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第三章 母子草
忘れられない
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黄虎は玄龍殿を出て自殿へ戻ろと思ったが、引き返し九龍殿へ向かった。
「祖母上、黄虎です」
「入りなさい」
黄虎は緊張しながら戸を開け中に入る。
「掛けなさい」
「はい…」
黄虎は会釈して椅子に腰掛けた。
「話は聞いてます、明日南宮へ?」
「はい、発つ前に祖母上にご挨拶をと」
「わざわざお前は本当に…」
九虎は黄虎を目に入れても痛くない程、幼い頃から可愛がっている。黄虎もそれは理解していたが、その優しさは、露骨な程他者には向けられることはない。何より、黄怜との仲をよく思ってなかったのだ。成長と共に九虎の野心に気付いた黄虎は、徐々に九龍殿に足を運ばなくなった。特に血筋への執着ぶりは、曾祖父黄羊を思い出させる。
「気をつけて行きなさい」
「ありがとうございます」
ふと見ると、九虎の額の生え際には汗が滲み出ていた。
「祖母上? お顔色が優れませんが?」
「用が済んだのなら下がりなさいっ」
黄虎はびくっと体を震わせ、ぎこちなく椅子から立ち上がり頭を下げる。
「…では祖母上、失礼します」
鼻息をつき戸に向う。
ガタンッ
物音で振り返ると、九虎が椅子から転げ落ち床に倒れていた。
「祖母上っ!」
黄虎は驚き急ぎ駆け寄り体を支える。
「はぁ…はぁ… 騒ぐでないッ」
黄虎は九虎に腕を掴まれるが、触れた手の冷たさに鳥肌を立てる。
「しっしかし、祖母上誰かお呼びしますっ」
「ならぬっ、はぁ…はぁ…誰も呼ぶでないっ」
あまりの九虎の様子に黄虎の顔も青褪める。
「祖母上っ、こんな時まで意地を張らないで下さい!」
「黙りなさいッ! はぁ…はぁ…」
「祖母上…」
「しッ、しばらくすれば治まります… 案ずるな…」
「…はい」
九虎が自身の胸に霊力を送る様子から、黄虎は余程の状態だと感じる。徐々に呼吸が安定し、元の九虎の表情に戻った。九虎は黄虎に支えられて立ち上がり、二人は再度椅子に腰掛けた。
黄虎が険しい顔で尋ねる。
「祖母上、その症状はいつからなのですか?」
「お前には関係ないっ」
「ちっ…父上や母上は、ご存じなのですか?」
「……」
「何処か病に侵されているのであればっ、急ぎ私が青龍湖の水を汲んで参りますっ」
そう言って、黄虎は椅子から立ち上る。
「座りなさいっ、お前は明日責務に行くのよっ」
「祖母上っ」
「座りなさいっ!」
拳を握りながら椅子に戻る。
「このことは他言無用です」
「しっしかし…」
「よいですかっ?」
「あ…」
九虎の眼差しに、一瞬で身体が強張り呼吸が乱れた。自分ではどうにもならない身体の反応に、長年ずっと怯え続けている。九虎に触られると恐怖を感じ、鳥肌が立つようになったのは、あの時からだ。
─ 二十三年前 ─
明日、黄怜の成人の儀で共に妖魔退治に参加することになり、黄虎は挨拶を兼ねて、夜九虎に会いに九龍殿へ向かっていた。悪戯心で九虎を驚かそうと、足音を立てず九虎の自室に近付く。部屋の中からは話し声が聞こえ、来客中だと思い部屋の外で待つことにした。
「黄虎は?」
「今日はもう自殿で休んでおります」
部屋の中から自分の名が聞こえ、戸にへばり付いて耳を澄ますと母美虎の声だった。それなら二人共驚かしてしまえと、戸の外で聞き耳を立てながらにんまりとする。
「明日の成人の儀の後、黄怜の婚約の話しは上がっているの?」
「聞くところによると、各神家の傍系から既に嫁候補の名が上がっているそうです。黄怜は優しく顔立ちも端麗で人気がありますから…」
黄虎はその事実に、手を叩いてひっくり返る程たまげた。黄怜から仲の良い女子の話は、葵以外聞いたことがない。明日集まる女子の多さに、黄怜はきっと戸惑うだろう。しかし、黄怜の好みは特殊だと黄虎は知っている。どう選ぶのかを想像して、黄虎は吹き出しそうな笑いを堪えた。
「早々に子が生まれてしまえば、私達は傍系になり宮から降ろされるわね」
「義母上、ならいかがすれば?」
「私に任せなさい」
「なっ何をされるのですか…?」
美虎の動揺した声に黄虎は眉をひそめる。
「明日の妖魔退治の際に、黄怜に何かあっても誰も気づかぬ」
「義母上…?」
「黄怜は私達にとって邪魔者よ」
「まさか…きっ黄怜を殺すっ」
「しっ! 言葉に出すでないっ」
………黄虎は顔面蒼白になる。胸部全体が心臓かのように体が揺れ、呼吸が浅くなり何も聞こえなくなった。
「そこに居るのはどなたですか?」
侍女の声が聞こえず黄虎は立ち尽くす。
「何者っ!」
「パン!」九虎が激しく戸を開けた。
「黄虎っ?」
部屋からの逆光で、九虎の見開いた目だけが青白く浮き立ち、大蛇に睨まれたかの様に黄虎は固まる。足がすくみ喉が「ひっくひっく」奇妙な音を鳴らした。
「黄虎っなっ、何故あなたがここに?」
美虎は驚き口に手をあてる。
九虎が黄虎の肩にそっと手を置き、微笑みながら低くゆっくり言う。
「黄虎、いつからここに?」
「いっ…今っ…たった今っ…あっ…明日のあっ…挨拶にとっ…おっ…思って…」
舌が喉を塞ぎ、話そうとしても上手く動かない。
「そう、ついでに悪戯でもしようとしてたの? もう十七ですよ、子供みたいなことはやめなさい、よいですか?」
「あ…ああ…」
九虎はしらじらしく微笑み、更に目を大きく開き黄虎の肩をぐっと掴んだ。
黄虎は目が眩み意識が飛びそうになる。
「義母上っ、あっ明日は早いので、私は黄虎と下がらせていただきますっ」
「えぇ、そうして頂戴」
黄虎の肩から九虎の手が離れると、呼吸がなんとか戻り倒れるのだけは間逃れた。
美虎が慌てて部屋から出てきて黄虎の腕を掴む。
「ほら行くわよっ、義母上に挨拶をしなさいっ」
黄虎は頭の中が混乱して動けなかった。美虎に無理矢理頭を押さえられ、九虎に一礼をし一緒に下がる。放心状態の黄虎に美虎が何か話しかけるが、黄虎の耳には悪魔の言葉だけが繰り返えされていた。
〝邪魔者、黄怜を殺す〟
〝邪魔者、黄怜を殺す〟
〝邪魔者、黄怜を殺す〟
─ 現在 ─
「黄虎?」
「わっ、わかりました…」
黄虎は指先が冷たくなり、滲み出てくる冷や汗を拭う。
「もう下がりなさい」
「はい…」
九龍殿を出ると辺りは丁度夕闇で、黄虎は気が抜けたようにとぼとぼと歩く。「ここは……」気が付くと自殿ではなく、隣の黄怜殿の門前に立っていた。門柱には灯りも何もなく、暗くなるにつれ建物は存在をなくし闇と同化していく。殿まるごとぽっかり空いた穴の大きさに、黄虎は顔を横に振りながら後退りする。あの日、何かが起こると分かっていた。何もできなかった無力な自分に、祖母と母を問い詰める勇気すらない臆病な自分に、自分だけが生きていることの理不尽さに嫌気がさした。未だに脳裏に焼き付いて離れない記憶が蘇り、振り切るように全速力で走り出す。行き場のない感情を抱え、走って走って走り続けた。
黄虎は墓石の前に立つ。
「黄怜っ…ごっごめんよ… 黄怜っ… ううっ…うっ、うあぁぁぁぁぁ──っ!」
─ 第三章 終 ─
「祖母上、黄虎です」
「入りなさい」
黄虎は緊張しながら戸を開け中に入る。
「掛けなさい」
「はい…」
黄虎は会釈して椅子に腰掛けた。
「話は聞いてます、明日南宮へ?」
「はい、発つ前に祖母上にご挨拶をと」
「わざわざお前は本当に…」
九虎は黄虎を目に入れても痛くない程、幼い頃から可愛がっている。黄虎もそれは理解していたが、その優しさは、露骨な程他者には向けられることはない。何より、黄怜との仲をよく思ってなかったのだ。成長と共に九虎の野心に気付いた黄虎は、徐々に九龍殿に足を運ばなくなった。特に血筋への執着ぶりは、曾祖父黄羊を思い出させる。
「気をつけて行きなさい」
「ありがとうございます」
ふと見ると、九虎の額の生え際には汗が滲み出ていた。
「祖母上? お顔色が優れませんが?」
「用が済んだのなら下がりなさいっ」
黄虎はびくっと体を震わせ、ぎこちなく椅子から立ち上がり頭を下げる。
「…では祖母上、失礼します」
鼻息をつき戸に向う。
ガタンッ
物音で振り返ると、九虎が椅子から転げ落ち床に倒れていた。
「祖母上っ!」
黄虎は驚き急ぎ駆け寄り体を支える。
「はぁ…はぁ… 騒ぐでないッ」
黄虎は九虎に腕を掴まれるが、触れた手の冷たさに鳥肌を立てる。
「しっしかし、祖母上誰かお呼びしますっ」
「ならぬっ、はぁ…はぁ…誰も呼ぶでないっ」
あまりの九虎の様子に黄虎の顔も青褪める。
「祖母上っ、こんな時まで意地を張らないで下さい!」
「黙りなさいッ! はぁ…はぁ…」
「祖母上…」
「しッ、しばらくすれば治まります… 案ずるな…」
「…はい」
九虎が自身の胸に霊力を送る様子から、黄虎は余程の状態だと感じる。徐々に呼吸が安定し、元の九虎の表情に戻った。九虎は黄虎に支えられて立ち上がり、二人は再度椅子に腰掛けた。
黄虎が険しい顔で尋ねる。
「祖母上、その症状はいつからなのですか?」
「お前には関係ないっ」
「ちっ…父上や母上は、ご存じなのですか?」
「……」
「何処か病に侵されているのであればっ、急ぎ私が青龍湖の水を汲んで参りますっ」
そう言って、黄虎は椅子から立ち上る。
「座りなさいっ、お前は明日責務に行くのよっ」
「祖母上っ」
「座りなさいっ!」
拳を握りながら椅子に戻る。
「このことは他言無用です」
「しっしかし…」
「よいですかっ?」
「あ…」
九虎の眼差しに、一瞬で身体が強張り呼吸が乱れた。自分ではどうにもならない身体の反応に、長年ずっと怯え続けている。九虎に触られると恐怖を感じ、鳥肌が立つようになったのは、あの時からだ。
─ 二十三年前 ─
明日、黄怜の成人の儀で共に妖魔退治に参加することになり、黄虎は挨拶を兼ねて、夜九虎に会いに九龍殿へ向かっていた。悪戯心で九虎を驚かそうと、足音を立てず九虎の自室に近付く。部屋の中からは話し声が聞こえ、来客中だと思い部屋の外で待つことにした。
「黄虎は?」
「今日はもう自殿で休んでおります」
部屋の中から自分の名が聞こえ、戸にへばり付いて耳を澄ますと母美虎の声だった。それなら二人共驚かしてしまえと、戸の外で聞き耳を立てながらにんまりとする。
「明日の成人の儀の後、黄怜の婚約の話しは上がっているの?」
「聞くところによると、各神家の傍系から既に嫁候補の名が上がっているそうです。黄怜は優しく顔立ちも端麗で人気がありますから…」
黄虎はその事実に、手を叩いてひっくり返る程たまげた。黄怜から仲の良い女子の話は、葵以外聞いたことがない。明日集まる女子の多さに、黄怜はきっと戸惑うだろう。しかし、黄怜の好みは特殊だと黄虎は知っている。どう選ぶのかを想像して、黄虎は吹き出しそうな笑いを堪えた。
「早々に子が生まれてしまえば、私達は傍系になり宮から降ろされるわね」
「義母上、ならいかがすれば?」
「私に任せなさい」
「なっ何をされるのですか…?」
美虎の動揺した声に黄虎は眉をひそめる。
「明日の妖魔退治の際に、黄怜に何かあっても誰も気づかぬ」
「義母上…?」
「黄怜は私達にとって邪魔者よ」
「まさか…きっ黄怜を殺すっ」
「しっ! 言葉に出すでないっ」
………黄虎は顔面蒼白になる。胸部全体が心臓かのように体が揺れ、呼吸が浅くなり何も聞こえなくなった。
「そこに居るのはどなたですか?」
侍女の声が聞こえず黄虎は立ち尽くす。
「何者っ!」
「パン!」九虎が激しく戸を開けた。
「黄虎っ?」
部屋からの逆光で、九虎の見開いた目だけが青白く浮き立ち、大蛇に睨まれたかの様に黄虎は固まる。足がすくみ喉が「ひっくひっく」奇妙な音を鳴らした。
「黄虎っなっ、何故あなたがここに?」
美虎は驚き口に手をあてる。
九虎が黄虎の肩にそっと手を置き、微笑みながら低くゆっくり言う。
「黄虎、いつからここに?」
「いっ…今っ…たった今っ…あっ…明日のあっ…挨拶にとっ…おっ…思って…」
舌が喉を塞ぎ、話そうとしても上手く動かない。
「そう、ついでに悪戯でもしようとしてたの? もう十七ですよ、子供みたいなことはやめなさい、よいですか?」
「あ…ああ…」
九虎はしらじらしく微笑み、更に目を大きく開き黄虎の肩をぐっと掴んだ。
黄虎は目が眩み意識が飛びそうになる。
「義母上っ、あっ明日は早いので、私は黄虎と下がらせていただきますっ」
「えぇ、そうして頂戴」
黄虎の肩から九虎の手が離れると、呼吸がなんとか戻り倒れるのだけは間逃れた。
美虎が慌てて部屋から出てきて黄虎の腕を掴む。
「ほら行くわよっ、義母上に挨拶をしなさいっ」
黄虎は頭の中が混乱して動けなかった。美虎に無理矢理頭を押さえられ、九虎に一礼をし一緒に下がる。放心状態の黄虎に美虎が何か話しかけるが、黄虎の耳には悪魔の言葉だけが繰り返えされていた。
〝邪魔者、黄怜を殺す〟
〝邪魔者、黄怜を殺す〟
〝邪魔者、黄怜を殺す〟
─ 現在 ─
「黄虎?」
「わっ、わかりました…」
黄虎は指先が冷たくなり、滲み出てくる冷や汗を拭う。
「もう下がりなさい」
「はい…」
九龍殿を出ると辺りは丁度夕闇で、黄虎は気が抜けたようにとぼとぼと歩く。「ここは……」気が付くと自殿ではなく、隣の黄怜殿の門前に立っていた。門柱には灯りも何もなく、暗くなるにつれ建物は存在をなくし闇と同化していく。殿まるごとぽっかり空いた穴の大きさに、黄虎は顔を横に振りながら後退りする。あの日、何かが起こると分かっていた。何もできなかった無力な自分に、祖母と母を問い詰める勇気すらない臆病な自分に、自分だけが生きていることの理不尽さに嫌気がさした。未だに脳裏に焼き付いて離れない記憶が蘇り、振り切るように全速力で走り出す。行き場のない感情を抱え、走って走って走り続けた。
黄虎は墓石の前に立つ。
「黄怜っ…ごっごめんよ… 黄怜っ… ううっ…うっ、うあぁぁぁぁぁ──っ!」
─ 第三章 終 ─
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