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馴れ初め編/最終章 その瞳に映るモノ、その唇で紡ぐモノ

68.立ち止まってはいけない その2

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「もしもし!」

「……っ! び、びっくりした……」

 勢いに任せ声を発すれば、普段より少々荒々しさの目立つ語気が己の耳へ届く。
 それは、電話越しの相手にも伝わっているようで、この場に居るわけでも無いのに、ひどく驚いた様子が伝わってきた。

「え? え? 柳、怒ってる? お、俺……また何かやらかした?」

 続いて聞こえるのは、困惑が色濃く滲む声。
 良好とは言い難い二人の現在の関係性が、余計事態をややこしくする。
 もうしわけないと思う千優だったが、何故かアタフタと視線をさまよわせる篠原の幻を目にした気がして、こみ上げる笑いを必死に堪えた。

「いや、ごめん。篠原に怒ってるんじゃないから。うん……気にしないで」

「そ、そうなのか? それなら……いいん、だけど」

 千優は急いで喉元まで出かかった笑いを飲み込むと、そのまま小さな嘘を混ぜ込んだ言葉を紡ぎ、軽く首を横にふる。
 明らかに安堵する声を耳にすれば、彼女の視線はスッと床へそれた。
 篠原が要因の部分がゼロなわけではないが、苛立ちの原因、その大半は自分の思考によるものだ。
 しかし、つい先程まで室内に響いていた長すぎる着信音が、少なからず苛立ちを助長したことには違いない。
 それを口にするかどうか数秒悩んだものの、どうにもはばかられてしまい、そっと胸の中に留めることにした。

 そのまま小さく息を吐き出し、千優はしばし耳を澄ませる。二人の耳に届くのは、わずかに聞こえる互いの呼吸音くらい。
 まるでプツンと切れた糸のように、ある意味軽快に続いていた会話が止んだ。
 互いに、どう相手に対し声をかければ良いか、どう話を再開させれば良いか、迷っているのだろう。

 再びあのやりとりが再開出来れば、また何事も無かったように普段通りの日常へ戻ることが出来る。
 そんな確証もない希望を抱いてしまう程、言葉に出来ぬ辛さをひしひしと感じる。
 しかし、「お前はそのために何をする?」と問われた所で、答えられるわけがない。


「あの、さ……」

 しばらくして、先に沈黙を破ったのは、意外にも篠原だった。
 電話の向こうから聞こえる弱々しい声に、千優は耳を傾ける。

「この間は……その、ごめん。柳を怖がらせて……せっかくの旅行なのに、最後、楽しめなかっただろ?」

 こちらの反応を窺うような声色に、いくら悩もうと返す言葉を見つけられない。
 大丈夫だ、気にすることは無い。そう言えたら、心を覆うどんよりとした霧が晴れ、どんなに清々しい気分になるだろう。
 簡単に心と脳の切り替えが出来るほど、自分は楽天的な性格ではないことが、恨めしいと思えてならない。
 無意識に彷徨う視線が、己の動揺を表しているようで、口から乾いた笑いが小さく零れた。

「それで……えっと、あの時の事は、あんま気に病まなくていいって言うか。小難しく考えなくていいって言うか……」

「しの、はら?」

 思ったことをすぐ口に出すタイプの篠原が、珍しく言い淀む。その様子に、千優は小首を傾げ思わず声をかけた。

「えーっと……だからっ、あれはもう忘れていいから! 俺、またお前と酒飲んで愚痴言い合いたいし、また皆で遊びに行きたいし!」

 すると次の瞬間、モゴモゴと口籠るように小さかった音量が、堰を切ったように大きくなる。
 予想もしていなかった声量に、千優は思わずスマートフォンを持つ手を耳から離した。
 突然のことに、驚愕の眼差しをスマートフォンへ向ける。その先にはきっと、姿は見えぬ電話越しの彼がいるはずだ。

 先程まで易々と想像出来た男の様子が、急に不鮮明になり、今どんな表情を浮かべているのかさえわからなくなる。
 心の奥が騒がしくなり、目の奥がジンと熱くなった。


「……私の方、こそ、ごめん。いきなり、突き飛ばして、逃げて。……本当は、すぐ謝ろうと思ったんだけど」

 勇気が持てず逃げ続けてきた自分に、篠原は必死に向き合おうとしてくれている。
 普段はおちゃらけてばかりな彼の真摯な言動を前に、千優は心の中で己を鼓舞した。
 甘えてばかりではいけないと、今持ち合わせている精一杯の勇気をふり絞り、千優は口を開く。

「へへっ、いいってそんなの。というか、あの時のお前がした行動は正しいよ。あの状態を受け入れてもらえたら……正直、嬉しいのが本音、だけどさ。もしそうなったら、色々自覚足りないって逆に心配になるし」

 電話越しにいつもと同じ篠原の笑い声が聞こえ、彼が次第に普段の調子が戻り始めたことにホッと息を吐いた。
 しかしその直後、何故か「柳は色々と無自覚だからな」とため息交じりの声が聞こえてくる。

(無自覚って何がさ……)

 目の前にいない人間に対し、小さな苛立ちをおぼえながら、なんとかその気持ちをのみ込む。
 今ここで衝動のまま口を開けば、損をする気がしたからだ。
 しかし、おさまりきらない気持ちが表へ出たせいで、千優は無意識にムッと唇を尖らせ、不満げな表情を浮かべさせた。





 互いに謝罪をし、一先ず二人の間にあったわだかまりが無くなったお陰か、どこかぎこちなさが残るものの、電話越しの会話は続く。
 その内容は、仕事の愚痴や、面白かったテレビの話題など。いつもの飲み会と変わらない。
 篠原は、ここしばらく話していなかった分を取り戻すように、普段より喋っている気がした。
 電話越しでもわかる、その楽しげな様子に、千優の口元には、自然と笑みが浮かぶ。

 最初はぎこちなかった会話も、時間が経つにつれ滑らかなものへ変わってきた。
 今では、以前と変わらず互いに好きなことを言い合うまでになっている。

「……あ、そうだ。柳さ、今度の休みって、何か用事ある?」

「今度の? えっと、ちょっと待って……」

 話の途中、篠原から唐突な質問を投げかけられた千優は、腰を上げて四つん這いになると、床を這い始めた。
 向かう先にあるのは、部屋の片隅に置いたままになった鞄だ。
 ブラウンのシンプルなデザインを気に入って購入し、仕事時はいつも持ち歩いているものだったりする。
 目的の場所に到着した彼女は、空いている手をその中へ突っ込み、目的のものを探し始めた。

「えっと……今度の、予定……」

 数秒も経たず、千優は鞄の中から腕を引き抜いた。
 彼女の手に握られているのは、普段から予定を書き込んでいる手帳だ。
 四つん這いだった体勢を解いて、壁に背を預け直し座ると、千優は膝の上で手帳を開き、今月の予定が書かれたページを探す。

 旅館での約束もあり、千優はここ最近、週末のほとんどを茅乃と過ごすことが多くなっていた。
 おすすめだというイベントの映像を見せてもらったり、漫画を読ませてもらったり、コラボカフェという場所に連れていかれたりと、そのパワフルさに圧倒されている。

「……あ、大丈夫っぽい。特に予定入ってないや」

 月予定の一覧を指でなぞり確認すると、運良く今週末の予定は入っていない。

(あー……そういや、ゲームか何かのイベント行くって言ってたっけ)

 自身の状況を伝え、記憶の糸を手繰りながら千優は一人頷く。
 その日は、茅乃側にどうしても外せない予定があると言われていたのを思い出す。

「そ、それじゃあさ! 良かったら、俺と映画見に行かない? 友達に割引券を二枚貰ったんだ。ほら、前にお前が好きだって言ってた連ドラの劇場版、今やってるだろ? それを見に行こうぜ!」

 そんな時、突如千優の耳に飛び込んできたのは、思わぬ相手から意外過ぎる休日のお誘いだった。
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