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あなたからは、謝ってほしくなかった
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あの後、一時間目の授業は、蒼はずっとうわの空で、勉強に身が入らなかった。
ひなたはいつも側にいてくれた。
でもそれは、大切な思い出、記憶という形でーー
『迎えに行く』と言った小さな子が、『迎えに来た』と言って大きくなって現れた。
可愛らしかった女の子が、かっこいい少年として。
そのことに蒼は少し驚いたけど、ひなたはひなただ。
それに、自分だって男の子だと思われていただろうに、今はごく普通の少女に見えただろう。
小柄な身体にセミロングの髪。
ちゃんと女子の制服である白い半袖シャツにグレーのチェックのスカートをはいていて、男子に間違われることはもうない。
蒼はさっきのひなたの姿を思い出してみた。
耳に少しかかる黒髪。知性的で涼し気な目。甘いテノールの声。
見たことない知らない少年のはずなのに、昔のひなたが重なった。
蒼がひなたを見間違えるはずがなかった。
これは、きっと夢…
私にとって都合のいい夢…
私にだけ、都合のいい……
今同じ空間にひなたがいることが信じられなくて、蒼は半分以上本気でそう思っていた。
※
一時間目の授業が終わり、休み時間になった。
蒼の耳にはチャイムの音は聞こえず、何も書けなかったノートをぼんやりと見つめていた。
不意に、こんこん、と軽く机を叩かれた。見ると、ひなたがまた席の前に立っていた。
蒼はこの現実感がない状況にうまく適応出来ずに、ひなたから視線を逸らすことも出来ないでいた。
「一緒に来て」
どこか無邪気に言うひなたに、蒼は昔を思い出す。
あぁ、そうだ…
大人しいようで結構強引なとこもあって…
私の方が振り回されてたな…
ひなたのお願いに蒼は弱かった。
ひなたを悲しませたくなかったし、ひなたのお願いなんて可愛いもので我儘とさえ感じなかったからだ。
昔と同じようにひなたが手を差し出す。
さすがに昔のようにその手を取ることは出来なかった。
蒼がためらっていると、ひなたが蒼の手を取った。
そのまま、くいっ、と引っ張られ、蒼は椅子から立たされる。
「ちょっ……」
「行こう」
そう言って歩き出したひなたに手を引かれるままに、蒼は教室を出た。
※
ひなたの歩幅が大きくて、蒼は少し前のめりになりながら廊下を歩く。
ずっと夢うつつだった蒼は、必死に歩いているうちにこれは現実なんだと思うようになった。
ひなたの手から伝わってくる熱。
これが夢であるわけがない。
急に頭の一部分が変に冷静になった。
掴まれた自分の手がすっぽりと収まるほどの大きな手。見上げたところにある後頭部。頼もしい背中。この歩幅だってーー
今のひなたに昔とは違う部分を見つける度、蒼の胸が詰まった。
「ここなら大丈夫かな」
そう言うと、そっとひなたが手を離した。ひなたが振り向き、二人は向かい合わせになる。
ひなたに連れてこられたのは、校内で屋上へと続く階段のある場所だった。
「やっと二人きりで話せる」
ここに来るまで、高校生の男女が手を繋いで歩いていた形だ。
それはとても目立っていて周囲からの注目を浴びていた。
蒼はそのことに気付いてなかったが、もし気付いていたとしても蒼には大した問題じゃなかった。
「……あおちゃん」
さっきまで嬉しそうな顔をしていたひなたが、その顔を曇らせた。
瞳は不安気に揺れている。
蒼よりも遥かに高い身長になった、顔付きも随分男らしくなったひなた。
力も随分強くなった。
ひなたに手を引かれていた時のことを思い出し、蒼は自分の手をきゅっと握った。
成長したひなたの姿に、もう自分にひなたは守れないと強く思うのに、ひなたの悲しそうな表情を見ていると、何とかしなければという気持ちが湧いてくる。
「あおちゃんは…僕に会いたくなかった…?」
「どうして、そんな……」
「だってずっと、強張った顔してる」
言われてようやく自覚し、蒼は顔を俯けた。
「…びっくりしただけ……」
二人の間に沈黙が流れる。やがて、それを破ったのはひなただった。
「僕のこと、覚えててくれてありがとう。すごく嬉しい。…忘れられてたらって、少し心配だったから…」
「っ、忘れるわけなーー」
慌てて顔を上げると、微笑むひなたと目が合った。蒼は続く言葉が出て来ず、下唇を軽く噛んだ。
ひなたの眼差しに吸い込まれそうになる。
「…あおちゃんは変わらないね。あの頃と同じでーー」
ここでひなたは言葉を区切り、慎重な口振りになって続けた。
「…可愛い、って言われるのは…今も嫌?」
「…別に、そんなことは…。でも…私は自分の顔が、嫌いだし…」
そう答えた後、何かを振り払うように頭を横に一度振ってから、蒼は真面目な顔付きで言った。
「不細工じゃないとは思うけど…これと言って可愛くもないでしょ?」
ひなたがきょとんとする。それから小さく笑った。
そんなひなたとは対照的に、蒼は自分を責めていた。
ひなはずっと気にしていたのかな…
可愛いと言って私を怒らせたこと。
ひなは何も悪くなかったのに…
私はひなの心に深い傷を付けてしまったんだ…
「あおちゃんは、昔も今も可愛いよ。そっか…この言葉はもう大丈夫なんだね。…よかった…」
安心したようなひなたを見て、蒼の胸が締め付けられた。
ひなたに聞きたいことがたくさんあるはずなのに、言葉がうまく出てこない。
今の自分があまりにも情けなくて、蒼は早くこの場から立ち去りたくなった。
「ひーー」
『ひな』と呼ぼうとして、蒼は一時間前の担任の言葉を思い出した。
「有峰くん、そろそろ戻らなきゃ。授業が始まっちゃう」
「『ひな』がいい」
強い口調で、日向が言った。
「『ひな』って呼んで、あおちゃん」
昔のように向けられた笑顔に、蒼は日向と初めて出会った日と同じように動けなくなってしまった。
そして、とても悲しくなって、蒼は乾いた笑いを浮かべた。
「…ひなの言った通りだよ」
「…え…?」
「私はひなに…会いたくなかった」
空気が、張り詰めた。
日向の顔が怖くて見られない。
視線を落とし、蒼は一気に言葉を吐き出した。
「何であの約束を守ろうとしたの? ばかだよ、ひな。ほんとばか。ひなを縛るつもりなんてなかったのに。私のことなんて忘れてくれてよかったのに…!」
ひなはきっと幸せだった。
たくさんの友達や家族に愛されて、これからも幸せになっていけるはずだった。
そこには私なんて必要なくて。
これじゃあ、ひなのヒーローになるどころかーー
「私は、ひなの邪魔になんかなりたくなかった!」
「違う! あの約束は僕の方が君をーー」
「私もばかだった。約束なんてしなきゃよかった。…ごめん、ひな…ごめん…」
守りたい人にとって邪魔なヒーローなんて、なんて皮肉だ。
日向と別れ難くて。縋りたくて約束した結果がこれだ。
日向は六年前の子供の戯れのような約束に縛られて、こんな遠くまで来た。
自分は日向の幸せの障害になってしまった。
そのことが悲しかった。
約束を守ってくれた日向の優しさが、悲しすぎた。
「ごめんね……」
「あおちゃん…本当に、僕は甘かった」
日向の静かで真剣な声に、蒼は泣きそうな顔を上げた。
「何も知らなかった。ちゃんと気付けなかった」
「何…言ってーー」
「僕ばかりが守られて。僕ばかりが幸せにしてもらって。僕はあおちゃんに何も出来なかった」
蒼を見つめる日向の切なげな目は、まるで蒼の何もかもを知っているようだった。
日向には知られたくない。
誰からも愛されなかった、必要とされなかった自分のことを。
本当は弱くて、ハリボテのヒーローだったことを。
蒼の身体が小刻みに震えた。息がうまく出来なかった。
チャイムが鳴る。
二人の間にそれは空しく響き、むしろ蒼の耳にはくぐもって聞こえていた。
チャイムの余韻がなくなったのを見計らうようにして、日向が口を開いた。
「僕は…昔の僕が、許せない。…ごめんね、あおちゃん」
蒼の胸が痛んだ。
こんなに苦しく、辛い思いは久し振りだった。
やめてよ…何でそんなこと言うの…?
謝らないで。
謝ってほしくない。
あの宝物の時間を否定してほしくない。
ひなと過ごした時間は、私だって幸せだった。
「ーーっ」
ぐいと大きく歩み寄り、蒼は日向を壁際に追い詰めた。そしてそのまま壁に両手をつくと、囲った日向を上目遣いで精一杯睨んだ。
「あお、ちゃん…?」
「…ふざけるな…。ひなを悪く言うのは許さない。それが例え、ひな自身であっても」
ひなたはいつも側にいてくれた。
でもそれは、大切な思い出、記憶という形でーー
『迎えに行く』と言った小さな子が、『迎えに来た』と言って大きくなって現れた。
可愛らしかった女の子が、かっこいい少年として。
そのことに蒼は少し驚いたけど、ひなたはひなただ。
それに、自分だって男の子だと思われていただろうに、今はごく普通の少女に見えただろう。
小柄な身体にセミロングの髪。
ちゃんと女子の制服である白い半袖シャツにグレーのチェックのスカートをはいていて、男子に間違われることはもうない。
蒼はさっきのひなたの姿を思い出してみた。
耳に少しかかる黒髪。知性的で涼し気な目。甘いテノールの声。
見たことない知らない少年のはずなのに、昔のひなたが重なった。
蒼がひなたを見間違えるはずがなかった。
これは、きっと夢…
私にとって都合のいい夢…
私にだけ、都合のいい……
今同じ空間にひなたがいることが信じられなくて、蒼は半分以上本気でそう思っていた。
※
一時間目の授業が終わり、休み時間になった。
蒼の耳にはチャイムの音は聞こえず、何も書けなかったノートをぼんやりと見つめていた。
不意に、こんこん、と軽く机を叩かれた。見ると、ひなたがまた席の前に立っていた。
蒼はこの現実感がない状況にうまく適応出来ずに、ひなたから視線を逸らすことも出来ないでいた。
「一緒に来て」
どこか無邪気に言うひなたに、蒼は昔を思い出す。
あぁ、そうだ…
大人しいようで結構強引なとこもあって…
私の方が振り回されてたな…
ひなたのお願いに蒼は弱かった。
ひなたを悲しませたくなかったし、ひなたのお願いなんて可愛いもので我儘とさえ感じなかったからだ。
昔と同じようにひなたが手を差し出す。
さすがに昔のようにその手を取ることは出来なかった。
蒼がためらっていると、ひなたが蒼の手を取った。
そのまま、くいっ、と引っ張られ、蒼は椅子から立たされる。
「ちょっ……」
「行こう」
そう言って歩き出したひなたに手を引かれるままに、蒼は教室を出た。
※
ひなたの歩幅が大きくて、蒼は少し前のめりになりながら廊下を歩く。
ずっと夢うつつだった蒼は、必死に歩いているうちにこれは現実なんだと思うようになった。
ひなたの手から伝わってくる熱。
これが夢であるわけがない。
急に頭の一部分が変に冷静になった。
掴まれた自分の手がすっぽりと収まるほどの大きな手。見上げたところにある後頭部。頼もしい背中。この歩幅だってーー
今のひなたに昔とは違う部分を見つける度、蒼の胸が詰まった。
「ここなら大丈夫かな」
そう言うと、そっとひなたが手を離した。ひなたが振り向き、二人は向かい合わせになる。
ひなたに連れてこられたのは、校内で屋上へと続く階段のある場所だった。
「やっと二人きりで話せる」
ここに来るまで、高校生の男女が手を繋いで歩いていた形だ。
それはとても目立っていて周囲からの注目を浴びていた。
蒼はそのことに気付いてなかったが、もし気付いていたとしても蒼には大した問題じゃなかった。
「……あおちゃん」
さっきまで嬉しそうな顔をしていたひなたが、その顔を曇らせた。
瞳は不安気に揺れている。
蒼よりも遥かに高い身長になった、顔付きも随分男らしくなったひなた。
力も随分強くなった。
ひなたに手を引かれていた時のことを思い出し、蒼は自分の手をきゅっと握った。
成長したひなたの姿に、もう自分にひなたは守れないと強く思うのに、ひなたの悲しそうな表情を見ていると、何とかしなければという気持ちが湧いてくる。
「あおちゃんは…僕に会いたくなかった…?」
「どうして、そんな……」
「だってずっと、強張った顔してる」
言われてようやく自覚し、蒼は顔を俯けた。
「…びっくりしただけ……」
二人の間に沈黙が流れる。やがて、それを破ったのはひなただった。
「僕のこと、覚えててくれてありがとう。すごく嬉しい。…忘れられてたらって、少し心配だったから…」
「っ、忘れるわけなーー」
慌てて顔を上げると、微笑むひなたと目が合った。蒼は続く言葉が出て来ず、下唇を軽く噛んだ。
ひなたの眼差しに吸い込まれそうになる。
「…あおちゃんは変わらないね。あの頃と同じでーー」
ここでひなたは言葉を区切り、慎重な口振りになって続けた。
「…可愛い、って言われるのは…今も嫌?」
「…別に、そんなことは…。でも…私は自分の顔が、嫌いだし…」
そう答えた後、何かを振り払うように頭を横に一度振ってから、蒼は真面目な顔付きで言った。
「不細工じゃないとは思うけど…これと言って可愛くもないでしょ?」
ひなたがきょとんとする。それから小さく笑った。
そんなひなたとは対照的に、蒼は自分を責めていた。
ひなはずっと気にしていたのかな…
可愛いと言って私を怒らせたこと。
ひなは何も悪くなかったのに…
私はひなの心に深い傷を付けてしまったんだ…
「あおちゃんは、昔も今も可愛いよ。そっか…この言葉はもう大丈夫なんだね。…よかった…」
安心したようなひなたを見て、蒼の胸が締め付けられた。
ひなたに聞きたいことがたくさんあるはずなのに、言葉がうまく出てこない。
今の自分があまりにも情けなくて、蒼は早くこの場から立ち去りたくなった。
「ひーー」
『ひな』と呼ぼうとして、蒼は一時間前の担任の言葉を思い出した。
「有峰くん、そろそろ戻らなきゃ。授業が始まっちゃう」
「『ひな』がいい」
強い口調で、日向が言った。
「『ひな』って呼んで、あおちゃん」
昔のように向けられた笑顔に、蒼は日向と初めて出会った日と同じように動けなくなってしまった。
そして、とても悲しくなって、蒼は乾いた笑いを浮かべた。
「…ひなの言った通りだよ」
「…え…?」
「私はひなに…会いたくなかった」
空気が、張り詰めた。
日向の顔が怖くて見られない。
視線を落とし、蒼は一気に言葉を吐き出した。
「何であの約束を守ろうとしたの? ばかだよ、ひな。ほんとばか。ひなを縛るつもりなんてなかったのに。私のことなんて忘れてくれてよかったのに…!」
ひなはきっと幸せだった。
たくさんの友達や家族に愛されて、これからも幸せになっていけるはずだった。
そこには私なんて必要なくて。
これじゃあ、ひなのヒーローになるどころかーー
「私は、ひなの邪魔になんかなりたくなかった!」
「違う! あの約束は僕の方が君をーー」
「私もばかだった。約束なんてしなきゃよかった。…ごめん、ひな…ごめん…」
守りたい人にとって邪魔なヒーローなんて、なんて皮肉だ。
日向と別れ難くて。縋りたくて約束した結果がこれだ。
日向は六年前の子供の戯れのような約束に縛られて、こんな遠くまで来た。
自分は日向の幸せの障害になってしまった。
そのことが悲しかった。
約束を守ってくれた日向の優しさが、悲しすぎた。
「ごめんね……」
「あおちゃん…本当に、僕は甘かった」
日向の静かで真剣な声に、蒼は泣きそうな顔を上げた。
「何も知らなかった。ちゃんと気付けなかった」
「何…言ってーー」
「僕ばかりが守られて。僕ばかりが幸せにしてもらって。僕はあおちゃんに何も出来なかった」
蒼を見つめる日向の切なげな目は、まるで蒼の何もかもを知っているようだった。
日向には知られたくない。
誰からも愛されなかった、必要とされなかった自分のことを。
本当は弱くて、ハリボテのヒーローだったことを。
蒼の身体が小刻みに震えた。息がうまく出来なかった。
チャイムが鳴る。
二人の間にそれは空しく響き、むしろ蒼の耳にはくぐもって聞こえていた。
チャイムの余韻がなくなったのを見計らうようにして、日向が口を開いた。
「僕は…昔の僕が、許せない。…ごめんね、あおちゃん」
蒼の胸が痛んだ。
こんなに苦しく、辛い思いは久し振りだった。
やめてよ…何でそんなこと言うの…?
謝らないで。
謝ってほしくない。
あの宝物の時間を否定してほしくない。
ひなと過ごした時間は、私だって幸せだった。
「ーーっ」
ぐいと大きく歩み寄り、蒼は日向を壁際に追い詰めた。そしてそのまま壁に両手をつくと、囲った日向を上目遣いで精一杯睨んだ。
「あお、ちゃん…?」
「…ふざけるな…。ひなを悪く言うのは許さない。それが例え、ひな自身であっても」
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