和菓子屋たぬきつね

ゆきかさね

文字の大きさ
上 下
125 / 228
《第2期》 ‐その願いは、琴座の埠頭に贈られた一通の手紙。‐

   『さようなら』

しおりを挟む


 《魔方陣》の光が消えて最初に感じたのは、ジャケットの上からでも少しばかりの肌寒さを感じる秋風、そしてそこに乗った潮の香りだった。
「フェリック、ストー……?」
 そこは日の傾いた盛況な海岸沿いで、石畳で出来た見晴らしの良い広場の周辺には背の低い行楽施設が並んでおり、そしてそれらの看板にはいずれも『Felixstowe』と共通の単語が記されていた。
「はい。ベルギーのオーストエンデやオランダのミデルブルフを対岸に臨む、イギリス南東に位置する海岸線です。ひづり、あそこの建物の名前が見えますか?」
 ラウラが指差したのは広場の端で海を背にして佇む、全体的に白い外壁で出来た一際大きな建物だった。入り口周辺には子供向けのゲーム筐体らしきものが並んでおり、よく見れば周囲を行き交う人々も子供連れが多かった。看板には大きく『Felixstowe Pier』とある。
「フェリックストー・ピア……ピア……埠頭、だっけ?」
 英単語にはあまり自信がなかったが、場所が場所なため当てはついた。
「正解です。角度的にここからだと難しいですが、店の右手にあるカフェテラスを通り抜けるとそこからそのまま沖へ伸びた波止場が見えるんです。もう日が落ちかけてしまっていますね。行きましょう」
 ひづりの手を取るとラウラはまた《転移魔術》を使った。
 光に呑まれた視界が再び景色を捉えた時、ひづりは思わず息を吸った。
 そこはどうやら今しがたラウラが語った《フェリックストー・ピア》の裏手にあるというその波止場の先端部らしかった。沖に出たからだろう、先ほどの石畳の広場よりも風が強く、また冷たかった。
 振り返ると小さくなった《フェリックストー・ピア》の海に面した白い背中が見えた。建物の足元には日当たりの良さそうなカフェテーブルやパラソルが認められたが、そこからひづり達との間に客は一人も居なかった。遠いためあまりよく見えなかったがカフェテラスのすぐそばには白い柵らしき物があり、それは今閉じられている様だった。察するに、この波止場は立ち入り禁止らしい。
「ここが目的地です。ああ、やっぱり少し冷えますね。少し厚着をして来て正解でした」
 学校では肩に羽織るだけだったそのカーディガンに袖を通しながらラウラは言った。
 目的地。彼女が今回の《人間界》への遠征の最後に、こうして自分に見せようと連れて来た場所。
 だからひづりにはここがどういう場所なのか、何となく分かってしまっていた。
「《フェリックストー・ピア》、建物が真新しかったの、分かりましたか? 大々的な改築工事がありましてね。今月やっと完成したんです。元の建物自体を取っ払って、私達が今立っているこの波止場も全部建て直したので、施設そのものがかなり大きくなったんです。集客具合も以前の五倍くらいになったと聞いています」
 ラウラはその彼方の白い建物を振り返り、寂しげにその眼を細めた。
「……万里子は、あれの完成を見られませんでした」
 冷たい潮風が吹き抜け、ラウラの長い金髪を揺らして行った。
「母さんは、ここによく来ていたんだね?」
 訊ねると彼女は頷いて仄かに口角を上げた。
「落ち込むと、決まってここでした。今みたいに《認識阻害魔術》と《転移魔術》を使って、それこそ、夏でも冬でも……」
 ラウラはぼんやりとその視線を赤らんだ空に投げた。
「建物が新しくなっても、この景色は変わりません。当然と言えば当然ですが……でも、あの子は気にしていました。……ふふ。なんて言ったと思います? 『ラウラ、ここから見える景色が変わってしまわないように見張ってて』ですよ。可笑しいですよね。魂を回収したら私は《魔界》に帰る、って言っているのに……」
 右手の水平線へ太陽は既に半分ほども沈んでいた。世界を茜色に照らすその光はきっとあと一時間もせず全く夜の帳へと隠れてしまうのだろう。
「私も、綺麗だと思う」
 ひづりは正直な感想を告げた。ラウラと並び立ったその波止場は本当にただ海と空ばかりの眺めだったが、夕日に彩られた波間が絶えずきらきらと朱に煌めき、沈みゆく西日へ東の夜空が現れ始めた星々を連れなって進むその全天は、きっと街の中ではどうあっても見られない物に違いなかった。
 イギリスで暮らしていた母のお気に入りだった場所。しかし日本でひづりたちを温泉旅行に連れまわしていたのとは違う、彼女が独り占めしていた場所――。
「ここで母さんを殺したの、ラウラ?」
 ひづりの問いに振り返った彼女は少しばかり眼を丸くしたがすぐに俯き、困った様に笑った。
「分かりますか。ええ、その通りです。あの子は自身の最期の瞬間を、ここに選びました。この埠頭で魂を抜き取った後、私があの子の亡骸を部屋へと運んだのです」
 やはり、想像した通りだった。母が《グラシャ・ラボラス》との《契約》によってその命を落とした、と知った時から、ひづりはほぼ確信的に捉えるに至っていた。
 あの旅行好きだった母が、その死に場所に狭いマンションの一室を選ぶとはとても思えなかったのだ。
 それはきっと胸を打つ様な美しい眺めで、好きなだけ一人で考え事が出来る静かな場所で、そしていつまでも変わる事が無い……そんな景色を望んだはずなのだ、と。
「私は万里子が愛したこの旅立ちの場所をいつかあなたにも見てもらいたいと思いました。……ただ、あなたを今日ここへ連れて来たのにはそういった感傷的な動機とは別に、もう一つ理由があります。他でもありません、《ボティス》のことです」
 徐にラウラはひづりの眼を見つめた。その真摯な眼差しと声音に、ひづりも姿勢を正して彼女と向かい合う。
「ひづりにとって初めて出会った《悪魔》は《ボティス》でした。それ故、あなたはあの子を本当の意味で正しく認識出来ていません。……この際なので極端な言い方をさせてもらいますが、《ソロモン王の七二柱の悪魔》の中にあって、あの《ボティス》は本来、只人が召喚するべき《悪魔》ではないのです」
 そう前置きした彼女の表情は《悪魔の王》のそれへと変わっていた。
「ひづりは先月、《ベリアル》に会っていますね。あれを見た時、狂っている、と感じたでしょう。それは事実です。もうすでに《ボティス》から聞いているでしょうが、かつて《天界》で上位の存在として君臨した《大天使》の成れの果てが、あの《ベリアル》という《悪魔》なのです。その場その場の状況を何の法則性もなく脳内で分別し、そして自身の《かくあるべき》に従い、一切の話し合いも無く断罪と称して攻撃を仕掛けてくる……人にとってみれば言わば自然災害の様なものです。確かにあれは狂っています。ですが、そもそも《悪魔の王》というのは往々にしてああいった歪みを持つ存在であるということを、ひづり、あなたは理解しなくてはいけません」
 《悪魔の王》の、歪み……? 首を傾げたひづりにラウラは続けた。
「《ボティス》が激怒する条件をひづりはこれまでの付き合いで知っているはずです。あの子は《尊敬》を重要視します。自身を《王》として扱わない者は殺す……それは逆に言えば、自身を《王》として扱う者が居るなら、それが人間であろうと《天使》であろうと、《ボティス》は必ず彼ら彼女らに対しどこまでも《良き王》として振る舞う、ということです。扱いやすさの度合いこそ違いますが、その本質は《ベリアル》と大して差はないのです。《ベリアル》は《かくあるべき》を。《フラウロス》は《勇気》を。そして《ボティス》は《尊敬》を。私は……なんでしょうね。自分では中々自覚が難しいです。ですからきっと《ボティス》も無自覚です。《悪魔の王》は皆誰もが、そういった色濃い無自覚で歪な特性を初めから持っているのです」
 彼女の説明に、ひづりは初めて天井花イナリと出会った日の事を思い出した。面接のあの日、うっかり《使い魔》呼ばわりしたひづりに対して彼女はいきなり殺意を剥き出しにして迫った。そして凍原坂が店へ来た時には、彼女にとって永遠の好敵手である《フラウロス》をただの人間の子供と同等に扱っていた彼にその剣を向けた。そして昨日も、天井花イナリに命令して《グラシャ・ラボラス》を追っ払ってくれないか、とひづりに言った甘夏に、彼女はほぼ反射的にその殺意を露にしていた。
 天井花イナリがその《尊敬されること》を前提に人間と付き合いをしている事は、ひづりもこの二ヶ月の経験で以って理解していた。
「でも、それって、王様だったら普通なことなんじゃないの……?」
 だからひづりはラウラに問うた。天井花イナリのそれを、歪みだ、とまで感じた事はなかったのだ。偉い立場の者であればそういうことを重んじていても普通なのではないか、と。
 ラウラは眼を伏せ、首を横に振った。
「それが、正しく理解出来ていない、という事の重大な問題点なのです。よく考えてみて下さい。あの子の持つ《能力》……《未来と現在と過去が見える力》の方はともかく、《人の争いを調停する力》なんてもの、どう考えたって即物的な欲を持つ人間に必要なものではありません。この二つを命を賭してまで求める者が居るとするなら、それは人の上に立つ人、人間の王に他なりません。《ソロモン》が《ボティス》と上手くやれていたのはまさしくそういった理由からなのです。《ソロモン》は《人類の良き未来》を夢見ていた王でした。《ボティス》はそんな彼の王としての有り様を気に入り、自ら力になる事を望みました。それが《ボティス》という《悪魔の王》の本質なのです。あの子には、気に入った相手に背負わせ過ぎるところがあります。良いにせよ悪いにせよ、昔から他人に無理をさせ過ぎてしまう……。《ボティス》を只人が召喚するべきでない、というのはそこなのです。あの子の特性は徹底して《王に召喚される事》を前提としています。まるでそのためだけに生まれ、存在しているとでも言うかの様に。……故に、対等に敬意を払え、そして世界を良き方向に導こうとする王でなくては、あの子と共に生きていく事はあまりにも難しいのです」
 思い出を眺める様に、憂う様に、彼女の視線は今、ここではない《過去》を見つめていた。それからまたひづりの眼を見た。
「そんなあの子が、ただの人の子でしかないはずのあなたを気に入った。《ボティス》は確かに《尊敬》してくれる存在の前では良き《王》として振る舞いますが、けれど《ボティス》が《王》以外の者に対し、あんな風に……まるで友人とでも接するかのような態度を見せるのは、本当に稀な事なんです。あなたは今、恐らく《ボティス》に魅入られようとしている。幸福へ向かうはずのあなたの人生が、《ボティス》によって捻じ曲げられようとしている。……《ボティス》は強いです。そして往々にしてその目指すものは正しい。ですが、あれは紛う事無く《悪魔の王》なのです。ひづり。人間の、それも王でもないあなたが、あの子の生き方に振り回されるような事だけは絶対にあってはいけません。それはきっと、万里子の人生よりもっと悲しい結果をもたらします」
 にわかにひづりの両肩を掴み、彼女は切羽詰ったように声を荒げて言った。
「あなたはあなたです。忘れないでください。官舎ひづりとして生きてきたものを、あなただけは決して蔑ろにしないでください。たとえその巡り合わせを受け入れようとも、王でないあなたには、《ボティス》からの重荷を背負う義務などないのです。あの子は万里子が、他でもない、あなたたちの幸いを想って遺した《願い》そのものなのですから」
 それはどこまでも親身で切実な、官舎万里子の友人であり、また官舎ひづりの友人となった彼女の、心からの懇願である様だった。
 恐らく彼女は、天井花イナリがひづりにくれた、そしてひづりも彼女に誓ったその《期待》という言葉のことを言ってくれているらしかった。
 確かに、ひづりはそれが悪い結果に働く可能性というものを今まで一度も考えた事がなかった。ただ誇りに思い、今後様々な事への原動力として胸の中に大事にしまっていた。
 けれど昨日、ひづりは《それ》を見たのだ。
 若くしてその才能を開花させ、稀代の《魔術師》として周囲から誉めそやされていたにも関わらず、不慮の事故で挫折し、その人生を転落させたエドガー・メレルズ。
 良き父親を目指し、次女を立派な女性に育て上げるも、しかし見捨てるしかなかった長女への罪悪感を長年抱え、自らを苦しめ続けた花札市郎。
 長女として家族を守らねばと己を奮い立たせ、しかし優秀過ぎたが故に、誰にも知られる事なく成功した人殺しの罪を一人孤独に背負ってしまった官舎甘夏。
 十五歳になって初めてその存在を知った凄惨な環境に居る姉のために、しかし実の妹でありながら何も出来なかった自身の心の弱さをずっと悔やんできた花札千登勢。
 娘達のためにと嘘を吐き通し、愛し合いながらもその死の瞬間を共にいられなかった、父と母――。
 誰もが、その自身に求められるべき、また背負うと決めた《期待》という言葉の呪いに苦しめられながら後悔を重ね、生きていた。
 であれば、ひづりが誇りに思う天井花イナリからのその《期待》も、いつか同じように自身の体を、心を、押し潰してしまうかもしれない。たとえ天井花イナリ本人にそのつもりがないとしても、その《ボティス》としての本質はそれを招くかもしれない、と、他でもないはるか紀元前からの知己であるという《グラシャ・ラボラス》が今日、その可能性を指摘した。
 それを聞き流したり楽観的に捉える事は今のひづりにはとても出来なかった。ラウラ・グラーシャが、《グラシャ・ラボラス》が、自分と天井花イナリの事をどれだけ想ってくれているのか、もう充分過ぎるほどに知っているから。
 だから。
「分かった。ラウラが《魔界》に戻っても、あなたがここで話してくれたこと……この景色の中で、あなたが私と天井花さんの事を想って、未来を憂いてくれたこと。こんな夕陽の空を見るたび、私、毎日の様に思い出すよ」
 太陽が沈んで往く。世界を彩る茜色が、また明日の朝焼けのためにゆっくりと夜の風に眠ってゆく。
「ありがとう、ラウラ」
 夜風に冷やされた彼女の両手をひづりはそっと握り締めた。
「あなたと出会えたことは、これからの私にとって、きっと天井花さんと出会えたことと同じくらい大切なことだった。大好きだよ、ラウラ。いつか、今度は私があなたを《人間界》に召喚する。あなたとまたここで、今度はもっとゆっくり、好きなだけお話がしたい……」
 ラウラ・グラーシャの足元にあった《滞在権》の《魔方陣》が放つ光はもはや眩い程となっていた。輝きを増す《魔方陣》に反比例してラウラの体は少しずつその彩度を奪われ続けていたが、それももう終わりらしかった。
 埠頭の先に立つ二人を包むように《転移魔術》の《魔方陣》が描かれ、それはすぐに紫色の閃光を放った。
 眼を開けるとひづりたちは官舎家の玄関へと戻って来ていた。
「これで本当にお別れです、ひづり」
 ラウラは手をやんわりと解くと、そのままひづりの頬をそっと撫でた。
「どうか元気で、そしてなるべく危険なことには関わらないでください。私にはもうそればかりが気がかりです」
 そして優しい母の様な微笑みを浮かべ、ひづりの頬を柔らかくつまんだ。
 ひづりはたまらなくなってその場でラウラの体をぎゅうと抱きしめた。
「……気をつける。ラウラも、今度は悪い《契約者》に捕まっちゃだめだよ」
 彼女はふふふと笑って、抱きしめ返してくれた。
「それは保障出来ません。《悪魔》を呼ぶのは、決まって悪い人間ですからね」
 ひづりのハネた後ろ髪をしばらく指で愛でた後、彼女は名残惜しそうにその両腕を解くと一歩だけ下がった。
「……さようなら、ラウラ」
「さようなら、ひづり……」
 壁へ描かれた《転移魔術》の《魔方陣》に彼女の体は緩やかに吸い込まれ、やがて発光と共に消えた。
 わずかな静寂のあと、五時を迎えてゆっくりと目覚め始めた世界の音が玄関に立ち尽くすひづりの耳へと届いた。
 上着に残った仄かなラウラ・グラーシャの香りは、夏を終えて涼しさを纏い始めた朝の空気に少しずつ溶けていった。
 その場でちょっとだけ泣いて、それからひづりは父を起こしに行った。





しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

貴方だけは愛しません

BL / 連載中 24h.ポイント:717pt お気に入り:3,173

毒花令嬢の逆襲 ~良い子のふりはもうやめました~

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:7,838pt お気に入り:3,730

断罪現場に遭遇したので悪役令嬢を擁護してみました

恋愛 / 完結 24h.ポイント:14pt お気に入り:76

聖女召喚に巻き添え異世界転移~だれもかれもが納得すると思うなよっ!

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:1,853pt お気に入り:852

処理中です...