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馴れ初め編/第二章 お酒と油断はデンジャラス

14.世話焼き無用

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(どう対処すればいいんだ)

 おつまみセットを渡した日から約二週間。初めて目にし体感する変化に、千優は酷く戸惑っていた。
 最初は気のせいと思っていたモノが、日を追うごとに確信へ変わる感覚。そして付随する疑問が脳裏に大きな疑問符を出現させる。
 連日頭を悩ませるのも限界に近づいたある夜。彼女は意を決して、自宅でオタク活動に勤しんでいるであろう茅乃へ電話をかけた。

「え? ごめん。もう一回言って」

 突然のことにも関わらず、茅乃は文句も言わず千優の相談に乗ると頷いてくれた。
 邪魔をしなくて良かったと思いつつも、もしかしたらこちらに気を遣ってくれているのかと、申し訳なくなる。ここは手短に済ませるのが得策だろう。
 スピーカーモードへ切り替えたスマートフォンをテーブルの上に置き、千優はそのまま発泡酒片手に愚痴混じりの悩みを相談を始めた。
 しかし、電話越し故にこちらの意図が上手く相手へ伝わらない。

「だから……國枝さんが、最近犬みたいになってるんだよ」

「いや、犬みたいって言われてもわかんないから。どこが、どう犬っぽいか説明しなさい」

 スムーズに会話が進まず、無意識にガシガシと頭を掻きながら、どう説明するかと頭を悩ませる。
 思い出すのは、この二週間で体験してきた数々の出来事について。


『あ、柳ちゃん。昨日は本当にありがとう。ねえ、あの中でおすすめってある?』

『おすすめですか? そうですね……』

 社内の廊下で偶然國枝と会い、つまみ談議に花を咲かせたことが始まりだった。

『柳ちゃん、おはよう』

『おはようございます』

 出会えば挨拶を交わし、時折立ち話をする。これまでも時々行ってきたやりとりだ。それ自体は、取り分け疑問に思うような事ではない。
 問題はその回数。
 連日とまではいかないが、言葉を交わす機会は以前より格段に増えている。

 前は、互いの姿を認識しても会釈しすれ違うだけなんて事が多かった。しかし、今はそれが無い。
 ほぼ毎回、國枝はこちらへ近づき声をかけてくる。
 その変化に気づかない程、千優も馬鹿ではない。
 会話自体はいたって普通なのだが、そんなやりとりを、彼はいつも楽しんでいる。
 そんな姿を目の当たりにし、こちらも少しばかり口角が上がってしまうのは仕方のないこと。

 そんなやりとりが続くこと約二週間。
 社内で出会い頭に近づいてくる彼の姿は、まるで主人のもとへ嬉しそうに駆け寄る犬の姿を彷彿とさせることが、目下の悩みである。





 翌日、出社した千優は玄関ロビーで茅乃と遭遇し、そのまま共にエレベーターへ乗り込んだ。
 総務と営業、それぞれ違う部署に在籍する二人は、時折出勤時間が重なれば途中まで一緒に向かうことが多い。

「何? まだ納得してないの?」

「…………」

 友人の顔を目にし、無意識に眉間の皺が深くなる。原因はもちろん、昨夜の電話で納得のいく結論が出なかったせいだ。

(どう見たって犬なのに……)

 ここ数日何度も目にした男の姿を思い出せば、一人で納得し頷きたくなる。しかし、茅乃曰くそれは単なる幻らしい。

「千優の記憶が間違ってることは無い?」

「無い」

「それじゃあ、ただ単に知り合いを見つけたから挨拶をしたとか、立ち話してるだけじゃない? いくらなんでも、犬っぽく見えるって」

 首を傾げ投げかけられる言葉に、千優は首を横にふり否定する。その後続けるのは、昨日から何度も口にしている言葉だ。

「本当に犬っぽいんだよ。耳と尻尾が見えるんだ」

「イケメンのケモ耳はとても美味しいけど……現実に居たら、ただのヤバい奴よ、そんな男」

 両肩をポンと叩かれ、可哀想な子を見るような生温かい眼差しを向けられる。
 もちろん千優だって、現実に犬の尻尾や耳が見えているわけではない。そんな幻が見えてしまう程に、國枝の行動が変だと伝えたいだけなのだ。
 想いを言葉に変換し相手へ届ける。その単純さからは想像しにくい難しさがとても厄介で、心の声が直接届けばいいのにとさえ思える。

 その後も二人で言い合いを続けるうちに、目的階へ到着したエレベーターの扉が開いた。
 営業部が総務部より上の階にあるため、普段は千優が先に降り別れるのだが、今日は用事があると言う彼女と一緒に同じ階で鉄の箱から降りる。
 乗り込む社員とすれ違いながらフロアへ降りると、後から降りたにも関わらず前を歩く茅乃の姿を見つけ、急ぎ足で追いかけた。

「お、噂をすれば」

「え?」

 時折人が行き来する廊下を歩けば、耳に届く声と視界の端に映りこむ前方へ向けられた茅乃の指に意識が向く。
 彼女の指先へ移動する視線の先に、向こうから歩いてくる國枝の姿が瞳に映り込んだ。

(今日も、また会った)

 ここしばらく、会わない方が珍しいと感じてはいたが、これでまた遭遇確率の数値が変化する。
 単なる偶然なのか、それとも何か意図があるのか。
 懇親会以降、國枝絡みで思い悩む機会が増えたせいで、千優の脳内では多くの疑問がループしていた。
 答えが見つからないうちに、また新たな疑問が湧き、次々と増えていく感覚はとても奇妙だ。
 そのうち、何故こんなに自分が思い悩んでいるかと、疑問に思いそうで怖い。

 無意味なものとすべてを放棄すれば、楽になるのだろうか。はたして、そんなことは出来るのだろうか。
 考えれば考える程、ほの暗い思考の海へ意識が沈んでいく気がして、余計に恐怖を感じてしまう。

「……ひろ、千優ったら」

「……っ!」

 思考の海へ落ちかけた意識を、友人の声が引き戻してくれる。
 総務部へ向かうため直進していた足は、いつの間にか動きを止めていた。
 すぐ横からは心配そうな表情の茅乃が、こちらを覗き込んでいる。
 慌てて小声の謝罪をした千優は、ホッと息を吐きながら己の足元へ視線を移す。
 すると、視界に自分と親友以外、第三者の足が映りこんでいることに気づいた。

「……あ」

 急いで顔をあげると、すぐ目の前にその人はいた。つい先程まで数メートル離れた場所に居たはずの國枝だ。

「柳ちゃん、もしかして具合が悪いの?」

「へっ?」

 眉間に皺を寄せ小首を傾げる姿と、思いもよらぬ発言を聞き、驚くあまり千優の口からは、気の抜けた声が漏れる。

「なんだかボーっとしてたから……どれどれ」

「……っ」

 特に具合は悪くないのだが。
 しかし、そう言うよりも早く、彼の顔と手のひらがこちらへ近づいて来た。
 反射的に後退ったものの、言葉では言い表せない緊張のせいで、あまり距離を稼げなかった。
 その結果、千優の額に少しばかり冷たい國枝の手が押し当てられる。

「千優。顔、赤いよ? 熱でもあるの?」

 隣から聞こえてくるのは、からかい混じりの声。動した視線の先には、明らかにこの状況を面白がり、ニヤついた笑みを浮かべる女がいた。

「んー……熱は無いみたいだけど。顔は赤いのよね……やっぱり調子悪いんじゃない? それなら帰った方が……」

「だ、大丈夫です! めちゃくちゃ元気です!」

 本気でこちらを心配そうに見つめる國枝の視線に、このままでは強制的に早退させられると焦った千優は、茅乃への対処を後回しにし、しっかり彼と向き合った。
 何度も頷きながら大丈夫だと繰り返すと、渋々ながら納得してくれたようで、間近にあった顔がスッと離れていく。
 これ以上余計な詮索は無いだろう。

「あら嫌だ」

 二人に気づかれないようホッと安堵の息を吐く千優だったが、突如聞こえた國枝の声にビクンと両肩を震わせる。
 ようやく頬の熱と一緒に緊張が解けかけていたのに、一際大きく脈打つ鼓動のせいで精神が不安定に揺れ動いた。

「ちょっとー、柳ちゃんったら唇荒れてるじゃない。リップクリームは持ってないの?」

「え? あ、はい……持ってない、です」

 再び近づいてくる顔に一歩後退しながら、コクンと首を縦にふる。普段、自分ですらあまり気にしていない事を指摘され、緊張以上に驚きを感じた。
 女子力なんて微々たる程度しかない千優が、リップクリームなど常備しているわけがない。化粧ポーチの中身も、必要最低限しか入れていないのだから。

「仕方ない。それじゃあ、アタシの貸してあげるから。口紅……はつけてないのね」

「ま、待って……っ!」

 千優の静止も聞かず、國枝は素早くスーツの上着ポケットに手を突っ込んだ。その姿に、何故か身の危険を感じ、逃げろと脳が叫び出す。
 エレベーターを降りてから数分と経たぬうちに、心の中で様々な感情がせめぎ合っている。
 そのせいで、千優は軽いパニック状態に陥っていた。そんな彼女の肩を掴むのは、細さの中に無骨さを感じる手。

「こら、逃げないの。上手く塗れないでしょう」

 とにかく何か言葉を紡ごう。その一心で開きかけた唇に固いモノが触れる。
 その感触が、易々と言葉を奪っていった。

「あれ? どうして縦に塗るんですか?」

「口紅と同じように塗るより、こうして塗った方が、皺の間までしっかり保湿出来るんですって。前にネットで見かけてから実践してるの。心なしか普通に塗るよりいい気がするわ」

 すぐそばで言葉を交わす二人の声が、不思議と遠く感じてしまう。
 数秒触れては離れ、また触れる。間近に迫る國枝の顔から目を離せず、口から吐き出されたのは言葉ではなく微かな吐息。
 丁寧すぎる動きは何度もくり返され、リップクリームの感触と、頬に集中した謎の熱だけを脳がやけにはっきりと認識した。
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