水の兎

木佐優士

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遭遇

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「あいつどこ行った!」
 二人組のいかめしい表情の男たちが慌てた様子で走っていた。二人は丁字路で左右に散っていく。
 ひやりと背中に冷たい汗が流れる。あんな人たちに関わっていたら塗料を買いに行くどころの騒ぎじゃない。ふう、と一息ついたらとつぜん声がかかった。
「おまえ」
 驚いて声の方に振り向く。どこからともなく見覚えのある男が出てきた。ゲーセンの前で岩本さんに絡んでいた男だ。鼓動が鳴る。いったいなんで。
「おまえ、このまえの店員だよな」
「は、はい」
 声が震えてしまう。男はじっとこちらを見てくる。視線が痛い。でも、声をひそめているのはなぜだろう。
「怪しい男はいなかったか」
 目の前にいます、とは絶対に言えない。
「いまさっき誰かを探している二人組を見ました」
「そいつらだ」
 男は間違いないと言う。
「追われてるんだ」
「え」
「ちょっとやっちまってな」
 まあよくあることだ、と男は言う。たしかに先日の荒い言動から面倒なことに巻き込まれそうだというのは想像できる。
 なにも言えずに立っていると男が、行くぞと言った。
 どこに、どうして。疑問の顔を男に向ける。
「ここに突っ立てるわけにはいかねえ。周囲を注意しながら進んでくれ」
「いや、あの」
「行くぞ」
 選択肢のない道を僕は歩き出す。巻き込まれる。僕の頭に暗雲が立ち込める気がした。
 僕は男の前に立って歩いている。注意してろよ、と再三言われながら。
 見えない男たちの姿も怖く、後ろの男の威圧感も心地悪く、最悪な状況に板挟みされている気分だ。
 僕がオセロの白に生まれたのだとしたら、板挟みしている男たちは黒だ。いやでも僕は黒のほうにひっくり返されている。
 交差点などに差しかかるとき、死角から二人組が飛び出てくるんじゃないかと考えるたびに心臓のほうが飛び出そうになる。
 次は右だ、まだまっすぐだ、男の指示にびくびくしながら進んでいく。
 そんな僕の気持ちなんて知らずに男は僕に話しかけてきた。
「おまえ、名前は。聞いてなかったな」
「神田――咲馬です」
 周囲を警戒しながら伝える。
「ふだんはなんて呼ばれてる」
「神田くんとか咲馬さんとか……」
「そんなの当たり前だろ」
 面白くねえな、と男はつぶやく。面白いもなにも、そう呼ばれていることは事実なのだからしかたない。
 これは男に伝えるのもどうかと思いながら毎日聞いている母さんの声を思い出す。
「あとはサクって……」
「サクか。じゃ、そう呼ばせてもらうからな」
「は?」
 思わず足を止めてつぶやいた。言った瞬間、しまったと思った。
「は、じゃねえよ」
「ど、どうぞ」
 僕は頭をせわしなく上下させる。
「好きに呼んでください」
「オレは駿河するがだいだ。適当に呼んでくれ」
「なんて呼ばてるんですか」
「きくんじゃねえよ」
 なんて理不尽な。「だいちゃん」と言われたことがあるんだろうなと思いながら口にはできないとも考える。間違ってもそんな呼び方をしたら恐怖だ。
「駿河さんで……」
「まんまじゃねえか」
 男は口をとがらせた。
「面白くねえけど、まあいいや」
「ちなみに……」
「あ?」
「年齢はおいくつなんですか?」
「十九だ。だからなんだ」
「いえ、なんでもないです……」
 ちらりとこちらを見た男――駿河さんの視線に合わせないように、前方の様子をうかがいながら進行していく。
 十九……。年上だとばかり思っていた。
「水兎ちゃんと同い年なんですね」
 全然そうは見えない。もちろん言わないでおく。
「そうだ。年が同じってだけで水兎さんはいろいろと話しかけてくれるんだ。こんなオレに」
 その声に温もりを感じた。この人の声に? そんなことはないよなと思いながらもなぜだかそう感じた。
「なんか、さっきふと思ったが」
 話題を変えたいのか、駿河さんは言った。
「サクって呼び方、ザクみたいだよな。ガンダムの」
 ジオン公国軍の人型機動兵器が頭に浮かぶ。条件反射だ。
 予想外の人からガンダム関連の言葉が出てきて、時間差で驚いている。
「ガンダム、お好きなんですか?」
「水兎さんが面白いって言うから見始めたんだ。『機動戦士ガンダム』を」
「へえ、水兎ちゃんが」
「ゲーセンの店員にすすめられたって言ってたな」
 もしかして、と駿河さんは言った。
「その店員って――」
 覚えていないけど、ゲーセンで水兎にガンダムの話をしたのかもしれない。該当するのは間違いなく僕しかいない。
「たぶん、僕のことだと思います」
「なんだ、そうだったのか。水兎さんが楽しそうに話すから。そうか、サクのことか」
 駿河さんは、にやりと口もとをゆるめた。表情の意図がわからないまま僕は指示されるほうへと進んでいく。
「巻いたかもな」
 しばらく複雑に道を歩いてきた末に駿河さんは言った。その一言に、ようやく解放されると安心する。
「じゃあもう大丈夫ですね」
 そう伝えて去ろうとしたとき、ちょっと待て、と駿河さんは言った。
「ここまで連れてきてもらったんだ。兄貴でも紹介させてくれ」
 兄貴も気に入ってくれるだろう。そう言った。
 兄貴ってなんだ。気に入るってなんだ。それよりも立ち去りたい。
「事務所がそこにある。上がろう」
 雑居ビルのなかに階段が見える。僕の返答も待たずに駿河さんは行ってしまう。思考を停止させたい。そんなことを考える。重い足をなんとか動かした。
 階段を一段上るたび、さらに重みを感じた。駿河さんはすたすたと上っていく。
「ここだ」
 駿河さんがドアの前に立って言った。
 表札には「和泉オフィス」と書かれている。なんのオフィスかさっぱりわからない。
 駿河さんはためらいなくドアを開けた。
 ドアの向こうにオフィスデスクが見える。駿河さんは一人で奥まで入っていった。
 僕はドアが閉まるのを聞きながら玄関で待つ。
「ただいま戻りました」
 今までに聞いたことのない礼儀正しい声で駿河さんはあいさつをする。
「なにもなかったか」
 びりっとしびれるような勇ましい声がした。
 ここから姿は見えない。駿河さんはその人に向かって話しているようだ。
「また難癖つけてきましたが巻いてきました。その手伝いをしてくれた人をこちらにお連れしました」
「なんだ、お客人か」
「まあ、そのようなところです」
 サク、ちょっと。呼ばれた僕はおぼつかない足取りで向かった。
 姿の見えなかった声の主がデスクの前で座っていた。鋭い眼光が僕をとらえている。
 でもその顔はどこか青年の面影がある。
 声の感じからもっといかめしい人だと思っていただけに、その整った顔立ちは意外だった。
「サク、ごあいさつを」
 駿河さんにうながされ、落ち着きなく名前を告げた。
「ようこそ。龍崎りゅうざき今弥こんやです」
 間近で聞くとさらに声に厚みを感じる。眼光は変わらず僕を射抜いている。
 駿河さんが兄貴と言っていたことを思い出した。敬語を使っているのも妙だ。兄貴分ということなのか。
「サクは水兎さんがよく行っているゲーセンの店員です」
「そうか――」
 龍崎さんと呼ばれた男性はつぶやいた。
「水兎さんの件でこいつが迷惑をかけたみたいで」
「え、いやそんな」
「水兎さんからなんとなく話を聞いてはいましたが、そうですか、あなたのことですか」
「はあ……」
「気がきかなくてすみません。どうぞそちらへ腰かけてください」
 言われるがまま、僕は椅子に座る。
「ここまで連れてきてもらったみたいで」
 龍崎さんは視線をちらりと駿河さんへ向けた。
「感謝します」
「サクと気が合っちゃって、な」
 立ったままの駿河さんが僕の肩をポンポンと叩く。
「ダイ」
 静かでも深みのある声で龍崎さんが言う。
「軽々しい口のきき方をするんじゃない」
「……はい。すんません」
「お見苦しいところをお見せしました」
 龍崎さんが僕に言った。
「私自身は秋葉原の界わいでバーや飲食店をいくつか経営しています。ここのオフィスはその事務所です」
「水兎――さんはそちらの店員をされているんですか?」
「お手伝いをしてくれることはあります」
「ああ、そうなんですね」
「神田さん」
「はい?」
「今度よかったらうちのバーにでも遊びに来てください」
「バーに……」
「明日の夜にでもよかったらいかがですか」
「あまりお酒は強くないのですが……」
「もちろん無理に飲まなくても大丈夫です」
「えーと、それでしたら……おじゃまさせていただきます」
 バーなんて縁遠いと思っていた場所だ。相変わらず断りづらくてうなずいてしまった。せっかく誘ってくれたのだからと自分を納得させる。
「店はここから五分ほどのところにあります」
 龍崎さんは場所と店名を教えてくれる。
 また明日の十九時にお待ちしています、と見送られて僕は事務所を出た。
 夕焼けの帰り道を歩く。
 地面の人影は黒く伸び、僕の体は赤く染まっている。塗料で塗ったみたいだ。
 そんなことを考えて、今日は塗料を買いに出たはずだったことに気づく。
 足もとに視線が落ちた。なにやってんだろ。影の人型は僕の重たい歩幅に合わせてゆっくりと動く。
 ため息はきっとこの影みたいな色をしているのだろう。
 歩道に落ちている生ごみをカラスがあさっていた。僕のため息もつついてくれたらいいのに。
 僕の気持ちを無視するように、カラスは甲高く鳴きながらあかね色の空へ羽音を立てて飛んでいく。
 黒い羽は電線に降り立ち、こちらを見下ろした。
 僕は地面に目を向けて歩き続ける。
 黒い影はずっと僕から離れない。

 真夏に差しかかってきた陽射しの朝、少し汗ばみながら歩みを進める。
「あ、ノラ」
 似たような猫かと思ったけど間違いない。ノラだ。こんなところも歩いているんだ。なんて気ままな猫だろう。猫というものはそもそも気ままなのかもしれないけれど。僕もなにも気にせずにこんな風に生きてみたい。
 昨日一日のことを思い返して歩いていく。
 今までの日常にないことばかりだったせいか現実感があまりない。
 家からそれほど離れていない場所で、これまでに出会ったことのない世界が広がっていた。僕のなかでは常にどこかへ誘導されているような気がしてならない。
 昨日も気がついたら知らないところで、知らない人たちと、初めて知る世界の話をした。オフィスでも歓迎されたはずなのに、出るときにはやたらと疲れていた。
 どこか違和感があったからだろう。僕はここにいるべきじゃない、そう心が発しているような気がして。
 それなのに、親切に話してくれるからよけいにとまどいを覚える。
 今夜のことが頭をよぎった。
 ノラは今日もどこかへ出かけて、なにかを調達してくるのだろうか。
 ノラは本当に変わっている。何年かまえの夏、小さな風鈴をくわえてやってきた。母さんは、「あら、風流ね」なんて喜んでいた。そろそろ縁側で鳴り始めるころだろう。父さんも気に入って毎年吊り下げている。
 わが家で季節を彩るものは、たいていノラが持ち込んできたものだ。ノラの奇妙な行動は、たびたび見る風物詩のようなできごととして僕たち家族のなかでは定着している。
 全身毛に覆われているのに、涼しそうな足取りでノラは住宅の隙間に入り込んでいった。
 ――またあとでね。
 僕は小さくなっていくノラの後ろ姿に手を振った。
 塗料を売っている店のある繁華街の方面に行きたいけれど、今日はバイトがある。どちらにしても時間的にまだ店は開いていない。また今度にしよう。僕は歩き慣れた道を進む。

「おはようございます」
 僕はいつもより早くバイト先に着いた。店長しかいない。勤務まえにしている音楽ゲームで遊び終えたのだろう。着替えをすでに済ませていた。
「あ、昨日、おじゃまさせてもらいました」
「聞いたよ」
 いつもの調子で店長は言う。僕が行ったということだけ聞いたのか、会話の内容なんかも聞いたのか、そのあたりはさっぱりわからない。奥さんのことだから、いろいろと話したのかもしれない。
「岩本さんも同居されてるんですね」
「最近、家のなかでよくしゃべるようになったんだよ。ここで出会ったアイドルの子の話をよくしているね」
 店長はちょっとやわらかい表情になった。店長こそ珍しく会話をしてくれる。今だけかもしれないけれど。
「水兎ちゃんですね」
 店長は名前に聞き覚えがあるという様子でうなずいた。
「神田くんのことも話していたよ」
「僕の、ですか?」
 意外な言葉だ。岩本さんの口から僕の名前が出るなんて思ってもいなかった。
「その水兎ちゃんが信頼している人だからきっと信頼できる、とね」
「しんらい……」
 誰からも言われたことのない四文字が染み渡っていく。たばこの臭いが少しだけ薄まった気がした。
 なにを口にしたらいいのかわからなくて、逃げるように更衣室に入る。
 昨日会った岩本さんの顔を浮かべながら制服に着替えた。
 今日も来るのだろうか。その岩本さんに絡んだ駿河さんとも昨日のうちに出会っていたのだとあらためて考える。
 店長にも岩本さんにも和泉オフィスに行ったことは話せそうもない。水兎になら伝えてもいいだろうか。どちらにしても龍崎さんの口から伝えられるのだろうから。
 着替えを終えると、小川さん、美倉が順番に入ってきた。
 今日もいつもの顔ぶれ、いつも通りの一日が始まる。――夜を除けば。
「今日マリリンのライブに行くけど一緒に行くか?」
 勤務中、カウンター内で美倉が誘ってきた。
「ちょっと遠慮しておく」
「ミトちゃん一筋ってか? まあそれもいいよな」
「いや、まあそういうことにしておいて」
 バーに行く、それも水兎が手伝いに行くことのあるバーに、なんて言わないほうがいいと思った。本当は美倉にもついてきてほしいけれど。
「なにか言えないことでもあるのか?」
 妙に鋭い。なんて答えたらいいのかわからずに口ごもる。
「なんか」
 と美倉は言った。
「ふだんだったら断る理由を言うよな。ガンプラのことばかりだけど。あいまいな返事は聞いたことがない」
「そう……かな?」
 そんなことは僕自身も気づかなかった。美倉は意外なところによく気づく。
「まあ、気のせいならいいんだけどな。俺の記憶なんてあてにならないし」
 そう言うと美倉は、なにごともなかったかのようにマリリンについて話し始めた。

 結局一日ごまかしてバイトを終えた。龍崎さんから言われた十九時までは時間が若干ある。今度こそ塗料を買いに行ける。バーからもわりと近い。繁華街の方面へ足を向けた。
 塗料を買って店を出る。思ったよりも収穫があった。ガンダムラビルス、白と黒。きっと新しい領域を開拓できる。撮影にも熱が入りそうだ。
 夕暮れの空が徐々に影を落とし始めていた。赤から紺へのグラデーションが見える。僕は裏道を通ることにした。そのほうがバーまで早い。以前に塗料を買い求めてうろうろとさまよったことがあって、このあたりの地理はなんとなく頭に入っている。
 一本通りが違うだけで人の通りが大きく変わる。スナックの看板に電気がついているのを横目に通りを歩く。
「その子を離せよ!」
 声が聞こえた。角を曲がったあたりから聞こえる。ちょうど順路の先だった。
 角からそっと顔を覗かせると、駿河さんがいた。声の主は彼だった。
 頭に兎の耳を着けた若い女性を柄の悪い男が引っ張りあげている。女性はうつろな目をしていて、顔色も表情も思わしくない。明らかに男の扱いは乱暴すぎる。水色の制服が破れてしまいそうなほどの勢いだ。
 男の後ろにはガールズバーの店名が見えた。そこで働いている子かもしれない。駿河さんはその子をまもろうとしているらしい。
 男も駿河さんの手を振りほどき、大声で怒鳴り散らす。
「うちの子だ。手を出すな!」
 僕はさっと身を隠し、呼吸を整える。どうしたらいい。どうすれば。
 混乱する頭を無理やり回転させてスマートフォンを取り出す。
 一一〇を押した。警察の男性が電話に応じる。
 僕は事件だと思われる事態が目の前で繰り広げられていることを告げた。若い女性の様子も不自然だと。
 警察の男性は、僕の身の安全を確保するよう言った。ただちに向かうと言う。
 その間にも駿河さんと男の争いは続いていた。
 僕はやりとりの声だけを聞きながら警察が到着することを祈る。やたらと長く感じた。
 ――カッ。
 鈍い音がした。おそるおそる覗くと、駿河さんがお腹を抱えてうずくまっている。
 男は駿河さんを見下ろしていた。女性はぐったりと道で伏している。兎の耳当ては女性の頭の前に転がっていた。
 もうダメだ。目をそらしかけたとき、パトカーのサイレンがこだました。
 男はチッと舌打ちをする。
 女性を引きずりながら店へと向かおうとしたところで、駿河さんが這いつくばりながら男の足をとらえた。行かせない。駿河さんはたしかにそう言った。
 警察官数名が到着した。
 男は間もなく包囲され、手錠をかけられた。警官の一名が救急車を呼ぶ。
 僕は思い切って駿河さんのもとへ駆け寄った。
「君、近づくんじゃない」
 警官が僕に言った。肩で息をしている駿河さんもこちらを見上げた。
「通報したのは僕なんです」
「ああ、そうでしたか。ご協力ありがとうございました」
 新たなサイレンの音が聞こえる。警官の何名かは店内に入っていく。
 僕は腰を落として駿河さんに話しかける。
「大丈夫ですか」
「はは、なんでもねえよこれくらい」
 まだ片手をお腹に当てていた。
「あの子が無事ならそれでいい」
「あの女性とはどういう――」
「笑うなよ?」
「笑いません。絶対に」
「一目惚れしたんだよ。店の前で呼び込みをしているときにな」
 なんだか意外な一面を見て、僕は思わず口もとがゆるんだ。
「だから笑うなって」
「そういうことじゃありません」
「まあ、いい。オレもよくここを通るようになって、そのたびに話してたんだ」
 だが、と駿河さんは言った。
「ある日から様子が変になった。目の焦点が合ってないんだ。これはヤクだと思った」
 直感だけどな、と駿河さんは言った。
「まだそこまで状態が落ちていないようだから今のうちに救わないといけないと思ったんだ」
 女性の異変はそのせいだったのか。視線のうつろいも違和感があった。
「薬漬けにして店の道具にでもしようとしたんだろ。最低な野郎だ」
 吐き捨てるように駿河さんは言った。
ブツ出てきました!」
 警官の一人が店から出てきて言った。押収した麻薬のことだろう。この町にそんなものがあるなんて想像もしていなかった。よく使っている道でこんな世界が繰り広げられていたなんて。ぶるっと体が震えた。
「また巻き込んじまってわりぃな」
「駿河さんが無事ならそれでいいです。気にしないでください」
「オレの真似すんじゃねえよ」
 本当によかった。ほっとしてまた口もとがゆるむ。駿河さんも同じ表情をした。
 そばで僕たちの話を聞いていた警官も、ご無事でなによりです、と言った。事情は今度あらためて聞くらしい。駿河さんはどこか渋った表情をしながら連絡先を教えていた。
「バー行くんだろ?」
 警官とのやりとりを終えた駿河さんの一言で思い出した。もう時刻はすぎている。
 しまった、という顔をしていると、大丈夫だと駿河さんが言った。
「オレもこれから行って事情を話すから。問題ない」
 敬礼をした警官に見送られて僕たちは歩き出す。
「オレは警察サツが嫌いなんだよ」
 警官の姿が見えなくなったところで駿河さんが言った。
「悪いことしてそうですもんね」
「うるせえよ」
 駿河さんは半笑いになる。
「もうずいぶんと世話になってねえしな」
「やんちゃだったんですね」
「サツとは切っても切れねえ関係だからな」
 深い事情を知らない僕はそれ以上きかなかった。

 数分歩いたところで店に到着した。
〈Lounge Bar RYU〉という看板がかかっている。地下にあるようだ。下りの階段がある。僕は地下へと続く階段を見て、アラバヒカ・スタジオを思い出していた。駿河さんの後に続いて入店する。
 ドアのほど近くにあるカウンター席に龍崎さんが腰かけていた。背中が見える。店内の奥は広々としている。ほかに客はいないようだ。六十型くらいのテレビが壁にいくつもある。奥にあるアクアリウムのなかでは熱帯魚が泳いでいた。ほの暗い室内で水槽の青いライトが映える。天井のライトも青を基調としている。
 BGMとしてかかっているのはダニー・ハサウェイだ。顔に似合わず父さんはこの黒人ミュージシャンが好きでよく聴いている。音楽にうとい僕も彼の曲は小さいころから無意識のうちに聴かされてきた。ソウル・ミュージックというジャンルらしい。僕にとっても心地いいと感じる音楽だ。
 バーってこんな感じなんだ。少し大人になった気がした。
「龍さん」
 駿河さんの言葉で、僕は焦点を龍崎さんのほうへ合わせた。
「サク――じゃなくて神田さんをお連れしました」
「一緒だったのか」
 龍崎さんは駿河さんを一度見て言った。僕に視線を向ける。
「よく来てくれましたね」
「遅くなってしまい、すみません」
「また助けてくれたんですよ」
「事情はあとで聞く」
 龍崎さんは駿河さんの言葉を受け流して僕を誘導する。
「とりあえずこちらへどうぞ」
 テーブル席へ案内される。
 駿河さんも龍崎さんのとなりに座ることを許可された。
「なにを飲みますか」
 龍崎さんにメニューを渡される。全然詳しくないせいで、カクテルの名前もよくかわらない。スクリュードライバーは格闘ゲームの技名みたいだな、と場違いなことを考える。
 しばらくメニューをにらんでいると、お酒じゃなくても大丈夫ですよ、と言われたので、ジンジャーエールを頼むことにした。龍崎さんはカウンターにいる男性に注文する。
「あそこに立っているのが店長です。もともとは違うバーで働いていました」
 カウンターの男性はこちらを見てにこりとほほえんだ。
「まっとうな人間です」
 冗談で言っているのかわからない。僕は、はあ、と言ってしまった。
 店長さんはグラスを三つ持ってきた。
 高級そうなグラスに入れられてガラステーブルに置かれるとジンジャーエールもお酒に見える。炭酸が龍のようにうねりながらのぼっている。空気に触れては弾ける。龍崎さんと駿河さんのもとにもなにかの飲み物が置かれた。きっとお酒だろう。いや、駿河さんは未成年だったはずだ。中身はなんだろう。気になったけれど黙っておくことにした。
「それではあらためて」
 僕たちはグラスを持ち上げる。
「ようこそいらっしゃいました」
 グラスが合わさり、高い音が鳴った。
 僕は一気に半分以上飲んでしまった。のどが渇いていたことに気づく。理由は暑いからだけじゃないはずだ。
 駿河さんが先ほどの事情を話し始める。
 一目惚れしたということは伏せて駿河さんは話していた。アルバイトとして雇われた女性に異変を感じて助け出そうとしたのだという情報のみで。
「なんとなく事情はわかりました」
 龍崎さんが言ったそのときだった。荒々しくドアが開けられる音がした。
 ぎょっとして僕は音のほうに振り向く。そこにはこめかみに青筋立てた男が立っていた。その後ろにも何人かいる。直感的に身の危険を覚えた。
「おめえの組のやつか。うちの者をしょっ引いてくれたのは」
 「組」という言葉に反応する。その手の人か。今「おめえの」と言った気がする。どういうことだ。
「とつぜん失礼ですね。名乗りもせずに」
 龍崎さんは静かな声で男に言う。けれどその声にはたしかな鋭さが含まれていた。
「うるせえ! 蔵前くらまえ組だ!」
「察してはいましたが、そうですか。しかし、裁かれるべきことをしたのでしょう? か弱い女性を巻き込んで」
 ゆっくりと龍崎さんは立ち上がる。駿河さんは青い顔をしてそれを見ていた。僕には目の前の光景がスクリーン越しに見ているかのように遠く感じられる。
「あんな女の一人や二人――」
 男が言っている途中、龍崎さんがものすごい速さで男のもとへ近づき、胸ぐらをつかんでいた。
「人の命を持て遊ぶんじぇねえ。今度町の人に手を出したら俺がおまえを消す」
 「消す」という低音が耳の奥で残響した。ダニー・ハサウェイの歌声は身をひそめ、龍崎さんの言葉が強烈に浮き上がる。
 龍崎さんは鋭利な殺気を放っていた。ちょっとでもその間合いに入ったら切り刻まれてしまいそうなほどに。先ほどまでの冷静な表情は消え去っていた。男の後ろにいる輩たちもまったく足が動いていない。男も固まっている。
 龍崎さんは間髪入れず、さらにこぶしに力を入れて男の胸もとを締め上げた。
「この店は町の方々が出入りしている。おまえらの来るようなところじゃない。出ていけ」
 男たちは悪態をつきながらも店を出ていく。僕は呆然とその様子を見送った。
のどがカラカラになっていた。残りのジンジャーエールを一気に飲み干す。氷が溶けて味が薄くなっていた。肩で息をしながらグラスをテーブルに置くと小さくなった氷がカランと鳴った。店内に響く「A Song For You」がやけに大きく聞こえる。
 龍崎さんが席に戻ってきた。
「驚かせてしまいましたね。申し訳ございません」
「く、組の者って……」
 僕は声を絞り出す。視点が定まらない。聴き慣れた歌声がかろうじて僕の平静を保ってくれている。
「私たちのほかに、この辺りに拠点を置く蔵前組です」
 私たち、ということは龍崎さんも駿河さんもどこかの組の人だったんだ。
 和泉オフィスという文字がよみがえる。
 和泉組――
 水兎はこの組の娘……? どこかのお城のお姫様なんかじゃなく……。
 叩きつけられた現実はこの店内よりもはるかに暗い。
「そうですか……」
 僕が口にできたのはそれくらいだった。
 そのとき、まだドアが開く音が聞こえた。今度は荒々しくない。
「あ、咲馬さん!」
 水兎だった。お手伝いをすることがあると龍崎さんが昨日話していたけど、今夜がその日なのかもしれない。
 僕は水兎に言う。
「龍崎さんのお誘いで」
「あれ、紹介したっけ?」
「いや、たまたまというか、なんというか」
「オレが紹介したんですよ」
 僕が口ごもっていると、駿河さんが言った。
「昨日助けてもらったんで」
「よくわかんないけど、咲馬さんさすがだねー」
 どう返答すればいいのかわからない僕は、愛想笑いでごまかす。
 ちょっと着替えてくる、と言って水兎は裏に消えた。
 組の娘ということを思い返す。あの笑顔の背景にはどのような時間が流れてきたのだろう。いつだったか水兎は、縛られるのが嫌で家を飛び出たと言っていた。僕が体験してきた人生とは遠く異なる世界にいたということは想像できる。
 水槽のなかで泳ぐ熱帯魚を目で追った。
 外から見ている僕は魚や照明の色の鮮やかさに惹かれるけれど、実際にその狭い世界で泳ぐ身になったらどんな気分なのだろう。大河で泳げたかもしれないのに、このなかに閉じ込められている。
 水兎はその容姿があれば華やかな人生を送っているのだろうと僕は思っていたけれど、本当は全然違うのかもしれない。いや、実際に違うはずだ。広い世界へ飛び出たいという気持ちがわいたのだろう。
 龍崎さんは入店してきた数名の男性客の対応をしている。すみ分けが難しそうに思えるけれど、普通の客とも違和感なく接している。さっき見た気迫が幻(まぼろし)だったみたいに。どちらが本当の龍崎さんの顔なのだろう。今見せている穏やかな表情が本来の龍崎さんだと信じたい。
「新しいお飲み物をお持ちしますか?」
 声がしたほうに顔を向けると、正装した水兎が立っていた。ひざ上の黒いスカートに、白いブラウスと黒いベスト、首もとにはリボンを巻いている。いつもと異なるハーフアップの髪型で目じりが引き上げられていて、凛々しい印象を受ける。
「ええと、同じもので。あ、ジンジャーエールです」
 いつも話している場所ではないのと印象が異なるのとで、妙によそよそしい言い方になってしまった。
「かしこまりました」
 水兎は笑みを浮かべ、空いたグラスをさげる。僕はカウンターへ向かう後ろ姿を見ていた。
「水兎さん、人気らしい」
 駿河さんが言った。水兎の持っている輝きは、当然ここでも活かされているはずだ。所作の一つ一つに無駄がない。
「お待たせしました」
水兎がグラスを持ってきた。
「それとこれは私から」
 よかったら召し上がって、とグラスの横に置いたのは、おはぎの入った皿だった。
「おはぎ……?」
「今日はお盆だから作ってきたの」
 そうか、七月十五日か……。
 東京は地方と比べて一か月早くお盆を迎える。そういえば、今朝、馬の形に似せたきゅうりや牛を模したナスが玄関に置かれていた気がする。昨日のできごとを思い返しながら出てきたせいで、意識に入ってこなかった。
 うちにもじいちゃん、ばあちゃんがいた。じいちゃんは僕が物心ついたときにはいなかったから覚えていない。父さんの祭りの血はじいちゃんから引き継がれているということは聞かされた。こっちに移住してくるまでは愛知に住んでいたじいちゃんは、毎年はだか祭に参加していたと言う。その年の福男を決めるのだ。ある年には福男になったそうだ。十代のころから左官屋をしていて、わが家の壁などもじいちゃんが塗り上げたらしい。築八十年以上になるけどひび割れることなく維持できているのは、じいちゃんが腕に誇りを持っていたからと父さんは言っていた。
 ばあちゃんは四年ほどまえに旅立った。いつも和服に身をつつんでいる人で、家族のなかで一番物静かというか、しゃんとしている雰囲気だった。ノラが居つくようになったのもばあちゃんがエサを与えていたことがきっかけだ。
命を粗末にしたらいけないとよく言っていたことを覚えている。食べ残しは絶対に許さなかった。
 初めてノラがわが家にふらふらと迷い込んできたとき、朝食の最中だったばあちゃんは、ひもじいノラの体をさすりながら焼き魚を分け与えていた。ノラと接しているときはとてもやさしいまなざしを向ける人だった。
 僕がノラにエサをあげるようになったのは、ばあちゃんの意志を受け継いでいるからだと思う。とくに意識しておこなっているわけではないけど、ばあちゃんがいなくなってからは自然と僕が世話するようになった。
 思えば、ばあちゃんの晩年のころから、ノラはうちへなにかと物をくわえて運び入れている。
 分娩直後の母猫は、巣から迷い出た子猫を連れ帰る行動に出るらしい。メス猫のノラも、この母性的な「連れ戻し」の習性をしているのではないかと、ばあちゃんは言っていた。本来行き着くべきところに物をくわえて「戻し」ているのだと。
 恩返しなのかなんなのか、ノラの変な癖は見ていて面白い。少なくとも僕がガンプラに興味を持ったのはノラのおかげだ。自分の存在する意義みたいなものは、ノラがもたらしてくれたと言っていい。
 水兎の家には、じいちゃんやばあちゃんがいるのだろうか。この年齢でお盆を意識しておはぎを作るなんてなかなかないことのような気がする。僕が意識してこなかっただけかもしれないけれど。
「いただきます」
 半分ほど口に運ぶ。ほんのりとした甘さが広がっていく。
「なんだかほっとする味。なつかしいような」
「よかった」
 水兎の安心した顔を見て、さらに僕はほっとする。
 このおはぎは、ばあちゃんが作ってくれた味に似ている。ばあちゃんがこの時期だけ帰ってきたのかもしれない。そんなことを考えながら残りの半分も口に入れた。
「私ね」
 水兎が小声で僕に話しかける。
「お母さんがいないんだ」
 僕は驚いて水兎を見る。
「いない……?」
「私がまだ幼いころにね――。だから、このおはぎを作って、せめて夢のなかだけでも会えたらいいなって」
 子どもみたいな考えでしょ、と水兎は小さく笑った。
「なんかごめん……」
「どうして咲馬さんが謝るの?」
「軽い気持ちで食べちゃって……」
「いいの。私も記憶にないから悲しくないし、私が勝手に持ってきたんだから」
「うん……」
「龍崎さんが私のことをいろいろとお世話してくれたんだって」
 水兎は接客をしている龍崎さんに視線を向けた。
「今もなにかとお世話になっているけどね」
「お母さんの代わり、みたいな存在なんだね」
「お母さん、お父さん、お兄さん、全部のような、どれも違うような感じかな」
 よくわかんないよね、と水兎は言う。
「私、お父さんのやっていること、あまり好きじゃないんだ」
 水兎は物憂げな顔をした。僕は言葉を返せない。
「なんでもない。ごめんね」
 晴れやかに見せているけれど、本当の心境は水兎にしかわからない。
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