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第四章:万世流転編
第二〇話「准将の初恋」 その二
しおりを挟む背中でアンヌがもごもごと何かを呟いている。
レクティファールはそれに気付かない振りをしながら石畳を歩いた。
等間隔で設置されている魔導灯はひとつひとつ番号が割り振られており、道標としても使われている。レクティファールはその番号を読み取り、自分が皇都内の都市運河に沿って作られた道を歩いていることを知った。
(あ、この隣の運河って航空騎射出口の擬装も兼ねてるのか)
街中に幾つも設けられている航空騎の射出口は、様々な擬装の下に隠されている。
道路の下などは比較的容易に工事ができるために最も多く。軍施設や行政機関施設の庭先という例もある。
運河射出口の場合は不時着などの際に被害を抑制でき、火災などが起きても使用できるという理由で選択された。
ただ、いずれの射出口も軍事機密となっており、運河沿いの道を歩く市民たちがその存在に気付くことはないだろう。
「いざとなったらそこに逃げよう」
レクティファールはぐっと拳を握り締めた。
またそれと同時に、射出口を開くために都市防衛機構の中枢制御演算機に思考を割り込ませるのだった。
「マリカーシェル」
レクティファールが近付いてきていることは分かっていた。
それは騎士としてレクティファールの気配を読み取っていたというより、あの人ならば絶対に追い掛けてくるだろうという乙女じみた確信があったからだ。
その確信が外れていればいいと思いながら、同時に期待もしていた。
「――アンヌがご迷惑をお掛けしました」
ただその期待も、レクティファールの背にいるアンヌの姿を見れば霧消してしまった。レクティファールは自分を追い掛けてきた。だがそれは、アンヌという存在があったからだと思った。
「アンヌはわたしが送っていきますので……」
そう言って、レクティファールに近付く。
だがそこで、アンヌの腕がレクティファールの首に回っていることに気付いた。
(そこまで近付けたら……)
近付けたら、何をするのだろうか。
自分の感情に答えが見付からない。何を望み願ったのか、自分自身でも分からない。
だから、マリカーシェルは今日も近衛軍准将であり続ける。
「もう、この子ったら」
レクティファールの外套に包まれ、アンヌは腹立たしいほどに幸せそうな顔で眠っていた。酒精が苦手という話は聞いていないから、今日の外出のために無理をしていたのかもしれない。
「乗合魔動車の停留所まで送っていきますよ」
「いえ、そこまでして頂く訳にはまいりません」
拒絶は果たして何のためなのか。
手が届く場所に、手が届く存在としてレクティファールがいる。
後宮では決してあり得ない状態に、焦燥が募る。
「――あまり遅くなるとハルベルンの奥様が焼き餅を焼きますよ」
「焼き餅焼いてくれたらまだいいんですけどね……」
レクティファールはアンヌを引き取ろうとするマリカーシェルを制し、停留所に向かって歩き始める。
それはマリカーシェルに気を使ったというよりも、しっかりと自分にしがみつくアンヌを起こすのが忍びなかったという理由からだ。
マリカーシェルはレクティファールのそんな考えに気付かないまま、少し安堵してその後に続いた。
「レクト様のことについてはご存知なのでしょう?」
「話したときは冗談だと思っていたみたいですが、本当だと気付いたときには気絶しましたよ。――初夜に話すことではなかったと反省しました」
それは、と呟き、マリカーシェルはハルベルン邸でレクティファールを待つ若妻に同情した。
結婚した相手は国主だったというのは良くある小説の題材だが、自分の身に降り掛かると考えると気分が滅入る。そういった状況は空想の中だからこそ映えるのであり、現実に起きれば大混乱必至だ。
「それ以来、妙に小動物染みた動作で私を窺うんですよね。視線を感じて振り返ったら柱の陰からそっと見ていたり、厨房の差出口から覗いていたりとか」
さもあらん。マリカーシェルはその女性に心底同情した。
一種の精神的外傷なのだろう。自分の夫が皇であると言われて現実を現実として認識できなくなっているのかもしれない。
学者肌であると聞いているから、レクティファールを観察して自分なりに納得できる結論を探しているのかもしれない。
(何で自分なんだろう、とか思ってらっしゃるんでしょうね……)
そう思えるからこそ、レクティファールは選んだのだ。
後宮や離宮の妃、そして自分たちのような存在では決して到達できない場所があり、ハルベルンの奥方はそこにいる。
(妃殿下たちが奥方を羨む理由がわかるわね)
一種の理想なのだ。国など背負うことなく、ただ男と女として過ごすというのは。
決して叶わないと知っているからこそ欲し、嫉妬する。珍しくもない感情だ。
「ルイーズは『祝、娘復活!』とか言ってもの凄く喜んでましたけどね。『武人肌じゃない普通の娘だ、色々仕込み放題でやったー』とかなんとか」
「あ、はは……」
ルイーズが武門の家系としては珍しく、そういったことに一切関わっていない人物であることは知っている。そうした人物にとっては、武門の匂いがしない嫁というのは貴重であるらしい。
もっとも、その期待の嫁は皇国の軍事力の一翼を担う自動人形研究の第一人者で、その影響力だけなら皇王家に輿入れした本来の娘よりも遥かに大きいのだが、ルイーズはそれに全く気付いていなかった。
「ただ、ルイーズのそんな姿を見ていると、色々申し訳ないと思うのも事実です」
「申し訳ない……ですか?」
「あの人も、“ごく普通”の人なんですよ。我々にとって金よりも貴重な“普通”という奴です」
マリカーシェルはそこで、レクティファールが己の存在を全面的に受け入れている訳ではないことに気付いた。
(ああ、この方は……)
今もただの人であることを忘れられないのだ。
君臨することの意義も、価値も、理由も総て理解した上でそこに存在していても、その渇望だけは失うことができない。
「――――」
マリカーシェルはそこで、無意識のうちにレクティファールに近付いていた。
二歩下がった斜め後ろではなく、その顔が見える隣へ。
「マリカーシェル?」
「あ、いえ……」
突然マリカーシェルが隣に現れたことに、レクティファールは驚いているようだった。
何か起きたのかとその視線が問い掛けていたが、マリカーシェルは顔を伏せてそのまま歩く。
「うん?」
レクティファールはその行動の意味が分からないまま、しかし柔らかな笑みを浮かべ、言った。
「ああでも、マリカーシェルの顔が見えるからこの方が良いかな」
「っ!?」
その笑顔を殴りたくなった。
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