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 このころに、ハルはユーリから「ハロルド」ではなく「ハル」と呼ばれるようになった。ユーリが自主的にそうしたわけではなく、ハルがそう呼べと言ったからだ。ユーリに初めて「ハル」と呼ばれたとき、ハルはなんだか胸を掻きむしりたい気持ちに駆られた。

 ハルとユーリは結婚はしたが、挙式などはしなかった。学生で、ふたりとも経済的に余裕があるわけではなかったし、あったとしても将来のために使おうと話し合って決めたからだ。

 それでもゾーイーに金を借りて指輪だけは買った。ユーリが結婚指輪をしていなければ、ほかの男たちに牽制するのが難しいからだった。

 あのあと、ユーリが望んだのでハルは彼女をゾーイーの屋敷に連れて行った。ゾーイーはユーリを気に入ったらしく、先に話した結婚指輪を買うための代金も快く貸してくれた。

 始めは「全額出してやる」とゾーイーは言っていたものの、ユーリとハルが固辞したので借金と言う形になったわけである。しかしハルはともかく、このときのユーリには働き口のアテがなかったので、ゾーイーの屋敷からの帰り道、謝られてしまったが。

「……そんなこと気にしてんじゃねえよ」

 ハルは自分がユーリより年下で、まだまだ子供であることを実感し、歯がゆく思った。早く大人になりたいと思った。学園を卒業して、仕事を持って、ユーリが先行きを不安に思わないような、不自由のない生活をあげたいと思った。

 けれどもハルはまだ一四歳。学園を卒業するまでにはまだまだ時間がある。いい就職先を見つけるためには、今以上に勉学に励まなければなるまい。

 しかし、ハルには卒業するまでにひとつやりたいことがあったので、今までやってこなかったアルバイトを始めた。そうしてある程度、金が貯まったあと、ハルはユーリに言った。

「写真、撮ろうぜ」
「写真? なんの?」
「あー……ウェディングフォトってやつ? 式とか挙げなかったから、代わりってわけじゃねえけど……」

 ハルは、ふたりだけの写真が欲しいと思った。ユーリとふたりで写っているのであれば、実のところどんな写真でもよかったが、ウェディングフォトを撮りたいと言えば不審がられないかと思っての、方便だった。

 ユーリは、特に華やかな結婚式だとか、ウェディングドレスだとかにあこがれはないらしい。だから、ユーリにウェディングフォトを撮りたいと持ちかけて、彼女がどういう反応をするのか、ハルには読めなかった。

「いいね。いい思い出になるし、ハルとの写真なら部屋に飾っておきたいな」

 だから、ユーリからそういう答えが返ってきて、ハルはひとりほっと胸を撫で下ろした。


 写真の中で微笑むユーリは、美しい。動いてしゃべる本物のほうが何倍もいいのは当たり前だが、写真はいつでも見返せるし、その中ではユーリは永遠に微笑んでいる。ハルの隣で。ハルとふたりきりの写真の中で。

 ユーリとたったふたりきりの写真は、ハルの宝物だ。……気恥ずかしいから、そんな思いは胸にしまって、これまでにだれかに言ったことはない。

 たったふたりきり、という状況が永遠に続くはずもなく、続けられるはずもなく――今ではユーリには、ハルを含めて四人の夫がいる。ゾーイーが七人の夫を持っていて、それが特に珍しくもないことを考えると、ユーリの夫の人数は控えめなほうだった。

 それでもこの世界にきてから四年くらいで四人の夫を持ったのは、ペースとしては早いほうだろう。これはユーリが多情だと言うよりは、情に厚いせいであった。

 ユーリの、驕ったところのない優しさや素直さに惹かれる男は多い。そしてその無垢なそれらを守ってやりたいという男も。

 ちやほやされて当たり前。尽くしてくれて当たり前。そういう女に嫌気が差す男は珍しくなかったし、そういう女によって心に傷を抱えることになった男も少なくない。かつてのハルも、似たようなものだった。

 ユーリと夫たちの関係は、恋人同士のような情熱的なものとは少し違う。互いを尊重し合う、穏やかな家族の関係を築いていた。着飾った余所行きのものではなく、自然体のもの。

 ……とは言えど、男である以上、惚れた女には見栄を張りたくなるもので、夫たちはユーリには格好良く思われたいという気持ちを心中に抱いてはいるが。

 けれども、たとえ格好悪いところを見せたって、ユーリが幻滅しないこともまた、わかっていた。そういう信頼関係が、短いながらにも出来上がっていた。

 その信頼関係は、ユーリの姿勢にも由来している。ユーリは、夫たちに優劣はつけない。出来る限り平等に接するよう心がけていることは、日々の態度からよく伝わってくる。

 夫に優劣をつける妻もいるにはいる。けれどもそうすれば、夫たちのあいだの空気はどうしたって悪くなる。足を引っ張り合ったり、陰口を叩いたり、妻に他の夫の悪口を吹き込んだり……。ハルは、そういう人間を知っているから、ユーリが夫たちに優劣はつけないと宣言したときに、安堵した。

 そしてユーリは今のところ、それを有言実行している。だから夫たちはユーリに信頼を寄せているし、家庭内は穏やかで、温かな居場所となっているのだ。

 ハルは、そのことになにひとつ不満はない。……つもりだった。

「――ハルさん! ねえ、ハルさん!」

 背中に男の声がぶつかった。学園廊下の高い天井を見ながらぼんやりと物思いに耽っていたハルは、その声で現実に引き戻される。

「――あ? ……んだよ、アンジュか」

 振り返れば、腕を組んで仁王立ちをしたアンジュがいた。

 アンジュは、ハルのひとつ下の一七歳で、ユーリの三番目の夫だ。ハルとアンジュは、正直に言ってソリの合わないところもあるが、かと言ってふたりとも、互いのことを毛嫌いしているわけでもなかった。

「なんだとはなんですか。ひとが声をかけているのに無視して――」
「……悪かったな。気がつかなかったんだよ」

 ハルは、アンジュのことをクソ真面目で融通の利かない、いけ好かないやつだと思っている。だから言い返すのはやめて、素直に謝った。アンジュは、ユーリの夫であり、ハルからすれば妻を同じくする夫同士、家族であるのだ。無用な波風は立てても、いいことはない。

 アンジュはそれで気が済んだのか、話を切り替える。

「あなたも考え事ですか?」
「あん?」
「……『解禁日』について考えていたのではないのですか?」
「……ああ」

 アンジュの言う「解禁日」がなにを指しているのかは、ハルにはすぐにわかった。というか、アンジュがここで「解禁日」と口に出したら、それが指すものはひとつだけだ。

 「子作り解禁日」。来月、二〇歳の誕生日をユーリが迎えれば、それはくる。
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