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第10話 消えた蝿の王

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 陰陽師が扱う五芒星――晴明桔梗せいめいききょうが刻まれた術式符は、五行思想に基づく木火土金水もっかどこんすいの五属性に対応している。

 そして黒魔術師が扱う五芒星――ソロモンの星が刻まれた術式符は、四元素思想に基づく火風水土の四属性に対応している。

 そのどちらにも存在しないいかづちを放つ為には、術式を応用しなければならない。

 雷の概念を含んでいる属性から、その力を引き出さなければいけないのである。

 ――より具体的に説明すると、陰陽術は木行の応用、黒魔術は火元素の応用が必要だ。

 いずれも高度な技術であり、三等退魔師にしてそれを難なく熟す彼女らは、それ故に天才と称されるのである。

霊木れいぼくくだりしいかづちよ――」
「熱にして乾、いかづちの女神フルゴラよ――」

 詠唱と同時に二人の霊力が転化され、術式符へと注ぎ込まれていく。

「青き天地を諸共貫き給え――――碧羅へきら霹靂へきれき!」
「我が呼び声に応え、汝の威光を示せ――――煌めく炎雷フランマ・フルグルッ!」
 
 ほぼ同時に詠唱が終わると、上空に巨大な黒雲が生み出される。

「うん? 一体何を――」

 言いながら、悪魔が頭上を見た刹那。

急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう!」
「我は求め訴えたり!」
「がああああああああああああああッ!?」

 黒雲から無数の雷がやむことなく降り注ぐ。

「ぎゃあああああああああああッ!」

 全身を焼かれ、絶叫し、真っ逆さまに地面へと落ちるそれ。

 結界の周りに蠢いていた妖蛆たちも、雷に打たれ大半が消滅していった。

 二人から放たれた決死の一撃により、形勢は逆転したのである。

「や、やった……!」

 秋花はよろめきながら拳を握る。一度に膨大な霊力を消費した反動が来たのだ。

「ま、まだ……油断しないで……!」

 小春も同じような症状に見舞われたが、即座に次の術式符を構えて戦闘態勢に入る。

 雷によって撃ち落とされた悪魔は、未だ完全に祓われていなかった。

「……ああ」

 秋花は大きく深呼吸をした後、小春に習って術式符を構える。

 お互い口には出さないが、もう魔法を放つだけの余力は残っていない。

「キサマらァ……よくもやってくれたな……ッ!」

 黒焦げとなった悪魔は、地べたを這いずりながら顔を上げ、激しい怒りに満ちた顔で二人のことを睨みつける。

「ぐっ、うぅッ!」

 しかし、先ほどの攻撃で致命傷を負ったことは明白だ。もはや、手足すらほとんど動かせない状態だろう。

「……諦めなよ。あんたの負けだ」
「無理に動けば消滅が早まるだけだよ」

 秋花と小春は、冷酷に言い放つ。妖魔に情けをかけている余裕はない。

「まだだ……まだ……終わってなどォ……がはぁッ!」

 ――だがその時。

「何ヲ、している、我ガ、眷属よ」

 どこからともなく、身の毛もよだつ声が響いた。

 地面は振動し、木々がざわめく。

 夕日が消え去り、完全な夜が訪れた。

 それは公園の全域を包み込む巨大な結界だ。

「こ、今度はなにっ?!」

 突如として周囲が暗闇に覆われたことで、激しく動揺する小春。

「あ…………!」

 悪魔に関する知識に精通している秋花は、彼女より先に声の正体に気づいてしまう。

「……■■■■■■様っ!」

 倒れていた悪魔が、答え合わせをするようにそれの真名まなを呼んだ。

 しかし小春と秋花には聞き取れない。

「そんな……!」

 だが、小春も遅れて理解する。それの正体が何であるか。
 
「何ヲ、戯れている。我ガ、眷属よ」

 ――本物の蠅の王は、尚も悪魔への呼びかけを続けた。

「も、もも申し訳ございません! い、今すぐにそこの人間どもを――」
「違ウ。貴様が、我ノ、仮の名ヲ、使ってオきなガら、無様ナ姿ヲ晒していル、理由ヲ答えろ――と云っているのだ」
「あ、あああ……!」

 絶望し、両目を見開いて青ざめる悪魔。
 
 二人の少女は、そのやり取りをただ眺めることしかできない。

 存在としての次元があまりにも隔たっているため、その真の名や姿をることすらできないのだ。
 
 本物のベルゼブブが頭上に顕現していて、自分たちの命が王の指先に懸かっていることすら、彼女らは理解していない。

「……名ハ貸してやると、云った。だガ、その名デ、醜態を晒せとは云っていない」

 この世界に適応し、次第に蠅の王の声が明瞭になっていく。

「どっ、どどっ、どうかお許しをッ!」
「駄目だ」

 ――刹那、悪魔の足元が黒で埋め尽くされる。

「ひいぃぃッ!?」
「貴様は供物となれ」

 それは無数の蝿だった。

「例え仮の名であろうとも、今後我を名乗ることは許されない」
「い、いやだっ! ふざけるなッ! 貴様らのせいだッ! ふざけるなふざけるなふざけるなあああああああッ!」

 悪魔、秋花たちに向かって憎悪の言葉を叫びながら、蠅と共に姿を消した。

「あ、あああ……っ!」
「うそ……こんなのうそだ……っ」

 残された秋花と小春はその場に膝をつく。

 本当のS級妖魔を前にしているという恐怖の中で、正気を保っていることすら難しかった。

「……ああ、まだ残っているな」

 するとその時、ベルゼブブの声が再び響く。

「何をしているのだ、我が眷属たちよ。さっさと喰らえ。餌《えさ》を残すな」

 それは、眷属たちへ向けられた何気ない呼びかけ。

「…………ッ!」

 だが、秋花たち人の子にとっては強大な魔術として作用する。

 ベルゼブブが発する言葉の一つ一つに、最高位の呪文と同程度の霊力がこもっているのだ。

「ひぃっ!?」
「い、いやあッ!」

 視界を奪われ、生きたまま蛆虫たちに貪り食われる鮮明なイメージが、二人の脳内に直接流れ込む。

「あ……あああああああああああっ!」
「うっ、うえええっ! おええええええええッ!」

 正気を失った小春は震えながら泣き叫び、秋花は嘔吐した。

「来ないで……っ! 来ないで来ないで来ないでッ!」

 錯乱し、絶叫と共にその場へ座り込む小春。何かを払い除けるような動作をひたすら繰り返す。

「うぐっ、うっ、うえええええええッ!」

 秋花は口の中へ指を突っ込み、更に嘔吐を繰り返す。まるで、体内に侵入した何かを吐き出すように。

 一方、動きを止めていた妖蛆たちは蠅の王の言葉で再び活発化し、小春の張った結界へと押し寄せる。

「い、いやあああああぁっ! たすけてっ! たすけてえええっ!」
「う、ぐぅっ、おえええええええええええっ!」
「おかあさんおとうさんっ! たすけてっ! たすけてよおぉっ! うわああああああああああっ!」

 極限まで追い詰められ、亡き両親に縋る小春。

「こ、小春っ!」

 その声を聞いて秋花は、必死に呼びかける。

「……あき……ちゃん……?」
「そうだあたしだっ! 分かるか?! 今すぐ結界を――」
「…………どうしよあきちゃん? あきちゃんあきちゃんあきちゃんっ! あは、あはははははっ!」
「くそっ……!」

 しかし、小春の方は戻って来れなかった。

 虚ろな目で秋花を見つめ、泣き叫びながら笑い狂う。

「しっかりしてよ……はるこ……っ」

 なし崩し的に結界が破られ、妖蛆たちが中へと侵入してきた。

「いやぁっ! いやあああああああああッ!」
「うっ、うわああああああああああっ!」

 大量の妖蛆にまとわりつかれ、引き離される二人。先程の感覚が現実のものとなる。

「あっ、あ、あああああああ」

 想像を絶する不快感と激痛に耐えきれなかった秋花は、自分も再び正気を手放すことにした。

「あはっ、あははははははっ」

 光を失った彼女の目に、全身を貪られて血まみれになった小春の姿が写る。

「あき……ちゃん……」

 小春はそう言ってゆっくりと手を伸ばした後、蛆の中へ埋もれた。

「あー…………?」

 唯一の救いは、二人ともすぐに意識を手放せたことだ。

 ――そして同時刻、とある少年は超能力で大きなハエを爆発四散させるのだった。

 *

「うぅ…………っ」

 秋花が目を覚ますと、身体に纏わりついていた妖蛆たちは全て消失していた。

「生きて……る……?」

 秋花はそう呟き、痛む体をゆっくりと起こす。

「――小春っ!」

 そして、小春の姿を探して必死に周囲を見回した。

「うぐ……うぅ……」
「しっかりしてっ! はるこっ!」

 すぐ近くで倒れている血まみれの小春を見つけ、慌てて駆け寄る秋花。

「大丈夫かはるこっ! しっかりしろっ!」
「あき……ちゃん……」

 小春は満身創痍だが、まだ息はあるようだ。

 呼びかけに応じて意識を取り戻し、まん丸な目で秋花のことを見つめる。

「ど、どうしよう。血が……っ!」
「だいじょうぶ……だから……もっと近くに寄って……あきちゃん」

 小春はか細い声で言った後、血の滲んだ術式符を構えた。

木気もっきをもって……我らを癒し給え……五体生華ごたいしょうか……急急如律令……」

 生命を繋ぎとめる呪文を唱え、自分と秋花の傷を治療する。

「これでよし……。もう、だいじょうぶ……」

 霊力の代わりに自身の血を媒体として発動した陰陽術であるため、気休め程度の効果しか期待できない。

 依然として二人は満身創痍だ。

「ごめんね……はるこ……あたしのせいで……っ!」
「ううん。わがまま言ったのは……私だもん……」
「うぅっ、ううううっ!」

 秋花の目から一筋の涙が零れ落ち、小春の頬を伝う。

「あきちゃん……迷惑かけて……ごめんね……」
「迷惑なんかじゃないっ! あたしが……弱いから……っ!」
「S級は……どう頑張ったって無理だよ……うぅっ……!」
 
 自分たちがいかに無力かを思い知らされた二人は、身を寄せ合い涙を流すのだった。

 ――その後、彼女らは駆けつけた退魔師たちによって無事に保護され、専門的な治療を受けることとなる。

 そして、現世に顕現した蝿の王ベルゼブブは、霊力の残滓だけを残して忽然と姿を消した。

 国際魔法機関は事態を重く受け止め、詳しい調査のために守矢市へ一等退魔師を二名派遣するのだった。
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