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ここに『魔女』を葬る

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 最初に内容を理解したのは母だった。
 一瞬馬鹿にするように鼻で笑ったが、真っ直ぐに見据えるセイの眼差しに気付くと、徐々に顔が赤黒く怒りに染まっていく。

『そんな馬鹿なこと、認められるわけがないでしょう! 収入も安定しない生活で、どうやって親を助けるつもりなの!』

 打ちつける激しい言葉の礫に、以前なら身体を丸めて震え、直ぐ様謝罪を口にしていただろう。
 だが、今はもう違う。
 打ちひしがれ震えていたこの人のお人形である余はもういない。
 今の自分は、大切な存在に導きの星をもらったセイ。
 いつか辿り着く夢の場所と自分を信じる、一人の人間だ。
 娘がいつもと違ってすぐに謝らないことに怒りが際に達したらしい母は、病院だぞと咎める父の手も振り払って横たわる娘を怒鳴りつける。

『今更私に苦労をさせるつもり⁉ 私はそんな為に貴方を育ててきた訳じゃないわ!』

 不思議だ、と思った。
 あれ程恐れていた、存在意義を否定する言葉も今は何も響かない。
 この人は本当に『自分の為』だけに私を育てていたのだな、と虚しさを感じるだけ。
 全て、貴方の為にと言いながら。愛していると言いながら。
 多分、必死だっただろうし、苦労もかけただろう。この年齢まで育ててもらったことに、本当は感謝しなければならないとは思う。
 だが、あれほど大きな世界に思えたこの人が、今はひどく小さくて歪んだ存在に見えてしまっている。
 整えるように息を吸うと、出来る限りの強さを声に込めて、負けじと言い返す。

『家を出ます。お祖父ちゃんのあの家に引っ越して、工房を継ぎます』
『下らないことを言わないで! あの家は処分するって言ったでしょう!』

 ついには、看護師たちまで集まってきて、母を宥めようとしているけれど。
 母はそれらを振り払いかねない勢いで制止を聞かず、娘に掴みかかりかねない勢いで声を荒げて叫び続ける。
 その時、冷静な声がある事実を母に指摘する。

『……あの家の権利が、私にもあるって忘れてない?』

 声の主は、冷ややかに母を見つめている叔母だった。
 祖父の子供は母と叔母の二人。明確な遺言が残されていなかった為、家を処分するにあたり権限は二人に平等にある。
 後から聞いた話だが、叔母が反対するのを押し切って、母は工房を処分して金に換えようとしていたらしい。
 顔を歪めて視線を向けてくる姉へ、妹は実に冷静に思うところを口にする。

『私は言ったわよね? 余の人生なんだから、選択は余自身にさせなさいよって。この子が考えた上でそうしたいって言うなら、叔母として尊重するわ』

 叔母はかねてからセイ達親子の在り方を危惧してくれていたらしい。
 そして、忠告をしてくれていた。だが、母はそれを自分への悪意故だと決めつけて、けして聞こうとはしなかった。
 まるで獣の唸り声のような呻きをあげている母に、更に追撃とも言える言葉がかけられる。

『……余がそうしたいというなら、私も止めない』
『貴方まで何を言うの⁉』

 それは、口を閉ざしたまま事を見守っていた父だった。
 日頃、母があの人は何も分かっていないから相談相手にならないと愚痴をこぼしていた父は、一つ息を吐くと続けた。
 妻を真正面から強い眼差しで見据えながら、はっきりとした口調で。

『お前も私も。……今まで見ない振りをしてきたつけを払う時が来ただけだ』

 言葉に潜む罪の意識を感じたセイは、思わず軽く目を見張った。
 そして気付いた。何故決まった時期に父が行く先を告げずに外出することがあるのかを。
 父がどこかへいくのは――ヨルが亡くなった日だった。父は、おそらくヨルの墓参りに行っていたのだ。
 妻の心を守るために、息子を居なかったことにし続けた。その負い目を、この人も感じていたのだ。
 ねえ、ヨル。
 ヨルは、お父さんの心の奥にも確かに居たんだね。
 お父さんもずっと、悲しみに耐えて、苦しんでいたんだね……。
 セイは、遠ざけられ続けていた父の本心に、漸く触れたような気がした。
 叔母と父、二人に正面から娘の味方をされて、母はたじろいだ様子だった。

『なんで、貴方達はそんなに私を苦しめるのよ! 私が何をしたっていうの⁉』

 錯乱した様子の母は、これでもかと娘の悪口を並べ立て続けた。
 自分が正しいのだと訴えながら、お前たちが間違っていると言いたげに休むことなく叫び続けた。
 ひどく冷たい目で自分を見つめる人々に。
 今までみたこともない程まっすぐに自分を見つめる娘に。
 苦悶の表情で血を吐くような叫び声をあげた。

『私はあんなに一生懸命だったのに……私は、何も悪くないのに!』

 あの時の母の形相は、まさしくあの時最後にみた『魔女』が浮かべていた表情そのものだった――。


「あの人は、大人になる機会を逃してしまったのね」

 看護師たちに礼を告げて病院を後にして、叔母の車に乗り込んで少しして。
 家へと向けて車が走り出して少し経った頃、ぽつりと、叔母は少しだけ遠い眼差しで口にした。

「……母さんにがんじがらめにされていた人が、結局同じになっちゃった」

 かつては、叔母も姉を羨ましくおもうこともあるし、母の愛を求めることもあったという。
 だが、長じるうちにそれは姉への憐憫に変わっていったという。

「私はついでの子で良かったと思っているわ。あの人、私には興味が全くなかったから、むしろ好きに出来たしね」

 実の母を「あの人」と呼ぶ声には、我慢をしている様子はなく、実にあっさりとした響きがあった。
 セイは、この人もまた断ち切ることが出来たのだと思った。
 連綿と続いていきかけた『魔女』を。
 セイは祖母のことは殆ど覚えていないが、祖母もまた『魔女』だった。
 もしかしたら、祖母が『魔女』となった原因は祖父にもあったかもしれない。
 祖父が自分の意思を貫くだけではなく、しっかりと妻たちを向き合い皆が納得した上で選んでくれていたなら、祖母はそうならなかったかもしれない。
 鬱屈した心が束縛となって娘に向かうこともなかったかもしれない。
 その可能性を考えれば、祖父にも罪が無いとは言えない。
 しかし、もう分からない。
 祖母は遣る瀬無い思いゆえに『魔女』となったのか。それとも連綿と続き集う『魔女』の一部だった為にそうなったのか。
 もう知る術はなく、残るのは母もまた祖母にココロを喰われ、同じものになったという事実だけだ。
 『魔女』にココロを喰われた囚われ人は、いずれ同じ『魔女』となり、また誰かのココロを喰らって新たな『魔女』を産む。
 少なくとも、セイはその連鎖を今ここに一つ断ち切ることが出来る。
 セイが魔女にはならないで、この先を生きていけたなら。連なる『魔女』を、ここに一つ葬ることができる――。
 母を許せる日はきっと来ないだろう、とセイは思った。
 けれど、それでいいのだと。
 許し受け入れ、手を取り合うことだけが解決ではない。
 道を分かち、違え。交わらずにそれぞれ生きていくことだって一つの道だと思う。
 何時かあの人を救う人が居るかもしれない。
 それは父かもしれない、違うかもしれない。もしかしたら居ないかもしれない、けれどそれでいいのだ。
 許す必要はない、けれど憎み続ける意味もない。
 憎い恨む事で心を縛り続けられるのを――セイが魔女の囚われ人となり、新たな『魔女』となることを、ヨルもつつじも望まないから。
 これから、セイは自分で考えて決めて、選んでいく道を進む。
 自分のする選択が正しいのかどうかわからない。選んだ末に挫折して、惨めな現実を見るかもしれない。
 全ての責任が自分に返るようになる。
だが、それが大変だと思うと同時に、ひどく嬉しく思うのだ。
 その苦労とて、自分が選び決めたからと思えば、意味を見出せる気がする。
 大変だとしても、自分で考えて選んだ人生を生きたい。
 世界を暗い影が覆ったとしても、進むべき先が見えなくなったとしても。彼らが灯してくれた星の輝きは、けして消えないから。
 自分はセイとして、この先を進み、生きていく。
 少し続いた沈黙を破って、叔母は違う話題について触れる。

「退職手続きは問題なく終わったから。荷物は追って送ってくれるって」
「ごめんね、手続きまで頼んじゃって」

 退職の意向を職場に伝えると、拍子抜けするほどあっさりと受け入れられた。
 引き留められる事もなく、惜しまれる事すらない事を寂しいと思うのかもしれない。
 必要とされる人材となり得なかった事は少しばかり悲しいかもしれない。
 ただ、今のセイには今は一つが終わり、そして始まるのだという思いがあるだけ。
 諸々の手続きを入院中のセイに代わってしてくれたのは、主に叔母だった。
 まめな叔母が、代わりに職場に菓子折りを持って丁寧に挨拶に行ってくれたと聞いて、心遣いに恐縮するばかりだ。
 セイは一度実家で必要な荷物を纏めて、新居が見つかるまで叔母の家に厄介になることになった。
 実家の荷物は、住まいが決まるまで叔母が預かってくれるというし、処分が阻止された祖父の家も、セイが独立するまで管理してくれるらしい。
 世話になりっぱなしで身を縮めてしまうセイを見て、叔母は笑う。

「いいから。少しは身内を頼りなさい。出来る範囲にはなるけど、やれることは手を貸してあげるから」

 セイは、祖父の知人の職人の元に弟子入りすることになっている。
 父が祖父と付き合いのあった職人に一人一人連絡して、受け入れるように頼みこんでくれたとか。
 受け入れてくれるところがあったと伝えてくれた父は、安心したように笑っていた。 
 自分は何も見ていなかったし、知ろうともしなかったことに、今は気付いている。
 ひどく狭い世界にて、ただ言われた事だけを信じて、閉じこもっていた。
 誰も居ないと思って、諦めてしまっていた。
 けれど、とセイは思う。
 自分は、けして一人ではなかったのだ。
 目を開いてちゃんと見たなら、勇気を出して一歩踏み出してみたなら。
 自分に思いを向けてくれる人は、ここにも……箱庭の外にも確かに居たのだと――。
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