白の皇国物語

白沢戌亥

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第四章:万世流転編

第二〇話「准将の初恋」 その五

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「大尉殿! お姉様に一体何を!?」
 怒った顔は本当にそっくりだ――レクティファールは自分に詰め寄ってきたアンヌを見てそう思った。
「まさか、何かふしだらなことを……!」
 レクティファールを汚らわしいものを見るかのような冷たい視線で見据え、まだ涙の跡を残したマリカーシェルを背後に庇おうとする。
 なるほど、確かにアンヌは良く出来た娘だ。
 状況に戸惑うことなく自分が下した判断に基づいて行動することができる。この上なく軍人向きな性格の持ち主である。ただ、軍人とはいえ士官として相応しいかどうかは分からない。
 軍の教育機関は士官候補生の性格矯正について偏執的とも言うべき研鑽を積んでいるからおそらく問題はないだろうが、少しだけ心配になった。
「アンヌ、大丈夫だから」
 その肩を押さえ、マリカーシェルが立ち上がる。
「お姉様」
「別に何かされた訳じゃないのよ。それに、その方にそんなことをする度胸はないから」
 マリカーシェルは苦笑いと共にレクティファールに視線を送る。
 同じことを何度も、何人にも言われた。レクティファールは正直に頷くしかなかった。
「ええ、実に不本意ながら」
 不本意なのは彼に手を出されない方だろうとは、マリカーシェルも流石に口にすることはできなかった。
「アンヌ、そろそろ時間でしょう? 日付が変わったら流石に始末書ものよ」
「え? あ、ああ!?」
 部屋の壁に掛けられていた時計を見て、アンヌが悲鳴を上げる。
 酒も幾らか抜けて正気を取り戻していた彼女だが、その顔色が一気に白くなる。
「お姉様、わたしはこれで失礼します! 大尉殿も、大変失礼しました!」
「アンヌ、大尉はここまであなたを背負ってきてくれたの。そのお礼も言わないと」
 マリカーシェルの言葉に、アンヌの顔色がまた変化した。
 今度は白から赤にだ。
「えぇ!? お姉様が運んでくれたんじゃ……」
 どうやらアンヌは、記憶が飛んでいる間にマリカーシェルによって運ばれたのだと勝手に思い込んでいたらしい。
 確かに、初対面の少女を背負って運ぶような人物はなかなかいない。
 その少女が酒に酔っていたのならば尚更だ。どこで話が拗れるか分かったものではない。
「自分から大尉の背中にしがみついてたでしょう? 起こすのも可哀想だから、そのまま運んで貰ったの」
「うえぇ……」
 アンヌは自分のしでかしたことにようやく気付いたらしい。
 これが一般の家庭であれば礼の言葉ひとつで済むかもしれないが、アンヌの実家はそうしたことに非常に厳しい。
 嫁入り前の娘がその日初めて会った人物の前で酔い潰れ、そのまま運んで貰ったとなれば間違いなく雷が落ちるだろう。
「お、お姉様……このことは実家には……」
 もしも実家に知られたら、士官学校卒業と同時に結婚などということになりかねない。自分の身を守れないような娘を世間の只中に放置しておくことは出来ないという判断からだ。
 俗世でろくでもない関係を構築するよりは、さっさと家庭に放り込んだ方が良い。このような考えは貴族社会ではまったく珍しくないのである。
「わたしは構わないけれど、同じことがあったらご実家に申し訳が立たないのも事実よ」
 マリカーシェルの言葉はこの上なく正しかった。
 アンヌの希望通りに実家に秘匿したとして、彼女がまた同じことを、今度は悪意ある人物の前でやってしまえば後悔だけでは済まない。マリカーシェルが慎重になるのも仕方がなかった。
「つ、次からは気をつけます。本当です!」
 アンヌは赤くなった顔色を今度は蒼に変えていた。まだまだ結婚など考えたこともないし、まだまだやりたいことは沢山残っていた。家庭に放り込まれるなど考えたくもない。
「どうなさいますか? 大尉」
 マリカーシェルはレクティファールにそう訊ね、アンヌはきょろきょろとふたりの間で視線を動かしていた。
 思わぬところで決断を迫られたレクティファールは、「まあ」と前置きをして告げた。
「あなたの前か、実家以外ではお酒を飲まないという条件で許してあげたらどうですか? 士官学校で飲酒が出来ないというのは十分に罰になると思いますよ」
 士官学校といえば、学生同士の酒精の入った大騒ぎが有名だ。
 もちろん酒が飲めない学生もいるため強制参加ではないが、そうした集まりは毎週のように開かれている。
 レクティファールの同窓であるルフェイルなどは、士官学校時代に大いに暴れ回った経歴の持ち主だ。また、義父であるフレデリックが招待されていない酒宴に潜り込んでは只酒を飲むという行為を自慢していたこともある。
「そうですね」
 マリカーシェルは頷いた。
 彼女自身はそうした宴に参加した経験はあまりないが、自制を覚えるという意味では妥当かも知れない。
「大丈夫? 今度やったら……そうね……」
 そこでマリカーシェルは少しだけ悩む素振りを見せ、レクティファールに視線を向けると悪戯っぽく笑った。レクティファールが今まで一度も見たことがない表情だった。
「わたしと一緒に皇王陛下の愛妾にでもなってもらいましょうか」
「げっ!?」
 アンヌが心底嫌そうな表情と声を上げ、しかしすぐに両手で口元を押さえる。
 士官学校の学生ともなれば、一応軍籍を持つ正規の軍人である。最高司令官である皇王に対する礼を失した態度は許されない。
 事実、マリカーシェルはじっとアンヌを睨み付け、その視線に晒された哀れな少女は嫌な汗を背中に感じた。
「――冗談で済むよう、行動しなさい」
「はい! 以後気をつけます! それでは失礼致します!」
 びしり、と敬礼をし、アンヌはばたばたと上衣を手にとって部屋を飛び出して行った。ふたりはそれを見送り、やがて互いの顔見て笑った。
「いやはや、躾の種にされるとは皇王冥利に尽きますね」
「ええ、本当に……」
 マリカーシェルは壁に掛けてあったレクティファール上衣を手に取ると、立ち上がった彼の背中にそれを当てる。
 レクティファールは袖に腕を通しながら、少しだけ小さな声で言った。
「私はどちらを望めばいいのでしょうかね」
 マリカーシェルはその言葉に対し、囁くように言った。
「あなたの望むように望まれればよろしいのです。陛下」
 そのときのマリカーシェルの表情は、彼女自身にも、もちろんレクティファールにも知られることはなかった。
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