魔法使いと皇の剣

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4章 波乱

祈り

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 額を伝う汗が頬を濡らしても、ミエラはそのままにした。結界の維持に一瞬でも意識を逸らせば、たちまち彼らも、今まさに視界に映る騎士や民のように命を落とすだろうと――本能が告げていたからだ。

 異変は、合流して間もなく訪れた。

 病の神アスケラが支配するセイクリッドランド――それがこの地に完全に顕現したのなら、むしろ今まで何も起きなかった方が奇跡だったのかもしれない。旅を始めてから何度も体験した、あの圧倒的な死の気配が、突如として押し寄せた。

 ミエラは即座に結界を展開し、ジンやロスティン、ボルボらを護った。急ごしらえの結界だったが、神の力の浸食を一時的に防ぎ、辛くも命を繋ぎ止めている。

 だが――その外にいた者たちは、息を引き取っていた。

 かつて“呪われた大陸”と呼ばれたアルベスト。その名の真の意味を、ミエラはこの瞬間、痛烈に理解した。

 死体は静かに横たわっていなかった。苦悶の表情を残したまま絶命した者、顔の判別すらできないほど変容した者、見れば心が裂けそうになるほどの惨状が広がっていた。

「……なんだよ、こりゃ……」

 呆然と呟いたボルボの声も、場に溶けて消えた。

「嬢ちゃんのおかげで俺たちは助かったが……」

 ロスティンが呟いたその言葉に、ミエラは応える余裕すらなかった。結界を広げようと、全神経を集中していた。

 その傍らで、ジンが低く呟いた。

「……不味いな」

「何が不味い?」とボルボが聞き返すと、ジンは少し言いにくそうに顔をしかめた。

「……アイリーンがまだ街にいるとしたら、この“力”の中にいるってことだ」

 ミエラはその事実に既に気づいていた。だからこそ、彼女のためにも、決して集中を切らしてはならなかった。けれども、船やドルテ村の時とは違い、どうにも結界の範囲を広げることができない。

 まるでこの地そのものが、神の手にすっかり落ちたかのように――

 病の力が、それほどまでに濃いのか。あるいは別の何かが作用しているのか――。
 答えは出なかった。ただ、焦燥だけが胸を灼く。

「ジン……船の時みたいに、何とかできない? あなたの剣で」

 声は震えていたが、願いの芯は強かった。

 ジンは少し間をおいて、静かに首を振った。

「どうだろうな……セイクリッドランドと、結界は似てるようで違う。形あるものと、ないもの。何を“斬ればいいか”わからないんだ」

 彼の言葉には、剣を振るう者の実感がにじんでいた。けれど、ミエラはそれでも縋るように言葉を重ねた。

「それでも……お願い」

 ジンは短く頷いた。

「……分かった」

 そして刀を抜き、天を斬り上げる。闇を裂くような黒の剣閃が、上空へと放たれた。空気が震え、凄まじい圧が走る。

 だが、その一撃は虚空へと消え、何も変わらなかった。
 空気はなおも重く、沈み、死の気配は静かに、しかし確かに満ち続けていた。

 ロスティンは肩をすくめ、ジンに視線を送る。
「気にするな」とでも言いたげだったが、ジンは気にも留めず、無言のまま刀を納めた。

 その様子に、ミエラは言いようのない失望を感じた。
 ――まるで、自分だけがアイリーンの無事を本気で願っているような気がした。

 それが理不尽な感情だと分かっていても、募る苛立ちは抑えられなかった。

 その心情を読み取ったのか、ジンがぽつりと呟く。

「……セイクリッドランドがどれほどの存在か、俺は知ってる。神が治める地だ。刀のおかげで、俺は病の力にもある程度抗える。でも、結界を破ることはできても……この“地”そのものには、何もできない」

 どこか自嘲の響きを含んだ声だった。

 ミエラは、そんなジンの言葉を胸の奥で飲み込みながら、レミアの杖を見つめた。

 ――母の面影を宿した、豊潤の神レミア。

 彼女は“秩序”の神であり、混沌と相反する力
 かつて、ドルテ村において、己を救ってくれた存在でもあった。

 今、病の神アスケラが生み出した混沌のセイクリッドランドを、この杖の加護とともに――“秩序”の結界で覆えたなら。

 果たしてそれが成り立つのか。対極の力が、相殺し合うのか、ぶつかり合うのか――それすらわからない。

 だが、もう迷っている余裕はなかった。

「……お願い、レミア……」

 小さく、震える声でそう祈った。

 神と同化し、“母”として彼女に杖を託してくれた存在。
 その温もりを、いま胸の奥に思い出しながら、ミエラは静かに目を閉じ、意識を集中した。

 ――この手に託された希望を、決して無駄にはしない。

 レミアの杖が、微かに光を放ち始めていた。

 ミエラの様子を見ていたジンは、静かに言葉を漏らした。
 その瞳には、どこかためらいと、かすかな懸念が滲んでいた。

「……すでに神が治めるセイクリッドランドを、別の神の力で上書きすることはできない。ましてや、それを“神ですらない者”が、相反する力で抗おうとするなど――」

 その言葉に、ミエラは視線を外すことなく、ただ真っ直ぐに応えた。

「……わかってるよ。でも、それでも……やる前から諦めるつもりはない。
 自分で試して、確かめるまでは――絶対に」

 その声は震えておらず、むしろ誰よりも澄みきっていた。
 自分の力の限界も、神々の理も、危うさも……全てを理解した上でなお、ミエラは前へ進もうとしていた。

 ジンはその決意に言葉を返すことなく、ただ黙して彼女を見つめた。
 ロスティンも、ボルボも――誰一人、無粋な言葉を差し挟むことはなかった。

 ミエラの集中は、静かに、そして確実に広がっていく。
 その魔力はやがて、空間に染みついていた混沌と溶け合い、やがて結界そのものが“形”を変えていった。

 それは、“秩序”の力――
 母・レミアが司る、浄化と調和の加護。ミエラにとって、それはどこか懐かしく、やさしいものであった。

 幼き日にレミアと共に過ごした、あの森の匂い。光に満ち、穏やかに命が巡っていたあの空間。今、その記憶が、目の前の現実として形を持ちはじめていた。

 結界はゆっくりと広がり、区画全体を包み込む。病の力が支配する大地に、“浄きもの”の気配が押し返すように滲み出していく。

 やがて、力を使い果たしそうになったミエラがふらつくと、すぐ傍にいたボルボがその肩を支えた。

「大丈夫か? ……なんか、妙に“ここから出ろ”って言われてるような感じがするが……成功したのか?」

 息を詰めるように問いかけたボルボに、ミエラは小さく頷く。

 ロスティンは周囲の空気を感じ取りながら、渋い顔で口を開いた。

「俺はこの感じ、どうにも好きじゃねえ……言葉にはできねえけどよ。ざらつくっつーか……なんか、俺たちにゃ“合ってねえ”って感じだな」

 ジンがそれに答えた。

「……それが“秩序”の力だからだよ。神の領域に属するものは、どれも人間にとって心地よいとは限らない。だが、それでも今は、ミエラが命を懸けてここまでしてくれた。俺たちが何もしないわけにはいかない」

 その言葉に、ロスティンもボルボも、無言で頷いた。

「ボルボ、ミエラを頼む。おそらく、ゲルグたちはこの結界に気づくだろう。
 セイクリッドランドという“水”に生きる魚にとって、この秩序は毒に等しい。
 ……狙ってくる。ミエラを守れるのはお前だけだ」

「任せとけ」

 ボルボは力強く片手をあげた。ジンは頷くと、ロスティンと共に駆け出す。
 その背中に、言葉はなかった。ただ――命を賭ける覚悟だけが宿っていた。

 ミエラは二人の背を見送り、ふと、静かに杖を見つめた。神の加護を宿すレミアの杖。己の母であり、豊潤を司る神。

 本来、信仰なき者が神の力を扱えるはずなどない。
 だが、今の自分には、確かにその力が流れている。

 ――なぜ?

 自分は神を“信仰”しているわけではない。
 少なくとも、かつてのように純粋な信仰心でレミアを崇めていたわけではない。


 自分がレミアを「母」として、信じていたからか?
 それとも、神が人を選びし存在なのか――

 答えはまだ出ない。

 けれども、ミエラの中には一つだけ、確かなものが芽生えていた。

 知りたい。
 “魔法の芯”――それを知るためなら、私はこの先も進む。

 母と同化した神の力。
 自分の中で芽吹いた、信仰と疑問、そして意志。

 それを――いつか、この手で確かめるために。
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