402 / 526
第四章:万世流転編
第十四話「紅賛歌」 その五
しおりを挟むレクティファールが妙に凝った愛妻弁当に慣れ始めた頃、後宮では皇妃用厨房の建設計画が持ち上がった。
発起人はリリシアとメリエラ。普段はいがみ合うことの多いふたりが手を取り合う光景にフェリスがややげんなりとした表情を浮かべていた。
そしてその他の皇妃たちも大なり小なり同じような表情を見せており、例外は苦笑いの真子と後宮料理教室という言葉に喜ぶマティリエぐらいのものであった。
計画は「我が子に料理を作るのもまた良し」というレクティファールの判断で可決され、実行される運びになった。一部立入禁止を命じられた皇妃がいたが、その人物については誰もが目を背けた。
「そりゃ手料理作ればレクトは喜んでくれるだろうさ。でも厨房の騎士たちの仕事取っちゃ駄目だよね」
フェリスが話し掛けている相手は、通信窓の向こうで呆れたように溜息を吐き、答えた。どうせ娘は自分の答えなど求めていない。単に愚痴を零す相手が欲しいだけなのだ。
『僕からすれば君も似たようなものだけどね。母さんに代わった方がいいんじゃないかい?』
「母さんに言えばボクももっと料理覚えろって言われて終わりだよ! 母さん料理上手なんだから……」
ケルブは再び溜息を吐いた。公爵就任を前にして、公爵家所有の外洋船で各地の傘下商会を視察していた彼だが、まさか娘がわざわざ愚痴を零すために通信を寄越してくるとは思わなかった。
彼らが今使っている通信網は亜空間経由の無時間差通信で、ケルブの乗っている外洋船にも最近ようやく通信機本体が取り付けられたという最新機器だ。
当然、普段は公務にしか使われない。
皇妃からの通信は公務に含まれるという解釈もできるが、実態は嫁入りした娘が実家の両親に愚痴を垂れるために無駄通信を繋いだということだ。
ケルブはその生来の生真面目さから、ちくちくと罪悪感が胃を刺激する錯覚を感じていたが、娘は皇妃でその夫は皇王、しかも公爵家としてもケルブ個人としても忠誠を捧げる人物である。その皇王のためならば多少の苦痛には耐えるべきではないかと思う自分もいたのである。
結局、彼は海豚を見に行ったまま戻ってこない妻を待ちながら、娘の愚痴に付き合うことになった。
「父さんも従姉さんたちはよく知ってるでしょ? あのふたりって昔からあんな感じだった? ファリエル従姉さんなんて、今日軍からの書類持っていったらフリフリの飾り布付きの前掛け着けて三角巾被って掃除してたんだけど……」
市井の若奥様状態でフェリスを出迎えたのはファリエルだった。
そして書類を受け取った直後、自分の姿を思い出して慌てて室内に引っ込んだ。
すぐにフェリエルが出てきて取り成したのだが、フェリスは従姉の珍しい姿に困惑し、半ば呆然としてしまった。
ただ、飾り布付き前掛けがファリエルの私物であることまでは、フェリスも知らなかった。もし知っていれば、従姉を見る目が変わっていたかもしれない。
『――あー』
ケルブは娘の言葉に顔を背け、答えに窮する。
ファリエルの幼少期を知る彼は、自分を相手に飯事に一際熱心だった彼女の姿を思い出すことは難しくなかった。
「変わったって感じはしないんだけど、こう、がーってレクト怒ったあとに心配してこっそり戻ってくるとか。輿入れしてから優しくなったなぁとは思ってたんだけどね……」
フェリスはここ最近の従姉たちの様子を思い出す。
〈花の季節〉であることを差し引いても、浮かれては居なかっただろうか。
これまでレクティファールを叱り飛ばす立場におり、フェリスたちもそれが当たり前だと思っていたウィリィアが、その“仕事”をフェリエルやファリエルに奪われつつあるのは、後宮ではある種の常識になっている。
以前は側妃兼乙女騎士という微妙な立場のウィリィアを気遣い、彼女が騎士として働いている間だけその代わりを務めていたはずだった。
なお、リリシアやメリエラも当初は気炎を吐いてレクティファールに様々な小言を述べていたが、結局レクティファールに言いくるめられてしまい、その役目を解かれた過去がある。
説教していたはずなのにいつの間にか膝枕をしていた、などということもこのふたりに限れば珍しくない。訓戒には向き不向きがあるのだ。
結果、レクティファールの矯正はやはり姉代わりであるウィリィアが最適だろうという結論に至る。時々〈岩窟龍断ち〉が唸りを上げるのも日常の一部だったのだ。
それがいつの間にやら、ファリエルたちの仕事の割合が大きくなった。
フェリスにはそれが妙に気に掛かる。レクティファールに若干妹扱いされている彼女に取って、環境の変化はどうしても気になるところだった。
『母親になるかもしれないという自覚が芽生えたんじゃないかな。シヴェイラも昔はあのふたりに似て割と気が強いところがあったんだけど、君が生まれてからはだいぶ落ち着いたから……』
ケルブはかつての喧嘩を思い出し、身体を震わせた。
こと直接戦闘能力に関して言えば、ケルブがシヴェイラに勝つ要素はほとんどなかった。蒼龍の一族は水中でこそ全生物中最強と言ってもいいが、それ以外の条件下では他の龍氏族に一歩も二歩も劣るのである。
ケルブがシヴェイラに対してそれなりに優位を保てたのは、母親譲りの対龍戦術があったからに過ぎない。もっとも、最近のマリアはその膨大な経験を若い龍たちをからかうために浪費しているのだが、その事実からは目を逸らす。
(よく考えたら、僕がボコボコにされたような人たちを四人も娶ったのか……バカはフレデリックだけだと思っていたけど――いやいやいや! 陛下は莫迦じゃない、そんなこと言ってないぞぉ!?)
「――?」
通信窓の向こうで突如百面相を始めた父に首を傾げながらも、フェリスは一応納得したようだった。確かに生活環境が変わればヒトも変わる。
士官学校や騎士学校で難民の心理状態を学んだ際、そういった説明を受けた記憶があった。
『あら、あなた。お仕事ですか?』
フェリスが納得したように頷いていると、通信窓の奥に見える扉が開き、桃色の髪を持つ女性が姿を見せた。
フェリスの母、シヴェイラだ。ようやく夫の公務に帯同することを許され、今回の視察にも参加している。視察前に通信を寄越し、お土産は何が良いかと訊かれたため、フェリスにとってはほんの数日ぶりの母である。
「あ、母さん」
『フェリス? 珍しいですね。お父様に何かおねだりしたいものでも出来ましたか?』
「いや、あの、ボクもそんなに子どもじゃないし……」
そう口にしつつも、フェリスはシヴェイラが記憶の中のフェリスと現実のフェリスの齟齬に悩んでいることを知っている。
シヴェイラの記憶時間通りなら、フェリスはまだ両手の指に満たない年齢なのだ。
娘の言葉に困ったように笑みを浮かべ、シヴェイラは百面相を続けていたケルブから通信窓を奪い取った。
『なら、陛下に何か言えないことでも? 何ならお父様には席を外して貰いましょうか?』
母の優しげな声音に、フェリスは心地よさと同時に憧憬の念を抱いた。自分もそうなれるだろうかとも意識の片隅で考えた。
「ううん、一応話は聞いて貰ったから。それで十分だよ」
『そう? 陛下にはこの視察の前に贈り物を頂いたから、力になれることがあるなら遠慮せずに言ってくださいね』
「贈り物?」
フェリスはレクティファールから何も聞かされていなかった。
普段なら相談のひとつもあるのだが――フェリスは首を傾げる。
『ええ、フェリスの写真をたくさん。マリア様からも頂いたんだけど、後宮での姿は陛下にお願いするしかなくて……』
「へ、へー」
フェリスは嫌な予感で背筋が凍り付いた。
シヴェイラの意識の齟齬を払拭するため、フェリスの成長を記録した様々な情報媒体が提供されていることは知っていた。それに反対するつもりもない。
だが、後宮での生活は色々不味いのだ。
『でもフェリス、あんまりはしたない格好で寝ちゃ駄目ですよ? 女子たるもの寝姿にも気を遣ってこそです』
「はい、ごめんなさい……」
『あと甘い物ばかり食べていては駄目です。小さな子たちが真似をして偏食になったらどうするのですか?』
「気をつけます……」
『それと……』
(ひぃやああぁぁぁぁぁぁ……)
フェリスが内心で情けない悲鳴を上げるも、シヴェイラの説教は止まらない。
怒鳴ることなく相手の罪悪感を刺激するシヴェイラの説教は、フェリエルたちにも恐れられていた。
『ですから……』
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
いつの間にか娘を妻に取られていたケルブは、その様子を少し羨ましそうに眺めたあと、自分にも娘の写真を貰えないかレクティファールに通信文を送った。
返信に添付されていた写真は、のちに外部向け皇王家写真集に掲載され、皇妃フェリスを象徴することになる『マティリエの尻尾を蕩けた顔で撫で繰り回すフェリス』の写真だった。
0
お気に入りに追加
2,909
あなたにおすすめの小説
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
王が気づいたのはあれから十年後
基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。
妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。
仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。
側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。
王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。
王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。
新たな国王の誕生だった。
王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!
gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ?
王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。
国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから!
12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
愛なんてどこにもないと知っている
紫楼
恋愛
私は親の選んだ相手と政略結婚をさせられた。
相手には長年の恋人がいて婚約時から全てを諦め、貴族の娘として割り切った。
白い結婚でも社交界でどんなに噂されてもどうでも良い。
結局は追い出されて、家に帰された。
両親には叱られ、兄にはため息を吐かれる。
一年もしないうちに再婚を命じられた。
彼は兄の親友で、兄が私の初恋だと勘違いした人。
私は何も期待できないことを知っている。
彼は私を愛さない。
主人公以外が愛や恋に迷走して暴走しているので、主人公は最後の方しか、トキメキがないです。
作者の脳内の世界観なので現実世界の法律や常識とは重ねないでお読むください。
誤字脱字は多いと思われますので、先にごめんなさい。
他サイトにも載せています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。