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出会い

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 誰もが外套の襟をきっちり閉じて足速に歩いていく。
 チカチカと点滅する電柱に付けられた街頭の下で、私はその人と会った。

 仕事帰り、安い立ち飲みの飲み屋で熱燗を一杯引っ掛けて、別に酔っていたわけではないが、疲れもあってフラついた私は壁にぶつかった。
 いや、壁にしては柔らかく、温かい何かにぶつかった。
 それが人だと認識するのに数秒かかった。
 彼は見上げるほどに背が高く、薄暗い場所では目の前にあった分厚い胸板は壁に見えたからだ。

「すいません」
「いや」

 目を伏せたまま告げた謝罪に、彼が言葉をたった一言、言葉とも言えないような声を発した途端、その少し掠れた低音の声に私は心臓を鷲掴みにされた。
 意味が分からなかったが、それはとても心地よい声で、鷲掴みにされて一瞬止まったと思った心臓は、うるさいほどに強く鼓動を始めた。
 左手に持っていた、入社祝いに父が買ってくれた書類鞄がドサリと落ち、私は右手で胸を抑えた。

「おい、大丈夫か?」
「……は、い……」

 微かに喉から出た声は、彼に聞こえただろうか?
 私は恐る恐る彼の顔を見上げた。

 彼はボサボサの銀色の髪に狼の耳を覗かせ、鋭い金色の目をしていた。
 目が合うと、また動悸はさらに激しくなり、鼓動に合わせて流れる血液の音まで聞こえるようだった。
 立っていられない。
 足から力が抜けてしゃがみ込みそうになる私の体を、彼はその逞しい腕で抱き抱えるように支えた。

「ギンロウ様……」


 私はこの人を知っている。
 中等学校時代、遠くから眺めていた憧れの人。
 当時、近付けはしなかった。輪の中心にいつもいた彼と違って、私は教室の隅っこで机に視線を落とし窓の外の彼を盗み見ることくらいしかできない存在だったから。

 街中でゴロツキに絡まれ、奴らの憂さ晴らしのために殴られ、財布を取られそうになっていた私を、たまたま通りかかった彼は助けてくれた。
 きっと彼にとっては些細なこと。そいつらから私の財布を奪い取ると、私に向かって投げた。
 そして、「走れ」とだけ言った。
 私は怖くてその場を走って逃げた。しかし彼を1人置いてきたことが申し訳なくて、角を曲がったところからこっそり覗いてみたら、5人ほどのゴロツキは全員地面に倒れており、無傷の彼は何もなかったかのように立ち去るところだった。
 一方的に「走れ」と言われただけで、会話はしていない。目も合わせていないから、彼は私の顔も知らないだろう。
 彼の背中に向かってありがとうと呟いたけれど、きっと彼には聞こえてないと思う。

彼を見かける度に、お礼を伝えたいとは思った。しかし、学校では彼の周りには常に人がいて、話しかけられなかった。
 仕方なく私は、彼の下駄箱に御守りと、紙に『助けていただいてありがとうございました』と書いて下駄箱に入れた。
 彼に近付くことはできないし、あんなゴロツキを相手にすることがあるのなら、怪我をしないようにと守護神の加護をつけた御守りを一緒に入れた。
 しかし入れた後で、迷惑だったかもしれないし、気持ち悪がられるかもしれないと、暫く悩んだ挙句回収に行ったが、紙も御守りもなくなっていた。
 このことは誰も知らない。知っているのは私だけ。


「ん? なんだ? 俺を知っているのか?」
「は、い……同じ中等学校でした」
「そうか。なら丁度いい。お前の家に俺を泊めろ。お前のこと家まで運んでやるから」

 そう言うと、私の返事も聞かずに彼は私を肩に担いで落ちた鞄を拾ってくれた。
 あの頃憧れた彼にこんなに近くで、彼の目に入れてもらえたことが嬉しくて、彼と言葉を交わせたことが嬉しくて、彼に触れている場所が全て熱くなった。

「どっちだ?」
「あっち」

 彼は私が指差す方はどんどん進んでいく。
 彼の肩に担がれたまま私は考えた。彼を泊める? 私の家に?
 私の家は一軒が独立した一軒家だが、小さな台所と、寝室と居間しかないような小さな独身者向けの平屋だ。
 寝る時くらいゆったりと寝たいと、最近流行り始めたベッドというものを大奮発して買ったため、寝室には小柄の私なら2人くらい寝られるような大きなベッドが置いてあるが、客用の布団など無い。客間もないし、親は田舎だし友人もいないので、家に招く人など居るはずもなく、必要となったことなど一度もなかったし、今後も必要となるようなことはないだろうと思っていた。
 彼にベッドを譲って、私は半纏などを着込んで床で寝ればいいか。寒いかもしれないが、1日くらい大丈夫だろう。
 おもてなし……酒は、あっただろうか。つまみになるようなものは……
 彼の肩の上でホワホワとした気持ちでは思考が上手く回らず、家に何があったかも思い出せなかった。

「ここです」
「随分小さい家だな」
「はい。すいません」
「いや、泊めてもらうのに失礼な言い方だったな。すまん」
「いえ、事実ですから。狭いところで申し訳ありませんが、どうぞお入り下さい」
「あぁ。ありがとな」

 彼は私を居間のソファーに下ろしてくれた。
 そして、私の外套を外して、背広を脱がせ、手際よくネクタイも外すとシャツの襟元のボタンを外し始めた。
「え? あ、あの……」
「なんだ? 胸が苦しいんだろ? 襟を緩めた方がいいぞ。あとベルトもな」
「は、はい。ありがとうございます」

 彼に脱がされているということに戸惑い、何をされるのかと期待と恐ろしさに身構えてしまったが、私が思うような事ではなかった。
 そりゃあそうだよな。
 なんだ? 私はまさか熱燗1杯くらいで酔っているのか? そう言えば体も熱い気がする。

「お前、名前は? 名前聞いたら思い出すかもしれねぇから、教えてくれ」
「コハク、です」
「うーん、いたような……」
「思い出せなくて当然です。私はあなたと話したことはありませんし。学年も違うので」
「俺の下か?」
「はい。1つ下です」
「コハク、コハク、コハク……」

 斜め上に視線を漂わせながらギンロウ様が私の名前を何度も呟くと、もうそのことだけで気絶しそうなほど身体が熱くなった。

「すまん。やっぱり思い出せなかった。って、コハクお前大丈夫か? 顔が真っ赤だぞ?」
「み、見ないで……」

 私は真っ赤な顔を見られたことが恥ずかしすぎて、慌てて顔を両手で隠した。

「どうした? 水を飲むか? 持ってきてやろう。台所、勝手に借りるぞ」
 そう言うと、ギンロウ様は立ち上がって台所へ行き、竹で編んだ食器かごに伏せられていたコップに水を汲んで持ってきてくれた。
「あ、りがとう……」
 ギンロウ様から手渡されたコップの水を飲み干すと、幾分か落ち着いた。

 
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