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君がくれたキセキ
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西波止場近くの海沿い。
石畳の道を一人の男性が何気ない様子で歩いている。
時折すれ違う女性達が振り返ることがあるのだが、本人は全く気にした様子がない。
ただ泰然とした様子を崩さぬまま歩いていたが、ふと立ち上がり空を見上げる。
見上げた先には鳥たちが飛び交う、雲一つない蒼い空。
「いやあ、流石に連綿と続いた悪意とは恐ろしいものだったな」
大きく息を吐きながら、時見と呼ばれる男性は肩を竦めて呟いた。
言葉こそ相当な苦労をしたような内容ではあるが、言っている本人は全くくたびれた様子はない。
むしろ楽しかったと鼻歌でも歌いそうな余裕が見られる。
「良い『物語』だった」
海の上を走り吹きすぎる、潮の香りを含む風に目を細めながら、時見はしみじみと言った。
彼が脳裏に巡らせるのは、作り上げた仮初の世界にて一生懸命に寄り添い、輝いていた者達。
守るために戦い続けた青年と、守られながらも最後は自分で歩き出した女性。そして二人を見守り続けた小さな存在。
一番近い観客でありたくて自身を登場人物として存在したけれど、彼女達の紡いだ物語は想像思っていた以上に彼の心を捉えていている。
暫く物思いに耽っていたけれど、やがて時見はゆるやかに首を振った。
「『物語』だった、ではないな。彼女の『物語』はこれからも続いていくのだから」
彼女は現実に戻り、歩き始めた。
兄と小さな友が灯してくれた星の輝きを導きに、新たな物語を紡ぎ始めた。
やがて彼女は辿り着くだろう。
いつか見た夢の場所に。温かな想いに溢れた、彼女達の願った『もしも』の姿に。
勿論、全く同じ物にはならない。失われてしまったものは、彼を以てしても、もう戻せない。
けれど悩みながらだって、彼女はきっと見つけ出す。
『もしも』から続いていく、新しい……本当の、彼女の夢が結実した場所を。
「……もう少し、彼女を見守ってもいいかもしれないな」
今はまだ大変そうだし、彼女はあの地に戻っていないから。
もう少ししたら、いずれ彼女の元を訪れてみようか。
勿論、彼女の好きな甘いものを持参して。
設定した役回りのはずだったけれど、存外に自分は彼女に魅入られていたのかもしれない。
そんなことを想うと思わず唇には笑みが浮かぶ。
彼はもう一度空を見上げた。
澄み渡った蒼い空の下、吹き行く風は彼女のいる場所へと繋がっている。
何れ彼女と再び会う日がそう遠くないことを願いながら、彼は誰に聞かせるでもなく呟いた。
「彼女の物語には何と名づけようか。そうだな、名づけるならば……」
◇ ◇ ◇
真夏の眩い光が照り付ける中、セイはバスから降りた後暫く歩みを進めていた。
手にした荷物は左程多くないけれど、夏の暑さの中の行軍に汗は次々と浮かんでは流れていく。
北海道の夏は涼しくていいね、という人々に大いに異議を唱えたいなど取り留めもないことを考えながら、やがて彼女はそこへと辿り着く。
事前に預かっていた鍵で門にかけられていた鍵を開けて、中へと足を踏み入れる。
胸を突くほどの懐かしさを覚える光景が、セイの前に広がっている。
函館によくある和洋折衷の古民家に、一階に増築された硝子張りの工房。
降り注ぐ日の光を浴びて輝く翠と咲き誇るツツジの花の鮮やかな彩。
幼き日の思い出の象徴でもあり、彼女を守ってくれた優しい束の間の夢の舞台でもあった、セイにとって大切な場所に漸く彼女は戻ってこられたのだ。
祖父の知己である職人のもとに弟子入りし、基礎からしっかりと硝子作りを学ばせてもらった。
師となった人は、セイが殊にステンドグラス作りに才を持つと褒めてくれて、さすがあの人の孫だと笑ってくれたのが、とても嬉しかった。
母とはあれ以来、一切連絡をとっていない。
父から伝え聞く様子では、それなりに元気にやっているようだ。
それ以上は聞いてはいない。
父も話そうとしなかったし、セイも聞きたいとは思わない。それでいいのだと思う。
学び修めて、とうとうやってきた今日は、セイが祖父の遺した工房の主になる日だ。
市役所の中でいくつか係をはしごして、必要な手続きを済ませてきた。
午後には引っ越し業者が荷物を運んでくるし、叔母や父も手伝いにきてくれる。
ガスの開栓を始めとした色々な手続きも、幸運なことに今日の内にはできるらしい。
あれこれとすることが沢山あってしばらく忙しいと、気合を入れようと頬を軽く叩いて一歩踏み出した時。
『おかえり、セイちゃん』
木立を揺らして吹き抜ける風の中に、懐かしい声が聞こえた気がした。
甘えるような小さな鳴き声が、耳に届いた気がした。
突き抜けるような蒼い空を見上げながら、輝くような笑顔を見せて言った。
「ただいま、お兄ちゃん、つつじ」
姿は見えないけれど、そこに彼らが居てくれている気がする。
少し時間がかかってしまったけれど、新しい夢が始まる場所へ戻ってきたセイを出迎えていてくれる。
セイは、そう思う。
そうだ、とセイはバッグの中を探り始めたかと思えば。
取り出したのは財布だったが、セイの指は更にそれを探り……一枚のカードを取り出した。
「見えているかな? 私、本当に『セイ』になったんだよ?」
セイが手にしたのは、免許証だった。
もう『余』じゃないんだよ、と口にしながら免許証を見せるように空にかざして、セイは笑う。
そこには、兄と同じ苗字の続きに……兄が付けてくれた名があった。
セイは、名前を変えたいと申し出た。
どうしても、母に付けられた余りものの名前ではなく、兄からもらった名前を名乗りたかったのだ。
名前を変えるというのは非常に手続き的にも難しく、大変だった。
けれど、父にも叔母にも、その他に法的なことに詳しいという知り合いにまで沢山手助けを受けて、ついに改名に至った。
法律とは兎角難しく複雑だった、としみじみと語りながら、セイは改めて工房を外から見回した。
小さい頃過ごした、懐かしい場所。
あの夢の日々を過ごした、愛しい場所。
何れ辿り着く夢のスタート地点となる場所にて、セイは深く息を吸い込んだ。
目を閉じれば、蘇るのはあの不思議な工房での日々。
趣味に熱中すると時間を忘れる、手間のかかる硝子職人のセイがいて。
セイと工房を管理してくれる、しっかりものの仮面のヨルがいて。
愛らしく心を癒してくれる、可愛い猫のつつじがいた。
取り戻したい日々は、あの日々で。けれど、同時に戻ってこないことも知っている。
彼らはもう居ないから、あの日々をそのまま取り戻すことはどうしたって叶わない。
でも。
「ヨルとつつじが、見ていたら楽しそうでたまらなくて来ちゃった! っていうぐらい場所にするんだから!」
思い描いていることは沢山あるが、まずは引っ越しを終わらせてしまうところから、とセイは頷いた。
日常生活を支障なく送れるようなったら、工房に手を入れよう。
再開した硝子工房で、一番初めにすることはもう決まっていた。
「まずは、あの星を治そう」
欠片になってしまった、蒼い星。
壊れてしまって、それでもヨルが大事に持っていてくれた夜空色の硝子たち。
セイを導いてくれた、大切な星をあのままにしておきたくないのだ。
その後は、世話になった叔母さんやお父さんに何かを作って贈りたい。
それに、由紀子さんはどうしているだろう。ご挨拶にちゃんと伺いたい。
工房の運営に目途が付いたら、体験教室とかを試みてもみたいし……。
やらなければならないことは山のようにある。
やりたいとおもうことも山のようにある。
どれから、どうしていこうか。決めるのも、今は自分なのだ。
自分が選んで、考えて。自分で決められることが堪らなく愛しいと思う。
それで時々後から悔いることも勿論あるけれど、それもまた自分故であるならば受け入れられる。
セイは今、セイの人生を精一杯に生きている。
自信を持って、今はそう言える――。
セイが修行に打ち込んでいる間、世界には大きな悲しみがふりかかり、世界は在り方を大きく変えてしまった。
悲しい事だらけになって、先が見えないほど暗い事だらけになって。
それでも、人はその先に光があることを信じて、進んでいる。
暗闇の向こうに導きの星を見出して、歩き続けている。
ピースを一つずつ繋げて、未来を作ろう。
欠けてしまっても、壊れてしまっても。完全に元の形には戻らなくても。
少しだけ変わってしまったとしても、まだ始められる。
きっと、やり直せる。そしてまた、いつか辿り着ける。
だから、セイはこの先も歩き続けていくだろうと思う。
この、海が見える街の硝子工房にて。
君がくれた輝く星を導きとした軌跡を、君がくれた奇跡をこの胸に抱いて――。
石畳の道を一人の男性が何気ない様子で歩いている。
時折すれ違う女性達が振り返ることがあるのだが、本人は全く気にした様子がない。
ただ泰然とした様子を崩さぬまま歩いていたが、ふと立ち上がり空を見上げる。
見上げた先には鳥たちが飛び交う、雲一つない蒼い空。
「いやあ、流石に連綿と続いた悪意とは恐ろしいものだったな」
大きく息を吐きながら、時見と呼ばれる男性は肩を竦めて呟いた。
言葉こそ相当な苦労をしたような内容ではあるが、言っている本人は全くくたびれた様子はない。
むしろ楽しかったと鼻歌でも歌いそうな余裕が見られる。
「良い『物語』だった」
海の上を走り吹きすぎる、潮の香りを含む風に目を細めながら、時見はしみじみと言った。
彼が脳裏に巡らせるのは、作り上げた仮初の世界にて一生懸命に寄り添い、輝いていた者達。
守るために戦い続けた青年と、守られながらも最後は自分で歩き出した女性。そして二人を見守り続けた小さな存在。
一番近い観客でありたくて自身を登場人物として存在したけれど、彼女達の紡いだ物語は想像思っていた以上に彼の心を捉えていている。
暫く物思いに耽っていたけれど、やがて時見はゆるやかに首を振った。
「『物語』だった、ではないな。彼女の『物語』はこれからも続いていくのだから」
彼女は現実に戻り、歩き始めた。
兄と小さな友が灯してくれた星の輝きを導きに、新たな物語を紡ぎ始めた。
やがて彼女は辿り着くだろう。
いつか見た夢の場所に。温かな想いに溢れた、彼女達の願った『もしも』の姿に。
勿論、全く同じ物にはならない。失われてしまったものは、彼を以てしても、もう戻せない。
けれど悩みながらだって、彼女はきっと見つけ出す。
『もしも』から続いていく、新しい……本当の、彼女の夢が結実した場所を。
「……もう少し、彼女を見守ってもいいかもしれないな」
今はまだ大変そうだし、彼女はあの地に戻っていないから。
もう少ししたら、いずれ彼女の元を訪れてみようか。
勿論、彼女の好きな甘いものを持参して。
設定した役回りのはずだったけれど、存外に自分は彼女に魅入られていたのかもしれない。
そんなことを想うと思わず唇には笑みが浮かぶ。
彼はもう一度空を見上げた。
澄み渡った蒼い空の下、吹き行く風は彼女のいる場所へと繋がっている。
何れ彼女と再び会う日がそう遠くないことを願いながら、彼は誰に聞かせるでもなく呟いた。
「彼女の物語には何と名づけようか。そうだな、名づけるならば……」
◇ ◇ ◇
真夏の眩い光が照り付ける中、セイはバスから降りた後暫く歩みを進めていた。
手にした荷物は左程多くないけれど、夏の暑さの中の行軍に汗は次々と浮かんでは流れていく。
北海道の夏は涼しくていいね、という人々に大いに異議を唱えたいなど取り留めもないことを考えながら、やがて彼女はそこへと辿り着く。
事前に預かっていた鍵で門にかけられていた鍵を開けて、中へと足を踏み入れる。
胸を突くほどの懐かしさを覚える光景が、セイの前に広がっている。
函館によくある和洋折衷の古民家に、一階に増築された硝子張りの工房。
降り注ぐ日の光を浴びて輝く翠と咲き誇るツツジの花の鮮やかな彩。
幼き日の思い出の象徴でもあり、彼女を守ってくれた優しい束の間の夢の舞台でもあった、セイにとって大切な場所に漸く彼女は戻ってこられたのだ。
祖父の知己である職人のもとに弟子入りし、基礎からしっかりと硝子作りを学ばせてもらった。
師となった人は、セイが殊にステンドグラス作りに才を持つと褒めてくれて、さすがあの人の孫だと笑ってくれたのが、とても嬉しかった。
母とはあれ以来、一切連絡をとっていない。
父から伝え聞く様子では、それなりに元気にやっているようだ。
それ以上は聞いてはいない。
父も話そうとしなかったし、セイも聞きたいとは思わない。それでいいのだと思う。
学び修めて、とうとうやってきた今日は、セイが祖父の遺した工房の主になる日だ。
市役所の中でいくつか係をはしごして、必要な手続きを済ませてきた。
午後には引っ越し業者が荷物を運んでくるし、叔母や父も手伝いにきてくれる。
ガスの開栓を始めとした色々な手続きも、幸運なことに今日の内にはできるらしい。
あれこれとすることが沢山あってしばらく忙しいと、気合を入れようと頬を軽く叩いて一歩踏み出した時。
『おかえり、セイちゃん』
木立を揺らして吹き抜ける風の中に、懐かしい声が聞こえた気がした。
甘えるような小さな鳴き声が、耳に届いた気がした。
突き抜けるような蒼い空を見上げながら、輝くような笑顔を見せて言った。
「ただいま、お兄ちゃん、つつじ」
姿は見えないけれど、そこに彼らが居てくれている気がする。
少し時間がかかってしまったけれど、新しい夢が始まる場所へ戻ってきたセイを出迎えていてくれる。
セイは、そう思う。
そうだ、とセイはバッグの中を探り始めたかと思えば。
取り出したのは財布だったが、セイの指は更にそれを探り……一枚のカードを取り出した。
「見えているかな? 私、本当に『セイ』になったんだよ?」
セイが手にしたのは、免許証だった。
もう『余』じゃないんだよ、と口にしながら免許証を見せるように空にかざして、セイは笑う。
そこには、兄と同じ苗字の続きに……兄が付けてくれた名があった。
セイは、名前を変えたいと申し出た。
どうしても、母に付けられた余りものの名前ではなく、兄からもらった名前を名乗りたかったのだ。
名前を変えるというのは非常に手続き的にも難しく、大変だった。
けれど、父にも叔母にも、その他に法的なことに詳しいという知り合いにまで沢山手助けを受けて、ついに改名に至った。
法律とは兎角難しく複雑だった、としみじみと語りながら、セイは改めて工房を外から見回した。
小さい頃過ごした、懐かしい場所。
あの夢の日々を過ごした、愛しい場所。
何れ辿り着く夢のスタート地点となる場所にて、セイは深く息を吸い込んだ。
目を閉じれば、蘇るのはあの不思議な工房での日々。
趣味に熱中すると時間を忘れる、手間のかかる硝子職人のセイがいて。
セイと工房を管理してくれる、しっかりものの仮面のヨルがいて。
愛らしく心を癒してくれる、可愛い猫のつつじがいた。
取り戻したい日々は、あの日々で。けれど、同時に戻ってこないことも知っている。
彼らはもう居ないから、あの日々をそのまま取り戻すことはどうしたって叶わない。
でも。
「ヨルとつつじが、見ていたら楽しそうでたまらなくて来ちゃった! っていうぐらい場所にするんだから!」
思い描いていることは沢山あるが、まずは引っ越しを終わらせてしまうところから、とセイは頷いた。
日常生活を支障なく送れるようなったら、工房に手を入れよう。
再開した硝子工房で、一番初めにすることはもう決まっていた。
「まずは、あの星を治そう」
欠片になってしまった、蒼い星。
壊れてしまって、それでもヨルが大事に持っていてくれた夜空色の硝子たち。
セイを導いてくれた、大切な星をあのままにしておきたくないのだ。
その後は、世話になった叔母さんやお父さんに何かを作って贈りたい。
それに、由紀子さんはどうしているだろう。ご挨拶にちゃんと伺いたい。
工房の運営に目途が付いたら、体験教室とかを試みてもみたいし……。
やらなければならないことは山のようにある。
やりたいとおもうことも山のようにある。
どれから、どうしていこうか。決めるのも、今は自分なのだ。
自分が選んで、考えて。自分で決められることが堪らなく愛しいと思う。
それで時々後から悔いることも勿論あるけれど、それもまた自分故であるならば受け入れられる。
セイは今、セイの人生を精一杯に生きている。
自信を持って、今はそう言える――。
セイが修行に打ち込んでいる間、世界には大きな悲しみがふりかかり、世界は在り方を大きく変えてしまった。
悲しい事だらけになって、先が見えないほど暗い事だらけになって。
それでも、人はその先に光があることを信じて、進んでいる。
暗闇の向こうに導きの星を見出して、歩き続けている。
ピースを一つずつ繋げて、未来を作ろう。
欠けてしまっても、壊れてしまっても。完全に元の形には戻らなくても。
少しだけ変わってしまったとしても、まだ始められる。
きっと、やり直せる。そしてまた、いつか辿り着ける。
だから、セイはこの先も歩き続けていくだろうと思う。
この、海が見える街の硝子工房にて。
君がくれた輝く星を導きとした軌跡を、君がくれた奇跡をこの胸に抱いて――。
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