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第三章 幕引き
3-7 最後の煙草
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蓉杏は高人の部屋で煙草を吸っていた。部屋から張り出した露台の方に、月が見える。
高人が近くにやって来て、衣服の一揃いを彼女の隣に置く。
「これでいいか」
「ああ、済まないな。世話をかける」
蓉杏は高人をちらりと見ただけで、再び視線を外に向ける。
自分の衣服は董星に渡してしまったので、今は薄い衣を一枚着ただけ。蓉杏はこの後は、高人の服を借りて帰るつもりだった。
先刻、ばったり出くわした董星王太子から、女官の格好をさせてほしいと言われた時には驚いた。人知れず央華に会いに行きたいのだと言う。
董星の心の迷いが蓉杏にはおかしかった。そんなこと、聞かずとも分かるだろうに、央華が彼に好意を持っていることは明らか……。
しかし、頼まれたからには徹底的にやるのが彼女の流儀。高人にも事情を話して彼の部屋と道具を借りる。服や化粧を整えて董星を東宮一の美人女官に仕立て上げる。董星の仕草もなかなか堂に入ったもので、女でないことを見破るのは難しいだろう。
蓉杏は董星を励まし、緊張した面持ちで出かけていく董星を、高人はあきれて見ていた。
「あれは見事だったな。誰も董星様だとは気づかないだろう」
「私の腕と本人の資質。何せ殿下は昔、女の子だったことがあるからね……」
蓉杏は懐かしそうに目を細めた。
高人は蓉杏の持つ煙草を指して尋ねる。
「私の分はないのか?」
「すまない、これで最後なんだ」
蓉杏は言って、火のついたままの煙草を高人に手渡す。高人はそのまま口を付けて煙草を吸う。それはずっと続いて来た光景だ。
初めて高人と蓉杏が出会ったのは四年前。山中の離宮で暮らしていた頃。夕暮れが迫っても董星が戻らない日があった。焦っていると天女のような風貌の女人が現れ、子供の履く靴を差し出す。董星の靴だった。
『この靴の持ち主を紫煙殿で預かっている』
『紫煙殿? しかし……』
董星は男だ。紫煙殿は男を受け入れないのではなかったか。
女人はにやりと笑った。
『まあ、そういうことだ。あの女の子は高所から落ちて頭を強く打ったようだが今は問題ない。我々の手当てを信用してくれ、きっと元通りにして返すから』
女の言うことを信用したわけではないが、紫煙殿と言われれば手出しができない。
虫の知らせとでも言おうか。八日経って何となく川に出掛け、高人はずぶぬれになった董星を見つけた。
その後も天女のような女は何度も高人を訪れた。山中の離宮の、警備などまるでないかのように、難なく高人の部屋までやって来て、また帰っていく。何か言いたいことがあるようだが、肝心のことは何も話さない。
やがてお互いの本性が知れた。
年下の主人に影のように付き従う。その主人には王道を行く運命が待っている。
自分たちはその師であり兄あるいは姉。万が一の時には身を持って盾となる覚悟。役に不足はないがどこかで思いがくすぶる。この空虚さは境遇を同じくする二人にしか分からない。
二人は並んで煙草をふかし、他愛もない話をするだけの関係。それでも高人はいつしか彼女を心待ちにするようになった。
高人が最後の煙草の火を消すと蓉杏が言った。
「あの子たちも結論を出した所で。私も帰るとするよ」
「帰るとは、どこへ?」
「決まってる、紫煙殿さ。……私はそこの人間だからね。そこを出ては生きていけないんだ」
紫煙殿は山上の神殿で男を受け入れない。
女は自由に行き来ができるが、入れば入る前の記憶をなくし、出た後にはそこで過ごした記憶をなくすともいわれる。
そして、紫煙殿の女と関わり過ぎた男もまた、その記憶を失うと言われている。
高人はその懸念を尋ねる。
「離れれば忘れるというのは本当か」
「本当だよ、何もしなければ一両日ですっかり、といったところか……」
「でも、央華様は忘れなかった」
「あの子の意志だよ……私は少し手助けをしただけ。流れる水を思えって」
「流れる水?」
「お前なら何を思う?」
「そうだな……」
高人は少しだけ考えて言う。
「我らが説く王道では、善き政事を敷き、流れる水の如くそれを民に知らしめよ、と……だが、それとは別のようだな?」
「その考え方もある……でもあの子に必要だったのは、水はめぐるってことさ。紫煙殿はこの国の最も高い山の中。そこから出た水は上から下に流れ、東宮や王宮の池にも通ずる」
蓉杏の目は部屋の外の池を見つめる。
「……水は形を変え、姿を変えてめぐり、……また山の上に戻る。すべての人と物の記憶を持って、消えることなくめぐる……だからお前の大切な思いもその中にある。忘れたくなければ流れる水を見るたび思い出せって、暗示をかけた」
「それで?」
「見事に忘れずに済んだ」
蓉杏はうれしそうに笑った。しかし高人は笑えない。
「でも蓉杏、あなたはどうなんだ? あなたも自分自身に暗示を?」
「さあね……確かなのは、今戻らないと、間もなく、全部を忘れるってことだ」
「私もか? 私はあなたと関わり過ぎたか?」
「そうは思わない……」
蓉杏は高人の用意した衣服を手に、立ち上がる。着替えたら出て行こうというのだ。
高人は背を向けた蓉杏に話しかける。
「それはつまり、私よりも、もっと深い関係の者がいたということか?」
「……答える必要はない」
「なんだ、そうだったのか……それを聞いて残念だ」
「それはない」
怒ったように蓉杏が振り返る。
「なんでそうなるんだ。好きでもない男の部屋を訪ねて……ましてやその着物を借りて帰ることがあると思うか?」
そう反論する蓉杏の頬が、少し紅潮している。それを見て高人の顔に微笑が浮かぶ。
「そうならそうと……なぜ初めから答えない?」
「つまらないことを聞くからだ」
蓉杏は借りた着物の前を合わせる。高人の方が背が高いが、服の裾を上げて帯で締めれば見苦しいことはない。高人は着替える蓉杏に向かって話し続けた。
「『ずっとあなたに焦がれて来た』」
「その通り」
蓉杏は、高人が自分のことを言っているのだと思った。それで思いを見透かされたと思って不機嫌になる。不本意ながら同意の相槌を打つ。
帯を締め終わると蓉杏は結っていた髪に手を入れてそれを解きほぐす。男の服を着た今では、女の髪形は奇妙に映る。男髪の形に結い直そうというのだ。
高人の話は続く。
「『でも気持ちをを口にすることは許されない……なぜならばあの子を立派に育てることが私の使命だから』」
「そうだとも……」
高人が渡してくれた紐を受け取って、蓉杏は髪をまとめる。
高人は蓉杏の近くで囁く。
「『しかし、あの子たちが成人し、生涯の伴侶を見つけた今となっては、その必要もあるまい……』」
「そうかもしれない……でも、これを限りに、もう会うのも最後だと思わなければ、言わなかったさ……」
蓉杏は髪をまとめるのにもう一度紐を受け取ろうとして、伸ばした手を高人につかまれた。高人は蓉杏の目をみつめる。
「今のは全部私の心を言い表す言葉だ」
「な……」
中途半端な髪形がくずれて、蓉杏の髪は肩に広がる。
「蓉杏、どうしても、帰るのか」
「すまない、私を行かせてくれ……」
蓉杏は顔を背ける。
もしここで蓉杏が紫煙殿に戻らなければ、不都合が出るのだろう。それは高人にも分かった。
「これを限りと言うのであれば……」
高人は蓉杏を引き寄せてその肩を抱きしめる。
「あなたが欲しい」
高人は自分の口で彼女の口を覆う。蓉杏の目は大きく見開かれた。
高人が近くにやって来て、衣服の一揃いを彼女の隣に置く。
「これでいいか」
「ああ、済まないな。世話をかける」
蓉杏は高人をちらりと見ただけで、再び視線を外に向ける。
自分の衣服は董星に渡してしまったので、今は薄い衣を一枚着ただけ。蓉杏はこの後は、高人の服を借りて帰るつもりだった。
先刻、ばったり出くわした董星王太子から、女官の格好をさせてほしいと言われた時には驚いた。人知れず央華に会いに行きたいのだと言う。
董星の心の迷いが蓉杏にはおかしかった。そんなこと、聞かずとも分かるだろうに、央華が彼に好意を持っていることは明らか……。
しかし、頼まれたからには徹底的にやるのが彼女の流儀。高人にも事情を話して彼の部屋と道具を借りる。服や化粧を整えて董星を東宮一の美人女官に仕立て上げる。董星の仕草もなかなか堂に入ったもので、女でないことを見破るのは難しいだろう。
蓉杏は董星を励まし、緊張した面持ちで出かけていく董星を、高人はあきれて見ていた。
「あれは見事だったな。誰も董星様だとは気づかないだろう」
「私の腕と本人の資質。何せ殿下は昔、女の子だったことがあるからね……」
蓉杏は懐かしそうに目を細めた。
高人は蓉杏の持つ煙草を指して尋ねる。
「私の分はないのか?」
「すまない、これで最後なんだ」
蓉杏は言って、火のついたままの煙草を高人に手渡す。高人はそのまま口を付けて煙草を吸う。それはずっと続いて来た光景だ。
初めて高人と蓉杏が出会ったのは四年前。山中の離宮で暮らしていた頃。夕暮れが迫っても董星が戻らない日があった。焦っていると天女のような風貌の女人が現れ、子供の履く靴を差し出す。董星の靴だった。
『この靴の持ち主を紫煙殿で預かっている』
『紫煙殿? しかし……』
董星は男だ。紫煙殿は男を受け入れないのではなかったか。
女人はにやりと笑った。
『まあ、そういうことだ。あの女の子は高所から落ちて頭を強く打ったようだが今は問題ない。我々の手当てを信用してくれ、きっと元通りにして返すから』
女の言うことを信用したわけではないが、紫煙殿と言われれば手出しができない。
虫の知らせとでも言おうか。八日経って何となく川に出掛け、高人はずぶぬれになった董星を見つけた。
その後も天女のような女は何度も高人を訪れた。山中の離宮の、警備などまるでないかのように、難なく高人の部屋までやって来て、また帰っていく。何か言いたいことがあるようだが、肝心のことは何も話さない。
やがてお互いの本性が知れた。
年下の主人に影のように付き従う。その主人には王道を行く運命が待っている。
自分たちはその師であり兄あるいは姉。万が一の時には身を持って盾となる覚悟。役に不足はないがどこかで思いがくすぶる。この空虚さは境遇を同じくする二人にしか分からない。
二人は並んで煙草をふかし、他愛もない話をするだけの関係。それでも高人はいつしか彼女を心待ちにするようになった。
高人が最後の煙草の火を消すと蓉杏が言った。
「あの子たちも結論を出した所で。私も帰るとするよ」
「帰るとは、どこへ?」
「決まってる、紫煙殿さ。……私はそこの人間だからね。そこを出ては生きていけないんだ」
紫煙殿は山上の神殿で男を受け入れない。
女は自由に行き来ができるが、入れば入る前の記憶をなくし、出た後にはそこで過ごした記憶をなくすともいわれる。
そして、紫煙殿の女と関わり過ぎた男もまた、その記憶を失うと言われている。
高人はその懸念を尋ねる。
「離れれば忘れるというのは本当か」
「本当だよ、何もしなければ一両日ですっかり、といったところか……」
「でも、央華様は忘れなかった」
「あの子の意志だよ……私は少し手助けをしただけ。流れる水を思えって」
「流れる水?」
「お前なら何を思う?」
「そうだな……」
高人は少しだけ考えて言う。
「我らが説く王道では、善き政事を敷き、流れる水の如くそれを民に知らしめよ、と……だが、それとは別のようだな?」
「その考え方もある……でもあの子に必要だったのは、水はめぐるってことさ。紫煙殿はこの国の最も高い山の中。そこから出た水は上から下に流れ、東宮や王宮の池にも通ずる」
蓉杏の目は部屋の外の池を見つめる。
「……水は形を変え、姿を変えてめぐり、……また山の上に戻る。すべての人と物の記憶を持って、消えることなくめぐる……だからお前の大切な思いもその中にある。忘れたくなければ流れる水を見るたび思い出せって、暗示をかけた」
「それで?」
「見事に忘れずに済んだ」
蓉杏はうれしそうに笑った。しかし高人は笑えない。
「でも蓉杏、あなたはどうなんだ? あなたも自分自身に暗示を?」
「さあね……確かなのは、今戻らないと、間もなく、全部を忘れるってことだ」
「私もか? 私はあなたと関わり過ぎたか?」
「そうは思わない……」
蓉杏は高人の用意した衣服を手に、立ち上がる。着替えたら出て行こうというのだ。
高人は背を向けた蓉杏に話しかける。
「それはつまり、私よりも、もっと深い関係の者がいたということか?」
「……答える必要はない」
「なんだ、そうだったのか……それを聞いて残念だ」
「それはない」
怒ったように蓉杏が振り返る。
「なんでそうなるんだ。好きでもない男の部屋を訪ねて……ましてやその着物を借りて帰ることがあると思うか?」
そう反論する蓉杏の頬が、少し紅潮している。それを見て高人の顔に微笑が浮かぶ。
「そうならそうと……なぜ初めから答えない?」
「つまらないことを聞くからだ」
蓉杏は借りた着物の前を合わせる。高人の方が背が高いが、服の裾を上げて帯で締めれば見苦しいことはない。高人は着替える蓉杏に向かって話し続けた。
「『ずっとあなたに焦がれて来た』」
「その通り」
蓉杏は、高人が自分のことを言っているのだと思った。それで思いを見透かされたと思って不機嫌になる。不本意ながら同意の相槌を打つ。
帯を締め終わると蓉杏は結っていた髪に手を入れてそれを解きほぐす。男の服を着た今では、女の髪形は奇妙に映る。男髪の形に結い直そうというのだ。
高人の話は続く。
「『でも気持ちをを口にすることは許されない……なぜならばあの子を立派に育てることが私の使命だから』」
「そうだとも……」
高人が渡してくれた紐を受け取って、蓉杏は髪をまとめる。
高人は蓉杏の近くで囁く。
「『しかし、あの子たちが成人し、生涯の伴侶を見つけた今となっては、その必要もあるまい……』」
「そうかもしれない……でも、これを限りに、もう会うのも最後だと思わなければ、言わなかったさ……」
蓉杏は髪をまとめるのにもう一度紐を受け取ろうとして、伸ばした手を高人につかまれた。高人は蓉杏の目をみつめる。
「今のは全部私の心を言い表す言葉だ」
「な……」
中途半端な髪形がくずれて、蓉杏の髪は肩に広がる。
「蓉杏、どうしても、帰るのか」
「すまない、私を行かせてくれ……」
蓉杏は顔を背ける。
もしここで蓉杏が紫煙殿に戻らなければ、不都合が出るのだろう。それは高人にも分かった。
「これを限りと言うのであれば……」
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