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2巻
2-1
しおりを挟む第一章 四龍公
「――?」
手入れの行き届いた柔らかな布団の中でレクティファールが目を開いたとき、先ほどまで自分の中にいた『何か』の気配は消えていた。
それが人であったのか別の何かであったのかすら定かではなく、残ったのは『何か』の残した言葉の余韻だけだった。
「皇、ね……」
天井に彫り込まれた幾何学模様を目で追いながら、レクティファールは誰にともなく呟く。
皇の役割――〈皇剣〉はそれを記録として残していた。
歴代の皇王がどのような問題にどのような結果を出したのか、二〇〇〇年の歴史の総てがレクティファールの中にあった。
「だがしかし、ううむ……」
だが、逆に言えばそれだけだった。
〈皇剣〉は歴代の皇王の『記憶』を継承させてくれるわけではない。単に、皇王に合一した〈皇剣〉の見聞きしたことが記録として残っているだけだ。問題と解答のみ。こんな問題集を手渡されて勉強しろと言われても、正直困ってしまう。
どのような過程を経てそのような結果に至ったのかということが完全に欠落している解答集に、一体何の意味があるのか。
確かに歴代皇王が聞いたことも、発した声も記録に残っている。しかし、これでは頭の中に巨大すぎる、自分では管理しきれない図書館を持っているに過ぎない。
調べれば、どの本棚にどの本が入っているか分かるかもしれない。だが、そもそもどんな本を探すべきか、という段階からレクティファールは躓くことになるだろう。
どんな本も、背表紙の題名だけで内容の総てを把握することは難しい。大凡の見当を付けることまではできるだろうが、それではその本の内容を自分の知識として吸収し、利用することは不可能だ。
つまりは――
「得た情報を活かすための知識が完全に不足している、と」
自分で言葉にして、正直愕然としてしまった。あれだけ苦労したというのに、現状では然程役に立たない。
例えば〈皇剣〉の記録の中に外交交渉に関する歴代皇王と当時の外務院職員の会話の記録がある。その内容を理解するためには、会話している二者の持つ知識と同程度のものが必要なのだ。
ここで言う知識とは、国や地域の名前、人物の名前、皇国と相手国の経済状況や当時の国際情勢など、一つ一つ挙げていけばきりがない。これらの知識を持っていることが、その会話を理解するための条件と言えるだろう。
もう一つ例を挙げる。
記録の中に、とある皇王が読んだ公文書の内容がある。
その文書を理解するためには、文に使われている専門用語や慣用句の意味を理解しなくてはならない。それと同時に、その文書が作られるに至った経緯も予備知識として必要になるだろう。
さらには、その文書を書いた部署や人物についての情報も判断材料となる。
「――『記録』とはよく言ったものだ」
〈皇剣〉を継承してから〈皇剣〉の持ち主が見聞きしたことは総て残っている。その中には、現時点でのレクティファールの知識で理解できることも少なくない。
だが、大半はその当時の皇王が記録の時期に持っていた知識を前提としたものだ。知識がなければ、記録も理解不能な映像や音の連続に過ぎない。
幸いなことに、記録はレクティファールが意識しない限りその思考の中に勝手に浮かんでくることはなかった。
どんな者も、得た知識を常に意識し続けるようなことはないからだろう。もしも情報が常に表層に出てくるようなら、レクティファールは常に混乱を強いられたはずだ。
「しかし、これでは覚えることが多すぎて嫌になる……!」
彼は皇太子候補が皇王の下で教育を受ける理由が分かった。
皇王に即位するときには、既にある一定の知識がないと〈皇剣〉の記録を活かすことができないのだ。だが逆に言えば、予備知識があればどんなことでもすぐに自分の知識にできるということでもある。
頭の中に二〇〇〇年分の知識を詰め込んだ図書館があることがどれだけ統治と政戦に有利に働くのか、ほんの少し目端が利く者ならすぐに気付くだろう。
〈皇剣〉を持つ者は、一の情報を理解するだけで一〇の知識を得ることも容易だということに。
「だけれども、それにはまず理解するための学力が必要ということで……」
やはり愕然とし、絶望するしかない。
どれだけの基礎知識を得れば〈皇剣〉を活用することができるのか、途方もないという言葉の意味を身をもって理解したレクティファールだった。
しかし悲嘆に暮れている暇も惜しいのだということに気付いて、さてこれからどうするべきか、と思考を巡らせ始めたとき、その思考を遮るように扉を叩く音が響いた。
こんこんという拍子に聞き覚えのあるような気がしたレクティファールだが、彼が返事をする前に扉は開いた。その光景に既視感を抱いた彼。そして、扉から姿を見せた人物もまた、彼の既視感を強める一因となった。
「失礼いたします」
ウィリィア。
レクティファールにとって人生の大転換を迎えた後の目覚めを共有するのは彼女と、人智を超えた何かによって決まっているのかもしれない。
◇ ◇ ◇
レクティファールが自分の行く末にうんうん唸っていた頃、彼の寝かされていた部屋から少し離れた廊下でちょっとした事件が発生していた。
当事者は二名。
双方共に姫と呼ばれる人物である。
その一方、白龍公の姫君メリエラが何かを堪えるように片眉を震わせつつ先制する。じっと相手を見詰め、その仕草の一つ一つまでも見逃さないという気迫に満ちていた。
「――猊下、四界神殿の巫女姫ともあろう方が、このような軽挙をなされては困ります」
彼女のあまり好意的ではない視線を真正面から受け止めつつ、四界神殿の巫女姫リリシアが感情を押し殺し、無表情で反論する。双方とも互いを油断ならない敵手と認め、相対していた。
「軽挙ではありません。これは皇王を支えるという巫女姫の役割に沿った行動です」
〈皇剣〉継承の儀式後、無事役割を果たしたことで声と視力を取り戻したリリシアは、これまでの清楚な印象よりも年齢相応の活発さが表に出てくるようになっていた。
姉のミレイディアが驚くほど活動的になり、これまで暗闇の中で生きることを余儀なくされていた鬱憤を晴らすように、毎日大神殿の中を駆け回っている。
そんな行動の変化に合わせて服装も変わり、肩の出た襯衣と丈の短い傘袴が、リリシアの最近の神殿内での装いであった。
人生の大半を過ごした大神殿だが、今の彼女にとっては初めて来た場所も同じらしい。確かに周囲の状況を情報として脳に直接送り込まれる場合と、視覚として得る場合には大きな差がある。そういった枷がなくなり、彼女の隠れた本質が目覚めたのかもしれない。
かくしてお転婆の才能を開花させたリリシアがここ数日の日課としているのが、今回メリエラが見咎めたレクティファールの寝室訪問である。
大神殿内に限れば、リリシアの方が圧倒的に有利だ。メリエラは時間の許す限りレクティファールの寝室に控えているのだが、それでもやはり、神殿の客室で執務を行う父カールの補佐としての仕事がある。そのときにはメリエラ付きのウィリィアも同行するので、レクティファールの寝室には大神殿の神官が残るのみとなる。
リリシアは、そうしてメリエラがいないときばかりを狙ってレクティファールの寝室に不法侵入を繰り返していたのだ。大神殿の職員であれば、白龍公の姫よりも巫女姫の意志を優先するのは当たり前。彼らはリリシアの侵入を手引きし、さらにリリシア侵入の事実をメリエラに隠していた。
これまでは天の時も地の利も人の和も完全にリリシアに味方していたと言える。
ただこの日だけは、運がなかった。
偶然にも仕事が早く終わったメリエラに寝室から出るところを見付かってしまい。こうして廊下のど真ん中で説教されているのである。
もっとも、リリシアに反省の色など欠片もなかったが。
「四界神殿の巫女姫は、皇王の最大の理解者となり、その支えとなるようにとの教えを受けています。当然、わたくしもです」
「レクティファールは未だ正式に皇太子位に就いておりません。従って、彼はまだリンドヴルム公爵家の客分です」
皇太子位は、儀式後に候補者が目覚めた段階で正式に認められる。
だからまだ、レクティファールは白龍公の客人という扱いになるとメリエラは言っているのだ。
言葉は辛うじて失礼にならない程度に丸められているが、その視線は同じ龍族の男でさえ裸足で逃げ出すほどの鋭さだった。
「たとえリンドヴルム家の客分であろうと、公爵家当主ではないメリエラ殿にレクティファール様の客人を選ぶ権利はないでしょう」
その視線を受けてもそよ風程度にすら感じていないも、ある意味では龍族以上の胆力の持ち主かもしれない。
リリシアはメリエラの公的な立場が不明確であることを指摘し、彼女の行いの正当性を崩そうと攻勢を強めた。
「レクティファール様の御身は皇国の大事。一公爵家の姫が判断していい問題ではないとわたくしは考えます」
「う……」
リリシアの舌鋒鋭い指摘に言葉に詰まるメリエラ。
儀式終了に伴い、聖都には皇太子誕生の噂が流れ始めている。これはカールが意図的に流した噂だが、聖都から皇国全土に情報が拡がるまで数日といった所だろう。上手くすれば、連合や帝国の動きを牽制することもできるかもしれない。
しかし、レクティファールの存在が公になった時点で、メリエラの庇護者としての役割は自然消滅したと言って良い。メリエラが守らなくてもレクティファールの身柄は皇国が国家として保護するし、神殿とて自分たちの下に現れた候補者を保護しない理由はない。
そして、存在が公になったということは、メリエラが個人の権限でレクティファールに関する事柄を判断できなくなったということだ。
未だ正式な扱いは候補者とはいえ、レクティファールの立場はすでに公の存在である。私的な関係しか持たず、公的には何らレクティファールに関する権利を持っていないメリエラよりも、同じ公の存在であり神殿の教義として明確にその地位が定められている巫女姫の言い分が優先されることは明白だった。
「レクティファール様のお世話はわたくしが引き継ぎます。メリエラ殿には白龍公の補佐としてレクティファール様の支えになって貰わなくてはなりませんし、そちらの仕事に集中なされては?」
この娘、かなり黒い――メリエラはそう思った。
あんなにも清楚で可憐だった巫女姫が、たった数日でこんなにも真っ黒に染まるなんて露ほども思っていなかった。
実際には皇王の支えとなる巫女姫が最低限知っているべき常識を身につけるため、神殿内で厳しく教育されて鍛えられただけなのだが、そんなことを知らないメリエラにとってはたちの悪い詐欺に引っ掛かった気分だ。
ミレイディアが知ったら嘆くのではないかと考えたメリエラだが、あの人のことだからすぐに笑って済ませるかもしれないとも思った。案外、この姉妹は根の部分でよく似ているのかもしれない。
心の中でリリシアに対する警戒段階を引き上げたメリエラは、だがしかし、ここで負けを認めるような種類の女性ではなかった。公式な発表はまだであるが、彼女にも皇太子を補佐する確かな理由が存在するのだ。
彼女は深呼吸すると、目の前に屹立する四界神殿の巫女姫という巨大な壁に突撃を開始した。
「――猊下のご意見は至極もっともです。ですが、わたしにも同じく彼を守る理由が……」
「姫さまッ!!」
しかし、その突撃は廊下の向こうから息せき切って現れた味方によって遮られる。
自分の言葉を遮った侍女に対して、駄々っ子のようにむくれて涙目を向けるメリエラ。さあ反撃だと勢い込んでいたせいで、言葉を中断させられた瞬間に思わずこけそうになったことは秘密にしようと思う。
されど、平時であれば主人の視線のその意味に気付かぬはずもないウィリィアが、このときは少しも主人の様子に気付く素振りを見せずにメリエラとリリシアの前で大声を上げる。メリエラは、そういえば、前にも似たようなことがあったと思い出す。
確かあのときは――
「行き倒れ……じゃない、レクティファール殿下、お目覚めになりました!!」
その言葉に顔を見合わせる二人。両者の双眸には互いに火花の散るようなじりじりとした視線の交わりの末、二人は同時に廊下を走り出した。
まさに抜きつ抜かれつの一進一退。取り残されたウィリィアが慌ててあとを追い始める頃には、二人は走りながら先ほどの舌戦の第二戦を始めていた。
神殿の神官や修道女たちが大慌てで二人の進路から逃げ出す。
「メリエラ殿! 廊下を走るなんてはしたない真似はおやめになったら如何ですかッ!?」
「猊下こそ、巫女姫として国民の尊敬を集めるお方が、どすんどすんどかんどかんとくそ喧しい足音を立てて走るなどあってはならないことですよ!」
「未来の夫となる皇太子殿下がお目覚めになったのです、まず一番にご挨拶をしなくては巫女姫の恥! いいえ、女の恥っ!」
「そんな理屈があるはずないでしょう!? ここはわたしにお任せになり、後からゆっくりといらっしゃればよろしいではありませんか!」
「そんなこと言って! レクティファール様に目覚めの口付けでもするつもりでしょう!?」
「はあッ!?」
酷い言いがかりだ。
メリエラは興奮状態のリリシアの言葉に憤慨した。決して心当たりがあった訳ではない、と彼女は自分を納得させた。
そもそも彼との間に男女の感情はないし、保護者と非保護者の関係を崩したこともない。
よって、リリシアの言葉は言いがかりである。
「猊下! その下品な物言い、巫女姫としてあるまじきことですよ!」
「誤解だというのですか!」
「ええそうです!」
メリエラは語気を強めて断言し、怒りと羞恥で真っ赤になった顔をリリシアに向けた。
だがしかし、巫女姫は明らかにその言葉に更なる興奮を抱いたようだった。
「それなら、あなたは毎日毎日朝方まで殿方の部屋に居座ることが下品でないというつもりですか!」
「なッ!」
メリエラの顔に先ほどよりも色濃い朱が走る。
さらにぱくぱくと口を開き、驚きを全身で表現していた。
「それだけではありません! レクティファール様のお召し物、あなたが洗濯しているそうではありませんか!」
「何故それを!?」
さらなるリリシアの追撃。
メリエラの速度が目に見えて低下する。
「女官たちが教えてくれました! 白龍公の姫さまは皇太子殿下と大変仲がよろしいのですね、と! わたしだってレクティファール様と仲良くなりたいのに!」
折角取り繕った「わたくし」という一人称さえかなぐり捨て、リリシアが叫ぶ。
「ぐう……」
対して辛うじてぐうの音は出たメリエラだが、さらに赤みを増した危険な顔色になりつつあった。
どこであっても女性たちはこういった噂話が好きだが、大神殿も例外ではないらしい。
実際、レクティファールの衣服はウィリィアよりもメリエラが洗っていることの方が多い。本人としては単に弟の世話を焼く姉のような気分で――人目もあるしと、自分にそういう言い訳をして――やっていたのだが、周囲は別の目で見ていたらしい。
そうして、レクティファールの居室が見えてきた頃、勝負は決した。
「レクティファール様とメリエラ殿がどんな仲か、わたしは問いません! ですが、ここは勝たせて貰います!」
「ああッ!」
メリエラの速度が落ちた一瞬の隙を突いて、リリシアが猛加速。メリエラを一気に引き離してレクティファールの居室に飛び込む。
そして、息も絶え絶えになりながら目覚めの挨拶をと顔を上げた彼女は――
「いやぁ、仕事が空いたから見舞いでもって思ったんだけど、まさか目ぇ覚めてるとは。あたしの運も中々のもんだね」
「運の問題なのかよく判りませんが……お見舞いに来て頂いたことは感謝します」
和気藹々と雑談する姉とレクティファールの姿に呆然となった。
そのまま二人は入ってきたリリシアに気付かず、話を続ける。
放置される形となったリリシアは、ぽかんと口を開けたまま硬直することになった。
「かったいねぇ、ていうかあんたもう皇太子なんだから、あたしに敬語使っちゃまずいと思うよ」
「そうなんですか?」
「一応宮内序列は同じだけど……まあ、正式に摂政位拝命してないから年功序列ってことでいいか。ほら、あんたって践祚しないまま〈皇剣〉継承してるから半皇って訳でもなし。そういえば、摂政云々ってのは聞いた?」
「確か、皇王以外で国事国政行為を行える唯一の位。実質的な皇王。通常であれば当代の皇王によって皇太子が補せられる職。皇王不在であり、法的に皇位継承が行えないならば――ということでしょう。まあ、白龍宮ですぐ手が出る良い教師がいたもので、そのくらいは憶えています」
「践祚ができていればねえ、まだ違ったんだけど。践祚って法解釈次第で皇王以外の立会いでも可能なんだけど、正式には即位の儀式の片割れだからね。喪が明けないうちにやるのはちょっとねぇ……特例ってことにするにしても反発も大きいだろうし。あ、ちなみに半皇ってのはね――」
皇家典範において、皇太子は原則として皇王立会いのもと践祚――法的な皇位継承――を行い、その後皇王が崩御した時点で皇号を名乗る。そして一年後、先代皇王の喪が明けた時点で対外的に皇位継承を報せる即位の儀を執り行うことと定められている。
法的には践祚後に皇王が崩御した段階で皇太子が皇王位へと登っているが、建前上は践祚と即位の二つの儀式をもって皇位継承と看做されている。その際、践祚のみを行った皇王を『半皇』と呼ぶことがある。
「てな訳で、あんたはまだ半皇にもなってないんだよ。ま、践祚と同時に即位だから、半皇なんて呼ばれることはないだろうけどね」
「はあ……」
そこまで二人の会話が進んだ頃、ようやくリリシアの意識が回復の兆しを見せ始めた。背後からメリエラとウィリィアの気配が近付いてきたということもあるのだろう。
ただ、その動きは緩慢であり、どこか危なっかしいという風であった。
「ね……姉さん――って、きゃあッ!」
そんな状態のせいか、リリシアは足を縺れさせてしまい、床に敷いてある絨毯に向けて身を投げる羽目になった。
受け身も取れず、真正面から盛大に顔面を絨毯に叩き付けたリリシア。
べたんという景気のいい音がレクティファールの居室に拡がり、あまり丈の長くなかった傘袴がふわりと揺れてその下の布をさらけ出す。それは飾り布がふんだんに使用された、最高級の薄青の逸品であった。
「――――」
レクティファール、ミレイディア共に突然の闖入者の悲劇に言葉もない。
呆けたように悲劇の当事者を見詰め、無言を続ける。
「お待ち下さい猊下ッ! って……あら……?」
「姫さま、どうかなさいまし……え、猊下……?」
しばらくして部屋に飛び込んできたメリエラも、床に全身を投げ出した格好の巫女姫の姿に言葉を失った。さらにメリエラの背後に現れたウィリィアも部屋の中の惨状を認め、黙り込む。
酷く空虚な時間が、五人を包み込んだ。
「うう……こんな……こんなことって……とっておきの下着まで見られてしまいました……」
「ほらリリシア、今の内に勝負下着なんて恥ずかしいもの見せとけば、あとで何見られても大丈夫ってことで一つ……」
「あう~~! 他の人にも見られるなら単なるお気に入りじゃなくてもっと大人っぽい方が良かったぁ――っ!」
床に倒れ込んだままぐずぐずと泣いているリリシア。
彼女の姉が必死に慰めてはいるが、慰め方が下手なので傷を抉る結果にしかなっていない。リリシアの泣き声が大きくなり、ついでに姉を呆れさせる本音が零れた。
そんな姉妹の遣り取りを意識の隅に追い遣りつつも、レクティファールとメリエラは久しぶりに差し向かいで話す機会を得た。
「皇太子就位、おめでとうございます、殿下」
「メリエラさんにそう堅苦しい言葉で挨拶されると、妙に実感が湧きますね……嬉しくはないですが……」
「これが君と臣のけじめということです。慣れて頂かなくては、今後の諸々に響きます」
「はは、確かにそれはそうですね」
乾いた笑いを滲ませるレクティファール。
これまで個人として付き合っていられた相手でも、立場が変わればこうだ。〈皇剣〉の情報を得ていても、実際目の前でそういう畏まった態度を見せられると、得たくもない実感を得ることができた。これでメリエラとの付き合いも終わりかと思い、若干打ちのめされたレクティファールが大きく溜息を吐くと、メリエラは「それでも……」と言葉を続けた。
「で、殿下が私的な時間に、わたしにそういう態度を望むなら……その……以前のように接することも……」
「え」
俯いてごにょごにょと喋るメリエラの言葉に驚いたレクティファール。
阿呆面と言われても仕方がない顔で、メリエラを見詰めた。
「公的な時間であれば……今のわたしは殿下の臣でしかありませんが、私的な時間であれば……殿下の望むような関係を作ることだって……問題はないと言っているんです……」
「は、はあ」
重ねて伝えられた言葉に、レクティファールの思考は回転数を上げていく。
公私の区別さえつければ、友人関係も問題ないということか。
「あの、それで殿下は……わたしにどんな関係をお望みでしょうか……?」
メリエラは頬を染め、レクティファールの顔を覗き込むようにして問い掛けた。
彼女の背後に佇むウィリィアが全身から妙な威圧感を発しているような気がしたが、レクティファールはそれを錯覚と思うことにした。現時点で彼女の勘気に触れるような真似はしていない、と考えたからだ。
続いて、メリエラとの関係について改めて考えを巡らせ始める。
(友人、というには今まで一方的に扶養されていたし、かといって実際には客扱いということもなく、強いて言えば姉弟……?)
しかし、姉と呼ばせてくれなんて言うのもどうかと思う。額に脂汗を浮かべて悩み始めた彼の様子を訝しんだメリエラが声を掛けても、彼の懊悩は止まらない。
(いっそ、義姉弟っていうことにするか、いやしかし、公爵家との関係を考えれば迂闊に……)
「殿下?」
メリエラがレクティファールの思考を覗く魔法を会得していなかったのは、両者にとって幸運だったに違いない。
メリエラはその思考に対して原因不明の怒りを感じる必要がなく、レクティファールはその怒りで再度の寝台生活を強要されることがなかった。
そんなこんなでメリエラがレクティファールの態度にほんの少しの苛立ちを覚え始めた頃、彼はようやく結論を出した。
「――うん、こうしましょう」
「な、何?」
身を乗り出すメリエラ。
レクティファールはそんなメリエラの態度を好意的に解釈し、自分の出した結論に根拠のない自信を持った。これなら彼女も納得するはずだ、と。
「健康維持が目的でしたが武術の師弟兼、アームレア仲間――って、いたいいたいいたい……」
だが、男が女の態度を自分の価値観で勝手に解釈して正解を導き出せることがどれだけあるだろうか。
少なくとも、今ここで耳を抓り上げられたレクティファールには無理だ。
「へぇ……レクトの中のわたしってそういう扱いなんだ……へぇ……」
「メリエラお嬢さん耳! 耳千切れる!」
「大丈夫、うん大丈夫よ、ここには回復魔法の使い手だっているだろうし、〈皇剣〉があれば千切れてすぐならちゃんとくっつくから」
「最後の一言で大丈夫な要素が皆無を通り越して負の領域突入じゃないですかッ! ってあ――!」
その後、騒ぎに気付いたミレイディアとリリシアが止めに入らなければ、レクティファールは早速大神殿の回復魔導師か〈皇剣〉のお世話になることになっていたかもしれない。
〈アルトデステニア皇国〉皇太子レクティファールとしての初日は、結局そんな調子で始まったのだった。
さらに一つ、この時点で発覚した事実がある。
〈皇剣〉の情報領域に女心に関するそれがあったとしても、レクティファールがそれを活かすには、恐ろしいほどの時間が必要だということだ。女性が嫌いということもなく、禁欲を心がけている訳でもないが、彼はいかんせんそういったことに関する経験が浅かった。
彼が女心を理解したとき、それは〈皇剣〉の総てを自分のものにした証となる――のかもしれない。
◇ ◇ ◇
『継承の儀、成る』の噂は、空を往く飛龍よりも速く皇国全土に拡がった。
白龍公カールが持つ人脈と、他国よりも進んだ魔法通信網の威力が発揮された結果と言える。
西方国境を越えたばかりの連合軍増派部隊はその進軍速度を大きく落とし、逆に北方国境線の〈パラティオン要塞〉に攻撃を仕掛ける帝国征南軍はその攻勢を強めた。〈皇剣〉と同じ概念兵器の振り撒いた災禍の記憶は、建国して日の浅い帝国にさえ根深く染み付いている。
そんな帝国軍の攻撃を昼夜の別なく受け続ける〈パラティオン要塞〉、その司令部内長官室で一人の痩身の男が声を発した。
「――噂は限りなく事実であると、そういうことだな?」
「はッ、その通りであります中将閣下。要塞に出入りする商人たちからだけではなく、麓にある二つの街に人をやって確認しました。どちらの街でも噂が広まっており、その発信源はどうも聖都ではないかと……」
褐色の肌に肩口で切り揃えられた灰色の髪、そして己の前に立つ総てを睨むような赤の瞳。
皇国内に居住する部族の一つ、ダークエルフ族の特徴色濃いその男がこの部屋の主だった。
つい一時間前まで要塞防衛戦の指揮を直接執っていたとは思えないほど、長官室の主たる男の身体からは衰えぬ覇気が滲み出ている。
ラグダナ男爵家次子にして皇国陸軍中将、ガラハ・ド・ラグダナ。皇国北方総軍北方国境方面軍所属のパラティオン要塞防衛軍司令官の職にある者だった。
見た目は二十代後半と思わしき彼だが、実際の年齢は百をとうに越えている。
陸軍内でも稀代の戦術家と称される彼は、二五年前の帝国侵攻以来この北方総軍に身を置いていた。
「今日になっていやに北の莫迦どもが頑張っていると思ったらそういうことか。立太子が成ったとなれば、連中が焦って攻勢を強めることも納得できる……」
二五年前の戦争で取り決められた〈新生アルマダ帝国〉との事実上の国境である軍事境界線、そこから南に下がること一〇キロメイテルの位置に〈パラティオン要塞〉はあった。帝国との国境を形成する白狼山脈と天狼山脈の間に拡がるファルベル平原。二つの山脈を結ぶ形で平原を分断するように作られたのが〈パラティオン要塞〉だ。
平行に並ぶ三つの長城で形成された要塞は、その長城すべての一定間隔ごとに防衛支部となる支塁塔が置かれ、皇国側最後の長城であり要塞の最終防衛線でもある第三長城の中央に要塞司令部塔がある。
ガラハはつい先ほどまで、帝国の攻撃に晒され続けている第一長城の中央支塁塔にいたのだが、情報分析を担当する部下から国家の一大事との報を受けて要塞司令部塔に戻ってきたのだった。
「して閣下、我らの今後の方針は……」
顎に手を当てたまま黙り込んだ上官の態度に焦れたらしい部下が、今後の方針は如何にと問う。
皇王亡き今、国事国政全権代行職である摂政に就くことが確実な皇太子が現れたとなれば、ことは皇国軍総ての問題だ。当然、この〈パラティオン要塞〉防衛軍にも無関係ではない。
しかし彼の上官は、部下の言葉に驚いたような顔をした。
10
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