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翌朝、バイトが休みの僕は塗料を買いに出かけた。
店に向かう途中の横断歩道で信号待ちをしていると、どこかで見たことがある女性が横に立った。買い物帰りのようで袋には食材が見え隠れしている。じろじろ見るわけにもいかないけど、気になる。視線を向けているうちに目が合ってしまった。
「あたしの顔になにかついてる?」
はきはきした話し方で女性は言った。
「いえ……」
そう答えつつ、あっ、と思い出した。もしかして。
「店長の奥さんですか?」
「店長? ああ、ゲーセンのこと?」
「あ、そうです。ゲームスポットよこやまの」
「うん、そうだよ。どこかで会った?」
スマートフォンの画面で見せてもらったことは言わないほうがいいのだろうか。
苦しまぎれに言う。
「勘です」
「すごい勘だね」
奥さんは、あっけらかんと言う。
「まさに、そのテンチョーの妻だよ」
なんとか怪しまれずに済んだと思っていると奥さんは言った。
「今日は暇なの?」
「えっと、まあ……」
急な用というわけでもない。というより、なんとなくいそがしいと言える空気じゃない。
「それなら、これからうちに来る? 大所帯でむさ苦しいかもしれないけど」
「は、はあ」
気をつかってくれているのだろうか。これまたなんとなく断れる空気じゃなかった。
「じゃあ、おいで。ここから数分のところにあるから」
「それ、お持ちします」
僕は奥さんが持っている袋を指さす。女性が持つには重そうだ。
「じゃあ、遠慮なく。五人もいるとこれくらいの量になっちゃうんだよ」
「五人も……」
「あたしや旦那も入れてね。世話のやける子たちばっかりだよ」
気のせいか、そう言う奥さんの表情はやわらかい。一家を支える母親像を絵に描いたらこんな感じになるのかもしれない。一人しか育てていない母さんに姿を重ねる。うちも祭りの日には大人数を抱えているとは言え、それを毎日送っていると想像すると、奥さんはなんともたくましい。
「三人もお子さんがいるんですね」
「お子さん――まあそんなようなものだよ」
どこか引っかかる言い方だ。なんか言ってはいけないことに触れてしまっただろうか。
「ああ、深い事情があるわけじゃないよ」
僕の顔色を見た奥さんが言った。
「居場所のない子たちに家を提供しているっていうだけでね。人づき合いが苦手な子が多くて」
「なるほど」
なんて大らかなのだろう。店長の新たな一面を知った気がする。
「僕も同じ性格です。両親とは違って社交性がないので」
「今どきの子はそんなものかねえ。うちの旦那も大人しいけどさ」
そういえば、と奥さんは言った。
「名前をまだ聞いていなかったね」
「神田咲馬です」
「神田……ああ、咲馬くんか! 大きくなったねえ」
「え、僕のことを知ってるんですか?」
「お母さん、八重ちゃんでしょう?」
「そうです。八重です」
「たしかに息子がゲーセンで働いてるって言ってたな。まさか旦那のとこだったなんて。八重ちゃんとは若いころよく一緒にいたんだよ。最近はほとんど会わなくなっちゃったけどね。八重ちゃんの結婚のきっかけはあたしだったんだから」
誇らしげに奥さんは言う。
結婚のきっかけ……。毎年祭りの時期になると父さんの話すなれそめがよみがえる。
ちゃきちゃきしたりんご飴売りの――。
「千晶さん――ですか?」
「おお、よく知ってるね。八重ちゃんが言ったの?」
「どちらかというと父さんが。毎年毎年、鳥越祭りの時期に話すんです」
「伝馬さん、八重ちゃんにべた惚れだったもんなあ。あたしのことなんて見向きもしなかったよ」
到着、と奥さんは言った。
「ここがわが家。まあ上がって」
うちよりも一回り、いや二回りは大きい一軒家だ。
玄関を通される。靴箱には何足も靴が並んでいた。靴が散らかっていないのは、店長の影響だろうか。職場での店長しか知らないけれど。
「おじゃまします」
「ここはみんなの共有スペースだね。ふだん、子供たちは二人一部屋の個室にいるんだけど、食事のときとか、ここに集まるんだよ」
中央には食卓、壁際には本棚が置かれている。本棚には小説にゲーム雑誌、グラフィックデザインやプログラミングの専門誌なども収められている。ほかにもソファーに大型テレビもあり、何人かでゆったりとくつろげそうだ。この部屋も靴箱みたいに整理されている。
「これからお昼の準備をするから食べて行きなよ」
すっかり奥さんのペースに飲まれながらお礼を言う。
適当に座ってて、と促されてソファーに腰掛けた。
棚にガンプラが一体置かれていることに気づく。僕が初回の撮影で使ったものと同じだ。
包丁の小気味いい音を聞きながら待っていると、誰かが階段を下りてくる音が聞こえた。
「あ」
互いの顔を見たとたん僕たちは声をもらしていた。そこには岩本さんがいる。
「お、おじゃましてます」
「ど、どうも」
「偶然、奥さんと出会って、上がらせてもらいました」
なにも説明しないわけにはいかないと思い、事情を伝えた。
「こちらで生活されてるんですね」
「高校時代、登校拒否してゲーセンに入り浸っていたら旦那さんに声をかけられて……。気づけばここでお世話になっていました」
たしか僕が働き始めた三年まえにはすでに常連だった。ということは、そのころからこの家で共同生活をしているのか。
店長と客の関係はまったく聞いたことがない。
台拭きを持って奥さんがやってきた。
「あら、岩ちゃんが人と話すなんて珍しいじゃないの」
「ゲーセンで毎日お世話になっていて」
家では岩ちゃんと呼ばれているんだ。常連客のふだん見ることのない姿を知った。
「いや、こちらこそ」
僕らのやりとりに奥さんは「ふーん」とそっけない返事をした。
「さ、テーブルを拭いて。今持ってくるから」
岩本さんは奥さんから台拭きを受け取る。僕は食器運びを手伝うことにした。
奥さんが作ってくれたのは焼きそばと白菜の浅漬けだ。
「簡単なもので申し訳ないね」
奥さんが盛りつけながら言う。僕は「いいえ、そんな」と作ってくれたことへの感謝の気持ちで答えた。
「うちではかつお節をかけるんだよ。咲馬くんのもかけちゃうけどいいね。紅しょうがは各自で」
四人分の食事が並ぶ。あと一人は誰だろうと思っていると奥さんが口を開いた。
「つかさ呼んできて」
岩本さんは上の階に呼びに行った。
一緒に下りてきたのは、ぼさぼさの髪の女の子だった。
何歳だろう。僕くらいだろうか。一応着替えてはいるものの、寝起きのような顔をしている。おはようございます。眠そうな声で言った。
「なに言ってんだい。もう昼だよ」
「ネトゲを朝までやってて」
「よくわからないけど、座って座って。二人も」
奥さんの言葉で僕らも座った。
僕のとなりに岩本さん、向かいには奥さんがいる。
家族以外の人と食事をするなんていつ以来だろう。ましてや初めて会った人たちと。いつもなら逃げ出したい環境だけど、今はそう感じない。
「さあて食べるよ。いただきます」
威勢のいい声で奥さんは言った。いただきます。僕たちも続く。
「ここの家はね」
奥さんは食べながら僕の目を見る。
「あたしの希望で作ったんだよ。うちには子供ができなかったからさ、ひとの子でもかまわないから一緒に暮らしたくってね」
「そうだったんですか」
「まあ、最初旦那は乗り気じゃなかったけどね。なにせあんな感じだから」
でもね、と奥さんは言う。
「もし知らない子を面倒見るなら家に入れる子は自分で選ぶ、って。あんなにはっきりしゃべったのはあのときくらいかもね」
思い出したようにおかしそうに笑った。なんだかその笑顔が幸せそうに見える。
以前、店長からスマートフォンの画面で初めて奥さんを見せてもらったときに、無意識に言ったことをあらためて思う。
――お似合いですね。
「岩本さんたちは店長から選ばれたんですね」
「そうだねえ。今日からこの子がうちで生活するからって、とつぜん。人さらいしてきたんじゃないだろうね、なんて伝えたのを覚えてるよ」
「店長がしたら妙にリアルで怖いです」
僕と奥さんは笑い合った。
つかささんもくっくと笑いをこらえている。岩本さんだけは「そんなことされてませんよー」と言う。
奥さんはこういう食卓を夢に描いていたのかもしれない。店長は残業をほとんどせずに帰るけれど、理由がわかった気がする。
父さんの顔がなぜか浮かんできた。
「まあ、こんな変な家族だけどさ、これからも仲よくしてやってよ。つかさも面白い子だしさ」
「そんなことないですよ」
つかささんはそう言うけど、奥さんの言葉が気になる。
「この子、音楽が好きでね。パソコンで曲も作ってるんだよね」
「なんでも作れますよ」
岩本さんがつかささんを代弁する。
「それはすごいですね」
「あと、あれなんて言ったっけ」
奥さんがつかささんを見ながら思い出そうとしている。
「口を使って音出すやつ」
「ヒューマンビートボックス」
つかささんはぼそりと言った。ヒューマンビートボックスってなんだろう。僕がわからなそうな顔をしていたのか、つかささんが説明してくれる。
「口だけでビートを刻むんです。ベース、ノイズ、ドラム、いろんな音を出せます。DJがディスクをキュッキュッて鳴らすのを聞いたことありますか? スクラッチって言うんですけど、あんな音なんかもできます」
やってみせてあげたら、という奥さんの声に、「じゃあちょっとだけ」とつかささんは言った。
くちびるを震わせ、息づかいで一定のテンポを刻む。
トランペットのような音色を鳴らしたあと、どこから発しているのか、ロボットが動き始めたような機械音も出す。
「こんな感じです」
つかささんは、なにもなかったみたいに静かに食事を再開している。
「ね、面白いでしょ」
「はい。とても」
この下町にこんな人たちが眠っていたなんて。僕は自分の半径数メートル以外の世界を知らなすぎた。ここはとなり町のはずなのに。店長とはいつも会っているはずなのに。
食後、奥さんは玄関先まで見送ってくれた。
「こんな家だけど、いつでも来るといいよ」
僕は大きくうなずき、お礼を言って歩き出す。
しまった。塗装の材料を買いに出かけたんだった。
口でリズムを刻みながら向かおうとした。けど、うまくできないからあきらめる。
小鳥がチチチと鳴いた。
つかささんはこんな声も真似できるのかもしれない、なんて考えてみる。
試しにやってみた。やっぱりできない。
店に向かう途中の横断歩道で信号待ちをしていると、どこかで見たことがある女性が横に立った。買い物帰りのようで袋には食材が見え隠れしている。じろじろ見るわけにもいかないけど、気になる。視線を向けているうちに目が合ってしまった。
「あたしの顔になにかついてる?」
はきはきした話し方で女性は言った。
「いえ……」
そう答えつつ、あっ、と思い出した。もしかして。
「店長の奥さんですか?」
「店長? ああ、ゲーセンのこと?」
「あ、そうです。ゲームスポットよこやまの」
「うん、そうだよ。どこかで会った?」
スマートフォンの画面で見せてもらったことは言わないほうがいいのだろうか。
苦しまぎれに言う。
「勘です」
「すごい勘だね」
奥さんは、あっけらかんと言う。
「まさに、そのテンチョーの妻だよ」
なんとか怪しまれずに済んだと思っていると奥さんは言った。
「今日は暇なの?」
「えっと、まあ……」
急な用というわけでもない。というより、なんとなくいそがしいと言える空気じゃない。
「それなら、これからうちに来る? 大所帯でむさ苦しいかもしれないけど」
「は、はあ」
気をつかってくれているのだろうか。これまたなんとなく断れる空気じゃなかった。
「じゃあ、おいで。ここから数分のところにあるから」
「それ、お持ちします」
僕は奥さんが持っている袋を指さす。女性が持つには重そうだ。
「じゃあ、遠慮なく。五人もいるとこれくらいの量になっちゃうんだよ」
「五人も……」
「あたしや旦那も入れてね。世話のやける子たちばっかりだよ」
気のせいか、そう言う奥さんの表情はやわらかい。一家を支える母親像を絵に描いたらこんな感じになるのかもしれない。一人しか育てていない母さんに姿を重ねる。うちも祭りの日には大人数を抱えているとは言え、それを毎日送っていると想像すると、奥さんはなんともたくましい。
「三人もお子さんがいるんですね」
「お子さん――まあそんなようなものだよ」
どこか引っかかる言い方だ。なんか言ってはいけないことに触れてしまっただろうか。
「ああ、深い事情があるわけじゃないよ」
僕の顔色を見た奥さんが言った。
「居場所のない子たちに家を提供しているっていうだけでね。人づき合いが苦手な子が多くて」
「なるほど」
なんて大らかなのだろう。店長の新たな一面を知った気がする。
「僕も同じ性格です。両親とは違って社交性がないので」
「今どきの子はそんなものかねえ。うちの旦那も大人しいけどさ」
そういえば、と奥さんは言った。
「名前をまだ聞いていなかったね」
「神田咲馬です」
「神田……ああ、咲馬くんか! 大きくなったねえ」
「え、僕のことを知ってるんですか?」
「お母さん、八重ちゃんでしょう?」
「そうです。八重です」
「たしかに息子がゲーセンで働いてるって言ってたな。まさか旦那のとこだったなんて。八重ちゃんとは若いころよく一緒にいたんだよ。最近はほとんど会わなくなっちゃったけどね。八重ちゃんの結婚のきっかけはあたしだったんだから」
誇らしげに奥さんは言う。
結婚のきっかけ……。毎年祭りの時期になると父さんの話すなれそめがよみがえる。
ちゃきちゃきしたりんご飴売りの――。
「千晶さん――ですか?」
「おお、よく知ってるね。八重ちゃんが言ったの?」
「どちらかというと父さんが。毎年毎年、鳥越祭りの時期に話すんです」
「伝馬さん、八重ちゃんにべた惚れだったもんなあ。あたしのことなんて見向きもしなかったよ」
到着、と奥さんは言った。
「ここがわが家。まあ上がって」
うちよりも一回り、いや二回りは大きい一軒家だ。
玄関を通される。靴箱には何足も靴が並んでいた。靴が散らかっていないのは、店長の影響だろうか。職場での店長しか知らないけれど。
「おじゃまします」
「ここはみんなの共有スペースだね。ふだん、子供たちは二人一部屋の個室にいるんだけど、食事のときとか、ここに集まるんだよ」
中央には食卓、壁際には本棚が置かれている。本棚には小説にゲーム雑誌、グラフィックデザインやプログラミングの専門誌なども収められている。ほかにもソファーに大型テレビもあり、何人かでゆったりとくつろげそうだ。この部屋も靴箱みたいに整理されている。
「これからお昼の準備をするから食べて行きなよ」
すっかり奥さんのペースに飲まれながらお礼を言う。
適当に座ってて、と促されてソファーに腰掛けた。
棚にガンプラが一体置かれていることに気づく。僕が初回の撮影で使ったものと同じだ。
包丁の小気味いい音を聞きながら待っていると、誰かが階段を下りてくる音が聞こえた。
「あ」
互いの顔を見たとたん僕たちは声をもらしていた。そこには岩本さんがいる。
「お、おじゃましてます」
「ど、どうも」
「偶然、奥さんと出会って、上がらせてもらいました」
なにも説明しないわけにはいかないと思い、事情を伝えた。
「こちらで生活されてるんですね」
「高校時代、登校拒否してゲーセンに入り浸っていたら旦那さんに声をかけられて……。気づけばここでお世話になっていました」
たしか僕が働き始めた三年まえにはすでに常連だった。ということは、そのころからこの家で共同生活をしているのか。
店長と客の関係はまったく聞いたことがない。
台拭きを持って奥さんがやってきた。
「あら、岩ちゃんが人と話すなんて珍しいじゃないの」
「ゲーセンで毎日お世話になっていて」
家では岩ちゃんと呼ばれているんだ。常連客のふだん見ることのない姿を知った。
「いや、こちらこそ」
僕らのやりとりに奥さんは「ふーん」とそっけない返事をした。
「さ、テーブルを拭いて。今持ってくるから」
岩本さんは奥さんから台拭きを受け取る。僕は食器運びを手伝うことにした。
奥さんが作ってくれたのは焼きそばと白菜の浅漬けだ。
「簡単なもので申し訳ないね」
奥さんが盛りつけながら言う。僕は「いいえ、そんな」と作ってくれたことへの感謝の気持ちで答えた。
「うちではかつお節をかけるんだよ。咲馬くんのもかけちゃうけどいいね。紅しょうがは各自で」
四人分の食事が並ぶ。あと一人は誰だろうと思っていると奥さんが口を開いた。
「つかさ呼んできて」
岩本さんは上の階に呼びに行った。
一緒に下りてきたのは、ぼさぼさの髪の女の子だった。
何歳だろう。僕くらいだろうか。一応着替えてはいるものの、寝起きのような顔をしている。おはようございます。眠そうな声で言った。
「なに言ってんだい。もう昼だよ」
「ネトゲを朝までやってて」
「よくわからないけど、座って座って。二人も」
奥さんの言葉で僕らも座った。
僕のとなりに岩本さん、向かいには奥さんがいる。
家族以外の人と食事をするなんていつ以来だろう。ましてや初めて会った人たちと。いつもなら逃げ出したい環境だけど、今はそう感じない。
「さあて食べるよ。いただきます」
威勢のいい声で奥さんは言った。いただきます。僕たちも続く。
「ここの家はね」
奥さんは食べながら僕の目を見る。
「あたしの希望で作ったんだよ。うちには子供ができなかったからさ、ひとの子でもかまわないから一緒に暮らしたくってね」
「そうだったんですか」
「まあ、最初旦那は乗り気じゃなかったけどね。なにせあんな感じだから」
でもね、と奥さんは言う。
「もし知らない子を面倒見るなら家に入れる子は自分で選ぶ、って。あんなにはっきりしゃべったのはあのときくらいかもね」
思い出したようにおかしそうに笑った。なんだかその笑顔が幸せそうに見える。
以前、店長からスマートフォンの画面で初めて奥さんを見せてもらったときに、無意識に言ったことをあらためて思う。
――お似合いですね。
「岩本さんたちは店長から選ばれたんですね」
「そうだねえ。今日からこの子がうちで生活するからって、とつぜん。人さらいしてきたんじゃないだろうね、なんて伝えたのを覚えてるよ」
「店長がしたら妙にリアルで怖いです」
僕と奥さんは笑い合った。
つかささんもくっくと笑いをこらえている。岩本さんだけは「そんなことされてませんよー」と言う。
奥さんはこういう食卓を夢に描いていたのかもしれない。店長は残業をほとんどせずに帰るけれど、理由がわかった気がする。
父さんの顔がなぜか浮かんできた。
「まあ、こんな変な家族だけどさ、これからも仲よくしてやってよ。つかさも面白い子だしさ」
「そんなことないですよ」
つかささんはそう言うけど、奥さんの言葉が気になる。
「この子、音楽が好きでね。パソコンで曲も作ってるんだよね」
「なんでも作れますよ」
岩本さんがつかささんを代弁する。
「それはすごいですね」
「あと、あれなんて言ったっけ」
奥さんがつかささんを見ながら思い出そうとしている。
「口を使って音出すやつ」
「ヒューマンビートボックス」
つかささんはぼそりと言った。ヒューマンビートボックスってなんだろう。僕がわからなそうな顔をしていたのか、つかささんが説明してくれる。
「口だけでビートを刻むんです。ベース、ノイズ、ドラム、いろんな音を出せます。DJがディスクをキュッキュッて鳴らすのを聞いたことありますか? スクラッチって言うんですけど、あんな音なんかもできます」
やってみせてあげたら、という奥さんの声に、「じゃあちょっとだけ」とつかささんは言った。
くちびるを震わせ、息づかいで一定のテンポを刻む。
トランペットのような音色を鳴らしたあと、どこから発しているのか、ロボットが動き始めたような機械音も出す。
「こんな感じです」
つかささんは、なにもなかったみたいに静かに食事を再開している。
「ね、面白いでしょ」
「はい。とても」
この下町にこんな人たちが眠っていたなんて。僕は自分の半径数メートル以外の世界を知らなすぎた。ここはとなり町のはずなのに。店長とはいつも会っているはずなのに。
食後、奥さんは玄関先まで見送ってくれた。
「こんな家だけど、いつでも来るといいよ」
僕は大きくうなずき、お礼を言って歩き出す。
しまった。塗装の材料を買いに出かけたんだった。
口でリズムを刻みながら向かおうとした。けど、うまくできないからあきらめる。
小鳥がチチチと鳴いた。
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