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第四章:万世流転編
第九話「勇者の価値」 その一
しおりを挟むマイセルは集団生活というものが苦手であった。
苦手と言うよりも、不慣れと言った方が正確かもしれないが、どちらにせよ彼は皇立学究院の初等部において寮生活を始め、自分が集団生活に向かないのではないかという疑念を抱いた。
帝国の王子だからではない。そんなことを気にする同級生はいなかった。むしろ皇妃の弟であるという事実の方が彼には煩わしかったほどだ。
姉である皇妃マティリエが毎日のように通信を送って寄越し、学究院が『休日以外は原則として私的な通信を禁じる』という規則を盾にそれを突っぱねるということが幾度か繰り返され、それが同級生たちにからかわれる原因となった。
ただ、手紙はその規則に含まれないため、彼の元には一日おきに姉からの手紙が届く。毎日ではないのは、後宮側が配慮した結果だった。
そして今日もまた、寮の彼の部屋にはマティリエの紋章で封がされた手紙が届けられる。
「おい、王子サマ」
「なに?」
部屋の郵便受けに入っていた手紙に気付いたのは、マイセルと同室の同級生だった。
名をモルンス・パドウェーカーといい、皇都のそこそこ大きな商家の四男である。学究院初等科五年次ともなれば、法的な大人に片脚を突っ込むのが皇国の民だが、モルンスもその分に漏れず、年齢以上に大人びた雰囲気を持っている。
その雰囲気に加えて容姿も良く、年下から年上まで幅広い女子に人気があった。
「おねーさまからお手紙でっす」
二つ並んだ勉強机。その片方で予習をするマイセルに恭しく両手で手紙を差し出すモルンスだが、その表情はだいぶ茶目を含んでいる。最初は皇妃からの手紙ということでどう扱えば良いか大いに悩んだ彼だが、マイセル自身が普通の家族からの手紙として扱えと言ったことで、このような対応を取るようになった。
実際、使者が直接携えてくるものならともかく、ごく普通に部屋の郵便受けに投函されるものならば、それは私的なものであって市井のそれとなんら変わらない。
変わっているのは、検閲や追跡術式が付与されて後宮から運び出されるまでの間だけだ。
「いや、羨ましいね。皇妃殿下から手紙なんて」
「そうでもない」
手紙を受け取り、マイセルはその耳を不機嫌そうに揺らした。短刀で封筒を開いて便箋を広げると、そこには姉の丸みを帯びた字で彼女の日々の生活が綴られている。
「日記、だ」
マイセルはややげんなりとした様子で椅子を揺らし、姉からの手紙を読む。
彼に読まないという選択肢はない。もしもそんなことをしたら、おそらく姉は悲しむだろう。そう想像するだけで胸が痛む。だから、彼は真面目に手紙を読み、時間があれば返事も書くのだ。
「この間の戦争のこと、何か書いてあるか?」
モルンスは自分の勉強机に胸の物入れから出した学生証を放り投げると、その隣にある寝台に腰を下ろしてマイセルに訊いた。
商家の四男ともなれば将来もそちらに進みそうなものだが、彼は官僚志望だった。それも軍官僚だ。実家と付き合いのあった軍官僚に憧れたらしい。
「特に何も」
マイセルは答え、後半になって増えてきた姉と義兄との惚気話を無感動に読み進める。以前は情けない姉だとは思っていた彼だが、ずっと一緒に暮らしてきた姉が他家の者となったことに何も感じないわけではない。
その証拠に、彼は義兄があまり好きではなかった。
「そうか、避難命令が出たからそこそこ大きな戦いだと思ったんだけど」
「うちの姉がそんなことまで分かる訳ない」
「それもそうだな。おねーさまは後宮の末っ子妃だから」
『末っ子妃』という呼び名は、マティリエを表す言葉としては比較的知られている。彼女が皇妃の中でもっとも若いこともそうだが、他の皇妃たちに妹としてもの凄く可愛がられていることが周囲に知られるようになり、そこから末っ子妃と呼ばれるようになった。
皇王家報道があれば本人には全く関係ないことでも顔を出し、皇妃の特集があれば、リリシアやメリエラに匹敵するほどの人気を集めていた。
なお、ここから一ヶ月の後、イズモでは彼女ともうひとりの妃を題材にした架空戯画が放送されるが、この時点ではマイセルも知らないことだった。
「――あー、終わった」
マイセルは手紙を読み終えると尻尾をだらりと垂らし、次いで背筋を伸ばした。
ここ半年で彼の身長は一気に伸びた。環境が変化すると元々早い成長がより早くなるというのは環境適応能力の高い獣人としては珍しくもないことだが、制服の作り直しは三度もあった。
しかし姉の方はほとんど姿が変わっておらず、身長はすでに逆転し、今もその差は開き続けている。
「明日の授業って何だっけ?」
マイセルがそう訊けば、ちょうどモルンスは予定表を眺めているところだった。
「んー? 根源応用魔導と立体数学がある。あとは次元観測基礎と……」
「また面倒なのが集まってるし」
マイセルは心底嫌そうな表情を浮かべた。
実家にいる頃から勉強というものは苦手で、何よりも嫌いだった。家庭教師たちは父の支援者で、自分に過剰な期待を掛けるか、獣人の子として疎んじるかのどちらかで、到底勉学に楽しみを見出すことはできなかった。
その点では、皇国への留学は良い事尽くめだった。同年代の級友というものができ、彼らと会話をすることで世界は一気に広がった。
それは価値観の拡大とも言え、マイセルは父が留学を推し進めた理由が少しだけ理解できた。皇国は情報の価値を重く捉え、それは教育にも大きな影響を与えている。
家庭教師たちが毎日繰り返していた帝国の歴史も、複数の視点で見れば明らかな齟齬がある。皇国の方がより多くの歴史を刻んでいるのだから当たり前だが、マイセルにはそれが何とも清々しかった。
あらゆる分野で、皇国の教育は帝国のそれを上回っている。
それを証明するように、この学究院にはマイセルよりも幼い留学生まで存在した。皇国式の教育こそが至上と捉える国からの留学生だったが、同じように皇都に居を構える外交官や駐在武官、商人などの外国人子弟もこの学究院には多く通っている。
彼らは皇国式の価値観を養って故国へと戻るだろう。それは何よりも、皇国にとっての無形の財産となる。
「あ、武道の実技もあらぁね」
「そっちの方がまだ得意だよ」
獣人の身体能力と叔母であるグロリエの動きを見て覚えた身熟しもあり、マイセルの武道全般の成績は良かった。
ただ、教官たちも軍などで鳴らした猛者ばかりなので、彼らを相手にした試合ではなかなか勝ち星を得ることができないでいた。それでも、同年代の中では優秀な部類に入る。
「良いよなぁ、獣人って」
「そうでもない。この国だとそうでもないけど、見た目が違うだけで迫害されることもあるから」
マイセルはその事実を皇国に来てから知った。
母が暗殺者の毒によって今の身体になったことも、家族のことを調べようと開いた新聞の既刊号で初めて知った。姉はまだ知らないだろうと思い、手紙には書いていない。
「故郷ではどうなんだよ?」
「半々、かな。偉い人たちはあんまりいい顔をしなかったけど、国民の皆は元々そういう差別の気持ちが薄いし」
「はぁー、よく分からないな。種族が違うんだから見た目が違うなんて当たり前じゃん」
「この国なら確かにそうだよ」
だが、皇国以外でそんな価値観はない。
種族の違いが性格の違いと同程度の差異と受け止められているのは、この国だけだと言っても良い。
「だから、ぼくは結構楽しいんだけどね。姉様も楽しそうだ」
「ははは、それもそうか。皇王陛下の国だもんな」
マイセルはそう言って笑うモルンスに笑みで応えた。
彼の価値観は大きく変わり始めている。それは彼が大公として故郷に戻ったあとも、その胸に抱き続けるものだった。
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