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序章~白き夢

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 それは、とても恐ろしい夢、だった。

 内容はほとんど覚えていないのに、恐怖の感覚だけが色濃く残っている。

 かすかに覚えているのは、迫ってくる小さな白い手。

 俺に頼り無く縋ってきているような、それでいて、この手に掴まってしまったら、もう2度と逃れられないような、そんな底知れぬ恐怖をまとった『女』の手。

 俺は、その誰の物とも知れぬ白い手に触れられる事を、何よりも汚らわしく思い、その手に囚われる事を、死よりも恐ろしく感じていた。

 逃げなくてはならない。掴まってはならない。

 けれど、そう思うのに何故か、体はまったく動いてくれなくて。
「……………」
 女が何か喋ったのを覚えている。まるで、哀願しているかの様な、今にも泣き出しそうな、悲痛な響きを持つ女の声。けれど俺は、そんな『彼女』の言葉すらも、おぞましく感じていたのだ。
「…………っ!!!」
 女が何を言ったのか、まるで覚えていない。顔も、声も、姿すらも記憶にない。

 それなのに何故か、生気の無い白い手と、薄く笑った口元。それだけを、とても鮮明に覚えていた。
 

「……なんなんだ」
 酷く恐ろしい夢に蹴飛ばされて目を開く。
 慌てて飛び起きてから気が付いたが、顎からは汗の雫がポタポタと伝い落ち、シャツの背中はぐっしょり濡れて張り付いていた。
 確かに部屋の中の空気は少し暑い。夏なんだから当たり前だけど。だから、汗はそのせいとも取れなくはなかった。だが、何故だか手で触れた俺の顔だけは、氷嚢でも当てられていたみたいに冷たくなっていて。
「ひでえ夢……ッ」
 どんな夢かは覚えていないけど。
 後半の言葉は喉奥に飲み込み、おぼろげに纏いつく夢の残滓を、頭を振って払い落とした。それから汗を吸い込んだタオルケットを跳ねのけ、カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいるのを確認する。
「朝か……」
 俺は眠い目を擦りながら、自分の部屋を何気なく見回し───
「………えっ?」
 そして、まるで記憶にない『その光景』に愕然とした。
「って、え?…なんだ、ここ?…どこだ…?」
 布団敷いて寝てたんだから、俺の部屋だよな??いや、でも、違う。どう見ても、何度見直しても、ここは俺の部屋じゃない。だって部屋の作りも、辺りに置かれた荷物も、着ている服や布団さえも見たことがないのだ。

 ここは俺の部屋じゃない。
 だったら、いったいどこなんだ??

 俺が寝ていたのは、見慣れない古い畳敷きの、8畳はあろうかと思われる広い和室だった。直に敷かれた布団以外の家具が何もない、ガラーンとした空間。見ると部屋の隅にダンボールがいくつか積まれているけど、ひょっとしてアレが俺の荷物だろうか?そう思って中身を確認するが、やっぱり中身にも覚えはなかった。
「いやいやいや……おかしいだろ、絶対」
 混乱する頭を手で押さえつつ、俺は自分自身の記憶を確認する。

 俺の名前は神谷優こうたにすぐる。17歳。この春、白鳳高校2年に進級したばかり。

 うん。ここまでは間違いない。
 あとは…そうだ、俺の本当の部屋は───俺が生まれて10数年を過ごした『見慣れた部屋』は、そもそもこんな古びた和室じゃなくて、比較的新しい感じの洋室だった(当然、床も畳ではなくフローリング)し、広さもこんなには広くなくて、せいぜい4畳半だったと思う。あと、家具だって一応、ベッドと机くらいは置いていたはずだ。
「寝てる間に…何かあったのか…?」
 見た事のある知人、友人の部屋や、家族の部屋とも違う。
俺が寝ていたのは、そんな、欠片も見覚えの無い部屋だった。
「………駄目だ…解んねえ」
 いくら思い出そうとしても、自分が、こんな部屋に居る理由が思い当たらない。どこか知らない家へ泊まった覚えもない。何が何だか分からなさ過ぎて、頭がパニックに陥りそうだった。
「……そうだ」
 ここで悩んでいても仕方が無い。部屋から出て他の様子も見てみよう。そうしたら、何か思い出すかもしれない。
 
 そう考えて、立ち上がろうとした、まさにその瞬間、

「あーにーきー!!朝だぜ、朝ー!!」
「寝坊だよー早く、朝御飯食べようよー」
 ドタドタと足音が近付いてくるのと、襖がターンと音を立てて開けられるのと、何か温かいものに上から圧し掛かられるのとは、ほぼ同時だった……という気がする。
「ぎゃっ!?」
「あっ、起きてたー」
「なんだ、起きてんじゃん!!」
 背後から遠慮なく圧し掛かってきたもの、それは、2人分の子供の体だった。
「えっ、ち、ちょっ!?」
 とっさに反応し切れなくて、圧し掛かられるままになったけど、そのどう見ても小学生らしい2人の子供は、俺の背中に張り付いたまま、馴れ馴れしい様子で俺に話しかけてくる。
「兄貴、今日はハムエッグだせ!早く食べにいこ」
「兄さん、ご飯冷めちゃうよー早く着替えてー」
 兄貴??に、兄さん??混乱する思考。
でも、ちょっと待て。違う。絶対に違う。何故なら、俺は、俺には───
「誰だよお前ら!?俺には弟なんていねえぞ!?」
 俺は混乱のままにそう叫びながら、俺を兄と呼ぶ見知らぬ子供を背中から振り解いた。
そう、俺には『弟』なんていない。

 俺は『ひとりっこ』のはずなのだ。
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