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ノノヴィがエンプワーリの家で暮らすようになってから、三週間ほどが経とうというときに、ユージンがやってきた。あのとき、ノノヴィがエンプワーリに見出されたときに、立派な毛艶の黒馬に乗っていた警官だ。ノノヴィはユージンの職業が警官だということを思い出すと、心臓がきゅっと引き締められるような気持ちになった。
しかしユージンの訪問の理由は、ノノヴィが想像していたような――すなわち、ノノヴィがエンプワーリを欺いているということを糾弾しにきた、というわけではないらしかった。
ノノヴィがお茶を出せばユージンは礼を言い、エンプワーリはノノヴィにも席を勧めた。てっきり、ふたりで話し込むことでもあるのかと思っていたノノヴィは少しだけ驚くが、紅茶と茶菓子を持ってきたトレーを片づけて、促されるままソファに腰を下ろした。
「――被害者である君にはきちんと伝えた方がいいと思ってな」
ユージンのその言葉の始まりから、ノノヴィは孤児院での暮らしや、酒場の店主から受けた扱いについて、今ではなんだかすっかり遠い記憶になってしまっていることに気づいた。
「つらかったら私が聞いておくけれど……」
「……だいじょうぶです」
エンプワーリはあのとき、馬車の中で「落ち着いたあとからつらくなることもある」と言っていたが、ノノヴィは今のところ平気だった。そもそも己が嘘をつき、エンプワーリを欺いている事実に良心の呵責を覚え、さりとて真実を口する勇気もない状態で揺れ動き、それどころではないということもあるのかもしれなかった。
ノノヴィの答えに、ユージンはうなずいて話を続ける。かたわらのエンプワーリは心配そうな顔をしたが、ノノヴィは院長たちの処遇についてはできれば聞いておきたいと思った。
「――裁判はまだだが、厳罰に処されるだろう。街ぐるみでの行いでもある。かなり悪質とみなされているし、軽い刑罰では世論が許さないだろう。それに近ごろは児童の虐待や、その労働力の搾取については社会問題として新聞で扱われることも多い。あの院長たちの一件に厳しい判断が下されるのは避けられないだろうな」
ノノヴィには「厳罰」がどのていどの刑について指しているのかはわからなかったが、しかし深く聞く気にもなれなかった。もしかしたら院長たちは生活の厳しい遠い島に流されたり、あるいは最悪、首をくくるはめになるのかもしれないが、ノノヴィにはどうでもいいトピックに聞こえた。
「そうですか……」
それが声にも表れたからか、あるいはノノヴィの精神衛生上この話題はよろしくないと判断したのか、ユージンは居住まいを正してノノヴィを見た。
「それで、話は変わるが、この家にきてからの生活はどうだ? 困っていることはないか?」
ユージンは正義感を持ち合わせているだけではなく、根っからの世話焼きなのかもしれないとノノヴィは思った。
「なにか不足があれば遠慮なく言っていいんだよ?」
エンプワーリも、一貫してノノヴィに対しては穏やかに接し、優しい態度を崩さない。
ノノヴィがいつまで経っても、前世の記憶を思い出さなくても、その態度は変わらない。
ふたりとも、善人なのだろう。……ノノヴィと違って。
「お前は前世の記憶がどうと言って、彼女に無茶振りをしていないだろうな?」
「そんなことはしてないよ! 前世の記憶が戻らなくても、ノノヴィはノノヴィなんだから。そばにいてくれるだけでいいって言うか……」
「のろけは聞かんぞ」
「少しは聞いてくれても良くない? 幸せのおすそわけだよ。それにノノヴィは少しずつ記憶が戻ってきているみたいなんだ」
「……そうなのか?」
ユージンはエンプワーリの発言を聞いて、びっくりしたようにわずかに目を見開き、ノノヴィに問いかける。
ノノヴィはどう答えるべきか迷い、一拍間を置いてから唇を開いた。
「……わかりません」
「ノノヴィには自覚はないかもしれないけど、でも私からすると徐々に戻ってきているように思うんだ」
ユージンは、エンプワーリの言葉を少しは妄言だとでも思っているのか、戸惑った様子でノノヴィとエンプワーリとのあいだで視線をさまよわせた。
エンプワーリのそれは単なる思い込みで、ノノヴィを詐欺師と切って捨てるのは簡単だ。けれどもそれをしないのは、ユージンが思慮深いだけではなく、優しいからなのだろう。彼は、友達思いなのだ。エンプワーリをいたづらに傷つける結果を避けているがために、ノノヴィが詐欺師だという可能性について、彼は真っ向から言及できないのだ。
一方エンプワーリは舞い上がっているのか、ユージンのそんな戸惑いには気づいていないか、あるいは気にしていない様子だった。
「だって前世と嗜好も同じで彼女はクランベリーやクルミが好きで、甘いものも好きなんだ! それに彼女は『花の声』が聞こえる。魔法をかけたときはもしかしたら普通の人間や、石の一族に生まれ変わるかもと思っていたけれど、同じなんだね。それからこのあいだ、私が次に言いたいことを当てたんだよ! なんていうか……ちゃんとノノヴィが帰ってきたんだなって思えて、私はとても幸せなんだ」
エンプワーリは心底幸せそうに微笑んで言う。
ノノヴィには短い時間の中でも見えたユージンの人柄から、彼がエンプワーリの「幸せ」を、その手で壊すことができないことを確信した。
そうして実際、ユージンはエンプワーリに、ノノヴィが詐欺師の可能性があるとか、単なる勘違いの思い込みであるという懸念は、遠まわしに指摘することすらしなかった。
ノノヴィはそんなユージンの言動に対し、安堵を覚えると同時に、なにもかもをつまびらかにして壊して欲しいと、身勝手にも思ってしまった。
ノノヴィが、エンプワーリの愛したひと「ノノヴィ」と嗜好が同じであるのは事実だ。同じく「花の声」を聞けることも事実だ。そしてついこのあいだ、エンプワーリが言いたいことを先んじて当ててしまったことも事実だ。なんとなく、エンプワーリの言いたいことがわかって、口に出してしまったのだが、今この場を見てわかる通り彼は大いに喜んだ。
上手くことが運びすぎている、とノノヴィは感じた。
エンプワーリを騙したいノノヴィに、なにもかも都合よく運命が回っている気がした。
ノノヴィは「ノノヴィ」ではないのに、勝手に整合性が取られていくような……。
なんだか、ノノヴィは自分が自分ではなくなっていくような気がして、怖くなった。
しかしユージンの訪問の理由は、ノノヴィが想像していたような――すなわち、ノノヴィがエンプワーリを欺いているということを糾弾しにきた、というわけではないらしかった。
ノノヴィがお茶を出せばユージンは礼を言い、エンプワーリはノノヴィにも席を勧めた。てっきり、ふたりで話し込むことでもあるのかと思っていたノノヴィは少しだけ驚くが、紅茶と茶菓子を持ってきたトレーを片づけて、促されるままソファに腰を下ろした。
「――被害者である君にはきちんと伝えた方がいいと思ってな」
ユージンのその言葉の始まりから、ノノヴィは孤児院での暮らしや、酒場の店主から受けた扱いについて、今ではなんだかすっかり遠い記憶になってしまっていることに気づいた。
「つらかったら私が聞いておくけれど……」
「……だいじょうぶです」
エンプワーリはあのとき、馬車の中で「落ち着いたあとからつらくなることもある」と言っていたが、ノノヴィは今のところ平気だった。そもそも己が嘘をつき、エンプワーリを欺いている事実に良心の呵責を覚え、さりとて真実を口する勇気もない状態で揺れ動き、それどころではないということもあるのかもしれなかった。
ノノヴィの答えに、ユージンはうなずいて話を続ける。かたわらのエンプワーリは心配そうな顔をしたが、ノノヴィは院長たちの処遇についてはできれば聞いておきたいと思った。
「――裁判はまだだが、厳罰に処されるだろう。街ぐるみでの行いでもある。かなり悪質とみなされているし、軽い刑罰では世論が許さないだろう。それに近ごろは児童の虐待や、その労働力の搾取については社会問題として新聞で扱われることも多い。あの院長たちの一件に厳しい判断が下されるのは避けられないだろうな」
ノノヴィには「厳罰」がどのていどの刑について指しているのかはわからなかったが、しかし深く聞く気にもなれなかった。もしかしたら院長たちは生活の厳しい遠い島に流されたり、あるいは最悪、首をくくるはめになるのかもしれないが、ノノヴィにはどうでもいいトピックに聞こえた。
「そうですか……」
それが声にも表れたからか、あるいはノノヴィの精神衛生上この話題はよろしくないと判断したのか、ユージンは居住まいを正してノノヴィを見た。
「それで、話は変わるが、この家にきてからの生活はどうだ? 困っていることはないか?」
ユージンは正義感を持ち合わせているだけではなく、根っからの世話焼きなのかもしれないとノノヴィは思った。
「なにか不足があれば遠慮なく言っていいんだよ?」
エンプワーリも、一貫してノノヴィに対しては穏やかに接し、優しい態度を崩さない。
ノノヴィがいつまで経っても、前世の記憶を思い出さなくても、その態度は変わらない。
ふたりとも、善人なのだろう。……ノノヴィと違って。
「お前は前世の記憶がどうと言って、彼女に無茶振りをしていないだろうな?」
「そんなことはしてないよ! 前世の記憶が戻らなくても、ノノヴィはノノヴィなんだから。そばにいてくれるだけでいいって言うか……」
「のろけは聞かんぞ」
「少しは聞いてくれても良くない? 幸せのおすそわけだよ。それにノノヴィは少しずつ記憶が戻ってきているみたいなんだ」
「……そうなのか?」
ユージンはエンプワーリの発言を聞いて、びっくりしたようにわずかに目を見開き、ノノヴィに問いかける。
ノノヴィはどう答えるべきか迷い、一拍間を置いてから唇を開いた。
「……わかりません」
「ノノヴィには自覚はないかもしれないけど、でも私からすると徐々に戻ってきているように思うんだ」
ユージンは、エンプワーリの言葉を少しは妄言だとでも思っているのか、戸惑った様子でノノヴィとエンプワーリとのあいだで視線をさまよわせた。
エンプワーリのそれは単なる思い込みで、ノノヴィを詐欺師と切って捨てるのは簡単だ。けれどもそれをしないのは、ユージンが思慮深いだけではなく、優しいからなのだろう。彼は、友達思いなのだ。エンプワーリをいたづらに傷つける結果を避けているがために、ノノヴィが詐欺師だという可能性について、彼は真っ向から言及できないのだ。
一方エンプワーリは舞い上がっているのか、ユージンのそんな戸惑いには気づいていないか、あるいは気にしていない様子だった。
「だって前世と嗜好も同じで彼女はクランベリーやクルミが好きで、甘いものも好きなんだ! それに彼女は『花の声』が聞こえる。魔法をかけたときはもしかしたら普通の人間や、石の一族に生まれ変わるかもと思っていたけれど、同じなんだね。それからこのあいだ、私が次に言いたいことを当てたんだよ! なんていうか……ちゃんとノノヴィが帰ってきたんだなって思えて、私はとても幸せなんだ」
エンプワーリは心底幸せそうに微笑んで言う。
ノノヴィには短い時間の中でも見えたユージンの人柄から、彼がエンプワーリの「幸せ」を、その手で壊すことができないことを確信した。
そうして実際、ユージンはエンプワーリに、ノノヴィが詐欺師の可能性があるとか、単なる勘違いの思い込みであるという懸念は、遠まわしに指摘することすらしなかった。
ノノヴィはそんなユージンの言動に対し、安堵を覚えると同時に、なにもかもをつまびらかにして壊して欲しいと、身勝手にも思ってしまった。
ノノヴィが、エンプワーリの愛したひと「ノノヴィ」と嗜好が同じであるのは事実だ。同じく「花の声」を聞けることも事実だ。そしてついこのあいだ、エンプワーリが言いたいことを先んじて当ててしまったことも事実だ。なんとなく、エンプワーリの言いたいことがわかって、口に出してしまったのだが、今この場を見てわかる通り彼は大いに喜んだ。
上手くことが運びすぎている、とノノヴィは感じた。
エンプワーリを騙したいノノヴィに、なにもかも都合よく運命が回っている気がした。
ノノヴィは「ノノヴィ」ではないのに、勝手に整合性が取られていくような……。
なんだか、ノノヴィは自分が自分ではなくなっていくような気がして、怖くなった。
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