浅い夜 蝶編

善奈美

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Ⅳ 華月蝶

二章

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 フィネイは難しい顔で自宅に戻って来た。出迎えたトゥーイは首を傾げる。また、アレンに難問でもふっかけられたのだろうか。
 
「どうかしたのか」
 
 トゥーイの声に、フィネイはあからさまに溜め息を吐いた。
 
「ファーは」
 
 その問いで、トゥーイは珍しく判ってしまった。フィネイは今日、アレンに薬を届けに行った筈だ。
 
「何か言われたのか」
 
 フィネイは脱力したように、髪を掻き上げた。

 アレンに頼まれていた薬を持っていく最中にベンジャミンと会い、エンヴィの館に目的地を変更した。薬は副作用等は判らないまでも、一応の成功をみせた。
 
 その後、ファーダの話になったのだという。
 
 フィネイもファーダがアーダを拒絶したことは知っていたから、言われるだろう、覚悟はしていたのだという。
 
 ただ、アーダのとる行動まで、予測していなかった。
 
「アレンに《永遠の眠り》に就くと、啖呵を切ったらしい」
 
 予想していなかったと言ったら嘘になる。アーダはシオンの娘で、ジゼルの孫娘だ。そして、黒薔薇の主治医の血族なのだ。

 それを聞いたトゥーイは、溜め息を吐いた。やはり、アーダはファーダの思い通りの行動を取らなかったのだ。
 
「本人には言ったんだけどな」
 
 トゥーイはフィネイにそう言った。確かに、月華は危険な存在なのだろうが、黒薔薇の主治医は失敗するとは言っていない。つまり、危険で失敗する可能性はあるが、成功する可能性の方が高いからではないだろうか。
 
 何より、実際に経験者がおり、しかも、それがアーダの祖父母なのだ。それにアレンは何かあれば、ファジールと共に、二人の精神に潜るつもりでいると言っていた。
 
 もしかしたら、ということも、きちんと考えているのだ。

「父さん……」
 
 ファーダはフィネイの言葉に固まった。帰ってきたフィネイは、アーダの行動をアレンから聞いてきた。本当に拒絶するのなら、アーダは眠りに就くだろうと。
 
「どうして」
「どうしてだろうな。俺は本人ではないし、何とも言えないが、アレンは太陽に散る勇気があるのなら、鍵の受け渡しくらい、耐えられるだろうと」
 
 ファーダは眉間に皺を寄せた。もし、その苦痛が、自分自身だけであったなら、躊躇はなかっただろう。しかし、鍵の受け渡しは、鍵となる者にも負担を強いる。だからこそ、アーダを拒絶したのだ。当然、幸せになってもらいたかった。眠りに就かせたくて、拒絶したのではない。

「お前の気持ちも判るが、アーダの気持ちになって考えたことがあったか」
 
 フィネイの言葉に、ファーダは口を噤んだ。自分の気持ちすら思い通りにならないに、他人の気持ちなど判る筈はない。ましてや、性別が違えば、更に、困難な筈なのだ。
 
「アーダは幼いときから、お前のためだけに月華について勉強していた。当然、自分が危険に晒されることも判っていただろう」
 
 ファーダは小さく頷いた。
 
「互いが成人したと同時に、儀式をすると、父親に言われていたに違いない」
 
 鍵の受け渡しは、成人と同時に行うのが理想的なのだ。

「でもさ……」
 
 ファーダは言い淀んだ。その様子に、フィネイは苦笑いを浮かべる。ファーダは月華ではあるが、考える時間は通常の月華とは違い、理解出来る年齢に達した時からなのだ。
 
 しかも、経験者からその時の状況を、アーダと共に聞かされている。実際に経験していなくても、リアルな情報は、想像を掻き立ててしまうものだ。
 
「俺も実は躊躇ったら、アレンに言われたよ」
 
 危険な状況になったら、その時に考えるものだと。危険であることは最初から判っているのだ。それを今更、嘆いたところで、何かが、解決するわけではない。ただ、危険を呼び寄せる結果しか産まない。

 アレンにしても、大切な娘の命が掛かっている。それでも、言ってくれているのだ。
 
「何もしていないうちから、あれこれ悩んでも仕方ない」
 
 それに、アーダが心配なら、受け渡しのとき、ファーダが頑張ればいいのだ。月華は意識が混濁するのだという。だが、ジゼルの場合はかなり特殊な状況だだったのだと聞いている。ファーダの場合は、まだ、最悪の事態にはなっていない。
 
 ファーダがどう言った存在か判っている大人達が、会う度に、封印を施していたからだ。それにしても限界はあるが、通常の月華より、明らかに恵まれているのだ。
 
「それに、お前は返す必要があるだろう」
 
 フィネイの言葉に、ファーダは目を見開いた。

「返す……」
「そうだ」
 
 ファーダは生まれたときから、沢山の手に護られていた。本来なら奪われていた、他との接触も、自身の秘密も、全て与えられて育ったのは、月華を良く知る者がいたからに他ならない。
 
 もし、《太陽の審判》を前提に考えているなら、アーダに何もかもを教えてはいないだろう。だから、ファーダは努力をしなくてはいけないのだ。
 
 鍵が負担を強いられるなら、受け取る者がその負担を軽く出来るように努力をすればいい。ジゼルのように、何も知らないわけではない。それどころか、誰よりも詳しく教えられているのだ。
 
 フィネイですら知らない、月華の事実を、ファーダは十二分に学んでいる。

「お前はアーダの負担を考えて、幸せを望んで拒絶したんだろうが、アーダは黒薔薇の主治医の血筋なんだ」
 
 フィネイの言葉にファーダは首を傾げたが、トゥーイは違った。やはり、一途で思い込みの激しい血筋なのだ。
 
「やっぱり、結論はそれなんだな」
 
 トゥーイは小さく息を吐き出した。
 
「シオンが面っとしてたからな」
 
 フィネイの呆れたような物言いに、ファーダは目を見開いた。父親のアレンだけではなく、母親のシオンもアーダを全面的に信頼しているのだろうか。
 
 魔族であるのに、命に関わってくるのだ。それを、気にしていないのだろうか。

「危険は何処にでも転がってる。判っていた筈なのに、忘れてしまうものだな」
 
 フィネイは嘆息した。あの時、確かに体験した筈なのに、何もない、平穏な時間が流れると、体験した苦痛を忘れようとする何かが働く。結果、大切な何かも、一緒に奥に追いやられてしまうのだ。
 
「そうだな」
「俺達は確かに身をもって知ったんだ」
 
 父親と母親の言葉に、ファーダは首を傾げた。二人は何を言っているのだろうか。
 
「お前は眠りに就こうと考え、俺はお前を思って体を放棄しようとした。それなのに、忘れてしまっていたよ」
 
 フィネイの言葉にトゥーイは頷いた。

 ファーダは驚きに息を呑んだ。確かに両親は特殊だ。母親は普段は男性で、満月期だけ女性になる。それに、双子の兄弟として育ったということも聞いてはいた。
 
 しかし、どういった過程で結婚するに至ったのかの詳細は聞かされていない。せいぜい、幼馴染み達の両親に漠然と大変だったのだとしか教えられていないのだ。
 
 どうして、眠りに就こうと考え、体を放棄しようと考えるに至ったのだろうか。
 
「教えていなかったな」
 
 ファーダは動揺を見せながらも、頷いて見せた。何故か、楽しい話でないことだけは理解出来た。漠然と聞いた話は、とてもじゃないが、体験したいとは思わなかったからだ。

 全ては過去を贖うため。アレンとアリスの言葉を借りるなら、そんな言葉が相応しい。
 
「どういうこと」
「簡単に言うなら、もう一つの人格を持っていたということだ」
 
 ファーダは眉間に皺を寄せた。素直に解釈するなら、両親は二重人格だったのだろうか。難しい顔を見せたファーダに、フィネイは苦笑した。
 
「言っておくが、二重人格なわけじゃないぞ」
「今の話じゃ、そう解釈するだろう」
「確かにな」
 
 二重人格ではなく、本来の魂の他に、もう一つ、体の中に魂の残滓が残っていたのだ。

「理解出来ない」
「だろうな」
 
 普通なら、こんな話をしても理解出来ないだろう。アレン達の娘達ですら、最初は理解してくれなかったのだと言っていた。
 
 簡単に言うなら、吸血族でありながら、太陽の光に消えることがなかった魂の一部分だ。レイが犠牲になることで、実現した奇跡に違いない。
 
「今は本来の器に戻っていて、俺達の中には存在していない」
 
 壮絶だったという、その状況は見ていた者でしか判らない。その当時、実際に側にいた小さな子供は、シアンとベンジャミン。関わったという意味では、その場には居なかったがゼインとカルヴァスも見ていたのだ。

「勝手に解釈することの危険を、身をもって体験した。確かに、お前は普通の存在ではないな。本来なら、隔離され、他との接触は断たれる」
 
 ファーダが幸運だったのは、ジゼルとファジールの存在だったのだ。隔離されることの危険を、誰よりも知っていた。月華は確かに危険な存在だが、隔離してしまうことで、更なる危険を呼び寄せる。
 
「アーダとの婚約も、実は、ファジールさんに薦められたんだ」
 
 月華の相手は、強い魔力を持つことが絶対条件だ。ファーダは伯爵の位の血筋で、それなりの魔力を有する一族だ。それに見合う血筋の者など、簡単に見付る筈はない。何より、吸血族は数が少なく、《太陽の審判》で、命を失うのは今の吸血族では考えられないことなのだ。

 相手を大切に考えるのは必要なことだが、気持ちを置き去りにすることがある。相手の思いを無視した独りよがりになりがちだ。
 
「嫌いじゃないだろう」
 
 フィネイの言葉に、ファーダは即答した。嫌いではない。その逆なのだ。誰よりも大切だから、苦痛を与えたくない。
 
「俺でもそう考えるから、否定はしない。でもな、アーダは何時もお前に何かを言っていなかったか」
 
 アーダは会う度に、一緒に生きて行こうと言っていた。それは、確認だったのかもしれない。鍵の受け渡しに必要なのは覚悟だ。受け取る本人ではなく、鍵となる者の絶対的な意思だ。

 怖くない筈はない。魔族は基本的に命の心配をする必要はないのだ。それなのに、ファーダと関わったがために、命を危険に晒している。
 
「俺達がどうこう言ったところで、お前の意思が全てを決める。ただ、これだけは覚えておくんだ」
 
 フィネイは一旦言葉を切った。愛しげに目を細め、ファーダを見詰めた。
 
「お前は俺達にとって掛け替えのない存在だということを。たとえ、成人に達していたとしても、子供であることは変わらない」
 
 ファーダは俯き、小さく頷いた。両親が大切に育ててくれたことは、疑いようがない。フィネイは俯いた息子の頭を、ポンポン、軽く叩いた。

 
 
      †††
 
 
 ファーダは両親の言葉を自分なりに考えてみた。そして、出した結論。確かに、アーダを危険に晒したくないのが本音だが、何も、自分を蔑ろに考えているわけではない。
 
 自分の存在がどういったものなのかも、理解しているつもりだ。
 
 母親のトゥーイはアルビノ故に、体が丈夫ではなく、父親のフィネイとよく言い争っている現場を目撃していた。トゥーイはもう一人、子供が欲しいのだと言い募っていたが、フィネイは妻の体を考えて、頑として、もう一人つくろうとは考えなかったようだ。

 両親とも、薬師の一族で、ファーダは当然、後継者となる。しかも、両家の財産を継承しなくてはいけないばかりか、血筋を後世に残す義務も負っている。
  
 判っているつもりだった。
 
 両親ばかりか祖父母も、そのことについて触れてはこなかったので、欠落していたのだ。薬師である以上、医師までとはいかないまでも、吸血族の実状は判っている。
 
 命を失うような選択を、部族長達は認めない。どんな方法をとっても、解決しないのなら仕方ないが、そうでない場合は、多少危険でも、可能性がある方を選択するのだ。
 
 だから、他部族間であるにも関わらず、アーダとファーダの仮の婚約が認められた。

 今の吸血族で月華に最も詳しいのは黒薔薇の主治医夫婦で、本来なら知り得ない月華の情報を、ファーダは幼いときから惜しみ無く与えられた。それは、覚悟を促すためで、《太陽の審判》を選択させるためではなかったのだろう。
 
 だが、ファーダは恐れてしまった。当事者であるファーダが危険に身を晒すだけなら、ただ、鍵を受け取るだけだったら、躊躇いはなかったのだ。
 
 鍵が担うのは、二人分の苦痛だ。痛みを分かち合うとは言うが、実質鍵が滞りなく渡されるまでの空白の時間を埋める役目を務める結果になる。
 
 だから、拒絶したのだ。この身と魂が太陽に消される結果を生むとしても、後悔しない。しかし、ファーダは肝心なことを忘れていたのだ。

 多くの者が関わったのは、ファーダを消さないためだ。誰のためでもなく、ファーダを必要と考えてくれていたからだ。その思いを、その気持ちを、ファーダは踏みにじろうとしていたのだ。
 
 初めて、黒薔薇の主治医の玄関の扉をノックした。何時もなら、躊躇いもなく入って行ったのだが、今回はアーダを拒絶した後だ。だから、憚られたのだ。けじめはつけなくてはいけない。
 
 もし、アーダに拒絶されたら、その後の身の振り方も両親に告げてきた。何時迄も、このままではいられない。それは、吸血族のためだ。
 
 静かに開かれた扉。そこにある顔は見慣れた者の顔だった。少し驚きを顔に刻み、数回、瞬きを繰り返す。その姿にファーダは内心、苦笑いを浮かべた。

 現れたのは執事兼助手のレイス。
 
「どうなさったのですか」
 
 レイスの問いは暗に、何時ものように入ってきて問題ないと、言っているようだった。
 
「アレンさんは」
「アレン様でしたら仕事をなさっていますが」
 
 ファーダは会いたいのだと、簡潔に述べた。アーダと会う前に、言っておかなくてはいけない。身の振り方を。アーダの気性は判っている。だから、経験で拒絶されることは判っていた。
 
 成人に達し、それなりの時間が経った。何より、体の中で扉が確実に開き始めている。最近、その速度が加速しているようなのだ。

「本気か」
 
 アレンの問いに、ファーダは素直に頷いた。先延ばしは危険が増す結果しか生まない。多くを教えられたからこそ、判ることだった。
 
「最初に離れようとしたのは俺だから」
 
 全ては自分が招いた結果でしかない。今だって、アーダに会うのに躊躇いがあるのだ。
 
「両親には話してきたし、白の長様にも連絡したんだ」
 
 もし、拒絶されたら両親の元には戻らない。そのまま、太陽に全てを委ねるつもりだ。他人の力無くして生きることが出来ない月華は、結局、自分の力だけでは解決出来ない存在なのだ。

 もし、アーダに拒絶されたとしても、それは、自分が招いた結果に過ぎない。誰かを恨む資格などないのだ。
 
「納得したのか」
 
 それは両親という意味だろうか。たとえ、納得していなかったとしても、相手が必要なことなのだ。だから、駄目だとは言わなかった。本心でないのは判っている。
 
「納得していなかったとしても、仕方ないから」
 
 確かにその通りだろう。アレンは小さく息を吐き出した。娘のことはよく判っているのだ。絶対に拒絶するに決まっている。
 
「彼奴は意固地になってると思うぞ」
 
 ファーダは判っていると頷いた。

「それでもか」
 
 更に頷いた。何時か、などと言う、先延ばしに出来ない立場にファーダは居る。成人し、大人達が施し続けた封印も、意味が無くなりつつある。それは、顕著に判るまでになっていたのだ。
 
「もう、限界だと思うんだ」
 
 ファーダは俯きながら、事実を告げた。ジゼルと同じような状況になるわけにはいかない。安全であるうちに、身の振り方を考える必要がある。
 
 アーダに頼るにしても、別の選択を選ぶにしても、ここが限界なのだ。きちんと意識を保ち、冷静に判断出来るぎりぎりのところに立っているのだ。
 
 ファーダの話にあからさまに息を吐き出したのはファジールだった。

「これだけは覚えておくんだ」
 
 いきなり口を開いたファジールに、アレンは振り返った。厳しい表情は同情によるものではない。経験者として、ファーダの選択を嘆いているのだ。
 
「鍵の受け渡しが決まったら、絶対に助けてやる。だから、最後まで諦めないことだ」
 
 ファジールの気休めのようの言葉に、ファーダは苦笑いを浮かべた。目の前に居る三人の存在は、どんなことをしても、ファーダとアーダを助けようと動いてくれるだろう。それはあくまで、アーダのこれからの行動次第だ。
 
 拒絶して直ぐのファーダの言葉に、耳を傾けてくれるとは考えられない。だから、ファーダは別れの言葉を告げるつもりで来たのだ。

 ファーダが散った後、眠りに就くのではなく、誰かとの幸せを望んで欲しい。たとえ、永い時が掛かったとしても、魔族に時間は関係ないのだ。長い時の中で、絶対に心寄せることを望む存在は現れる。
 
 一時的な感情に身を任せて、全てを選んで欲しくない。ファーダとは違い、アーダには決められた時間はないのだから。
 
 必要なことを言い終え、ファーダはアーダの元に向かった。それを見送り、アレンは息を吐き出しながら、小さく首を横に振った。
 
「どうする気」
 
 ベンジャミンの言葉に、アレンは腕を組み、視線を窓の外へ向けた。

「何も視えていないのか」
 
 ファジールの問いに、アレンは難しい表情を見せた。視えていないと言えば嘘になるのだが、見えた場所に問題があるのだと呟くように言った。
 
「どう言うこと」
 
 ベンジャミンは首を傾げた。確か、前に訊いたときには、何も視えていないと言っていたからだ。
 
「全てが終わった後なんだよ」
 
 ファジールはその言葉に、シオンを思い出した。あの時も、視えたのは全てが終わった後の映像だった。前の過程が全くない状態で、解決した情景が視えたのだ。
 
「何が視えた」
 
 ファジールは簡潔に訊いてきた。

 アレンは視線をファジールに向ける。
 
「《婚礼の儀》が視えた」
 
 つまり、今のこの状況で、二人は一緒になる道筋を選んだことになる。問題は、どういった過程を経て、その状況に持っていくことが出来たか、なのだ。
 
「普通に考えて、このままじゃ、無理だよね」
 
 ベンジャミンもアーダのことはよく判っている。姪であるアーダは、姉妹の中で一番我が強い。気が強いだけではなく、意固地になることも多い。
 
 妥協することを嫌い、白黒付けなければ納得しないのだ。そのせいで、アレンともよく衝突するのだが、他の姉妹達が宥めてくれる。今回はそう言うわけにはいかないだろう。

 
 
      †††
  
 
 ファーダは居間に向かったのだが、アーダは部屋にこもったまま、数日、会っていないのだと、母親のシオンと、祖母のジゼルは言った。ファーダはこれからのことを話し、別れの挨拶を済ませた。二人は顔を顰めたが、アーダの性格を判っている。追及はしてこなかったが、言いたいことを無理割飲み込んだような顔を隠しはしなかった。
 
 そして今、アーダの部屋の前にいる。予想したように、扉から感じる拒絶に、ファーダは苦笑いを浮かべた。判っていたことなのだ。何かを期待して来たわけではない。判っていて、この場所に来たのだ。

 そして、思うこと。自分の境遇を不幸だと感じたことはない。おそらく、多くの反対があった筈だ。月華は特殊な存在ゆえに、一般的な認識と、実際では事実に大きな隔たりがある。
 
 扉に鍵が掛かっていることを知るのは、吸血族の中で一握りだ。もし、その事実を知れば、恐慌状態に陥る者が続出するだろうと、黒薔薇の主治医の三人は言っていた。
 
「アーダ」
 
 ただ、囁くように語り掛けた。どんなに無視をされたとしても、アーダはファーダが来たことには気が付いている。言葉を返されなくとも、聞いてもらえることは判っている。だからこそ、本心を語ることにした。自分が消えることは、正直に恐ろしいと思う。

 だが、それ以上にアーダが苦しむ姿を見たくはない。何時も、何の憂いもなく微笑んで欲しい。
 
 ファーダがアーダの顔から、笑顔を奪う結果になっているが、それは、あくまで一時的なことだ。ファーダが全ての次元から完全に消えてしまえば、アーダの考えも変わるだろう。何より、そうであって欲しいのだ。
 
「元気で」
 
 別れの言葉は言いたくなかった。誰よりも幸せを望んで欲しい。ファーダと関わったために、考えなくてもいいようなことまで考えさせ、悩ませてしまった。
 
 アーダだけではない。多くの関わってくれた者達にも、感謝の気持ちを贈りたい。

 小さく息を吐き出し、額を扉に預けた。そして、扉から離れ、小さく頭を下げた。全ては彼自身が招いたことだ。
 
 そして、ゆっくりと部屋を離れた。
 
 消えていく自分では見ることの出来ない、アーダの未来を想像した。たとえ、その場所に自分が居なかったとしても、アーダだけではなく、関わった全ての者達が幸せであって欲しい。
 
 それが、ファーダの願う、本当の気持ちだった。
 
 ゆっくりと離れてく気配に、アーダは息を呑んだ。ファーダは確かに言葉を残してくれたが、それは、アーダの今後に、ファーダの存在を除外視したものだったからだ。ベッドの上で、ただ、体を震わせることしか出来なかった。

 ファーダは何時も穏やかで、アーダの我が儘にも、嫌な顔をせず答えてくれた。ただ一つ、鍵についてだけは、何時も答えを渋っていた。
 
 その、本当の理由を、アーダは知らなかったのだ。ファーダは誰よりも、アーダの身を案じていたのだ。だから、何時も躊躇っていたのだ。嫌いになったからではなく、誰よりも大切だから拒絶した。扉の外から、微かに聞こえてきた声に、アーダは声が出せなかった。
 
 わざわざ此処まで足を運んだのは、アーダに鍵としての役割を担って欲しいと、言いたかったに違いない。でも、ファーダは最後までその言葉を口にはしなかった。
 
 その、理由。
 
 アーダは慌ててベッドを降り、直ぐに自分の姿を思い出した。

 この姿では、父親ばかりでなく、全ての者に引き止められる。慌てて着替え、部屋を飛び出した。
 
 服を着るのに手間取ったが、遠くには行っていない筈だ。エントランスまで行くと、其処に立っていたのはアレン。
 
「……お父さん」
「拒絶したのか」
 
 その問いに、アーダ強く首を横へ振った。何も声を掛けてはいないのだ。
 
「何を言われた」
 
 ファーダが恐れていたのが、彼自身のことではなく、アーダが苦しむ姿を見ることであると言っていたこと。最後の言葉は、元気でいて欲しいという、願いであったこと。

「私、そんなこと考えたこともなかった。ただ、一緒に居たかったのっ」
 
 離れるなんてことは、考えたこともなかった。何時までも、変わらず居られると思っていたのだ。
 
「お前は良くも悪くも俺達の娘だからな」
 
 アレンは呆れたように息を吐き出した。
 
「どうするつもりだ」
 
 その問いに、アーダはキッと、アレンを睨みつけた。そして、答えることなく、離れの館を飛び出した。アレンは肩を竦めると、アーダの後を追う。あの状態で一人にするのは非常に危険だからだ。普通の状態なら危険ではないだろうが、今ならば、襲われたら確実に無事ではすまない。

 アレンはアーダの後を追いながら、ファジールへ使い魔を送った。勝手に居なくなるのは、問題だったからだ。だが、ファジールのことだ。言わなかったとしても、孫娘と息子の行動くらい、理解しているだろう。
 
 ファーダが向かったのは白の長の館。アーダはファーダの目的地を知らなかったとしても、確実に後を追うだろう。
 
 アレンの使い魔から連絡を貰ったファジールは苦笑いを浮かべた。どうやら、忙しくなりそうだった。セルジュの体の変化の最中だが、ファーダは一刻を争う状態まできている筈だ。だからこそ、アレンに今後のことを告げに来たのだろう。
 
「兄さんは何て」
 
 ベンジャミンはファジールを見詰め、使い魔が伝えてきた内容を問い掛けた。

「忙しくなりそうだ」
「じゃあ……」
 
 ファジールは頷く。
 
「後を追ったみたいだな」
「兄さんは」
「あのまま放置をして野放しにしたら、大変な事態になるだろう。後を追った」
 
 ファジールがそう言い終わると、使い魔は霧が霧散するように、姿を消した。
 
「用意したほうがいいみたいだね」
「そうだな。僕は黒の長のところに行って来る」
 
 ベンジャミンは理解したように頷いた。鍵の受け渡しは血の交換そのものだからだ。

 扉を拘束するのは血の鎖だ。それを行うには、互いの血液が必要だ。そして、代わりを務めるためにも、血液は重要なものなのだ。
 
 吸血族の中に刻まれた、血の記憶。それは、他の魔族とは異なる、特殊な種族としての特性だ。だからこそ、鍵を持たない月華が、普通に生活出来る対処法が存在する。
 
 ベンジャミンは父親を見送り、母親の元へ向かった。必要なのは月華である母親と、鍵である父親の二人だ。そして、兄は不測の事態を回避するために必要な存在。
 
 ベンジャミンはそんな三人が、安全に動ける環境を整えるのが役目だ。失敗することがないように、不測の事態に陥らないように、何もかも、用意する必要があった。
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