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馴れ初め編/最終章 その瞳に映るモノ、その唇で紡ぐモノ

71.美しき戸惑い

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 落ち着け、静まれと願う気持ちとは裏腹に、加速する一方の心音が、体内に響き渡る。
 やけに熱い赤が全身を勢いよく巡り、とりわけ顔を熱くするのは単なる気のせいだろうか。

 彼の顔を見た瞬間、奮い立たせた気持ちは、打ち上げた花火のごとく弾け散った。
 残る煙は静かに揺蕩たゆたい、じわじわと脳内に充満していく。

 それは、まるで麻薬のごとく思考と動きを鈍らせる。

「お、お話が……ありまひゅっ!」

 焦りや不安、そして緊張も相まって、必死の思いで紡ぐ千優だったが、最後の最後で思いきり舌を噛んでしまった。
 唐突に口内へ広がる痛み、そして薄っすらと滲む鉄の味に、じんわりと瞳が潤む。

(あぁ、もう……なんで、こんな時に限って)

 軽い自己嫌悪に陥る彼女だったが、男の上着を掴んだその手を、決して離そうとはしなかった。





 終業時間を過ぎた社内で、このまま立ち話をするのは如何なものか。
 ましてや、残業中の社員と遭遇するかもしれない場所など、もっての外だろう。

 少々冷静になった千優は、おずおずと場所の移動を國枝に願い出た。
 その数分後、二人は社員用の駐車場へ向かい移動を始めた。

 最初は、どこか近くの店にでも入ろうかと、國枝から提案されたのだが、千優は即首を横に振った。
 ただでさえ限界を迎えそうだというのに、赤の他人が居る場所に行くなど、考えられなかった。
 彼女は慌てて、人気のない場所を希望する。
 その願いを聞いた國枝が、悩みぬいた挙句出した選択肢が、自分の車というわけだ。


「…………」

 促されるまま助手席に腰を落ち着けた千優は、一向に解けぬ緊張のせいか、膝に乗せた鞄の口を無意識にギュッと両手で握りしめる。
 緊張はいよいよピークに達し、顔を伏せた彼女は、つい手元ばかりを見つめ口を閉ざしてしまう。

『好きだよ。俺は、お前が……千優が好きだ』

 視界の端々に映りこむ車内の光景が、脳裏にあの日の記憶をよみがえらせた。
 彼が紡いだ言葉も、声も、己の手首を掴んだ細いくせに男らしい手の感触も、不思議なくらいはっきり思い出せる。
 見ているこちらが逃げ出しいと思う熱い眼差しまで。

 すっかり脳裏に焼きついたそれらは、決して消えることがない。
 國枝に関する事柄を一つ思い出せば、芋づる式に彼との記憶が蘇っていく。

(私って、ダメな奴だ……)

 一つ、また一つと心と頭の中で溜まり続けた雫が爆ぜる。
 それは刹那の幸福を彼女にもたらすと同時に、自己嫌悪の種をばらまく。

 自分は与えてもらってばかりで、何一つ彼に返せていない。

 思い出の中にいる國枝が笑う度、胸がギュッと締め付けられる気がし、言い表せない切なさを感じた。





 車に乗ってからしばらくの間、互いに言葉を発することなく、ただ時間だけが過ぎていく。

 話があると声をかけたのは自分だ。きっと國枝は、こちらから話し出すのを待っているのだろう。
 千優は口を閉ざしたまま、自分を奮い立たせることに躍起となる。

 せっかく声をかけ、二人きりになれたのだ。このチャンスを活かさないでどうする。

 暗示にも似た言葉を、何度も頭の中でくり返し唱え続けた。


「あ、あのっ! 私、何か変なことしましたか?」

「……え?」

 ようやく意を決した千優は、緊張のあまり震えるを開き声を発する。
 唇の震えが連動するのか、発した言葉まで落ち着きがない。
 同時に顔をあげると、何故か驚愕の表情を浮かべる國枝と目があった。

 千優が第一に求めたもの。それは、彼が自分を避ける理由だ。

 あの旅行以来、恋愛事に鈍い自分でもわかるくらい、彼の態度が変わってしまった。
 その理由はいくら考えても見つけられず、千優は悩み続けている。

 もしかしたら、気づかぬうちに失態を犯したのかもしれない。
 それなら、きちんと謝罪をし、今後に活かさなければと、千優はひっそりと、心の中で小さく意気込む。

 己の気持ちを伝える状況として、今は圧倒的にこちらが不利だ。
 少しでも悪い芽を摘み取り、正面から向き合わなければ、きっと意味がない。

 國枝からの指摘を覚悟したものの、否定的な言葉が途端に怖くなり、千優はスッと軽く目を伏せる。
 視界こそ閉ざさなかったものの、鞄を持つ手に自然と力が入ってしまった。


(……ん?)

 しかし、いくら待ってたところで、お叱りの声も、呆れを含んだ声も聞こえてこない。
 一体どうしたのかと、戸惑いながらわずかに伏せた視線を元に戻す。
 すると、いつの間にか視線の先にある表情が、驚きから困惑へ変わっていた。

「えっと……柳ちゃんは、別に変なことなんて、してない、わよ?」

 不思議に思い首を傾げれば、向こうも小首を傾げ、途切れ途切れに声を発する。
 それはまるで、「この子は一体何を言っているのかしら?」とでも言いたげな態度に見えた。

「そ、それじゃあどうしてっ! わ、私のこと……避けたり、するんですか……」

 思いもしなかった國枝の言葉と、食い違う互いの思考に、つい語気が鋭くなる。
 しかし、一瞬にして我に返った千優の言葉尻は、みるみるうちにか細くなっていった。

 また一人で勝手に思い悩んだだけかもしれない。
 そんな不安が頭を過った途端、羞恥のあまり頬や耳が熱をもつ。

「それ、は……えーっと、ねぇ……」

「……?」

 避けられていたことさえ、疑心暗鬼に陥った自分が生み出した幻かもしれない。
 そんな不安に心が押しつぶされそうになった時、激しい動揺を見せる國枝の姿が視界の端に映った。





 しばらく、何かを言い淀むように口を開くのを躊躇った國枝は、大きなため息を吐き、己の前髪をかき上げる。

「柳ちゃんは何も悪くないわ。……アタシが変な態度を取ったせいね。ごめんなさい……困らせてしまって」

 そう言って彼は、申し訳なさそうに肩を落とし眉を下げた。
 初めて目にするそれは、見るからに酷い落ち込みっぷりで、今度は千優が驚きのあまり目を見開いている。
 己に非が無かった事実に安堵する反面、先程までとは一転した状況に入り乱れた感情が困惑に染まりだす。

 どうやら、避けられていた件は、疑心暗鬼になった自分が生み出した幻では無いらしい。
 それならどうしてと、不意に突きつけられた事実に、新たな疑問が噴出する。

「温泉旅行の時、ね。暴走する篠原を見てから……今までの柳ちゃんに対する自分の行動を思い直して、怖くなったのよ」

「怖い?」

 すると次の瞬間、静まり返った車内で、弱々しく発せられた声が彼の想いを紡ぐ。
 言わんとすることがすぐに理解出来ず、千優が小首を傾げると、視線の先にある顔に悲しげな笑みが浮かんだ。

「散々自分勝手に行動しておいて、こんな事を言う資格もないってわかってる。でも、やっぱり……貴女に嫌われるのが怖い」

 今にも泣きだしてしそうなくせに、彼は尚も微笑む。
 その瞳の奥は、当人の心を映し出し小刻みに震えていた。

 それは、これまで見てきたどんな國枝の姿より美しく、千優に大きな動揺を与える。

(……馬鹿っ!)

 心臓を力いっぱい握りしめられたような息苦しさを感じれば、考えるよりも先に目の前にある影へ手をのばす自分がいた。
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