファーダは眉間に皺を寄せ、頷いて見せた。声を出すのはとてもじゃないが無理に近かったからだ。
ファジールはそれを確認すると、アーダを視線だけで来るように見据えた。アーダは静かに歩み寄る。ジゼルはファーダの背後に周り、ベッドの上に座るように促した。ファーダは抵抗もせずに従った。
「大丈夫よ。扉はまだ、開き切ってない。今なら、簡単に閉じることが出来るわ」
ジゼルの言葉にファジールは頷いた。アーダをファーダとファジールの間に入るように促し、耳元で囁いた。
「何回も教えた。忘れてはいないだろう」
アーダはファジールの言葉に頷いた。忘れる筈はない。そのためだけに、月華の知識を深めたのだ。ファーダのために、何より自分自身のために。二人で生きていけるように。
「扉を閉じれば鍵が現れる。それを手に入れなければ、何も始まらない」
アーダはしっかりと頷きファーダを見詰めた。鍵を渡せば、ファーダの痛みをアーダは半分受け持つことになる。後は、鍵が馴染むまで耐えるしかない。毎日血を与え続け、アーダは痛みとは別に、ファーダが鍵を不足なく受け取れるように努力をしなくてはいけない。鍵が受け渡されるまで、睡眠も食事も絶たなくてはならないのだ。
アーダはファーダの両頬を包み込んだ。そして、目を閉じ、息を大きく吸い、同じだけの息を吐き出すと、目を開いた。
「行くわ」
アーダは一言告げると再び瞳を閉じ、ファーダの額に自身の額を押し当てた。
額を合わせた瞬間、意識が一気に落ちて行った。意識が戻った時、其処は今まで居た部屋ではなく、何処までも闇が支配する場所だった。ただ、その暗闇は感情がないものではなく、優しい気配を孕んでいた。
「アーダ」
アーダは驚きに振り返った。暗闇の中でも判る。淡い光を放っているように見えるのは、見慣れた白髪。アーダは信じられなかったのか、言葉が出てこない。
「自分でも出来ることはするって決めたんだ」
開き始めた扉を離れるのは不安だったが、どうすることも出来ないのは判っている。ならば、迎えに行く方が意義がある。何も知らないわけではない。だから、不安ではあったが、アーダの元に行くことを選択したのだ。
二人は見詰め合い、小さく頷くと手に手を取って歩き出した。歩を進める度にはっきりと判る強い圧迫感。目の前に現れた扉に、アーダは息を飲んだ。暗闇の中に、突然、扉だけがポツリと存在している。そして、ゆっくりと扉は開き続けていた。
アーダは咄嗟に扉の周りに視線を向ける。ファジールが言っていたように、周りには赤い模様とも文字とも取れない光が浮かび上がっている。
準備は整っている。後は扉を完全に閉じれば良いのだ。後はファーダがアーダの血を受け入れるのを待つしかない。アーダは小さく息を吐き出した。これが本当の意味で始まりなのだ。鍵が現れ、ファーダに渡したところから、アーダの本当の戦いが待っている。
アーダは瞳を閉じ大きく息を吸うと、同じだけの息を吐き出した。
ゆっくりとした足取りで近付き、扉を見上げた。ファーダの魔力の扉は思っていたものより大きかったが、アーダはキュッと唇を噛み締めると扉を睨み付けた。そして、互いに頷きなうと、扉に手を掛け、力の限り押した。
扉は大きく脈打ち、二人の力を押し戻そうとするように、内側から凄い力で抵抗を始めた。元々、扉は完全に開き切っていたわけではない。だから、抵抗はあっても扉は重々しい音を立て閉じられた。二人は小さく息を吐き出したのだが、扉の周りで閉じられるのを待っていたアーダの血が、直ぐに動きを見せたのだ。
アーダは慌てたように周りに視線を走らせた。ドクンっと振動し、現れたのは薔薇の蔓のような棘を持つ植物だ。アーダは咄嗟にファーダの腕を掴んで扉から慌てて離れた。瞬間、扉を襲ったのは無数の薔薇の蔓。
扉は低い唸り声のような軋んだ音を立て、荊の拘束を逃れようと脈打つが、それ以上の力で締め上げた。アーダはそれを睨み付けるように見詰めていた。
荊は扉に棘を食い込ませ、数分後、扉は沈黙した。
ファーダは呆然とその様子を見詰めていた。話には聞いていたが、その光景は想像をはるかに超えていた。
アーダは小さく息を吐き出し、右手の平を開いた。其処に有るのは、小さいながらも繊細な創りの鍵。扉が閉まると同時に、アーダの手に飛び込んで来た物だ。
「……ファー」
アーダは鍵を見詰めたまま、ファーダの名を呼んだ。ファーダは扉から視線をアーダへ向けた。
アーダの視線の先を辿り、ファーダは目を細めた。アーダの手の平の上にある白い光を放つ鍵。鍵は複雑な薔薇の模様を作り出していた。
「絶対になくさないで」
アーダはそう言うと、ファーダに鍵を手渡した。ファーダはそれを、しっかり左手で握り締める。瞬間、アーダを襲ったのは鋭い痛み。話には聞いていたが、これが半分の痛みだとは、にわかには信じられなかった。一人で担うにはこの痛みは強すぎる。
「早く戻るんだ」
ファジールの話では、鍵を渡すと一時的に意識が閉じてしまうのだという。その前に、鍵となった者は脱出しなくてはならない。
アーダはファーダを柔らかく抱き締めると、上空へ視線を走らせた。微かに見える光はファーダの意識からの出口だ。それを確認すると、一瞬、視線をファーダに戻し、躊躇いを振り切るように飛び上がった。ファーダはそれを見送り、左手の中の鍵に視線を走らせる。
ファジールの説明では、鍵を受け取る者は意識がはっきりしないまま、鍵となった者が痛みを感じなくなることで受け取りが完了したことを知るのだという。では、月華が意識を取り戻した状態で居られれば、鍵の負担は減る筈だ。
体だけではなく、全体が軋んだように痛みを訴えているが、努力で出来ることならば何でもすると決めた。アーダの負担を軽くするためなら、例え、痛みが強くなったとしても後悔はしない。ファーダは小さく息を吐き出し、鍵を強く握り締めた。
白の長の館に着いたファーダは、直ぐに部屋に通された。それは、事前に知らせてあったと言うこともある。
「俺一人ではどうすることも出来ないから」
ファーダは俯き、苦笑いを浮かべた。
「両親は納得したのか」
「していなかったとしても、反対はしない」
月華は結局、時間と共に、魔力に侵食される。最終的には、太陽に匹敵する光を放ち、周りを巻き込んで消滅するのだ。判っているから、納得していなくても、ファーダが下した決断を否定したりしないのだ。
誰にも迷惑をかけたくないというのが、ファーダの正直な気持ちだ。だが、結果的に、ファーダは生まれた時から存在そのものが迷惑になっていた。
「罪人でないお前が《太陽の審判》を受けるなら、立会人が必要だ。判るか」
ファーダは頷いた。緊急なら、そんな時間はないだろうが、直ぐに最終段階に入るわけではない。
「知っています。聞いていますから」
《太陽の審判》については、シオンに聞いていた。必要ではないかもしれないが、もしものためだと言っていた。まさか、必要になる知識だとは、思っていなかっただろう。本当に、沢山のことを教えてもらったのだ。
そこへ、遠慮無く扉が開かれた。ファーダは驚き、振り返る。白の長はといえば、予想していたのか微動だにしていなかった。
飛び込んできたのは、ファーダにとってあり得ない者だった。
「貴方の命は私がもらうわっ」
アーダは白の長を睨み付けるとファーダの腕を取り、強引に攫って行った。ファーダはといえば、いきなりの展開に頭が着いて行ってなかった。白の長はやれやれと、肩を竦める。アーダとファーダの気配が館から離れたのを確認したかのように、一人、白の長の前に姿を現した。
「アレン殿」
アレンは目を細めて、白の長を見据えた。
「これから、治療を始める」
白の長はその言葉に目を細めた。つまり、アレンはただ、娘の後を追って来ただけではなかったのだ。
「血液か」
「許可をもらう。二人を俺達のような罪人にするつもりはない」
アレンはきっぱりと言い切った。ファーダを救うための処置に必要なら、反対する理由はない。白の長は小さく息を吐き出した。
「成功するのか」
「過去、失敗した例は存在しない。元は銀狼が勤めていた役目だ」
白の長は目を見開いた。
銀狼が吸血族の突然変異であることは、レイからの情報で知っている。確かに、銀狼の持つ力は、吸血族さえも凌いでいる。そう考えれば、当たり前の事実だろう。
「銀狼が吸血族を去った後、密かにその役目を俺達の祖先が引き継いだんだ」
吸血族の中で第三位の力を持っていた侯爵家で、レイとも親交のあった黒薔薇の主治医が引き継ぐ形になったのだ。もちろん、誰かに言われたわけではないだろう。
「だから、対処法を知っていたんだ」
月華は銀狼と同じ突然変異だが、吸血族の特性が色濃く残り、血液に依存する部分は、残されたのだ。逆に銀狼は血液だけではなく、太陽に対する耐性も獲得した。強い魔力も、それによる恩恵だったのだろう。
「それ以上は」
「申し訳ないが、いくら部族長でも、教える訳にはいかない」
白の長は肺に溜まった息を吐き出した。月華の秘密は当事者以外は教えてもらえない。知りたければ、一族の誰かが月華でなくては駄目だろう。しかし、それは多大なリスクを伴い、月華は銀狼同様、突然変異で思い通りにならないのだ。
「許可しよう」
「近いうちに《婚約の儀》をするとは思うが、その時に、改めて会いに来る」
アレンは許可を取り付け、必要なことを言い終わると、さっさと部屋を出て行った。アレンが去った後、白の長は肩から力を抜いた。何故なのかは判らないが、アレンの前では異常に緊張する。
理由など判らない。強いて言うなら本能が何かに敏感に反応し、恐怖を感じているのだ。
「長様」
白の長の様子に、執事が怪訝な表情で首を傾げた。
「何でもない。黒の長に連絡を入れてくれ。近いうちにそちらにお邪魔するとな」
白の長の様子に訝しみながらも、執事は詮索をしなかった。そんな権利はないからだ。無言で理由を知りたそうにしていた執事を無視し、さっさと部屋を追い出すと、白の長は窓の外に視線を向けた。
アレンが何者なのか、それを知る者はアリス以外いないのではないかと、小さく息を吐き出した。
†††
アーダに強引とも言える行動で、再び黒薔薇の主治医の館に帰ってきたファーダは混乱していた。アーダは命を貰うと言ってはいなかっただろうか。
一言も発することなく仕事部屋に連れて来られ、全く意味が理解出来なかった。
「祖父ちゃまは」
「黒の長に会いに行ったよ」
アーダの言葉に答えたのはベンジャミンだった。
「お父さんは」
「白の長に会いに行ったけど」
この問いにも、響くように返してきた。
アレンはおそらく、アーダの後を追ってきたのだろう。そして、白の長に何かの確認に行ったのだ。ファジールもおそらく、同じ用件で向かったに違いない。
「決心はついたの」
「私はいつでも覚悟を決めているわ」
ベンジャミンはファーダに視線を向けた。アーダはそれを見咎めると、鋭い視線をベンジャミンに向ける。
「ファーの意見は必要ないわっ」
きっぱりと言い切ったアーダに、ファーダは目を見開いた。
「ファーの命は私が貰うのっ。だから、訊く必要なんてないわっ」
ベンジャミンは苦笑いを浮かべた。どうやら、アーダは切れてしまったようだ。
何となくだが、想像は出来る。ファーダは結局、アーダに必要なことを言わなかったのだろう。そして、勝手に散る決断をしたのだ。
アーダに幸せになってもらいたいと、それを臭わせる言葉を告げたに違いない。当然、アーダは納得出来なかったのではないだろうか。だからこそ、後を追ったのだから。
「用意は出来てる」
ベンジャミンは当然のように言った。アーダは目を見開く。
「母さんも用意してるから、二人が帰ってきたら、直ぐに始められるよ」
ベンジャミンはそう言うと、二人をある部屋へ導いた。そこは、過去に使われた謂れのある部屋だ。
フィネイを拘束し、ティファレトを一時的に閉じ込めた部屋だ。
「叔父さん……」
アーダは不安気にベンジャミンを見上げた。部屋の謂れを知っていたからだ。元は黒薔薇の主治医の仮眠室だった。
どうしてこの部屋を使うのか。不思議と圧迫感を受けるこの狭い部屋を、アーダは好きではなかった。
「気持ちは判るけど、この部屋を使うことは随分前から決まっていたんだ。この館の中で、自由になる狭い部屋は、此処しかないから」
そんなことは判っていたが、生理的に受け付けないのは、仕方ないではないか。
ベンジャミンは視線をファーダへ向けた。ファーダは今だに混乱しているようだった。
「この部屋を最初に使ったのは、ファーの父さんだよ」
ファーダは驚いたように目を見開いた。両親のことは、最近詳しく聞いたばかりだ。だから、事実のみ聞いただけで、何処でその出来事が起こったのかまでは知らない。
「危険を回避するためにね」
ベンジャミンは幼かったが、あの時のことは鮮明に覚えている。そう、薔薇達が辿ったあの苦痛を、ベンジャミンは間近で見ていたのだ。だから、トゥーイとフィネイのことも、知っていた。双子であると偽り育てられたことで、別の苦痛を味わったことも、その後、他人であったと知った時の苦悩を。
ベンジャミンに着替えるように言われ、二人は着替えた。ファーダは今だにアーダの言動に混乱している部分が大きい。だが、気持ちとは裏腹に、話は進んでいく。静かに開かれた扉に視線を向ければ、其処にはある者の姿。
「おばあちゃま」
アーダは小さく呟くように言った。
「ファジールとアレンは帰ってきたのかしら」
「まだだよ」
ジゼルの言葉に、ベンジャミンは響くように答えた。ファジールは近いうちに帰って来るだろうが、アレンはファーダの両親の所に寄ってから来るだろう。確かに時間はないが、必要なことは済ませなくてはならない。
「部屋を出ていてもらえるかしら」
ジゼルの言葉に、ベンジャミンは素直に頷いた。確かに知識として、月華のことは知っている。それは、黒薔薇の主治医の一族に生まれた後継者が、必ず習得するよう求められる知識だからだ。だが、本当の意味で知ることが出来るのは、当事者だけであることも理解していた。
静かに扉を開き、ベンジャミンが出て行ったことを確認してから、ジゼルは二人に向き直った。少し表情を強張らせたアーダと、困惑顔のファーダに苦笑いが漏れる。
「もしかして、有無を言わせずに連れて来たわね」
アーダを見据え、ジゼルは呆れたように呟いた。
アーダはキュッと眉を寄せた。手放すなど、出来なかったのだ。
「ファーはどうして、この子に本心を告げなかったの。判っていたでしょうに」
「俺は……っ」
ジゼルは呆れたように息を吐き出した。
「そうね。貴方は良くも悪くもフィネイの息子ですものね」
父親の名にファーダは口を噤んだ。ジゼルは何もかも知っているような表情を見せた。
「独りよがりは不幸しか呼び寄せないわよ。私がそうだったから、よく判るわ」
細められた目が、慈愛に満ちていた。
そして、近付いてくる気配に表情を和らげた。ゆっくりと扉が開かれる。
「随分、時間が掛かったのね」
そう、声を掛けた。
「全くだ。さっさと許可を出せばいいものを」
吐き捨てるように言ったのはファジールだった。
「無理難題でも吹っかけられたの」
黒の長は何かある度、黒薔薇の主治医の一族に難題を吹っかける。それは、時と場所を選らばないのだ。
「今必要なことじゃない。後にしてもらいたかった」
溜息混じりにファジールは力無く言葉を吐き出した。
「アレンは」
「まだ、戻って来てないわ」
ファジールはジゼルからそれだけ聞くと、二人へと視線を向けた。二人は夜着に着替えていて、ベンジャミンがある程度、準備をしていたことに直ぐ気が付いた。
「来たな」
ファジールはよく知った気配が館の中に入ったことが判った。しばらくすると、アレンが姿を現した。すっと、細められた目に、ファジールは全てを悟る。
「いいんだな」
「ああ、許可は得て来た。後、フィネイにも言ってきた」
ファジールは頷く。
そして、アレンはあることを口にする。
「シンシアか」
「今の状態じゃ、彼奴にはあまり良くないからな。ジュディに預けてくる」
アレンは腕を組み言い切った。ジゼルが自由なら預ける必要はないが、今回はそうも言っていられない。館内の使用人達も何かと忙しなくなるだろう。そうなれば、シンシアは放置される結果になる。
セイラとルーチェンは居るが、セイラも何かゴタゴタしている状況で、ルーチェンは此方で不測の事態があった場合、手を貸してもらわなくてはならなくなる。
「それがいいだろうな」
ファジールは諦めたように息を吐き出した。
「シオンがいるじゃないの」
ジゼルは最もなことを言った。その言葉に、アレンはジゼルに顔を向ける。
「アンのところに行ってもらうんだ。何かあった時に、迅速に対応出来るように」
シンシアをジュディに預け、その足でシオンと共にエンヴィの館に向かうつもりだと言った。変化が終わっていれば、今の状況を考えると有難い。
もし、患者から連絡が入った場合、ベンジャミンが対応すればいい。できること、不測の事態になった時の対応は、出来る限りしておいた方が無難だ。
「こっちはこっちで始めているからな」
ファジールの言葉に、アレンは頷き部屋から出て行った。
アレンを見送って、二人は直ぐに説明を受けた。その説明は既に何回となく教えられたことだが、今から実行するのだと思うと、変な汗が手の平を濡らした。アーダはちらりと隣にいるファーダを盗み見る。覚悟は決めている筈なのに、いざその段になると恐怖が芽生える。
「怖いか」
アーダははっとファジールを仰ぎ見る。そして、思うこと。ファジールはアレンと似ている。否、アレンがファジールと似ているのだろう。独特の雰囲気も、眼差しも、呆れたように見返す視線や、本当に不安な時に向けられる眼差しが優しさを湛えている。
だが、アーダにも意地がある。確かに怖いが、ファーダのためなら耐えられる。しっかりとファジールを見据え、強く首を横へ振った。失うという、絶望を抱えて生きるなら、一瞬の恐怖なんて、大したことではない。
今だに困惑顔のファーダを見据え、アーダは祖父母が部屋を出たのを確認してから、首筋に顔を埋めた。
「……覚悟を決めて」
言うなり、首筋に噛み付いた。ファーダは一瞬、表情が歪み、肩を揺らした。アーダの喉を通って行く血は、甘みや温かさはなかった。凍え舌を強い刺激が通り抜けた。喉を通る時、鋭いナイフを思わせる痛みを伴って流れて行った。
ファジールから聞いていたし、判っていたつもりだった。痛みや強い刺激は拒絶の証だ。魔力の扉が抵抗している。
「飲んで……」
アーダが見せた顔が蒼白になっていて、ファーダは慌てた。
アーダはファーダを睨み付けた。こうなることなど判っていた筈だ。それよりも、アーダの血液を摂取するファーダの方がきついのだ。ジゼルは言っていた。血が喉を通っていくときの苦痛は、感じたことがないほどだったと。
「早くしてっ」
ファーダは眉間に皺を寄せた。早くしろと言われても、覚悟を決めるのは難しい。だが、アーダはファーダの血液を摂取してしまった。もう、後には引けないのだ。ファーダは一度目を閉じ、意を決したようにアーダの首筋に顔を埋めた。これから襲い来るのは痛みを伴った苦痛だ。自分だけではなく、それはアーダをも巻き込む。
小さく謝りの言葉を発し、ファーダはアーダの肌に牙を突き立てた。
小さな傷口からあふれ出た液体は、有り得ないほどの刺激と、口内が切れてしまうのではないかという痛みを伴った。本来なら、傷口を塞ぐのだが、そんなことなど出来る状態ではなかった。本心に従うなら、今すぐ吐き出してしまいたい。
両手で口を押さえ、吐き気と戦う。どんなに努力をしようとしても、喉を通っていかない。それを無理矢理押さえ込み、根性で嚥下した。直ぐに襲ってきたのは、焼けるような痛み。喉と胸を掻き毟りたい衝動を必死で抑える。
いきなり掴まれた両手に、慌てて顔を上げた。そこにはいつの間にかファジールとジゼルが居り、ファーダが自身を傷つけないように、両手首を押さえていたのだ。アーダに視線を向ければ、泣きそうなほど、表情を歪めていた。
「耐えられるか」
ファジールは両の手を拘束したまま、ファーダに問い掛けた。血液を摂取しただけでは意味がない。今頃、アーダの血はファーダの魔力の扉の周りに術を刻み込んでいるだろう。だが、それは扉が完全に閉じなければ発動出来ない。両開きの扉は、二人でなければ閉じることが叶わないのだ。
本当なら逃げたしたい。聞いてはいても、実際に体を襲った痛みと熱は半端なものではない。脈打ち、抵抗しているのはファーダ自身ではない。おそらく、魔力の扉が激しく抵抗を始めたのだ。それは、扉が開く速度が上がったように感じるので、嫌でも実感出来た。
ファーダは眉間に皺を寄せ、頷いて見せた。声を出すのはとてもじゃないが無理に近かったからだ。
ファジールはそれを確認すると、アーダを視線だけで来るように見据えた。アーダは静かに歩み寄る。ジゼルはファーダの背後に周り、ベッドの上に座るように促した。ファーダは抵抗もせずに従った。
「大丈夫よ。扉はまだ、開き切ってない。今なら、簡単に閉じることが出来るわ」
ジゼルの言葉にファジールは頷いた。アーダをファーダとファジールの間に入るように促し、耳元で囁いた。
「何回も教えた。忘れてはいないだろう」
アーダはファジールの言葉に頷いた。忘れる筈はない。そのためだけに、月華の知識を深めたのだ。ファーダのために、何より自分自身のために。二人で生きていけるように。
「扉を閉じれば鍵が現れる。それを手に入れなければ、何も始まらない」
アーダはしっかりと頷きファーダを見詰めた。鍵を渡せば、ファーダの痛みをアーダは半分受け持つことになる。後は、鍵が馴染むまで耐えるしかない。毎日血を与え続け、アーダは痛みとは別に、ファーダが鍵を不足なく受け取れるように努力をしなくてはいけない。鍵が受け渡されるまで、睡眠も食事も絶たなくてはならないのだ。
アーダはファーダの両頬を包み込んだ。そして、目を閉じ、息を大きく吸い、同じだけの息を吐き出すと、目を開いた。
「行くわ」
アーダは一言告げると再び瞳を閉じ、ファーダの額に自身の額を押し当てた。
額を合わせた瞬間、意識が一気に落ちて行った。意識が戻った時、其処は今まで居た部屋ではなく、何処までも闇が支配する場所だった。ただ、その暗闇は感情がないものではなく、優しい気配を孕んでいた。
「アーダ」
アーダは驚きに振り返った。暗闇の中でも判る。淡い光を放っているように見えるのは、見慣れた白髪。アーダは信じられなかったのか、言葉が出てこない。
「自分でも出来ることはするって決めたんだ」
開き始めた扉を離れるのは不安だったが、どうすることも出来ないのは判っている。ならば、迎えに行く方が意義がある。何も知らないわけではない。だから、不安ではあったが、アーダの元に行くことを選択したのだ。
二人は見詰め合い、小さく頷くと手に手を取って歩き出した。歩を進める度にはっきりと判る強い圧迫感。目の前に現れた扉に、アーダは息を飲んだ。暗闇の中に、突然、扉だけがポツリと存在している。そして、ゆっくりと扉は開き続けていた。
アーダは咄嗟に扉の周りに視線を向ける。ファジールが言っていたように、周りには赤い模様とも文字とも取れない光が浮かび上がっている。
準備は整っている。後は扉を完全に閉じれば良いのだ。後はファーダがアーダの血を受け入れるのを待つしかない。アーダは小さく息を吐き出した。これが本当の意味で始まりなのだ。鍵が現れ、ファーダに渡したところから、アーダの本当の戦いが待っている。
アーダは瞳を閉じ大きく息を吸うと、同じだけの息を吐き出した。
ゆっくりとした足取りで近付き、扉を見上げた。ファーダの魔力の扉は思っていたものより大きかったが、アーダはキュッと唇を噛み締めると扉を睨み付けた。そして、互いに頷きなうと、扉に手を掛け、力の限り押した。
扉は大きく脈打ち、二人の力を押し戻そうとするように、内側から凄い力で抵抗を始めた。元々、扉は完全に開き切っていたわけではない。だから、抵抗はあっても扉は重々しい音を立て閉じられた。二人は小さく息を吐き出したのだが、扉の周りで閉じられるのを待っていたアーダの血が、直ぐに動きを見せたのだ。
アーダは慌てたように周りに視線を走らせた。ドクンっと振動し、現れたのは薔薇の蔓のような棘を持つ植物だ。アーダは咄嗟にファーダの腕を掴んで扉から慌てて離れた。瞬間、扉を襲ったのは無数の薔薇の蔓。
扉は低い唸り声のような軋んだ音を立て、荊の拘束を逃れようと脈打つが、それ以上の力で締め上げた。アーダはそれを睨み付けるように見詰めていた。
荊は扉に棘を食い込ませ、数分後、扉は沈黙した。
ファーダは呆然とその様子を見詰めていた。話には聞いていたが、その光景は想像をはるかに超えていた。
アーダは小さく息を吐き出し、右手の平を開いた。其処に有るのは、小さいながらも繊細な創りの鍵。扉が閉まると同時に、アーダの手に飛び込んで来た物だ。
「……ファー」
アーダは鍵を見詰めたまま、ファーダの名を呼んだ。ファーダは扉から視線をアーダへ向けた。
アーダの視線の先を辿り、ファーダは目を細めた。アーダの手の平の上にある白い光を放つ鍵。鍵は複雑な薔薇の模様を作り出していた。
「絶対になくさないで」
アーダはそう言うと、ファーダに鍵を手渡した。ファーダはそれを、しっかり左手で握り締める。瞬間、アーダを襲ったのは鋭い痛み。話には聞いていたが、これが半分の痛みだとは、にわかには信じられなかった。一人で担うにはこの痛みは強すぎる。
「早く戻るんだ」
ファジールの話では、鍵を渡すと一時的に意識が閉じてしまうのだという。その前に、鍵となった者は脱出しなくてはならない。
アーダはファーダを柔らかく抱き締めると、上空へ視線を走らせた。微かに見える光はファーダの意識からの出口だ。それを確認すると、一瞬、視線をファーダに戻し、躊躇いを振り切るように飛び上がった。ファーダはそれを見送り、左手の中の鍵に視線を走らせる。
ファジールの説明では、鍵を受け取る者は意識がはっきりしないまま、鍵となった者が痛みを感じなくなることで受け取りが完了したことを知るのだという。では、月華が意識を取り戻した状態で居られれば、鍵の負担は減る筈だ。
体だけではなく、全体が軋んだように痛みを訴えているが、努力で出来ることならば何でもすると決めた。アーダの負担を軽くするためなら、例え、痛みが強くなったとしても後悔はしない。ファーダは小さく息を吐き出し、鍵を強く握り締めた。
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