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第六章 寒芍薬

記憶の中

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 蒼万は柊虎が西宮に発ってから、片時も離れず志瑞也の側にいた。夜寝る時はいつものように抱きしめ「戻ってこい…志瑞也」耳元で囁く。温かい人形を抱いてるような感覚に、慌てて志瑞也の胸に耳を当て鼓動を確認する。感情の無い規則的な心音を、ただ静かに聴き続けていた。何度か唇を重ねてみるが、何の反応も返ってこない。出逢った日からを思い返していると「蒼万!」名を呼ばれた気がして駆け寄る。一日に何度もそれを繰り返し、気が狂いそうな時を過ごしていた。

 柊虎が発ってから三日目、蒼万は眠る志瑞也の側に座っていた。顔を見つめながら頬をなで、このまま柊虎を待つよりも、一緒に連れて帰ることを考えていた。仮にこのまま目覚めなかったとしても、運良く神族は長生きだ。その日が来るまで待とう、このままだと中央宮に連れて行かれる。その前に何とかしなければ、何をどうするかも分からず、思考は歪んでいく一方だった。
 外で馬の蹄の音と、誘導する柊虎の声がした。
「蒼万っ、待たせたな!」
 柊虎は戸を開け中に入り蒼万に近付く。
「志瑞也は?」
 蒼万は振り向かずに顔を横に振る。
「そうか… 外に馬を繋いである」
 蒼万は呟くように言う。
「恩に着る」
 蒼万の様子が明らかにおかしく、柊虎は眉をひそめる。
「お前、大丈夫か?」
 蒼万が伏し目がちで振り向く。
「志瑞也を頼む」
 柊虎はその表情に驚愕する。
「…わかった」
 蒼万は志瑞也を見つめ、そっと口づけして外に出て行った。

 蒼万は柊虎の馬で東宮へ向かい、その日の亥の刻〔二十二時〕に到着することができた。東宮内の灯りは既に消え、暗闇の中、蹄の音を鳴らし急ぎ自殿に戻る。
「沙羅っ、沙羅っ!」
 慌ただしい声に、何事かと沙羅は急ぎ門に向かう。
「そっ、蒼万っ…様?」
「馬を頼むっ、祖父上に会いに青龍殿へ参るっ、父上にも急ぎ青龍殿へ参るよう、お前から託けを頼むっ」
「しょ承知しましたっ」
 蒼万は走って青龍殿へ、沙羅は急ぎ緑龍殿へ行った後、その足で葵殿へと向かった。

「祖父上っ蒼万ですっ、入りますっ」
 蒼万は戸を開け部屋に入る。
「そっ蒼万っ、どうしたのじゃ?」
「蒼万っ、断りもなく無礼ですよ!」
 休む用意をしていた蒼明と朱子は、礼儀正しい孫の異常な行動に驚くも、その顔付きと黒の衣を見て、二人は目配せして椅子に腰掛けた。
「蒼万、戸を閉めてお前も座るのじゃ」
「いいえっ、明日には戻らねばなりませんっ、話をしたら直ぐにここを発ちますっ」
 蒼万の目は充血して隈ができ、頬が少し痩け顔色も悪く、明らかに数日寝ていない様子だ。特に眼光が弱く、精神が病んでいるのは誰が見てもわかる。その変わり果てた姿は、神家から〝容貌魁偉〟と云われる風格は微塵も感じられない。
 朱子が言う。
「志瑞也さんは、一緒ではないのですか?」
 蒼万の眉がわずかに動く。
「私、一人です… その事でお話があります」
「ならば掛けてお話しなさい」
「いいえっ、急いでおりますっ」
「蒼万っ掛けなさいっ!」
 珍しく朱子が声を張り上げた。
 蒼凰と愛藍と葵は向かいながら朱子の声が聞こえ、急ぎ戸の開いた部屋に入る。蒼万は椅子の前で立ち尽くし、蒼明と朱子が険しい顔で蒼万を見ていた。三人は緊張した面持ちで、黙って様子を見た。
「蒼万、私にまだ言わせるのですか?」
 鋭い眼差しで言う朱子の声に、わずかだが全員の背筋が凍る。朱子は蒼万の祖母である前に、幼き頃蒼万の精神を鍛えた師でもある。声に神力を込め、強制的に蒼万を教育したのだ。孫を守る為とはいえ、苦しむ蒼万を見続ける朱子もまた苦しんだ。だが、蒼万が感情を無にしたことで、朱子は心を痛め二度と声の力を使わないと決め、それを破ったことは今まで一度も無い。
 蒼万は拳を握り眉間に皺を寄せる。
 蒼万は朱子に良く似ていて芯の強い性分だ、決断したことは必ず守る。互いの思いは理解していても、似た者同士では上手く行かない時もある。
 二人の様子を見兼ねた蒼明が言う。
「お前は何処から舞い戻ったのじゃ?」
「…女宿です」
 蒼明は頷いて腕を組む。
「それでその衣か、どのぐらいで着いたのじゃ?」
「…五刻です」
「女宿から五刻とは早いのう、自分の足ではなかろう」
「白虎家の柊虎から、馬を借りました…」
 蒼明は朱子に目配せして言う。
「ならばその馬は今日はもう走れんじゃろ、無理に走らせば、途中死んでしまうかもしれないのう、朱子よ」
 朱子は蒼明の意図に気付く。
「えぇあなた、それを志瑞也さんが知ったら…悲しむでしょうねぇ」
 二人は目で頷き合う。
「では…自分の足で戻ります」
 蒼明が鼻息をついて言う。
「蒼万よ、明日の辰の刻に発てば酉の刻には着くであろう。馬も休ませた方が良いし、お前もじゃ、酷い顔をしておるぞ、それに考えてもみなさい、その状態で今後持ち堪えられると、思うておるのか?」
「……わかりました」
 蒼万はやっと椅子に腰掛けた。
 一先ず五人は安堵し、蒼明は蒼凰達に目を向ける。
「お前達も掛けなさい」
 蒼万の右隣に葵、左隣に蒼凰、愛藍と並んで腰掛け、蒼万が事を話す間五人は黙って聞いていた。葵は急にモモ爺達が消え、傘寿に聞いても分からず、沙羅と一緒に東宮を探し回っていた。話を聞いても、見つかって良かったとは言えるわけがない。

 蒼明が先に口を開く。
「蒼万話はわかった、集会にはわしと蒼凰が参るから、お前はとにかく休むのじゃ、よいな?」
 蒼万は黙って頷く。
「葵は今直ぐ蒼万殿へ行って、沙羅に青龍湖の水で風呂の用意と、何か精のつく食べ物をとお願いできる?」
「はい祖母上…」
 葵は朱子と見合わせて頷き部屋を出た。
 蒼凰は蒼万の顔を覗き込んで言う。
「お前は黄怜の霊魂を守ることで、黄龍家に蒼龍家の忠誠心を示しているのか? 功績が認められ黄龍家直属の武神になれば、同家に対し過去の過ちを償っていると? それならばもう良いのだぞ、過去の事で誰もお前を責めてはおらぬ」
 愛藍も心配そうに頷く。
「父上、それは違います…」
 蒼凰と愛藍は自分達の予想と違い、眉をひそめ見合わせる。
「では何故ここまでするのだ? 玄枝様が父上をお呼びになったのなら、お前はもう戻らなくても良いではないか」
 蒼万は膝に置いた手を握りしめる。
「…私が、私が志瑞也を守りたいのです」
「それはっ」
「それはどういうことですのっ?」
 愛藍が蒼凰を押し退け身を乗りだす。
「私は志瑞也を慕っております… 片時も側を、離れたくないのです…」
「なっ…」
 ずっと伏し目がちで話す蒼万は、声からも気力が無く今にも倒れそうだ。そんな息子の姿を目の前にして、怒鳴り散らして問い質すなど、さすがの愛藍でもできなかった。
 蒼明と蒼凰は驚き黙る。
「ですから私が、お嫁にと申したではないですか、ふふふ」
「はっ母上?」
「義母上っ!」
「朱子っ…」
 三人は朱子を見るが、朱子は三人に目配せして頷く。
「蒼万、それならあなたは尚更今日中に回復し、明日戻らねばなりませんね、ふふふ」
 蒼万が虚ろな目で朱子を見る。
「祖母上…ありがとうございます」
「蒼万、自殿に戻るのじゃ」
「はい…」
 蒼万は席を立ち戸の前で振り返る。
「祖父上、祖母上、先程は無礼な振舞いをして、申し訳ありませんでした… 父上も母上も、ありがとうございます…」
 そう言って、蒼万は頭を下げた。
「案ずるな」 
「そうだぞ蒼万、何かあれば私は必ず力になる」
 蒼明が笑顔で頷き、蒼凰も笑顔で言った。
 朱子が微笑んで言う。
「蒼万、志瑞也さんは、あなたの想いはご存じなの?」
 愛藍は目を見開いて蒼万を凝視する。
「はい… 私達は想い合っております、では失礼します…」
 蒼万は目を細めて儚げに微笑んで、部屋を出て行った。
 蒼万の微笑みに朱子は喜び、蒼明と蒼凰は戸惑い、愛藍は衝撃のあまり意識が飛びそうになっていた。

 蒼万が自殿に戻ると、自室には遅い夕餉が用意されていた。葵が「モモ爺さん達は、神獣だったのですね…」と言い蒼万は頷く。「モモ爺さん達が志瑞也さんから、獣の臭いがすると言っていましたわ…」蒼万は繋げられる要素がなく「そうか」と呟く。「志瑞也さ…」言いかけて黙る葵に「案ずるな」とだけ蒼万は言った。
 葵はきっと、柊虎のことも気になってはいる。だが以前とは違い、柊虎にも考えがあると蒼万は知っている。口を出さなくても、柊虎はいずれ葵と話をする。蒼万はうつむく葵の肩を軽く叩き自殿へ帰した。

 風呂の用意が整い、蒼万は湯船に浸かる。身体が一気に熱を帯び、鉛の様に四肢全体が重くなっていく。祖父母の言葉は正しい、身体は疲労困憊していた。蒼万は霞んでいく視界を見渡す。ここで志瑞也と初めて会話し、ここから全てが始まった。志瑞也に言われた言葉を思い返し「ふっ」目を細め儚げに笑う。徐々に遠のいて行く意識の中で、志瑞也の心地よい寝息を思い出しながら、蒼万はやっと深い眠りについた。
─ 第六章 終 ─
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