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馴れ初め編/第三章 不明瞭な心の距離

36.仕返しは優しく

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 國枝が発する一言で、心はかき乱され、思考が振り回される。
 千優はたった数か月の間に、もう何度目かわからない程、その状況を己で体感していた。
 沸騰した体温と精神が落ち着きを取り戻し始めた頃、代わりに羞恥心という名の大波が襲いくることが難点だったりする。
 もし許されるなら、その場に寝転がりダダをこねる子供のごとく、ジタバタと内から溢れる熱を発散させたい衝動に駆られるくらいには、恥ずかしいのだ。
 しかし、アラサーにもなった大人が、そんな醜態を晒すわけにもいかず、千優は心の内にあるすべての理性を集約させ、出来る限りの防波堤を築き耐え忍んだ。





 今日はただでさえ普段より口数の少ない千優は、國枝の発言により完全に口を閉ざした。
 彼女が出来ることと言えば、次々と湧き上がる熱を全身から放出し続けることくらい。
 つい先程まで、正面から見つめていたはずの彼の姿を直視出来ず、あからさまに視線をそらす。

(あー、もう……何なんだ、本当にこの人……)

 吐き出せない溜め息を体内でどうにか消化しつつ、そらしていたはずの視線が無意識に運転席へ向く。
 完全に意識の外へ蹴りだしたはずなのに、彼の様子を気にしている。自分の心と相反して動く体に、ほんの少しだけ苛立ちを覚えた。
 そんな状況の中、これまでとは打って変わり上機嫌な笑みを浮かべる彼が、視界の端に映り込む。

「っ、や、やなひはん、何して……っ」

「仕返しです。色々と」

 これまで散々振り回されてきた場面が、走馬灯のように脳内を巡る。
 一つ一つは小さな欠片でも、塵も積もれば山となるとは、まさにこのことだろうと、ぼんやり考える自分がいた。
 そして気づいた時には、ずっと避けてきた國枝の姿をしっかり両目でとらえ、溜まった鬱憤をぶつけるように、彼の頬を掴み、ムニムニとつねっていた。
 千優の唐突過ぎる行動に、鳩が豆鉄砲を食ったような表情を浮かべた彼と目が合う。

 本当は、もうこれ以上國枝の悪戯心が疼かないように対策したいところだ。
 しかし、そんな名案を千優が思いつくはずもない。
 止めどない羞恥の波に溺れる思考で必死に考えた結果が、子供の仕返しとはなんとも情けない。

 これで少しは懲りてくれるかもしれない、と千優は男の頬を摘まむ指の力を緩めた。
 
「なっ!」

 すると、これを待っていましたとばかりに、突如目の前へ二本の腕がのびてくる。
 本能的に後退るものの、シートベルトによって助手席に固定された身体では、それも無意味だ。
 臆するあまり、自分ではない頬の感触を楽しんでいたはずの指先は、気づけば空を切った。

「な、なにひてん……ふにしゃ……っ」

 本当に、何をしているんですか國枝さん。
 そう問いかけたはずが、上手く音を紡げていない。
 國枝の指先が頬を摘まみ、千優の頬をとらえているからだ。
 その指先は、じつに楽しそうな様子で縦横矛盾に彼女の頬を弄んでいる。
 自分の意思に反し伸び縮みする皮膚が若干痛いが、今は何も言えない。

 今しがたこちらがしていた行為が、そのまま跳ね返ってくるとは思いもしなかった。
 そんな状況を目の当たりにし、驚くなという方が無理だ、
 しばし唖然と目を見開く千優とは対照的に、國枝は至極楽しそうに微笑んでいる。

(うぅ。こうなったら……っ!)

 先程発散された心のモヤが、思いもよらない國枝の反撃によって舞い戻ってきた。
 それを受け、千優が真っ先に感じたのは、戸惑いを越えた怒り。
 何故自分ばかりと、心の奥底でくゆる理不尽に対する熱が、一度引っ込んだはずの手を再び動かす。

「ちょ、やなひひゃん」

 ずっと心に感じていた歯がゆさに突き動かされ、千優は再び國枝の頬へ手をのばした。





 その後、互いに一歩も引く様子は無く、二人はただ相手を見つめ、その頬を弄び続けた。
 止めて欲しいと千優は数回主張してみたものの、こちらが止めたら離すと言って國枝は耳を傾けようとしない。
 先に手を離すことは、負けを意味するような気がしたため、千優も力を緩めようとはしなかった。

「ぷっ、柳ちゃんったら、変な顔」

「國枝しゃん、だって。っ、はは」

 互いに、己の手で作り上げられる相手の変顔を散々堪能した後、先に國枝が白旗を上げる。
 一度口から零れた笑いは止まらず、しばしクスクスと二人一緒に笑い続けた。
 コンビニエンスストアの駐車場。その片隅で互いの頬っぺたを摘まみあう男女というのは、傍から見ると如何なものか。
 そんな、頭の片隅で抱いた疑問すら忘れ、千優は間近で楽しそうにケラケラと笑う國枝を見つめ、自分も笑いを零す。
 薄っすら赤く染まった彼の両頬が、少しだけ愛おしく思えた。


 國枝に対し抱いていた怒りやモヤモヤは、思いっきり笑ったことで昇華した様だ。
 いつも通りの思考と、平穏な心が戻ってきたことに安堵する。その一方で、新たな問題が千優の脳内を駆け巡る。
 冷静さを取り戻したせいか、今しがた車内で起こったアレコレが猛烈に恥ずかしくなった。

「うぅ……」

 呻きながら両手で顔を覆い隠し俯く。すると、心の奥底から湧き上がる熱が上手く発散されていないようで、触れた頬は異常に熱かった。
 國枝の態度に苛立ったとは言え、自分は何をしているのだろうと、極めて冷静な意識が分身と化し、脳内で溜め息を吐く。

「柳ちゃん、せっかくだし……何か飲み物、買っていく?」

「……?」

 頭上から降り注ぐ声に、ゆっくり顔を覆っていた手を離した。そして、重苦しい頭を気合であげ横を向くと、顔に笑みを浮かべた國枝と目が合う。
 こちらを気遣っての提案なのは明らかだった。
 今は何も言わず、彼の言葉を有難く受け入れるべきと判断し、半ば頷きかけた。
 しかし、その動きはすぐさま止まる。こちらを見つめる彼の笑顔が、溢れんばかりに輝いているのを目撃したからだ。
 もしかしなくても、彼は今の状況を喜んでいるのだろうか。しかも、それを隠そうともしないで。

(こっちが必死にあれこれ悩んでるって言うのに……っ!)

 再び噴出した苛立ちを抑えきれず、気づけば國枝の胸元を殴りつけていた。
 一瞬息を呑む音が聞こえたが、そんなことに構うこと無く、千優は一足先に助手席のドアを開け車の外へ出る。
 一応手加減はしたと、自身の行動を心の中で正当化しながら。
 シートベルトを外す際目にした、腑抜けたような頬を緩ませる男の顔を、頭の片隅に追いやりながら。





 國枝を引き連れるような形で、千優はコンビニエンスストアの店内へ入った。
 すっかり心の余裕を無くした彼女は、店員の声を上辺だけ聞き流し、火照る顔を隠そうと俯いたまま、ズンズンとドリンクコーナーを目指す。
 やけに熱い身体を冷やすにはどうすればいいかと考え、目の前に並ぶ商品の中から、短絡的だが紅茶の入ったペットボトルへ手をのばした

「え?」

 すると、千優がそれを手に取る前に、彼女のものより大きな手が目的の品を掻っ攫っていく。
 突然目の前から商品が消えた光景に驚きながら、千優は勢いよく背後をふり返った。
 その視線の先では、ニコニコと上機嫌に笑う國枝が自分を見下ろす。

「柳ちゃんは、これでいいの?」

「あ、はい……って、返してください。自分で払います!」

「えー、いいじゃなーい。奢らせてちょうだいよ」

「何言ってるんですか! 自分の分は、自分で出します」

 コテン、と小首を傾げ投げかけられる言葉が脳を刺激し、反射的に頷いてしまう。
 だが次の瞬間、それではマズいと即座に判断した千優は、思わず彼の手からペットボトルをひったくる勢いで奪い取った。
 そんな彼女の行動に、数秒きょとんと驚きの表情を浮かべる國枝だったが、特に怒る様子は無い。かわりに、その口元は不満げに尖り、唇が突き出される。

(か、可愛い顔したって、渡さない!)

 予想外の出来事に一瞬で引いたと思っていた顔の火照りがぶり返す。
 自分より身長が高く、年上の男に対し、こんな感情を抱くことなどあって良いのかと、不意に疑問を抱く。

 出会ってからずっと、國枝は千優に甘かった。
 その加減を、ここ最近彼は見誤っている気がしてならない。
 好意と厚意が綯交ぜになったそれは、いつもこちらの心を真綿で包みこみ、時折ツンツンといたずらに突いてくる。
 それらの刺激に対し、マニュアルなど持たぬせいで、千優の心がかき乱されている事を、はたして目の前の男は知っているのだろうか。


 どうにか國枝の手からペットボトルを守り切った千優は、レジで精算を済ませ、車の助手席へ戻った。
 早速キャップを開け口をつければ、丁度良く冷えたストレートティーが喉の奥へ流れていく。
 身体中へ染み渡る心地良さに、飲み口を離した口からは、ホッと吐息が零れた。
 一定の間隔で水分を補給し、心身ともに落ち着いて欲しいと願わずにはいられない。
 その後、足元へ落とした視線をしばし動かし、ボトルホルダーを見つけた千優は、しっかりとキャップを閉めたそれを一旦その中へ差し込んだ。





「さ、て、とー。お嬢様、本日はいかがいたしましょうか?」

 その後、己の会計を済ませ戻ってきた國枝が、助手席へふざけた問いを投げかけてきた。
 彼の言動に若干呆れた視線を向ければ、ノリが悪いと何故か怒られる。
 至極当然の反応をしたはずなのに、どうして彼の感情を変に刺激したのか、千優はよくわからないままだ。

 しばらくして、國枝の口からは映画館や水族館など、デートスポットとしてオーソドックスな候補が続々とあがる。
 その中から、今日行く場所を選べということらしいが、恋愛初心者の千優にとって、どれも馴染みのない所ばかりだ。
 兄弟が多く、有料の娯楽施設とは縁遠かったせいもあるが、テレビに映る煌びやかな場所へ、自ら足を向けようという気になれぬまま、この歳まで来てしまった。
 一人暮らしを始めてから、数回程学生時代の友人や茅乃に連れられ、映画館くらいは行ったことがある。
 しかし、水族館や動物園、テーマパークの類は未経験のまま。

「今上映中なのは……こんな感じ」

 どうしたものかと頭を悩ませていると、視界の端からスマートフォンを持った國枝の腕があらわれる。
 彼が手にしているそれには、現在公開中の映画情報があらすじ付きで表示されていた。
 千優のために調べてくれたらしく、お言葉に甘え國枝と二人で画面の文字をしばし追いかける。
 しかし、どうにも千優のセンサーに反応するような内容は見当たらない。

「出かける場所で、こんなに悩んだのなんて……初めてかも」

 あーでもない、こーでもないと、國枝と意見を交換しながら、更に悩むこと十数分。
 不意に千優の口からポロリと言葉が零れ落ちる。
 普段の彼女なら、こんなに悩むことはない。
 そもそも出掛け先の候補地が少ない上に、家を出る前に向かう場所とそこへ行く目的を決めてしまうからだ。

「そうよー。デートっていうのは大変なの。いっぱい悩んで、いっぱい相談して……でもその分、いや、それ以上に楽しめる。それがデートってやつなのよ」

 なんて、自信満々に國枝は口を開く。
 千優にとって、その言葉が真実か嘘かはわからない。
 だが、彼が嘘をつくはずがない。きっと、本当のことなのだろうと、すんなりと納得する自分がいた。

(……あれ?)

 そして同時に、己より余程多くの情報、そして経験則を持っていると知れば、胸の奥に鈍い痛みを感じた。
 國枝の背後で楽し気に笑う、見覚えの無い女性の影。
 瞬きした次の瞬間消えてしまったモノに、千優はほの暗い感情を覚え、慌てて視線と意識を背けた。
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