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第三章 幕引き

3-8 身を引く

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 部屋の前で足音がする。

高人こうじん、いるか?」
 円了えんりょうがやって来た。手に酒を持っている。月が美しいので、高人と酒盛りをするつもりらしい。

 円了の姿を見て高人は服の襟元を合わせ、それからほどけた髪を束ねる。
 男も人前では髪を結う。自分の室内でも束ねているのが自然。室内も、高人が一人で寝ていたにしては不自然に乱れた後がある。

 その様子をみて円了が尋ねる。
「……女がいたのか?」
「来ていて、帰った」
「肌を見たのか?」
「見た」
「その女とはどこまで行った? 寝たのか?」
「いや……逃げて行ってしまった……」
 高人は隠さないが、追及される理由もわからない。日頃あまり女の話をしない円了だ。

 高人は盃を二つ、探して持って来る。
 二人は露台の方を向いて、並んで敷物に座る。

 円了は言った。
「お前から逃げて行った女だがな、肩から胸にかけて、こう、大きな刀傷があっただろう……」
 円了は自分の左肩から腹に向かって、手の平を斜めに動かす。
 その通りだった。高人は思わず円了を見る。続く円了の言葉はさらに高人を驚かせた。
「あの女は俺の許嫁だ」
「何……?」
 高人が立ち上がりかけたところを、円了が制した。
「落ち着け。座れ。別に、お前たちをとがめているわけではない」

 円了は自分で酒を注いで盃に口をつける。
「あの女は、彼女の祖父が決めた許嫁だった」
 円了は老薬師の弟子だった。蓉杏ようきょうは老薬師の孫。
 『孫娘を頼む……』
 両親に先立たれた孫娘の行く末を案じ、祖父は弟子の円了と婚約させる。

「老師に行く末を頼まれたが、……彼女はまだ幼年なので、成人するのを待っていた」
 その当時、円了は二十八歳、杏は十二歳。二人の関係は、はた目には許嫁というよりは、兄妹。むしろ、父娘のようにみえた。

 婚約後まもなく老薬師が亡くなり、円了は旅の薬師となって、蓉杏を連れて諸国を回る。
 旅の途中、物盗りにあって、蓉杏は円了の代わりに刀傷を負う。
 円了は渋い顔をして当時のことを思い出す。
「俺は刀を避けた。そうしたら、そこに蓉杏がいた。俺は避けるべきではなかったのだ……」

 刀傷は深く、円了の手当てでは足りない。助けを求めた近くの村が、蓉杏を紫煙殿しえんでんに預けるよう勧める。
 紫煙殿の医術は優れている。蓉杏は危ない状態を脱した。

「俺は流れのよそ者で……紫煙殿の掟を知らなかったのだ。いや、知らなくて幸いした。もし知っていたとしたら、迷わずに蓉杏を預けたかどうか……」
「掟?」
と、高人は聞き返す。円了は酒の盃を重ねる。
「『男が近づけば逃げる。女は離れれば忘れる』」 
「……」
それは高人も聞いて知っている。
 紫煙殿は女人の神殿。女人の桃源郷。
 男は近づくことを許されず、女だけが自由に出入りする。が、女も出た後はそこでの生活を、その存在を、忘れてしまうという。
 そうやって紫煙殿は謎に包まれ、守られてきたのだ。


 その後円了は療養中の蓉杏を訪ね、たびたび紫煙殿に上る。が、決まって不思議なことが起こる。
 山上の紫煙殿を訪れたはずなのに、気づけば山裾の村まで戻って来ている。その間、どうしていたのか、記憶が全くない。
 それが何度も繰り返された。
 戻って来た時には顔のひげが伸びている。確かに時間は経っている。
 靴の裏を見れば歩いた跡がある。通り道、知られないよう印を付けたが、その印も後で確認ができた。

 一体これはどういうことだ? このまま引き下がるわけにはいかない。あきらめきれない。
 それは蓉杏への思慕か、自責の念か、はたまた薬師としての執念か。

「それで……俺はそのまま近くの村に住み着き、何が起こっているのか観察を続けることにした」

 山中に出て来た蓉杏と、偶然を装って出会ったこともあった。が、彼女は完全に円了を忘れていた。斬られた時の衝撃で記憶を失ったのか? いや、違う、そうではない。


 しばらくして、紫煙殿には通称で「もの忘れの秘薬」なる物が存在することが分かって来た。それには一時に大量摂取した場合の急性的な効果と、長年にわたって使用した場合の慢性的な効果がある。

 男の場合は前者。紫煙殿は男を追い返す。男がやって来たとき、その薬を使用する。方法ははっきりとしない。が、薬のせいで紫煙殿とそこで出会った物と人と、それに結び付く記憶を全て失ってしまう。紫煙殿に行った男たちが、口をそろえて「行ったはずが、よく覚えていない」というのはそのせいだ。

 女の場合は後者。男の場合と逆。紫煙殿は女を受け入れる。そこで女はずっとその薬を使用している。使用してしばらくの後、紫煙殿に来る前のことを忘れる。そして女が紫煙殿を離れて薬を使用しなくなった時には、紫煙殿に関わることを忘れてしまう。紫煙殿から出て来た直後は覚えているが、だいたい翌日には忘れてしまうようだ。

「ここまで分かるのに八年かかった……」

 円了は盃に目を落としたまま話を続ける。

「もう一つの謎は……紫煙殿の女と深く関わりすぎた男が、紫煙殿を訪れることなく、ある日を境に女のことなどまるきり忘れてしまうことだったが、……これはその女との房事の後に起こることが分かった」
「……つまり?」
「長年に渡って『もの忘れの秘薬』を摂取していると、女の身体そのものが薬か毒か……そうなっているということだ。交わった相手には、例の薬の急性的な効能が現れる」
 円了は横にいる高人の顔を見た。
「女に逃げられて、幸いしたな」
「いや……」
 高人は思わず顔を横に向ける。あごに手を当てて考える。自分のことはいい。
 しかし、もしそれが本当なのだとすると、央華おうか董星とうせいはどうなるのだろうか。
 董星は忍耐強い性格だ。自分のように性急に相手を求めるとは思えないが……。

 高人の心配を笑うように円了が言った。
「紫煙殿を離れてだいたい一年もすると、身体からは薬が抜けるようだ。その後は交わっても何も起こらん」

 そうして円了は盃を置き、その場を去ろうとする。
「蓉杏を頼むぞ、高人」
「待て……」
 高人も立ち上がり、素早く円了の前に行き先に立ちふさがる。

 円了は高人の肩をわざと強く押しやる。高人は思わず肩を押さえ、顔をしかめる。まだ治りきっていない傷が痛む。その顔をみて円了の口元に笑みが浮かぶ。

 あの日、王都に到着した日。城壁からの落石の下、三人で駆け抜けながら、高人は確かに蓉杏をかばった。彼女の代わりにその身体で落石を受けた。円了にはそれが分かる。
 危険があれば、それを避けようとするのが人の自然。円了の身体は本能的にそう動いた。 
 しかし、高人は動かなかったのだ。彼に全く迷いは見られなかった。おそらく、主人を守るために盾となるよう鍛えられてきた男だから、できた技だろう……。

 二人の男がにらみ合い、円了が先に視線を外した。

「お前がいてむしろ助かったようなものだ。つまらない男が相手だったら、俺が斬らねばならんと思っていた」
「しかし……彼女は逃げて行った」
「それはどうかな……」
 円了はにやりと笑った。
「俺も今しばらくは董星殿下にお仕えする。お前たちがどうなろうと、俺の忠誠心は変わらん。お前も遠慮なく俺を使え」
そう言い残すと部屋を後にした。
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