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第一章 月下に結ぶ縁(えにし)

04.巨人なオバケの正体は人間でした

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(あたし、やっぱり死んだのかな)

 全身を貫くように走るこの世のものとは思えぬ激痛に負け、意識を手放したセラフィーナ。
 そんな彼女が意識を取り戻したのは、不思議な空間に己が漂っていると気づいた時だった。
 視線をゆっくり動かし周囲を確認するも、見覚えなどない。
 そこは上下左右どこを見ても白一色で、自分以外、人も物も何もない場所。
 そんな所で自分の体はフワフワと浮いており、少しばかり心地良さすら感じてしまう。

「…………」

 ぼんやりとした思考のまま考えるのは、自分が意識を失った時の出来事。
 養成所で散々注意するよう言われていたにも関わらず、最悪な事態を招いてしまった。
 現実を嘆いた所で何も変わらないというのに、幾度となく後悔の波が押し寄せてくる。

「まさか自分が男側になるとか……はは、笑っちゃう」

 どこまでも続く白を見上げながら、口から零れる乾いた笑いが、心にポッカリ開いた穴を容赦なく抉っていく。

「でも、あれは偶然というか、事故というか……もう、最悪」

 涙混じりの声と共に瞬きをすると、スッと目元から顔の表面を何かが伝っていくのがわかった。

 脳裏にぼんやりとよみがえるのは、月を背負った長髪の男。
 不本意にも自分は、名も知らぬ相手と口づけを交わした。
 あれは事故だった。そう何度も頭の中でくり返しても、触れ合ったぬくもりは、今でもはっきり覚えている。
 とても悔しくて、情けなくて、涙が次から次へ溢れ出す。

 今すぐにでも忘れたい。そんな心底嫌な体験をしたというのに、何故そんなものを脳が覚えているのかわからなかった。


 先日誕生日を迎えたセラフィーナは、ようやく成人として認められる歳になったばかり。
 このまま養成所を卒業し、大人として、一人前の天使として頑張っていこうと、彼女は心に決めていた。

 しかし試験開始早々失態をおかしてしまい、見知らぬ男と交わしてしまった変な結びつきのために自分は死んでしまったのだ。安らかな死とは程遠い苦しみを味わいながら。

「……っ、ひっく……グスッ」

 泣いても事態が好転することなど無い。そんな現実を頭で理解していても、一度流れ始めた雫は止まることなく流れ続ける。
 両親、友人達、先輩のサウルや養成所の教師。涙を堪えようと目を閉じれば、これまで関わりを持った様々な人達の顔が次々と思い浮かび、余計に頬を濡らしてしまう。

(みんなに、会いたい)

 人気のない森の中で独り死んでいく恐怖が、まるで底なし沼のようにセラフィーナの身体を飲みこんでいく。

『――っ! ……ろ!』

「……?」

 ずぶずぶと身体が沈んでいくのをぼんやりと認識するしか出来なかった脳が、これまでになかったモノに気づく。
 無意識に頭上へのばした腕を、誰かが力強く握りしめてくれた気がした。





 途切れた意識が再び浮上し、セラフィーナはゆっくりと目を開ける。
 その視界に映るのは、これまで目にした白ではなく、薄暗い空間と灯りが消えた照明だった。

「…………」

 死ぬ間際というのは、色んな空間へ移動出来るのだろうか。
 ぼんやりとした意識のせいで、思考まで可笑しくなりかけているのかもしれない。

 森の次は白い不思議な空間、そして今はどこかの部屋らしき場所。さて、次は一体どんな場所へ旅立つのか。
 ふわふわと宙を漂う心がどこか嬉しそうに弾む。こんな状況で不謹慎だと思いながら、もう余計なことは考えたくないと、思考を手放す。

「目が、覚めたのか?」

 そのまま微睡みの中へ沈もうとする彼女の意識は、第三者の声に呼び止められた。
 どこか聞き覚えのある謎の声に引き上げられ、漂っていた意識はその場に留まる。
 そして、ようやく自我を取り戻したとばかりに、ぼんやりとしていた脳内が少しずつクリアになっていった。

「…………」

 パチパチと数回瞬きをした視線の先には、先程と同じ薄暗い空間と照明があった。
 それらを認識すると同時に、自分が横たわっていることも理解する。
 唯一変わったことと言えば、こちらを覗きこむナニカがあらわれたことだけ。

(……? おば、け?)

「ひぃ!」

 ぼんやりと視界に映りこむ長髪を認識すると、瞬く間に心の中を恐怖が埋め尽くす。
 慌てて身体を起こしたセラフィーナは、その場から逃げようと走りだした。

「待ってくれ、逃げなくても大丈夫だ!」

 背後から慌てふためく低音が聞こえてくる。しかし今は、そんなことに構っている余裕はない。
 懸命に前へと足を進めるが、不安定な地面では上手くバランスが取れず、なかなか思い通りに逃げることが出来なかった。

(あー。もう、走りにくい! 何なのここは……)

 走るたび左右へ倒れそうになる身体を必死に立て直し、背後にいるバケモノから逃げることだけを考える。

「……っ! 危ない、止まるんだ!」

「え?」

 逃走を続ける最中、酷く焦りを含んだ声が聞こえた気がして、思わず後ろをふり返る。その間も、セラフィーナの闘争本能のおかげで、彼女の足は動き続け不安定な地面を踏みしめる、はずだった。
 この上なく走りにくいが、確かに存在していたものの感覚が、一瞬にして消え去る。
 そのことを不思議に思いながら、彼女は小首を傾げ視線を足元へ落とす。その先にあるのは、宙を踏みしめようとする己の足だけ。

「またー!?」

 脳がこれから起こる事態を予測すると、悲痛な叫びが無意識に口から飛び出した。


 厄日が訪れるにしても、何故今日なのかと嘆きたくなった。
 今度こそ失敗しないようにと、セラフィーナは咄嗟に身体を丸め、頭を両手で覆い、衝撃に備える。
 しかし、数秒程が経った後、彼女が感じたのは予想に反するほど柔らかな感触だった。

「……あれ?」

 状況が飲みこめず、頭の中にたくさんの疑問符が浮かぶ。

 ゆっくり体を起こした彼女は、首を左右に振り状況を確認する。
 すると、今までとは違う場所に自分が座りこんでいることを知った。
 一体ここはどこだろうと、自分が座る場所に触れ、ポンポンと叩いて確認を行う。
 しかし、大した情報は得られなかった。わかったことは、先程走っていた場所より弾力はあるものの、地面程の硬さは無いことくらい。
 先程の場所といい、今といい、一体自分はどこにいるのだと、思わず首を傾げたくなる。

「よかった、間に合ったか」

 答えが見つからぬ疑問に頭を抱えていれば、どこか安堵した吐息混じりの声が聞こえてきた。
 驚くまま顔を上げると、自分が座る場所が前触れもなく動き出す。何故か上へと移動する仮の地面からくる振動に、彼女は強い戸惑いをおぼえた。


 数秒程で不可解な振動は止まり、足元の揺れはおさまった。
 そのことに、ホッと安堵の息を漏らすセラフィーナだったが、彼女の心はすぐ別の感情に支配される。

 それは驚きの類。
 その理由は、顔を上げた途端、人の顔らしきものが視界に飛び込んできたせいだ。
 加えて、目の前にあるそれが、己のものよりはるかに大きかったからでもある。

 長い前髪に隠れて目元はよく見えないが、視線の先にある鼻や口は自分と同じ。
 動物の類や、新種の生物というわけでは無さそうだ。
 自分の何倍、いや何十倍もありそうな体格をした人物を前に、おのずと眉間に皺が寄る。

 恐る恐る再度足元へ視線を向けたセラフィーナは、もう一度自分が座りこむ場所の確認を始める。
 平坦な場所もあるが隆起している部分もあり、触れれば柔らかな感触は、やはりただの地面とは思えなかった。

「そんなに……私の手はおかしい、だろうか? くすぐったいから、あまり触らないでくれ」

 何度も叩いたり擦ったりしていると、すぐ近くから、困惑の色を浮かべた声が聞こえてくる。
 その内容に驚きふり返れば、やはりそこに見えるのは巨人の口元であり、心の中に更なる戸惑いが広がっていく。

(今、この人……手がどうのって)

 耳に届いた声に思考が止まりそうになる。もし今の言葉が現実だとすれば、自分は今巨人の手のひらに乗っているのだろうか。

(死の間際に色んな空間に行ったと思ったら、今度は巨人の手の上?)

 目の当たりにした出来事を脳内で順序良く並べていくが、繋がった答えは支離滅裂としか言いようが無い。

「……あぁ、そうか」

「うわっ!」

 現状を把握しようとすればする程、余計に混乱する思考に頭が痛くなる。もう正体すらよくわからぬ巨人に状況説明を求めた方がいいだろうか。
 そんな時、頭を悩ませるセラフィーナは、突如巨人の声と共に大きな揺れを感じた。





「あの……巨人さん、これは……どういうこと、ですか?」

「私に聞かれてもよくわからない。それと、私は巨人などではない。普通の人間だ」

 連れて来られたのは、まだ暗さの残る外をうつしだす窓の前だった。
 巨人が手に持つランプの明かりが、セラフィーナを、そして男の姿をぼんやりと映しだす。


 ――今日は一体何度驚けばいいのだろう。

 窓に映る自分の口元はひどく歪んでいた。

 その原因は笑いなのか、困惑なのか、それとも違う感情なのか、もう何もわからない。
 己の瞳に映るものが現実だとするなら、再び頭痛の種が増えた。それだけは、何故かはっきりと理解出来る。

 窓の前にたたずむ一人の男は片手にランプを持ち、もう片方の手を少し高めの位置で固定している。
 固定された手のひらは上向きに開いた状態。その上には、呆然と立ち尽くす小さな女がこれまた一人。

『私は巨人などではない。普通の人間だ』

 男は確かにそう言っていた。相手が大きいわけではない。ならば、セラフィーナ自身が小さくなったということだろうか。
 彼が手に持つランプすら大きいと感じてしまうのだから、この仮説はもう証明されたようなものだ。


(……あ、この人)

 改めて窓に映る男の顔を見つめ、セラフィーナは重大な事実に気づく。
 肩まで伸びた髪と、目元を隠すような前髪の色は茶。そしてそんな前髪の隙間から少しだけ覗く瞳も同じ色をしている。

 自分をその手に乗せているのは、長髪のお化けでも、巨人でもない。

 そこにいるのは、森で出会ったあの人――月を背にたたずんでいた男だった。
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