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第三章 王子と天使を繋ぐモノ

29.爆ぜる心

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「顔に傷があるから何だって言うの!」

 気がつけば、己が居る場所など気にせず目の前にいる男へ勢いよく迫っている自分が居た。
 深夜の森に木霊するそれを聞いているのは、セラフィーナ自身とアイザックだけだろう。

「セ、ラ?」

「顔にちょっと傷があってもねぇ、ザックはものすっごくかっこいいの! 得体の知れないあたしを助けてくれるくらい優しい……って、そこはもう少し疑いを持った方がいいと思うけど」

 ポカンとこちらを凝視する男の上着を掴みながら、彼女は息継ぎすら忘れ勢いのままに捲し立てる。
 その内容のほとんどは、いかにアイザックが魅力的かということ。
 見た目はもちろん、性格の良さに頭の良さ、何より彼女が努めて語ったのは、彼の人を思いやれる優しい心について。

「だから……グスッ、だからっ。これ以上自分を貶めるような言い方しないで。引け目なんて、グスッ全然感じなくていいんだからっ」

 ついにはグズグズと鼻をすすり泣きだす始末だ。それでもいまだ、彼女の手はしっかりと彼の上着を掴んでいる。
 ベッドに入る時はいつも寝衣に着替えるアイザックだが、今はまったく違う服を身につけていた。
 それは、以前ディオンと稽古をした時に着ていた服に似ている。きっと稽古をするため、こっそりと着替えたのだろう。

 アイザックは、顔の傷に加え己の生い立ちに引け目を感じることが多い。
 すっかり刷り込まれた彼のマイナス思考を一蹴する。そんな力があれば良かったのにと、自分の無力さが虚しく、余計悲しさが増した。

「ひっく……グスッ、うぅ……」

 思いの丈をすべて吐き出したお陰かなのか、わずかに冷静さを取り戻せた。
 すると、自分は一体何をやっているのだと、言いようのない虚しさと羞恥心が身体が熱くさせる。
 しかし、一度昂った感情を早々制御出来る訳もなく、セラフィーナは自身の涙を止める術がわからかった。
 いくら止まれと願っても、目元から次々と溢れ出るそれをどうすれば良いか、彼女が知る由もない。

「……セラ」

 頭上から聞こえるのは、大きな戸惑いを抱えた声。
 膝立ちをしていた両足は気づけば力なく土の上に倒れている。
 へなへなと地面に座りこんだ彼女の身体は、すっかり力を無くしている様だ。その証拠に、先程まで力強く掴んでいたはずの上着には、わずかに指がかかっているだけ。

「っ、うぅ……」

 涙に濡れた顔を見られたくなくて、セラフィーナは力なくアイザックの首元に顔を埋めた。
 すると、時間が経つにつれ、心の内を閉める平常心の割合は少しずつ増していく。しかし、どうしても涙だけは止まってくれない。
 たった数分の間に両極端な反応を示す。そんな女を、彼はどう思うだろうか。なんて、不意に新たな思考が流れ込んでくる。

(も、いやだぁ……)

 次から次へ生まれる思考が脳内で忙しなく混じり、ただでさえ混乱する脳内を乱していく。
 そんな状況に恐怖すら覚え始めた頃、不意に感じたのは、背中へ回された太い腕だった。

「泣くな」

(な、に?)

 次いで聞こえたのは、喉奥から絞り出された男の掠れた声。

「泣かないでくれ、頼むから」

 そのまま、新たな言葉が聞こえたと思えば、目元にかすかな熱とぬめりを感じた。
 初めての感覚に、思わずセラフィーナは肩を震わせる。
 しかし、そんな彼女の様子を尻目に、再び目元に何かが触れる。

 それが、アイザックの舌であること、彼が躊躇いも無くセラフィーナの目元に口づけ、溢れ出る雫を舐め取っていると気づくまで、やけに時間を要した。

 彼は飽きることなく、己の腕の中にいる女の耳元で彼女の名を呼ぶ。その声にピクリと反応を示せば、泣き止んで欲しいと懇願し、目元へキスをおくるのだ。

「ザ、ク。は、離し、て?」

 その後、ようやく普段並みの冷静さと思考を取り戻したのは、殊更曖昧になっていたはずの脳内が並々ならぬ羞恥で満たされた頃。
 これまでの事を、己の記憶として強制的に認識させられると、セラフィーナはあまりの恥ずかしさにモゾモゾと自身を抱きしめる男に抵抗を始める。
 心地よかったはずの彼の腕が、今は違う意味で気になるのだ。
 だが、いくら抵抗し解放を望んだところで、アイザックが腕の力をゆるめることは無い。
 それだけに留まらず、彼は、すっかり涙が止まった彼女の目元を、今も尚執拗に舐め続けている。

 ちゅ、ちゅと耳へ届く口づけの音と、目元に触れる慣れない熱。
 頬を撫でる冷たい風が、余計に彼が与える様々な熱を意識させた。
 二人を包み込んでいた膜はいつの間にか消え去り、真夜中の森に流れるそれが、二人の身体に吹きつける。

「ザック、ねぇってば……っ」

 今度は先程よりも声量を意識し、彼に届けと願いを込め口を開いた。
 同時に、わずかに緩くなった拘束の隙をつき、出来る限り上半身を起こして彼と距離を取る。
 そのまま、恐る恐る顔を上げたセラフィーナの瞳は、あっという間に見開かれ、彼女は言葉を失った。
 間近で自分を見つめる男と、目が合ってしまったのだ。
 それだけではなく、暗闇でも薄っすらわかる程、彼の頬は赤く染まっていることに気づく。まるで、自分のそれと同じように。

「はな、し……」

「嫌だ」

「……っ!」

 突然脳内に響きだす警鐘に、本能的なものを感じ取ったセラフィーナは、アイザックと更に距離をとるため逃げ腰になった。
 しかし、そんな行動は許さないとばかりに、再び彼の腕の中へ囚われてしまう。
 ドクンドクンと、聞き慣れない妙に速い鼓動が嫌でも耳につく。それが誰のものなのか、それを悟るまでそう時間はかからなかった。
 身体ごと頭部まですっぽり抱きすくめられた状態のセラフィーナは、顔の半分を硬い胸板へ押しつけられている。
 それが意味する答えを想像すれば、瞬く間に身体の奥から熱が湧きだした。

「ありがとう、セラフィーナ。いつもいつも、私を元気づけようとしてくれて。其方の言葉に、どれ程私が救われているか……君は知らないのだろうな。無意識のうちに私が一番欲しい言葉をくれる。其方は天才だよ」

 話をしている途中、妙に熱のこもった吐息を彼は吐き出した。それと同時に紡がれた言葉は、独り言に近かった様で、少々砕けた言葉遣いに、不思議と身体が震える。
 つられるように小さく息を吐けば、これまで気づかなかった自身の鼓動に気づかされた。
 やけに早いそれは、再びセラフィーナを混乱に陥れる。
 だがそんな彼女の意識は、次第に、自分のものではないもう一つの心音へ向かっていく。

 二種類のそれは、最初こそバラバラのリズムを奏でていたが、次第にその感覚は短くなり、気づけば同じ周期で音を奏で始める。
 それが妙に心地良く、わずかに残っていた冷静さが失われていく。
 だからと言って、平常心を取り戻す方法など知らない彼女には何も出来ない。

 己の身体に痛みでも与えれば、少しだけ戻るかもしれない。そう思った。
 しかし、慣れない賛辞に対する混乱と気恥ずかしさ、そして己を囲うぬくもりが去っていくことを本能的に恐れているのか、心と身体の連携が取れない。
 思考の定まらないセラフィーナの意識が反応するのは、耳元で紡がれる言葉だけ。
 深夜の森で、アイザックは一方的に言葉を紡ぐ。普段無口な彼にしては、珍しい程今日はよく喋るのだ。


「はぁ……本当に、其方が愛おしい」

「……っ」

 まるでそれは、この上なく大切な宝物を愛でるかのような声だった。
 どこか艶めいて、どこまでも甘い。そんな吐息混じりの声が、すぐ耳元で聞こえる。
 二人の間に隙間があるなど許さないとばかりに、セラフィーナの身体は強い力によって、男のそれへ押しつけられた。

(あぁ……そうか……)

 ドクンと一際大きく高鳴る心臓から送り出される血液は、あっという間に全身へ巡り、彼女の身体を熱くする。
 ふわり、ふわりと、更に溶けていく脳内で、彼女はようやく悟ることが出来た。

 ――己の中に秘め続けられた、とある感情に。





『人間に見つかってはいけない、人間に心を許してはいけない、人間に恋をしてはいけない』

 それは、見習い天使として最初に教え込まれる、天使として職務を全うするための心得。
 その三原則は、今のセラフィーナにとって、この上なく重く、忌まわしい鎖となった。

(サウル、先輩……ごめんなさい……)

 自分を気にせず眠って良い。そう言って頭を撫でてくれる男の胸の中で、彼女は静かに目を閉じる。
 その頬に伝う雫が生み出す筋を見られまいと、セラフィーナは目の前の胸元へ意図的に顔を押しつけ、強引にそれを拭う。

「……ザック」

「ん?」

「あたしも……すき、だよ」

 うつらうつらと揺らぐ意識のなか紡いだ言葉に、ヒュっと息を呑む。そんな音を聞きながら、セラフィーナは甘く温い夢の世界へ旅立つ。 





 この日、天界における絶対的な規則が破られた。
 セラフィーナ・ケトラというまだあどけなさの残る天使見習いによって。
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