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第一章 第五節
腐臭
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世緒の儀式から三日が経ったが、天威皇子の容態についての知らせはまだ何も届いていない。あれほど興奮していた薄紫ノ僧らにも日常が戻り、澄史もいつも通り下級の青ノ僧に聖典の講義するため学舎へ向かっているところだった。
(今日はいい天気だな。)
見上げると、雲一つない青空が広がっており、中庭の燃えるような赤い紅葉と美しい対比をなしている。遠くからする甲高い鳥のさえずりのほかは何も聞こえてこない。穏やかな秋の日を存分に味わうかのように、澄史はひとつ深呼吸をした。煙の匂いとともに、肺にまとわりつくようなねっとりとした甘い花の香り。『清蓮』という名の、忠清寺に古くから伝わる魔除けの香だ。寺中の至るところで炊かれているので、四六時中どこへ行ってもこの香りが漂っている。決して嫌な香りではないのだが、むせかえるようなきつい甘さが澄史は少し苦手だった。深く吸い込みすぎたその匂いに若干顔をしかめながら、澄史は青ノ僧の棟へと続く小さな橋を渡った。
と、ふと右手に見える学舎に目がいった。障子がすべて開いており、中の様子が丸見えになっている。そこには、十五、六歳くらいの白い僧衣を纏った五人の青年たちが並んで仁王立ちしており、その向かいに少し年下らしい灰色の僧衣の少年たちが三人、緊張した面持ちで正座している。
(あれは経稽古の時間だな…)
経稽古というのは、経を暗記してすらすらと唱えられるようになるための鍛錬のことだ。上位の僧が下位の僧を指導することになっている。上位の僧にとってはすでに学んだ経なので、彼らにとってもよい復習となるというしくみだ。
真ん中に立っているひときわ背の高い青年が、左端の、一番縁側に近いところに座っている小柄な少年を指さして何か言った。彼が立ち上がると、そのか細い足がかすかに震えているのが見える。彼は意を決したように真っ直ぐ前を見据えると、両手を合わせ、経を唱え始めた。彼の声は澄史まで届かなかったが、口の動きからなんとなくどの経を唱えているのか分かる。
と、突然その少年の口の動きが止まった。おそらく、経の文言を途中で忘れてしまったのだろう。遠くからでも、その瞬間部屋中に氷りついたような空気が流れたのが分かる。少し間をおいて、先ほどの年長の青年が険しい表情で何か言い放った。彼がうつむく。両者が黙り込み、恐ろしいほどの緊張感がその場を満たした。
「黙ってるんじゃねえ!!」
澄史にまで聞こえてくるほどの怒鳴り声が沈黙を切り裂いた。ぴくりと少年が身体を震わせる。
「…ん回目だと……って言っただろうが!……てんのか!!この役立たずの負け犬が!!」
青年は怒鳴り散らしながら少年の前までずんずん歩いてくると、大きく腕を振り上げ彼の頬を殴った。少年が反動で倒れ込む。隣で正座していたもう一人の少年がびくんと飛び上がって倒れてきた彼の身体を避けた。それを見た年長の青年は、この隣の少年の襟元に手をかけ、再び怒鳴りはじめた。
「そもそもお前たちが……が!!自分…関係ないみたいに……てんじゃねえぞ!舐めてんのか!」
それを合図にしたように、傍観していたほかの青年たちが、その場で消え入るように小さくなっていた残りの一人の少年に近づくと、その髪を掴んで頭をぐいと畳に打ち付けた。
「お前らは全員……だ!恥晒しに……罰が…ぞ!」
畳に投げ出された三人の少年たちは、口元に嫌な笑みを浮かべた青年らにぐるりと取り囲まれた。澄史が目を背けた瞬間、ドサッという鈍い音と押し殺した呻き声が聞こえてきた。澄史には、次に何が起こるか容易に想像がついた。恐らくあの少年たちは、血を吐くまで何度も蹴られ続け、血を吐いたら「穢れ」と罵られ、「清めのため」と称して中庭の池に頭から沈められる。窒息寸前まで。泣いて謝っても、許しを乞うても、それは青年たちの嗜虐心を煽るだけなのだ。澄史自身も、今までこのような現場に幾度も居合わせた。級友が読経を言いよどんだときの凍りつくような空気感を思うと、今でも腹の底が締め付けられるような恐怖を感じる。あの張り詰めた空気も、上位の僧の怒鳴り声も暴力も、すべてが恐ろしくてたまらなかった。しかし、忠清寺ではこれが鍛錬の一部とみなされている。忠清寺の僧たるに相応しい、揺るぎない強さを得るための正義だと。だがこのような場面に出くわす度、澄史の中にはいつも、憤りの混じった問いが浮かび上がってくる。
(寺の教えも修行も、すべては人々を救い守るためのものじゃないのか?それを、誰かを苦しみに陥れる口実に使っていては、それこそ教えに背いているんじゃないのか。)
それでも、澄史は異を唱えるほどの勇気も無鉄砲さも持ち合わせてはいなかった。ただひとつできたのは、毎日狂ったように修行に打ち込み、誰からも距離を置かれるほどの優秀な僧になって、このような腐った正義に関わらなくてよいようにすることだった。実際、『第二の神童』と呼ばれ周りから一目置かれていた澄史は、悪口は言われても、上位の僧から暴力を振るわれることはなかったし、自分が上位の僧として下位の僧を指導する際も、周りが彼らを殴っているからといって自分もそれに参加せねばならないという圧力を感じたこともなかった。
(俺は、ただの弱虫だ。)
日々疑問を感じながらも、自ら築き上げた偉業を盾に己だけを守って、声を上げることもしない。空隆のように、ここを捨てる勇気もない。そんな自分に対する情けなさと憤りはいつも心の奥底に巣食っていて、先ほどのような場面を見る度に胸がじりじりと疼く。自分には、ただ目を背け、すべてを殺して修行に没頭することしかできない。
ふと、この寺中に漂うあのねっとりとした清蓮の香りは本当は魔除けなどではなく、ここに染みついた腐臭を隠すためのものではないか、と澄史は思った。
青ノ僧の学舎へと急ぐ彼の耳に、青年たちの蛮声と、かすかな泣き声が聞こえてきた。
(今日はいい天気だな。)
見上げると、雲一つない青空が広がっており、中庭の燃えるような赤い紅葉と美しい対比をなしている。遠くからする甲高い鳥のさえずりのほかは何も聞こえてこない。穏やかな秋の日を存分に味わうかのように、澄史はひとつ深呼吸をした。煙の匂いとともに、肺にまとわりつくようなねっとりとした甘い花の香り。『清蓮』という名の、忠清寺に古くから伝わる魔除けの香だ。寺中の至るところで炊かれているので、四六時中どこへ行ってもこの香りが漂っている。決して嫌な香りではないのだが、むせかえるようなきつい甘さが澄史は少し苦手だった。深く吸い込みすぎたその匂いに若干顔をしかめながら、澄史は青ノ僧の棟へと続く小さな橋を渡った。
と、ふと右手に見える学舎に目がいった。障子がすべて開いており、中の様子が丸見えになっている。そこには、十五、六歳くらいの白い僧衣を纏った五人の青年たちが並んで仁王立ちしており、その向かいに少し年下らしい灰色の僧衣の少年たちが三人、緊張した面持ちで正座している。
(あれは経稽古の時間だな…)
経稽古というのは、経を暗記してすらすらと唱えられるようになるための鍛錬のことだ。上位の僧が下位の僧を指導することになっている。上位の僧にとってはすでに学んだ経なので、彼らにとってもよい復習となるというしくみだ。
真ん中に立っているひときわ背の高い青年が、左端の、一番縁側に近いところに座っている小柄な少年を指さして何か言った。彼が立ち上がると、そのか細い足がかすかに震えているのが見える。彼は意を決したように真っ直ぐ前を見据えると、両手を合わせ、経を唱え始めた。彼の声は澄史まで届かなかったが、口の動きからなんとなくどの経を唱えているのか分かる。
と、突然その少年の口の動きが止まった。おそらく、経の文言を途中で忘れてしまったのだろう。遠くからでも、その瞬間部屋中に氷りついたような空気が流れたのが分かる。少し間をおいて、先ほどの年長の青年が険しい表情で何か言い放った。彼がうつむく。両者が黙り込み、恐ろしいほどの緊張感がその場を満たした。
「黙ってるんじゃねえ!!」
澄史にまで聞こえてくるほどの怒鳴り声が沈黙を切り裂いた。ぴくりと少年が身体を震わせる。
「…ん回目だと……って言っただろうが!……てんのか!!この役立たずの負け犬が!!」
青年は怒鳴り散らしながら少年の前までずんずん歩いてくると、大きく腕を振り上げ彼の頬を殴った。少年が反動で倒れ込む。隣で正座していたもう一人の少年がびくんと飛び上がって倒れてきた彼の身体を避けた。それを見た年長の青年は、この隣の少年の襟元に手をかけ、再び怒鳴りはじめた。
「そもそもお前たちが……が!!自分…関係ないみたいに……てんじゃねえぞ!舐めてんのか!」
それを合図にしたように、傍観していたほかの青年たちが、その場で消え入るように小さくなっていた残りの一人の少年に近づくと、その髪を掴んで頭をぐいと畳に打ち付けた。
「お前らは全員……だ!恥晒しに……罰が…ぞ!」
畳に投げ出された三人の少年たちは、口元に嫌な笑みを浮かべた青年らにぐるりと取り囲まれた。澄史が目を背けた瞬間、ドサッという鈍い音と押し殺した呻き声が聞こえてきた。澄史には、次に何が起こるか容易に想像がついた。恐らくあの少年たちは、血を吐くまで何度も蹴られ続け、血を吐いたら「穢れ」と罵られ、「清めのため」と称して中庭の池に頭から沈められる。窒息寸前まで。泣いて謝っても、許しを乞うても、それは青年たちの嗜虐心を煽るだけなのだ。澄史自身も、今までこのような現場に幾度も居合わせた。級友が読経を言いよどんだときの凍りつくような空気感を思うと、今でも腹の底が締め付けられるような恐怖を感じる。あの張り詰めた空気も、上位の僧の怒鳴り声も暴力も、すべてが恐ろしくてたまらなかった。しかし、忠清寺ではこれが鍛錬の一部とみなされている。忠清寺の僧たるに相応しい、揺るぎない強さを得るための正義だと。だがこのような場面に出くわす度、澄史の中にはいつも、憤りの混じった問いが浮かび上がってくる。
(寺の教えも修行も、すべては人々を救い守るためのものじゃないのか?それを、誰かを苦しみに陥れる口実に使っていては、それこそ教えに背いているんじゃないのか。)
それでも、澄史は異を唱えるほどの勇気も無鉄砲さも持ち合わせてはいなかった。ただひとつできたのは、毎日狂ったように修行に打ち込み、誰からも距離を置かれるほどの優秀な僧になって、このような腐った正義に関わらなくてよいようにすることだった。実際、『第二の神童』と呼ばれ周りから一目置かれていた澄史は、悪口は言われても、上位の僧から暴力を振るわれることはなかったし、自分が上位の僧として下位の僧を指導する際も、周りが彼らを殴っているからといって自分もそれに参加せねばならないという圧力を感じたこともなかった。
(俺は、ただの弱虫だ。)
日々疑問を感じながらも、自ら築き上げた偉業を盾に己だけを守って、声を上げることもしない。空隆のように、ここを捨てる勇気もない。そんな自分に対する情けなさと憤りはいつも心の奥底に巣食っていて、先ほどのような場面を見る度に胸がじりじりと疼く。自分には、ただ目を背け、すべてを殺して修行に没頭することしかできない。
ふと、この寺中に漂うあのねっとりとした清蓮の香りは本当は魔除けなどではなく、ここに染みついた腐臭を隠すためのものではないか、と澄史は思った。
青ノ僧の学舎へと急ぐ彼の耳に、青年たちの蛮声と、かすかな泣き声が聞こえてきた。
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