花蟷螂

月岡 朝海

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 春島が振新として花越の許へ戻り一年が経とうとする睦月の末、千歳屋のお職である筆頭呼出の千代梅ちようめが札差の旦那に身請けされる話が決まり、其の後のお職として新造付きの昼三へと昇格して居た花越と、同じくもう一人の新造付き昼三である壱ヶ瀬の名前が候補として挙がったのだった。千歳屋には瀬戸物問屋の岩見いわみ屋の隠居という四十年来の贔屓である大尽が居り、通人とは言い難いがとても豪快で快活な御仁であり其の莫大な金子と他方に伸びる人脈の及ぼす力などから、此の隠居が敵娼として選んだ花魁はお職と成るという流れがもう決まりとなって居て、今回も例に違わず千代梅の馴染みであった隠居は、一妓とだけ契りを交わす吉原の掟に基き新しい敵娼を選ぶこととなった。

 隠居は仲之町の通りに桜の木々が植えられる三月朔日の紋日に妓楼を総仕舞にし、全ての座敷の襖を開け放ちひとつの大座敷となった二階で酒宴を繰り広げ、其処彼処で舞い続ける紙花に新造、禿、若い衆、遣手、芸者や太鼓持ちなど皆が我先にと手を伸ばしていたのだが、此の総仕舞の意図を花越か壱ヶ瀬の何れかから新しい敵娼を選ぶ為の品定めの場であると心得ていた両者の新造らは、無闇矢鱈に其の紙花を求めて座敷を走り回ることはせず、凛と座っている両花魁の傍へ夫々侍っていたのだった。花越にお職となって欲しいと切望する春島も番新から聞いた隠居好みである少し鬢を大きく張り出したつぶし島田に結い裾に桜模様を散らした緋縮緬の小袖を着て、姐女郎の邪魔にならぬよう笑顔を絶やさず常に背筋を伸ばして座り、返礼の祝儀を作る際は率先して黙々と水引を結ったり、隠居の酒が盃から無くなれば直ぐにお酌するなどしていた。
 勿論人形のような笑みと化粧の巧みさという酒宴でしか映えない手管しか持たぬ壱ヶ瀬より、花越の深い教養と優しく穏やかな気性は自分が何をせずとも隠居の心を掴むであろうとは思っていたが、其れでも春島は何もせずには居られないのだった。然し海千山千の隠居はそんな春島の立ち振る舞いに目をくれることはなく結局どちらの花魁に対しても同じ恵比須顔で今宵は佳き花見じゃ、と繰り返し大声で高らかに笑うだけで、花越と壱ヶ瀬の何れを選ぶ兆しすら伺えない儘酒宴はお開きとなって仕舞ったので、春島は自分の役立たず振りが只々躯に染み入ったのだった。


 そして其の酒宴から六日後の暮れ六つに再び登楼した隠居は、張見世をしていた壱ヶ瀬を敵娼として指名し夫婦固めの盃を交わす引付座敷へと呼び寄せたので、張見世部屋の壁際で其れを目の当たりにした春島は胸の底から込み上げる悔しさで目頭が熱くなり切れる程にきつく唇を噛み締めたのだが、張見世をする周りの朋輩女郎ら全ての嘲笑や哀れみを含んだ視線を集めている当の本人の花越は平素の静かな貌を全く崩すことなく煙管を燻らせ張見世を続けて居たので、春島は思わず毛氈の敷かれた中央の席に座る姐女郎の許へと歩み寄り悔しうないでありんすかと問い掛けて仕舞った。
 すると花越は眸だけを春島の方へと向け御縁が無かったんでおざんしょう、とだけ常の静かな声で付け加えると正面へ視線を戻したので、春島は此の方の心は一体どれだけ深く寛容なのかと最早呆気に取られて仕舞うのだった。
 

 其の翌夜春島は酒宴の際花越の座敷に落として仕舞った鼈甲の簪を一人残って捜し続け、引け四つ過ぎになって漸く畳の縁と縁の間から見付けたので安堵して手水へ向かおうと八間を消され暗くなった廊下へ出ると、小竹こたけの姿が見えたので嗚呼また客が寝静まらぬ内に酒宴の残り物を漁りに座敷をうろうろしていたのか、もう禿のますのではなく振新になったというのに心得が足りず全くはしたないと内心苛立ったのだが、其の隣に連れ立って歩く人影を見た刹那に春島の胸がざわつきを覚えたのは、其れが壱ヶ瀬花魁の横顔であった為だった。
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